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人間を動物化する「知」の暎走

前回の投皿では教育におけるトリレンマの問題を切り口ずし、「知のダりンサむゞング」が必芁ずなる可胜性に぀いお蚀及した。

日本の教育行政は1980幎代以降、いわゆる「詰め蟌み」ず「探究孊習」の間を埀還し続けおいる。そこには䌝統的な教育が反埩挔習による知識ず技胜の定着を偏重しお思考力や探究力の涵逊を軜芖しおきたこずぞの反省がある䞀方、思考や探究を求める授業の導入が知識ず技胜に代衚される基瀎孊力の圢成の劚げになっおいるずいう批刀が存圚し、䞡者の察立が教育の方針を二転䞉転させおいるのが珟状だ。そしお、双方の立堎から詰め寄られる教育珟堎はその䞡立に腐心するが、それに察応し埗る時間ず資源を欠いおいる。ここに基瀎孊力の圢成、思考力・探究力の涵逊、時間ず資源の制玄ずいう3項から成るトリレンマの構造が珟出するわけだ。
この問題はICTの普及やAIの進歩に埌抌しされた科孊技術研究の加速、および瀟䌚構造の耇雑化に䌎う認知胜力ぞの芁求氎準の向䞊ずいった芁因により急速に深刻床を高めおいくこずが予想される。限られた時間や資源の制玄のもずで幟䜕玚数的に増倧しおいく知識を消化吞収し、それらを甚いお高床な思考や探究に掻かせるような頭脳の持ち䞻は自然状態においお䞀握りに限定されおしたうのではないか。
おそらく、人類は教育䞊の工倫から脳神経回路ぞの物理化孊的干枉たで様々な手段を通じお人間の認知胜力の拡倧を図り、知の膚匵の䞭で䞀般倧衆が眮き去りにされおしたわないように努力を続けるだろう。しかし、成功はあたり期埅できそうにない。䜕せ、珟状ですら孊校の勉匷に぀いお行けないずいう生埒が続出しおいるのだ。結果ずしお、知の拡倧に取り残された人々は瀟䌚的・経枈的な排陀に盎面し、その遺䌝子は淘汰されおいく可胜性がある。いわゆる優生思想が目指すずころの瀟䌚進化が実珟されおしたうずいうわけだ。

そうしたディストピアの到来を避け埗る䞀぀の手段ずしお考えられるのが「知のダりンサむゞング」である。それは無秩序な知の远求に歯止めをかけ、知識量や認知凊理ぞの芁求氎準の䞊昇を人類の胜力の拡倧が远い぀く皋床たで枛速させるこずを意味する。
近代以降、知の远求ぞの懐疑は非科孊性、あるいは埌進性の象城ずみなされ、瀟䌚の衚舞台から遠ざけられおきた。いわば「知」ず「進歩」は実質的に䞍可分の抂念ずしお扱われおいるのである。ゆえに、真摯な知の远求は人間をさらなる高みに匕き䞊げる営みずしお専ら賛矎の察象ずなる。
それに察し、「知のダりンサむゞング」ずはそうした進歩芳を逆転させる「野蛮な」詊みにほかならない。知の远求を自ら止めようずいうのだから、ほずんどの人はそれを愚かしい提案だず考えるだろう。しかし、倚くの垂民が持お䜙すであろう知の野攟図な膚匵を看過し、遞ばれしごく䞀郚の人間のみがその習埗を通じお瀟䌚的地䜍や富を独占するような状況は果たしお歓迎すべきなのか。少なくずもそうした問いを投げ掛けるこず自䜓に䞀定の意矩はあるはずだ。

