荻原井泉水:神奈川・全龍寺の句碑、静岡・佛現寺の句碑と、関連した人物たちなど
空はこれ花 大いなる朝を開く
この花と 一期一会のわたくしと
花たかだかとあり 夏なるかな
微笑、老妻この花を求めて帰る
荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、1884年~1976年)…自由律俳句の俳人。本名は、幾太郎(いくたろう)、後に藤吉(とうきち)。号に随翁(ずいおう)。
尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)と、種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)の師。





画像は、神奈川県川崎市の全龍寺にある荻原井泉水の句碑。「見る處花にあらずといふ事なし」は、松尾芭蕉(まつお・ばしょう、1644年~1694年)の『笈の小文』(おいのこぶみ)の一節。
この全龍寺に眠る友人である井上安蔵(いのうえ・やすぞう、生没年不詳)のお墓参りの時のことを、荻原井泉水の卒寿、つまり数え年で90歳の時に詠んだもの。句碑は、2013年に建立。
井上安蔵という人物については、調べてみたけれど、詳しくは分からなかった。ただ、何故か川崎にはちょこちょこと荻原井泉水の句碑があるようだ。
雅号の随翁というのは、米寿、つまり数え年88歳の時に新たに考えた号である。また最終行に記載されている「老妻」というのは、荻原井泉水の二人目の妻・芹沢寿子(せりざわ・ひさこ、1909年頃~没年不詳)。
ちなみに一人目の妻は、1923年に病で亡くなっている谷桂子(たに・けいこ、1894年~1923年)。
永田龍太郎(ながた・りゅうたろう、1930年~)の『散華抄:妻でない妻』で、多くの文学者たちの夫婦関係が描かれる中の一人として、荻原井泉水と最初の妻とのことが記載されている。
最初の妻を亡くすまで、かなり俳句の道というか、芸術の道に一心不乱のように突き進んでいたような生活だった荻原井泉水。関東大震災、その後の妻や、母親の死によって、かなり人生観が変わったようだ。
そこから、仏教や禅宗などに興味を持ち、生まれ育った東京から京都に移ったり、四国八十八ヶ所巡りをしたり、なども。
この変化が、その弟子である尾崎放哉や種田山頭火たちの、ある種の破滅的な生き方と、違いを見せているのかもしれない。
尾崎放哉との出会いなどについては、以前の記事に書いているので、そちらもぜひ。
全龍寺の荻原井泉水の句碑の話に戻る。ここでは、松尾芭蕉の『笈の小文』序の一節が冒頭に書かれている。
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