【歴史考察】土佐一条氏・ 一条教房 〜位人臣を極め、土佐に第二の人生を築いた男〜 後編
今回は下記の、続きです。
六、一条兼定、公卿としての戦国大名

土佐一条氏の後期を代表する人物が一条兼定である。兼定は従三位・権中納言・左近衛中将という高い官位・官職を有しており、地方の一勢力にとどまらず、朝廷社会において正式な公卿という立場を保ち続けていた。
しかし戦国期の土佐では長宗我部元親が急速に勢力を拡大していく。もともと長宗我部氏は一条氏に大きな恩義を負っていた。当主・長宗我部兼序が本山氏に敗れた際、その遺児・国親を庇護したのが一条房家(土佐一条氏の初代)であり、国親の子・元親も永禄7年(1564年)には弟を人質として差し出し、一条氏への臣従を誓っていたほどである。
だが力関係は次第に逆転し、天正元年(1573年)、兼定は元親によって追放され、大友宗麟を頼って豊後(現在の大分県)へと逃れた。そして天正9年(1581年)、兼定はキリスト教の洗礼を受け、洗礼名「パウロ」を名乗ったと伝えられる(「ドン・パウロ」と呼ばれることもある)。
旧領回復を目指した兼定は、天正3年(1575年)9月、伊予から土佐へ再侵入を試みる。四万十川(渡川)を挟んで長宗我部勢と対峙したこの戦いは「四万十川の戦い」あるいは「渡川の戦い」と呼ばれ、元親の陽動作戦によって兼定方は大敗を喫した。この一戦により、長宗我部元親による土佐統一はほぼ決定的なものとなる。
敗れた兼定はその後伊予へ移り、宇和島沖の戸島で法華津氏の庇護のもとに暮らした。刺客に襲われて身体が不自由になったと伝えられ、キリスト教の書を読みながら信仰の中で晩年を過ごし、戸島で没した。現在も戸島では「一条様」「宮様」と呼ばれ、記憶され続けているという。
七、一条内政、権威と実権の分離

兼定の嫡子・一条内政は、若くして従四位下・左近衛中将という高い官位を得ていたが、実権はまったく持たなかった。長宗我部元親の後見という名目のもと、内政は父祖伝来の地である中村を離れさせられ、元親の本拠・岡豊城に近い大津(現在の高知市大津)に移され、「大津御所」と称された。
さらに元親は自らの娘を内政に嫁がせている。父・兼定を追放した長宗我部氏と、その息子・内政が婚姻関係を結ぶという、複雑な政治構造がここに成立した。これは内政を懐柔すると同時に、なお一条家に忠誠を誓う旧臣たちの反発を抑えるための、元親による周到な計算だったと考えられている。内政は若くして世を去ったと伝えられるが、その正確な没年齢については史料によって差があり、断定は避けたい。
八、権威と実権の二重構造

土佐一条氏と長宗我部氏の関係を整理すると、一条氏は五摂家の家格・高い官位・朝廷とのつながりという「権威」を、長宗我部氏は軍事力・在地支配力・組織力という「実権」を、それぞれ握っていたことになる。天皇と摂関家、将軍と執権といった、日本史に繰り返し現れる「権威と実務の分離」という構造が、ここでも成立していたと見ることができる。
九、消えても残ったもの

最終的に、独立した地域政権としての土佐一条氏は姿を消していく。しかし中村の町並みや一条神社、公家文化の記憶、小京都としての伝統は後世まで受け継がれた。軍事的・政治的な一条氏は消えても、文化としての一条氏は生き続けたのである。
明治時代に入り、一条宗家によって一条実基を当主とする土佐一条家の再興が行われ、一条公爵家の分家として男爵家に列したが、後継者には恵まれなかったという。
十、なぜもっと知られていないのか

土佐一条氏の面白さは、「流された公家」ではなく「自ら地方へ入り、新しい政治・文化圏を築いた公家」であった点に尽きる。関白まで務めた教房が、人生後半をかけて荘園の再建に取り組み、新しい地域政権の礎を築き、その土地に骨を埋めたという生き方は、公家の歴史としてはかなり異色である。
なぜ幡多荘という土地が選ばれたのか。なぜ教房は荘園の立て直しを終えた後も京都へ戻らなかったのか。中村の町はどれほど京都文化を色濃く受け継いでいたのか。一条氏の定着によって庶民の生活はどう変化したのか。土佐一条氏を公家・戦国大名・荘園領主・地方政権・在国公家のいずれとして捉えるべきか。これらはいずれも、掘り下げる余地の大きい問いである。
京都の五摂家が応仁の乱を機に土佐へ移り、約百年にわたって独自の政治・文化圏を築き上げた――土佐一条氏は、日本史の中でもかなり珍しい存在として、もっと知られてよい歴史だと思う。