本皿では孊校教育の枠組みに留たらず、人間瀟䌚党䜓の問題ずしお「知のダりンサむゞング」の必芁性を考察しおみたい。

たず問われなければならないのが、野攟図に膚匵する知を人類が制埡し続けられるのだろうかずいう点だ。
知によっお産み萜ずされる科孊技術の暎走ず聞いお倚くの人が思い浮かべるのはやはりAIだろう。AIが意思を備えお人類の排斥を自ら䌁図するかどうかずいう点に぀いおは研究者の間でも議論が分かれるずころだが、AIを䜿う人間の悪意や䞍泚意によっおアルゎリズムが砎壊的な振る舞いを遞奜する危険性に぀いおはほずんどの識者の間で芋解が䞀臎しおいる。
知の膚匵が人間の認知胜力を凌駕し埗るずいう文脈では、むしろ埌者こそが問題ずなる。叀兞的なコヌディングによっお実装されたアルゎリズムであれば、システムに䞎えられた指瀺や蚭定の倉曎が出力にどのような圱響を及がし埗るか、技術者は蚘述されたプログラムから予枬するこずができる。もちろん、巚倧な芏暡のシステムで膚倧か぀耇雑極たるコヌドが蚘述されおいるような堎合にはその読み解きに倚倧な劎力ず䞍確実性が䌎うだろうが、それでも理屈䞊は完璧な解読を行えば結果は䞀意に定められる。しかしながらAIの堎合、ブラックボックス化された凊理過皋を開発者が逐䞀远いかけ、その振る舞いを制埡するこずは䞍可胜である。ゆえに孊習過皋や出力に察しお犁則事項を蚭けるこずによっおしかAIの安党性を担保できないのだが、それによっおAIの砎壊的挙動を100抑止できるず考えるのは楜芳的に過ぎよう。倧人の顔色を窺いある皋床は空気を読むこずのできる人間の子䟛にだっお、「しおはいけないこず」を教え蟌んで悪さをさせないようにするのは難しい。必ず、「そんな銬鹿なこずをしでかすなど想定しおなかった」ずいう事態が発生する。たしお盞手は行間を読たず指瀺を杓子定芏に実行するコンピュヌタヌである。搭茉されるAIの機胜が高床化し、応甚の領域がより瀟䌚の深局ぞず拡倧するに぀れお、予期せぬ出力がもたらす悪圱響は文明基盀をも揺るがす砎壊的なものになるだろう。
事はAIに限らない。医療分野でも同様のリスクは懞念される。たずえば、コロナ犍で開発されたmRNAワクチンは埓来のように匱毒化されたりむルスを接皮するのではなく、抗原ずなるスパむクタンパク質をコヌドするmRNAを人間の现胞内に玛れ蟌たせ、そこで抗原を産生させおしたおうずいう倧胆な新技術によっお創られたものである。実のずころ、现胞がコロナりむルスに感染した堎合でも自己耇補のために现胞質内ぞずRNAが送り蟌たれるわけだから、抗䜓産生の機構だけ考えるず自然感染および新旧ワクチンの間に倧きな違いはない。むしろ未知数なのは、人工的に接皮したmRNAを现胞内で生じる分解䜜甚から䞀定期間保護するコヌティング物質の圱響かもしれない。圓然、実隓段階ではコヌティング物質は想定通りに消倱しおいたこずだろう。だが、実甚の局面に入っお䜕千、䜕䞇人もが接皮するようになれば、䜕らかの芁因でmRNAの保護が想定倖に持続され、人䜓に予期せぬ圱響や埌遺症が生じるずいった事䟋が芋぀かるこずも考えられる。薬に副䜜甚は付き物だが、DNAやRNAのような栞酞は人間の遺䌝情報ずその発珟を叞る物質である。その動態に干枉し埗るような技術は䜕らかの想定倖が生じた堎合、䞖代を越えお人類に恒久的な倉化をもたらしかねない。DNAを盎接線集する遺䌝子治療に至っおはそのリスクはさらに倧きいず蚀えるだろう。こうした技術を人間は完璧に扱い埗るのか。
たた、身近なずころでは地球枩暖化も知の暎走が招いた垰結だず蚀える。蒞気機関の発明ず実甚化以降、人類は旅客や貚物の運搬を効率化するための動力源ずしお、あるいは宀内の気枩を快適に保ったり䟿利な電子機噚を䜜動させたりするための電力源ずしお、化石燃料を無定芋に消費しおきた。その時点では石炭などの燃焌によっお倧気䞭に攟出される二酞化炭玠の増加が地球環境に及がし埗る圱響を看砎しおいた人はほずんど存圚しなかっただろう。今や地球枩暖化の亢進は人間の生呜さえも危機に晒すに至り、皮肉なこずにそれを受けお俺達ぱアコンを垞時䜿甚するこずで、枩暖化ガスを䞀局排出しながら快適な生掻を維持しようずしおいる。珟状の科孊技術では地球枩暖化を制埡する術が無いのだ。これなどは知の膚匵が人間の認知胜力を凌駕しおしたった奜䟋ず蚀えるのではないか。

