【皇室の真実】万世一系は嘘か真か?八幡和郎が語る2600年続く天皇家、驚愕の正体 八幡和郎氏 2026年8月27日放送分
#万世一系 #天皇家 #皇室 #皇統 #血統
(ゲスト) 八幡和郎氏: 政治評論家
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【目次】
00:00 1. オープニング
00:40 2. 万世一系という日本に永く続いてきた系統の価値
06:39 3. 日本を建国した初代神武天皇は宮崎出身
08:36 4. 建国で力を馳せた天孫系と出雲系
12:02 5. 日本統一を成したのは14代目仲哀天皇と神功皇后
14:10 6. 21代目雄略天皇が残した手紙の内容
16:00 7. 25代目武烈天皇とは遠縁だった26代目継体天皇
19:30 8. 初の女性・33代目推古天皇が誕生した経緯と実績
23:16 9. 皇統を途絶えさせないために
(深田)
皆さん、こんにちは。政経プラットフォームプロデューサー深田萌絵です。今回は、皇室評論家の八幡和郎先生にお越しいただきました。本日は評論家として、よろしくお願いいたします。
先生、今日は皇室について教えていただきたいと思います。最近、先生のFacebookへの投稿が非常に面白く、人気を集めていますよね。天皇家の歴史を振り返ると、2000年ほど前までさかのぼることで、意外な事実や驚くようなことがいろいろと出てきます。
現在、皇室典範の改正なども問題となっていますが、そもそも「万世一系とは本当なのか」という疑問もよく聞かれます。そのあたりについては、どのように考えればよいのでしょうか。
(八幡)
よろしくお願いいたします。
まず、「万世一系」とは何かということですが、一言でいえば、日本という国ができた時の天皇から今に至るまで、男系男子でずっとつながっているということです。これを「万世一系」といいます。
(深田)
一応、ずっと男系男子でつながっているということですか。男性の男系男子が日本の天皇としてずっとつながってきたということを「万世一系」というのですね。
(八幡)
そうです。そのことを指していますが、「万世一系」という言葉は、正式には岩倉具視が明治維新後に考えた言葉です。ただし、同じ考え方、つまり「日本では国ができてから現在に至るまで、同じ家系の人が天皇である」ということは、平安時代から中国でも有名でした。
中国は、日本をどこかの離れ島にいる夷(えびす)だと思っていたのですが、「そうした日本の在り方こそ、中国古代のいにしえの聖人の道にかなっており、我々も見習わなければならない」として評価していたわけです。
(深田)
完全な世襲制がよいということを、中国も認めていたのですね。
(八幡)
そういうことです。しかも、それは中国だけではありません。中国は男系しか認めませんし、ヨーロッパでも、フランスやドイツの王は男系男子で、さらに庶系、つまり側室の子では駄目だという条件まで付いていました。
(深田)
そうなのですか、意外です。ただ、欧米には女王もいらっしゃいますから「なぜ女性天皇では駄目なのか。女性差別ではないか」といったことは、かなり言われていますよね。
(八幡)
最近の問題については別として、イギリスでも、“男の子がいなければ” 娘(女性)に継承させるという考え方はあるものの「男の子がいるに越したことはない」という哲学があるのです。人間はなぜそこまで男系にこだわるのかという点については、なかなか説明しにくいところではありますが、現実としてそうなのです。
(深田)
意外ですが世界中の王室は、男系男子で継承していくことが一般的だったということですか。
(八幡)
少なくとも「それが望ましい」ということで、それが絶対条件、もしくは、好ましいとされてきました。ですから、昔の中国の王がそう評価していたのはもちろんですが、今の中国人でも「日本はすごい」と言うわけです。それからヨーロッパでも「自分の国では女王を認めることにしたけれど、日本は男系だけでつながっている。すごいよね」と評価するわけです。
