「公共貨幣」考
友と語らった帰り道、彼の発した一言が、いまも胸の奥に刺さったままでいる。「それは君の常識であって、当事者で決めればいいこと」。ただそれだけの内容であったのに、なぜこうも消えずに残っているのか。
自らの見識としてきたもの、疑うことなく寄りかかってきた前提――それは実のところ、ひとつの観念に過ぎなかったのではないか。そう教えられた気がしている。
独り念水池のほとりに立ち、そんなことを考えていると、意識ははるか縄文の世へと遡っていった。貨幣も、利子も、国債もなかった時代。人と人との間を行き来したのは負債ではなく、贈与であり、交換であり、循環する自然そのものであったのではないか。そこへ、ある識者の声が重なってきた。
経済学者・山口薫氏らが著書『公共貨幣』(東洋経済新報社)等で提示する「日本国公共貨幣法(草案)」である。1930年代のアメリカで提唱された「シカゴプラン」を下敷きに、現代の電子通貨技術も視野に入れて描かれたというその構想の眼目は、ただひとつ。通貨を発行する権利を民間銀行から取り戻し、利子の付かない公共の財として、国民の手に返すというものだ。
民間銀行が貸し出しによって預金という名の通貨を生み出す「信用創造」を禁じ、国会の監督下に置かれる公的な機関が、通貨の発行と管理を一元的に担う。発行された無利子の公共貨幣で、積み上がった国債をすべて買い取り、国の借金そのものを消し去ってしまう。以後の予算は、借金ではなく、経済の必要に応じて発行される無利子の貨幣でまかなう――そう聞けば、にわかには信じがたい話ではある。
けれども、日本もアメリカも、いま莫大な国債という借金を背負い、その利払いだけで国家予算が圧迫され続けているのもまた事実だ。国債を、返してしまう。その常識離れの理論に、私は思わず立ち止まらざるを得なかった。
どのような制度であれ、時代が過ぎれば疲弊していく。利息を払い続けたその先に、いったい何があるのだろうか。増え続ける借金を、また借金で覆っていくだけの構造に、果たして終わりはあるのか。
すぐに答えの出る問いではない。もう少し学んでから、自らの行いを、少しずつ変えてみたいと思う。負債によらず、利子によらず、ただ贈与と循環のうちに人と人とが結ばれていた縄文の理想――それを、新しい意味において、もう一度この手で探り直してみたい。