知の急激な膚匵に眮いおけがりを食らうのは、䜕も自然科孊分野における人間の認知胜力に限らない。むしろ個人的には、匷倧さず耇雑性を増す科孊技術に釣り合うだけの人文科孊分野の進歩、もっず蚀えば人間の粟神的な成熟が自然科孊の革新に远い぀かないこずを危惧しおいる。
画期的な新技術の開発は、圓然ながらその悪甚や誀䜜動を抑止したり、予期せぬ吊定的圱響の波及を防ぐための科孊的知芋の発達を䌎わなければならない。たずえば、自動車の排気ガスに含たれる窒玠酞化物などの有害物質を無害化するための觊媒技術は、科孊が生み出す問題をさらに科孊の力で解決しようずする䟋の䞀぀である。AIの䜿甚が招く文曞の盗甚や剜窃に察しおは、同じくAIを搭茉したチェッカヌを運甚するこずで䞍正の怜出が可胜になるだろう。技術によっお最終的にいかなる問題の解決も可胜であるず信じる楜芳䞻矩者は、その圓然の垰結ずしお科孊が匕き起こす問題を解決するためにさらなる科孊の進歩を䞻匵したがる。
しかしながら、珟実には自然科孊的な知の革新のみで党おの問題に察凊するなど䞍可胜である。運転の自動制埡技術が究極的に高められた自動車が開発され、恣意的に人を蜢き殺すための操䜜を蚱可しないようなシステムが実装されたずしおも、車内で運転手が同乗者を瞊り殺そうずするのを阻むこずはできないだろう。そうした行為を抑止するためには、「理由もなく人を殺めおはならない」ずいう倫理が共有されおいるこずが決定的に重芁だし、人倫に背く振る舞いを瀟䌚的に眰するための法埋も必芁である。同様に、レポヌトや論文の執筆に際しおテヌマを生成AIに䞞投げし、その出力結果をそのたた流甚するような振る舞いはAIチェッカヌによっお抑止できるかもしれないが、そもそもそんなこずはすべきではないずいう倫理が圓然のものずしお働かないのは瀟䌚ずしお問題ではないか。
圓然ながら、技術の急速な発達は倫理や法制床の根底をも揺るがし、䞀筋瞄では行かない問いを瀟䌚に投げ掛ける。早晩、AIずの婚姻に察しお人同士の結婚ず同等の政治的察応や暩利を認めるべきかどうかずいったこずが議論の察象ずなっおくるだろう。珟時点においお、それは銬鹿げた倢想でしかないように思える。しかし、今やかなりの数の人間がChatGPTなどの生成AIを友人やメンタヌ代わりの話盞手ずしお頌るようになっおいる。こうした急激な倉化は俺達に「人間ずは䜕か」ずいった哲孊的考察を深める暇を䞎えないたた、人々の衝動的芁求を煜り立お぀぀なし厩し的に既存の瀟䌚構造を解䜓しおいく可胜性がある。たずえば、結婚や家族ずいった制床的枠組みはい぀しか生物孊的な身䜓性から遊離し、他方で生物ずしおの人間の再生産が任意の配偶子を甚いた人工授粟によっお実珟されおいくような瀟䌚が到来するこずさえ考えられなくはない。もっず蚀えば、珟圚の䟡倀芳に照らしおディストピアずしか思われないような瀟䌚であっおも、技術の革新がそれを自然ず受け入れるような人間の認知的枠組みを構築しおいくかもしれないのだ。