では、なぜイギリスなどの王室がこうした点を評価しているのかというと、「古いものを継承していることに値打ちがあるから」なのですよ。例えば、日本の国の値打ちを中国と比較すると、規模という点では中国の方が大きくて人口も多く、文化についても、日本文化よりも分かりやすいでしょう。しかし、日本の場合は、非常にピュアな画一性のものをきちんと継承してきています。
ここが「量の中国、質の日本」という評価の基本にもなっていると思っています。僕自身は、女系天皇は絶対に駄目だという考え方ではないのですが、男系男子でつなげられるのであれば、つないだ方がよろしいのではないでしょうか。
(深田)
男系男子で長くブランディングしてきたのですから、そのブランドは崩さない方がよいということですね。
(八幡)
そういうことです。
(深田)
しかし、継体天皇(第26代)の時に一度、天皇家の系統が途切れているのではないかという説もありますよね。
(八幡)
継体天皇の話に入る前に、まず、一番最初のところから説明しましょう。先ほど「万世一系は、国ができた時から続いている」と申し上げましたが、万世一系を作ったのは、第10代の崇神天皇です。それまでの皇室は大和の端っこのローカルの話で、当時の天皇は現在の橿原市や御所市周辺だけを治める領主だったわけです。
(深田)
橿原神宮がある辺りですか。
(八幡)
確か深田さんは奈良の北の方のご出身ですよね。
(深田)
私は奈良県奈良市のあやめ池の出身です。
(八幡)
あやめ池から南の方で、ちょうど高市さんの地元に当たる辺りです。崇神天皇はそこの小さな領主だったのですが、大体360年ごろに、まず大和を統一するようになりました。その後、崇神天皇の時代に、出雲や岡山など、その辺りまで勢力を広げていったのです。
(深田)
では、それ以前はどうだったのですか。初代から第9代までは、何をしていたのでしょうか。
(八幡)
橿原や御所周辺の狭い地域を治める王様、あるいは酋長のような存在です。
(深田)
では、神武天皇はどちらにいらしたのでしょうか?
(八幡)
神武天皇は、もともと宮崎の出身です。よく「神武東征」として、大軍を率いて出発したといわれますが、そのような記述は『日本書紀』にも『古事記』にも載っていないのです。実際には、5、6人ほどの男性だけの集団が、「大和の方はいいところらしい」と言って船出したと書かれています。そして神武天皇は橿原の地で、それまでいた領主を討ち取って、その国を奪ったわけです。
(深田)
橿原にいた人たちの国を乗っ取ったのですね。
(八幡)
そうです。それが神武天皇による建国です。2月11日、すなわち紀元前660年2月11日に「俺はここの王だ。いずれ日本全体の王になるぞ」と宣言したわけです。これが、日本の建国とされています。その後、皇室は9世代にわたって周辺の有力者と婚姻関係を結んだりしながら、勢力を広げていきました。そして第10代崇神天皇の時代になって、ついに大和全体の統一を果たしたのですね。特に桜井市の辺りが当時の宗教の中心だったわけです。
(深田)
それはどのような宗教の中心だったのですか。
(八幡)
大神(おおみわ)神社のある地域です。大神神社周辺は、大和全体の宗教の中心地でした。崇神天皇はその地域をついに占領して「自分が大和の王である」という立場を確立したわけです。さらに、出雲や吉備(岡山と広島の一部)など、その辺りまで征服していきました。
(深田)
私は日本の天皇の系譜には出雲系と天孫系があって、逆に、初代から第8代、第9代あたりまでは天孫系で、その後、出雲系に乗っ取られたような流れだと思っていました。
(八幡)
