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本を読むとは、どういうことか。

私が大学生時代のことである。「活字離れ」を憂慮する記事が新聞、雑誌でしばしば強調された。大学の先生も、「活字離れが心配だ」というようなお説教をした。

私は「活字離れ」という声が、どうも嫌だった。今でも、「活字離れ」という声を聞くと、嫌な感じがする。どうして「読書離れ」と言わないのだろう。

私たちは、本を読む時、確かに活字で印刷した文字文を読んでいる。が、活字それ自体には何の意味もない。その証拠に、日本語を知らないフランス人がこの文章を読んでも、イメージが浮かばないだろう。

読解力がある人なら、活字のひとまとまり、例えば文節を声に出して読んだ時、その声が聴覚映像に転換される。その聴覚映像を意味に結びつけた時、そうか、なるほどとある程度読解できる。読みは、文節、文、段落、さらには章へと広がっていく。その時、一貫して響いているのは声である。文字列を読む声とでもいうのだろうか。それが黙読であろうと、微音読であろうと、声が響かない読みはない。

繰り返しになるが、活字を読んでいるのだが活字それ自体には何の意味もない。活字を声(音韻)に転換し、さらに聴覚映像に翻し、さらにまた意味や著者の意図に結びつけるという極めて高度な活動が「読む」ということである。

江戸時代、どの寺小屋でも素読が基本形であった。つっかえなくなるまで、意味が解ろうが、解るまいが読ませるのである。声を響かせる。声は外に向かう。同時にその声は読んでいる寺子の全身の細胞一つ一つに響いていた。

読むという行為は、筋肉運動である。その筋肉運動から声が響く。その響きから、やがて聴覚映像が鮮明になり、その鮮明な映像から意味と解釈が生まれる。

元々、本を読むとは声を出すことだったのである。別言すれば、著者の声を自分の声に染み込ませて聴く営みである。

それはとりも直さず、他者から学ぶ行為であった。

声が響きにくい黙読は危険である。読み飛ばし、誤読が生まれる可能性が高い。

中学校の国語科の授業を見ることがある。多くが黙読である。声を出さない。素読など化石と思っているようだ。本読みの源は素読なのに、その素読を軽視している。

活字離れなのではない。素読離れ、音読離れなのである。


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まつぼっくり(旧フンボルト) ありがとうございます。