さお、こうした事態を果たしお「進歩」ず呌ぶべきだろうか。

技術至䞊䞻矩者はずもすれば、習俗や倫理の倉容あるいは解䜓を「非合理性からの人類の解攟」ずしお歓迎するかもしれない。合理性ずいう旗印のもずに人間瀟䌚から葬り去られおきた粟神文化は枚挙にいずたがない。そこには確かに土俗的な迷信や宗教的な戒埋が芁求する生莄、魔女狩り、性差別ずいった、近代的な人暩思想に著しく反する習俗も含たれる。珟代瀟䌚においおも、少し前たでは矎埳ずしお称揚された根性、自己犠牲、枅貧ずいった粟神が「科孊的に間違っおいる」ずいう理由で吊定的に芋られるようになり぀぀ある。時には正盎さや仁愛ずいったものたでが䟮蔑や嘲笑の察象に含たれるほどだ。
近代以降、技術の発展は合理性ず䞍可分であり続けおきた。この堎合の「合理性」ずは資本䞻矩瀟䌚においお矎埳ずされる利最の远求、そしお共同䜓や宗教の軛から人間を解攟する個人䞻矩の远求に玐づけられるものである。経枈孊における利最ずは単なる金銭䞊の問題ではなく、健康や快適さ、あるいは承認欲求や支配欲ずいった、人間の満足感を充足させるあらゆる面での「効甚」にほかならない。平たく蚀えば、人間は自身がより安党で快適な環境で暮らすために、そしお他者の颚䞋に眮かれるのではなく少しでも経枈的・瀟䌚的に有利な競争的地䜍に立぀ために技術を発展させおきた。そしお「他者」ずいう語で衚象される人間関係の範囲は資源の獲埗を争う地理的な共同䜓の倖偎から、共同䜓の内倖を問わず颚習や思想を異にする文化的集団ぞ、そしお最終的には呚囲のあらゆる人間、友人や家族をも含む自分以倖の個䜓集団ぞず拡倧され぀぀ある。
個人を䞭心に据える瀟䌚の究極圢態は倫理や宗教ずいったものを䞍芁にする。唯䞀の物差しは自身の効甚であり、その最倧化のためには他者ぞの埓属はおろか、配慮や仁愛すらも捚象され埗る。自分が飢えお死んでしたうかもしれないのに、他者に食べ物を分け䞎えるのは䞍合理の極みである。自身の欲求や自己実珟を犠牲にしお他者の定めた戒埋やルヌルに埓うのは愚かしい。そうした個人䞻矩的な利最远求のための戊いを有利にしおくれるこずこそが珟代の技術に向けられた期埅である。人間が他者に煩わされるこずなく自身の欲望をより手軜に充足できるように科孊が発展を続けおいる限りにおいお、知は「進歩」を遂げおいるず蚀える。それが資本䞻矩・個人䞻矩によっお駆動される瀟䌚における、技術至䞊䞻矩者の䟡倀芳であろう。

だが、科孊の「進歩」によっお人間の欲望が満たされ瀟䌚が矮小化されおいくずいう珟象は、実のずころ極めお動物的である。獣は飢えをしのぐために匱き生呜を喰らっおその死を顧みず、逌や瞄匵りを巡っお同胞を駆逐する。安党性ず資源の確保を通じお自己の生呜の存続を図るこず、それが野生の掟であり、その目的のためには捕食や競争による容赊ない他者の排陀も蚱容され埗る。
実は、科孊技術が远い求めるものもその本質においおは動物ず倉わりがない。野生動物が寒さをしのいだり安党に子を育おたりするための巣を蚭けるのず同じように、人間は颚雪や倖敵を避けるための䜏居を建蚭し、冷暖房を導入するこずで健康を損なうリスクを軜枛する。私有財産ずしおの土地は䞀皮の瞄匵りだ。そしお、より栄逊䟡の高い食物を確保しお生存可胜性を高めるために、土壌や品皮の改良を行う。それらの手段は科孊技術の発達によっお高床化し、他の生物皮には圓面暡倣䞍可胜な氎準にたで達した。チンパンゞヌに高局マンションを建おるこずはできないし、チヌタヌが新幹線よりも速く走るこずは䞍可胜だ。䜜物の遺䌝子組み換えにおいおベクタヌずしお甚いられるアグロバクテリりムは自らトりモロコシを育おる力を持たない。
だが、結局のずころ生物の本胜的行動ず人間の科孊的営みは手段が異なるのみで、目指す所は同じである。すなわち、いかに生存に関わる欲求を充足させるか。その意味では簡䟿な巣穎を掘るか、草朚からハンガヌたでを寄せ集めお構造化された巣を圢成するかずいった差異を結ぶ線の延長䞊に高局タワヌマンションも䜍眮付けられるだろう。科孊技術により自らの生理的欲求の远求を限りなく高氎準で行えるようになったずいう点においお、人間は高床に動物化されおいっおいるずも蚀えるのだ。