それは逆です。記録に書かれているのは、出雲系というか、出雲とつながりを持つ人々がもともと奈良にいたということです。これは確かです。そして、神武天皇たちはその人々を征服したわけですが、男性5人で来たため、地元の有力者の娘を妃に迎えました。神武天皇の長男である手研耳命(タギシミミノミコト)も一緒に宮崎から来ていたのですが、神武天皇が亡くなった後、この長男は、父親の後妻である五十鈴媛命(イスズヒメノミコト)が美人だったので、自分の妻にしようとしたわけです。すると、その後妻と彼女の連れ子である弟たちが共謀し、神武天皇が宮崎から連れてきた長男は殺されてしまいました。
(深田)
そうだったのですね。
(八幡)
ですから、第2代からは、母親がいずれも大和とも出雲ともつながりのある人々だったことが、はっきりしているのです。
(深田)
天皇家は途中から、ずっと出雲系になっていったということですか。
(八幡)
そういうことです。神話についても、太陽神の子孫であるという考え方は、もしかすると宮崎から持ってきたものかもしれないですが、それ以外の、国がどのように成立したのかという物語については、出雲の神話を借りているのです。
(深田)
途中の系統からずっと出雲系へと変わっていますものね。
(八幡)
変わったというより、「出雲の物語を借りた」のです。神話とは、そういうものです。例えばローマ神話はギリシャ神話そのものですよ。ですから、神話をもとに歴史を論じることは難しいのです。神話はむしろ他から借りることが多いのです。
(深田)
『古事記』や『日本書紀』が編纂されたのも、かなり後の時代ですよね。700年代、あるいは600年代後半ぐらいでしょうか。
(八幡)
それは8世紀です。ただし、「その時代になって初めて出雲の要素を取り入れた」ということではありません。そもそも神武天皇の妃は地元の人なのですから。
(深田)
妃は奈良の方ですよね。
(八幡)
奈良の人です。しかも、出雲ともつながりがあったと考えられる人々ですから、出雲の神話を引き継いでいたわけです。ただ、先ほど言ったように、「太陽の神様の子孫である」という考え方は別にあります。いわゆる「天孫降臨」です。天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)という神です。その瓊瓊杵尊が、高天原から高千穂の峰に降りてきたと書かれているわけです。
これを私なりに普通の人間の出来事として解釈すれば、神武天皇のひいおじいさんが、どこかから宮崎へやってきたということではないかと思います。その人物がどこから来たのかはよく分からないので、天から降りてきたことにしたのではないかと思うのです。ただし、これはあくまで私の想像です。
そのようなこともあり、私は、神話はほとんど意味がないと思っています。それよりも、神武天皇がどのように国を作り、その後、日本をどのように統一していったのかを見ることが重要です。
大まかにいえば、中国の歴史書などと照らし合わせて整合すると、卑弥呼が九州にいた頃に神武天皇が大和の王となり、卑弥呼が亡くなってしばらくした頃から大和朝廷が勢力を広げていったと考えられます。それから約100年後、4世紀頃のことですが、朝鮮半島の歴史書と突き合わせると、346年に仲哀天皇(第14代)と神功皇后が日本統一に成功したと考えられます。
(深田)
神功皇后は、朝鮮半島にも関係していますよね。
(八幡)
その前に、まず大和朝廷による統一が進んでいく中で、北九州だけが(大和朝廷に統一されずに)最後まで残っていたのです。
(深田)
大和朝廷は北九州までは、まだ征服できていなかったのですね。
(八幡)
大和朝廷は南九州を先に統一したのですが、大陸や朝鮮半島とのつながりを持つ先進地域だった北九州だけが最後まで未統一のまま残ったのです。それを統一したのが、仲哀天皇と神功皇后の組み合わせです。その後、二人は地元の人たちから「海を渡った先にはたいそうお金持ちの国がある」と聞き、海を渡っていったと伝えられているのです。そのことは、韓国の歴史にも書かれていますし、好太王碑(※1)という石碑にも記されています。したがって、このことは大筋としては間違いないと考えられます。
※1)好太王碑:高句麗の領土を拡大した第19代好太王(在位391~412年)の功績をたたえた碑。
