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静けさの中で変わる人


みかんの香りと名札のしぐさ


作業所の午前の光は、まだ薄かった。


窓辺に広がるその光は、僕の名札の角を静かに照らしていた。

胸の奥には、まだ影がある。

「ちょっと、近づかないで」と言われた記憶も、

皿洗いの水音も、

怒鳴り声も、

自分は迷惑だと思い込んだ日々も、

全部そこに沈んでいる。

その影の重さを抱えたまま、
先週、作業所のみんなでみかん狩りに出かけた。


バスの窓から入る光は、
作業所の光より少しだけ強くて、
胸の奥の影の表面を薄く照らした。


影は消えないけれど、 光が触れたところだけ、
わずかに温度が変わった。


農園に着くと、風がゆっくり吹いていた。
葉が揺れる音が、胸に触れた。

利用者さんたちは、
枝の間から見えるオレンジ色を見つけては、
嬉しそうに職員さんを呼んでいた。

女性職員さんは、
みかんの重さを確かめるようにそっと手に取って、

「これ、甘そうですね」
と静かに言った。

その声は、朝の会で名前を呼ばれたときの声と同じ方向に響いた。

風で髪が少し揺れて、 それを耳にかけるしぐさをしていた。
その動きが、
この前の流しソーメンの水の光と重なった。


僕は少し離れた場所からそのしぐさを見ていた。
近づくことはできない。
でも、光は確かにそこにあった。


みかんの皮をむくときの香りが、
ほんの少しだけ温度を置いた。


その温度が、
影の形をわずかに変えたような気がした。


その翌日、
朝の会が終わったあとだった。


みんなが席を立つ音がゆっくり遠ざかっていく。
僕はまだ席に残っていた。
胸の奥の影が、いつもより少し重かったからだ。


そのとき、女性職員さんが僕の机の名札をそっと整えた。

名札の角を指先で軽く直すだけの、
本当に短いしぐさだった。


でも、その指先の動きが、
みかん狩りの風の光と、
この前の流しソーメンの水のきらめきと重なった。

胸の奥で、影がわずかに揺れた。

(この人のしぐさは、僕を遠ざけるものではなかった。)

その言葉は、光ではなく“気配”だった。
僕に触れようとしているわけでもない。
でも、拒んでいるわけでもなかった。

その“触れない優しさ”が、
影の表面に細い道をつくった。

僕はその瞬間、初めて思った。

この揺れを、どこかに置いておきたい。

言葉にするのは怖い。

伝えることも怖い。

でも、胸の奥の影が、ほんの少しだけ形を変えた。


その変化が、僕にペンを持たせた。

名札の角を整える、
あの短いしぐさ。
その静けさが、僕の影に光の方向を示した。


それが、僕が手紙を書こうと思った決定的な瞬間だった。

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