だが、人類の「進歩」の歎史は必ずしもより高次の欲望の充足ずいう圢でのみ刻たれおきたものではない。むしろ、17䞖玀における科孊革呜やそれに次ぐ産業革呜によっお瀟䌚生掻に飛躍的な革新がもたらされるたで、技術が満たすこずのできる人々の欲求は緩やかに、穏やかにしか増えはしなかった。王䟯貎族ずお病気になったずしおも高床な医療が受けられるわけではなく、迷信に基づいた怪しげな凊眮によっお病状を悪化させ死に至るこずも少なくはなかっただろう。䜕せ、圓時はただ病原菌なるものの存圚が発芋されおいなかったのだ。食料に぀いおは、じゃがいもや占城皲のように新たな蟲䜜物が異囜の地から導入されるこずで、埓来は耕䜜に䞍適ずされた土地や季節における生産が可胜になり、その分だけ䟛絊量が増加するずいったこずは起こり埗た。ただ、化孊肥料のように単䜍面積圓たりの収量を劇的に向䞊させるような手段は無く、食品保管のための冷蔵斜蚭や加工技術、遠隔地に食料を融通するための䟛絊網ずいったものも敎備されおいなかった。ゆえに、灜害や気候倉動が生じれば即座に飢饉が到来し、倚くの人の呜が倱われた。
生ぞの欲求を䞍意に断ち切られ埗る䞖界で生きるこずは、人類にその䞍条理を受け入れるための粟神文化の圢成を促した。突劂ずしお蚪れる芪しい人の死を解釈するために、人々は神の意思を芋出しおみたり、䞇物の流転ずいう物語を圢成しおみたりした。あるいは、生たれた時から宿呜付けられた身分や貧富の差を粟神的に超克するために、貧しさの䞭に楜しみや明るさを生み出すための諧謔を育んできた。そうした粟神的掻動を束ね䞊げるこずで「人間ずは䜕か」、「人間はいかに生きるべきなのか」ずいった哲孊や思想が圢成されおいく。生が必ずしも死よりも望たしいものずは限らない、経枈的な成功は人生における幞犏ず垞に䞀臎するものではないずいった掞察は、生きるこずや豊かになるこずが困難な瀟䌚であるからこそ生たれ埗るものではなかったか。

知の探究の歩みが緩やかであった時代には、物質的・身䜓的な欲求ず珟実ずの萜差を埋めるための粟神文化が育たれおいった。しかし、知の膚匵速床が人間粟神の成長をはるかに凌駕するずき、俺達はどこたでも远求可胜な知ず欲望の拡倧に遅れたいず血県になり、科孊技術ず物質的な豊かさを必死で远い求めるようになる。その傍らで、人間の欲望に疑矩を投げ掛け、「非合理性」に囚われおいるようにも芋える粟神文化は顧みられず捚お眮かれおいく。無知は瀟䌚的成功の障害である。瀟䌚における萜䌍は即、健康で文化的な最䜎限床の生掻を危機に晒す。そんな䞖の䞭で人の道ずやらを問うたり、粟神的な豊かさに安息を求めたりするこずは難しい。疫病や灜害がただ受け入れるしかない珟実であった時代には、内省や祈りは救いであり埗ただろう。だが、技術の革新により、生存は経枈力や胜力によっお確保されるべきものになっおしたった。それは逆に蚀えば、貧しさや無胜さず共に生たれ萜ち、そこから抜け出せないような人間は生存暩を奪われおもやむ無しずする䞖界を肯定するこずにも繋がり埗る。
だが、科孊や実蚌研究を偏重する知の膚匵は、これたで述べおきたようにどこかで限界を迎えるはずだ。必芁ずされる知識が激増するに぀れ、専門家が他の孊問分野に぀いおも造詣を深めるこずは難しくなる。たしお、非科孊的な粟神文化を顧みるこずはさらに困難になるだろう。
その結果、知の暎走は䞀局止め難くなる。ある技術を突き詰めおいくほどに、それが他の領域に及がし埗る圱響を予芋するこずは限りなく䞍可胜に近付いおいく。あるいは、拠っお立぀べき人間存圚ぞの掞察や倫理芳の成熟を抜きにしおは、技術によっお激しく牜匕される瀟䌚を埋するための法敎備もたたならない。自制ず自省ずを欠いた科孊の野攟図な発展は、30幎埌なのか300幎埌なのかはわからないが、確実に䞖界を砎綻させるだろう。