(深田)
そのあたりになってくると、日本のことも外国の歴史書にも残っているため、仲哀天皇や神功皇后が実在したことも確認できるということですね。
(八幡)
そうです。ですから、その頃になると、何年の出来事だったのかということまで、ほぼ確定できるようになります。さらに確実になるのが5世紀です。「倭の五王(※2)」と呼ばれる日本の5人の天皇が、中国の南京を都とする南朝へ使節を送っているのですが、この時の手紙が残されています。特に478年には、「倭王武」と呼ばれる人物、すなわち雄略天皇(第21代)と言われている人物が送った手紙が残っています。
※2)倭の五王:『宋書』倭国伝に記されている。その五人の王、讃(第15代応神天皇、第16代仁徳天皇、または第17代履中天皇)・珍(第18代反正天皇、または仁徳天皇)・済(第19代允恭天皇)・興(第20代安康天皇)・武(第21代雄略天皇)は「倭の五王」と言われている。
(深田)
雄略天皇の手紙が全部残っているのですか。
(八幡)
すべての現物が残っているわけではなく、中国の歴史書の中に「文章が残っている」ということです。
(八幡)
それを見ると、「俺の先祖は自ら刀を持ち、東は何十か国、西は何十か国、さらに海を渡って何十か国を平定した」という趣旨のことが書かれています。つまり、奈良県を中心に東西の日本を統一し、さらに朝鮮半島まで進出したということを書いているのです。そうしたこともあり、その歴史は国際的にも認められていたわけです。もちろん、「その記述は嘘かもしれない」と言っても、日本の『日本書紀』などにも綴られていて、中国の歴史書にも記され、さらに皇室自身がそれを2000年にわたって自らの歴史としてきたのです。ですから、それを最初から「嘘だろう」と決めつけることには、むしろ根拠がないのではないかと思います。
(深田)
ただ、雄略天皇は非常に頭がよく、腕っぷしも強かったので、外交にも長けていたと思います。その一方で、一族の皇位継承をめぐる争いで、かなり多くの一族を殺してしまったともいわれていますよね。
(八幡)
雄略天皇は非常に疑い深い人物だったため、片っ端から一族の皇族男子を殺してしまったのです。それから20年、30年ほどたつと、ついに仁徳天皇の男系の子孫が誰もいなくなってしまいました。そこで、「これは困った」ということになり、朝廷が「それならば仁徳天皇の前の応神天皇、あるいはさらにその前の仲哀天皇の一族の中に、誰か適任者はいないか」と探すことになったのです。
最初は、応神天皇の兄にあたる人物の子孫、つまり仲哀天皇の子孫に「天皇になりませんか」と声をかけましたが、断られました。そこで仕方なく、少し遠いところではありますが、福井県にいた継体天皇に「天皇になりませんか」と声をかけたところ、「ではそうするか」ということになり、継体天皇は枚方(大阪)までやって来ました。ただし、まだ反対する人たちもいたため、危険を避けるために、すぐには奈良へ入らないことにしたのです。
(深田)
しばらく樟葉(大阪)にいらしたということですね。
(八幡)
そのように書かれています。これは『日本書紀』に記されていることですから、もし継体天皇が新たな王朝を開いた人物であれば、英雄として描かれているはずですし、大和を征服したのであれば戦いについても書かれているはずです。しかし、そのようなことは一切書かれていません。要するに、朝廷の家臣たちから「お願いだから来てください」と頼まれ、継体天皇は渋々やって来たものの、それほど人望があったわけでもないため、なかなか奈良には入れなかったということです。
(深田)
継体天皇はいわば、一般人だったわけですものね。
(八幡)
その時、最初に候補となったのは、応神天皇、つまり神功皇后の息子ですが、その兄にあたる人物の子孫でした。まずその子孫に声をかけたということは、仲哀天皇と応神天皇の間の系統が切れていないということです。ですから、その部分について、それほど怪しいことが書かれているわけではありません。ただし、「日本の皇統が2600年続いている」というのは事実ではないと思います。というのも、これは世界中の歴史に共通することで、例えば『旧約聖書』に登場する人物でも、「何百年も生きた」とされていますよね。このように、先祖の寿命を長めに設定することは、ごく一般的に見られることなのです。
ですから私は、『日本書紀』については、系図や「誰が何をしたか」という部分は基本的にそのまま受け取りつつ、系図上の年代を通常の寿命に合わせて調整していけばよいと考えています。もちろん、一律に調整するのではなく、『日本書紀』に長寿だったと記されている人物については、少し長めに見るといった調整は必要でしょう。
(深田)
ただ、日本は一応、「2600年続いている」といわれていますよね。
(八幡)
それを言うのであれば、朝鮮や中国でも「自分たちの歴史は5000年だ」と言っているわけですよね。しかし、客観的に見れば中国の歴史は4000年です。ところが、習近平は「自分たちの歴史は5000年だ」と言い始めたわけです。
(深田)
確かに、ある時から突然、「中国5000年の歴史」という言葉をよく聞くようになりましたね。
(八幡)
中国はエジプトより歴史が短いことが癪に障ったらしいのですが、少し古く設定しすぎているのではないかとも思います。ですから、そうした点は日本も同じでしょう。
(深田)
ただ、日本の歴史についても、乙巳(いっし)の変(645年)で蘇我入鹿が殺された時、蘇我蝦夷が図書館に火をつけ、日本の歴史が分からなくなるようにしてしまったという事件もあったわけですよね。
(八幡)
しかし、すべてが焼失したわけではなく、焼ける前の文書を見て歴史を記録した人もいるわけで、「その時に焼けた文書にはこのように書かれていた」といった内容は、別の記録に残っているのです。
(深田)
なるほど、記録自体は残っているのですね。
(八幡)
日本の歴史が文字としてまとめられたのは、推古天皇(第33代)の時代であるということは、はっきりしています。大化の改新の際に火をつけられた文書も、推古天皇の時代に作られたもので、大化の改新のおよそ50年前に編纂された文書です。継体天皇は推古天皇の祖父にあたります。したがって、推古天皇の時代の人々が祖父の時代の歴史について、それほど大きく間違えることはないだろうと考えられます。
だから、私は基本的には『日本書紀』などの歴史記録を信用してよいのではないかと言っています。要するに、調整が必要なのは「何年の出来事だったのか」という年代の部分だけで、「それ以外は間違っていた」とする根拠はないでしょう。「日本で王朝が交代した」といった記録も、韓国や中国の歴史には全然出てきません。
(深田)
では、推古天皇という女性天皇は、なぜ誕生したのでしょうか。
(八幡)
これは単純な話です。当時の日本では、天皇になるには、おおむね30歳程度になっていることが望ましいという慣習がありました。前の天皇の子供に皇位を継がせたいとしても、その子供がまだ30歳になっていない場合があるわけです。そういう時に「つなぎの天皇」を立てたわけですね。
(深田)
そういう仕組みだったのですね。
(八幡)
ところが、推古天皇の時代には、つなぎとして立てられそうな有力者はいたのですが、その人物は蘇我氏と関係のない人だったのですよ。そこで推古天皇を立て、その後に蘇我氏の血を引く聖徳太子へ皇位を継がせようとしたわけです。しかし当時、聖徳太子はまだ20歳ほどでしたから、まず(年齢が)上の推古天皇を立てたのです。
当時の推古天皇は50歳で、当時で言えばもうおばあさんです。その推古天皇にしばらく務めてもらい、その後、推古天皇が亡くなった時に聖徳太子へ皇位を継がせればよいと考えていたのでしょう。ところが、推古天皇は70歳を超えるまで長生きし、(その間に)聖徳太子の方が先に亡くなってしまったのです。
(深田)
そういう経緯だったのですか。
(八幡)