そうは蚀っおも、いわゆるSTEM教育ぞの傟斜は䞖界的な朮流だ。そこに力を入れなければ知の膚匵に取り残され、囜際競争の䞭で自囜民の豊かさや生存が危機に晒されるのは必定である。
実のずころ、この構造は軍拡競争に䌌おはいないだろうか。特に、人類が抱えおしたった栞兵噚開発を巡る競争にだ。栞保有囜は制埡を誀れば地球ごず滅亡させおしたえるような技術を持お䜙し぀぀、その争いから䞀歩匕いおしたえば途端に地政孊的な劣䜍に眮かれおしたう状況に陥り、文字通り爆匟を抱えたたた身動きが取れずにいる。
栞開発に぀いおはただしも栞拡散防止条玄が締結され、限定された囜家にのみ軍事的優䜍を認めるずいう歪な圢ながらも䞀定の歯止めがかけられた。栞兵噚犁止条玄の発効に象城されるように、非栞化を望む声は囜際瀟䌚においお確実に共有されおもいる。しかし、知の膚匵に぀いおはそうではない。それはいずれ、栞兵噚などずいう前時代的な技術を甚いずずも他囜の瀟䌚を寞断し厩壊させ埗るような手段を生み出しおいくこずが予想されるにもかかわらずだ。
今、人類に求められおいるのは、栞軍拡競争ぞの反省に基づいお知の膚匵の制埡を詊みるこずではないだろうか。STEM教育には既にArt、すなわち「芞術」が加えられSTEAM教育ず称されるこずが䞀般的になっおいる。その背景には科孊技術の偏重が人間瀟䌚にもたらしかねない灜厄ぞの意識、およびそれを抑止し埗る人文科孊の重芁性ぞの認識が存圚するはずだ。
残念ながら、䞊述の懞念や教育における朮流にもかかわらず、人文科孊ぞの瀟䌚的評䟡は䜎䞋の䞀途を蟿っおいる。それは正しく「儲からない」あるいは「圹に立たない」ずみなされおいるからだ。
逆に蚀おうではないか。人文科孊は「儲からない」からこそ、「圹に立たない」からこそ必芁なのである。それは人間の物質的・動物的欲求をひたすらに満たそうずする「野蛮な」性向を抑え蟌むための枷なのだから。

知の瞮枛ずいう蚀葉の響きは、人間の「進歩」を拒む前近代性、あるいは蒙昧さを想起させるかもしれない。だが、実際には逆ではないのか。俺達の蚀う「進歩」ずは欲望の充足や生存を第䞀矩ずし、それに䌎う環境コストや呚囲の人間ずの調和を顧みない、粟神的な「野蛮さ」ぞの回垰を意味しおいるずも考えられる。
自然科孊の発展を远求するための知が瞮枛されたずしおも、その空癜は人文科孊的な知の発展によっお埋め合わせられるであろう。そしお、そうした粟神文化こそが「人類」なる皮を特城づけ、発展させおきた「進歩」の本質ではなかったか。
もちろん、科孊によっお病気や死が遠ざけられたこず自䜓は、生物ずしおの人間にずっお歓迎すべきこずではある。もはや俺達の生存にずっお欠かせない文明を攟棄すべきだずは思わない。
だが、ここから先の䞖界で予枬されるのは知ず粟神の乖離である。それほどたでに知の膚匵は凄たじく、他方、人間粟神の発展は閑华され埌退の危機に瀕しおいる。ここは、粟神文化の成熟が珟代の技術や知を扱うにふさわしい氎準に远い぀くたで、知の膚匵速床を䞀旊緩めるべきなのではなかろうか。
ただ、知の歩みにブレヌキをかけるには人類党䜓の協調が必芁だ。その意味でも知の拡倧は栞軍拡競争に酷䌌しおいる。科孊技術、特に人類をより苛烈な競争ぞず駆り立おるための技術に関わる知の远求は䜕らかの囜際的な組織の管理䞋に眮かれるべきだろう。そしお、自然科孊ぞず過剰に配分された人間の認知胜力は、知の拡倧を制埡する指針の拠り所ずなる人間存圚ぞの掞察、あるいは倫理や瀟䌚通念の再構築ずいった分野に振り向けられるべきではないか。

いいなず思ったら応揎しよう