その後も同じようなことがありました。例えば中大兄皇子、後の天智天皇(第38代)などを天皇にしたいものの、まだ若すぎて難しいということで、皇極天皇(第35代、重祚後、第37代斉明天皇)が即位しました。つまり、常に背景にあったのは、「自分の子供や血縁の近い人物に皇位を譲りたい」という考えです。その間に別の男性天皇を立ててしまうと、その系統へ皇位が移ってしまう可能性があるため、女性天皇を立てたわけです。
したがって、女性天皇が地位的に弱かったわけではなく、むしろ非常に強かったのです。さらに、この時代には唐で則天武后という、中国史上唯一の女帝(在位690~705年)が登場しました。その影響もあって、日本の女性たちも「自分たちも権力を持ちたい」と考えるようになったのです。これは非常に大きな出来事で、則天武后が中国で女帝となったことの衝撃は、それほど大きかったわけです。
(深田)
「隣の国にも女帝がいるのだから、私たちもそうなろう」といった感覚でしょうか。
(八幡)
そうしたこともあって、女性たちが自信満々になったわけです。ですから女性天皇が単なるつなぎの「お飾り」だったというのは嘘なのです。
(深田)
そうですよね。ただ、今はもう時代が変わり、女性天皇を望む声はかなり上がっていますよね。
(八幡)
ですが悠仁さままでは、もうすでに皇位継承順位が決まっている話です。
(深田)
そうですよね。決まっていますよね。
(八幡)
秋篠宮さまは皇嗣殿下で、その後継者は悠仁さまです。ただ、将来的には女性天皇もあり得ると思います。例えば、悠仁さまに女のお子様しかなかった場合には、その後の皇位継承をどうするかという問題が出てきます。その際、終身在位にこだわるのではなく、10年や20年といった期間を設け、一度、女性天皇に即位していただくなど、いろいろな方法を考えてもよいのではないでしょうか。
(深田)
大変に不敬かもしれませんが、悠仁さまに精子があるのかといったことは、検査しているのでしょうか。
(八幡)
普通に考えれば、大丈夫でしょう。
(深田)
今の若い層には、精子がない人もいると言われるではないですか。
(八幡)
大丈夫でしょう。悠仁さまはとても健康ですし、紀子さまも含め、子沢山の家系でしょう。この点については、ぜひ次回に取り上げたいのですが、悠仁さまは体もお強いのです。見た目は優しい顔立ちですが、(華奢で体が弱いといったことは)全くそんなことはないですよ。身長も平均より高いです。
(深田)
しかし、やはり悠仁さまが元気なうちに精子を凍結しておいて、将来いつでも使えるように、十分な準備をしておく必要があるのではないでしょうか。
(八幡)
悠仁さまの次の世代にあたる方は、これから10年以内に生まれる可能性がありますから、あまり急進的なことはできないと思います。ただ、さらにその次の世代になると、遺伝子操作の技術も関わってくるかもしれません。
(深田)
人工授精は遺伝子操作とは違いますよ。
(八幡)
現在のところは、できるだけイレギュラーなことはやめておこうという考え方になっています。ただ、今であれば精子を用いる方法しかありませんが、将来的には、例えば仁徳天皇の陵墓からDNAを採取し、そこから子供をつくるといったことまで技術的に可能になるかもしれません。もちろん、それを社会が受け入れられるかどうかは別の問題ですが。
一方で、すでに先天的な病気を持って生まれる可能性のある場合については、その原因となる部分をあらかじめ治療してもよいのではないかという考え方も、徐々に受け入れられつつあるのではないでしょうか。
(深田)
私は、そこまではまだ考えられません。現時点では、まず受精卵をきちんと保存しておき、皇統が途絶えないようにすることについて、私たちも考えていかなければならないのではないかと思います。
今回は、皇室評論家の八幡和郎先生に、「万世一系は、大体本当です」ということをお話しいただきました。先生、どうもありがとうございました。
(八幡)
ありがとうございました。
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