洗濯鬼とレジリエンスの乙女|シロクマ文芸部|お題:洗濯機
第一章 洗濯鬼のあるコインランドリー
「神様なんかいない」
海月(みづき)がそう口にしたのは、嵐の夜のことだった。
六年間勤めたIT会社の品質管理部門。ようやく中間管理職に昇進した一週間後、突然のリストラを言い渡された。物価高騰と業績悪化。信じていたキャリアは、あっけなく足元から崩れ去った。
運の傾きはそれだけに留まらない。 不条理な立ち退きを迫られた前の家。引っ越し作業中に痛めた、椎間板の激痛。新居に積み上がった段ボールの山。 全部まとめて、誰かに押しつけてしまいたかった。
二週間前に引っ越してきたばかりの街は、どこまでもよそよそしい。わずかな貯金と、明日の見えない自分の視野が、きらめく街の灯りをすべて拒絶しているようだった。
さした傘が強風でひっくり返りそうになる。 雨を睨みつけながら、濡れたブラウスを洗うためにいつものコインランドリーへ向かった。
ところが、店の前まで来て立ち尽くす。 扉には『停電の為、臨時休業』の貼り紙。
「何でよ……」
絶望に近い呟きは、激しい雨音にかき消された。 仕方なく、家に帰ろうと暗い路地裏へ引き返す。その時、雨のカーテンの向こうから、異質な光が目に飛び込んできた。
嵐の闇を鋭く切り裂くような、硬質で純粋な白い光。 寂れた路地にはおよそ似つかわしくない、真新しいガラス張りのエントランスだ。
海月は、吸い寄せられるようにその光へ足を進めた。
看板の代わりに掲げられた文字に、目が留まる。
『洗濯鬼(せんたくき)』
「機」ではなく、恐ろしい「鬼」という文字。 少しためらってから、自動ドアに手をかけた。
ピシャリ。
ドアが閉まった瞬間、嵐の轟音が完全に遮断された。 代わりに耳に届いたのは、低く流れる、静かで落ち着いたジャズの旋律。
店内は白を基調とした高貴な空間で、どこか凛とした空気が漂っている。
壁一面に鎮座する洗濯機は、どれも見たことがないほど巨大だった。
丸い窓の向こうでは、光を帯びた液体が、それ自体の意志を宿したかのようにゆっくりとうねっている。
泡ともつかない、正体不明の光の奔流。
大型マシンの上部には、『心の洗浄』という文字が静かに明滅していた。
鼻を突いたのは、過剰なほど清潔な洗剤の香気と、機械が吐き出す生暖かい熱風の匂いだ。
「ようこそ。レジリエンスの乙女よ……あなたのお越しを、お待ちしておりました」
タッチパネルの傍らに、黒いマット調のロボットが佇んでいた。
海月よりも少し小柄な背丈。顔部分に埋め込まれた緑色のセンサーが、こちらをじっと見つめている。
「……はい?」
海月は思わず、濡れたバッグを胸元に抱えて身構えた。
「レジリエンス、って……私のことですか?」
「左様でございます」
ロボットは感情の起伏がない声で応じた。
「レジリエンス。心理学における『精神回復力』、すなわち、逆境に直面した際、心が折れることなく、しなやかに立ち直る力を指す言葉です」
「立ち直る、力……」
海月は自嘲気味に息を吐いた。
リストラ、立ち退き、腰の痛み、終わらない荷解き。心なんてとっくに折れて、泥のようにすり減っている。
「違うわ。私にそんなもの、残ってませんけど」
ロボットは、胸元を静かに指し示した。
そこには、ゴシック調の文字で『gerimi』と刻まれている。
「……gerimi(ジェリミ)、と申します。当店のご案内を担当しております」
(ジェリミ……。なんだか、妙な名前)
海月は心の中で呟き、口を割った。
「あの、洗濯をしたいんですけど」
「承知しました。衣類をご投入ください」
海月は濡れたブラウスをバッグから引っ張り出し、洗濯機の重たい投入口に入れた。
すると、液晶ディスプレイに鮮やかな文字が浮かび上がった。
『心の洗浄をしますか? Y / N』
文字は点滅もせず、ただそこにあった。催促するでもなく、急かすでもなく。
「……これは、どういう意味ですか。私がこの中に入れってこと?」
「いえ。お客様自身がドラム内に入る必要はございません。当システムは、投入された衣類を『媒介』として機能します。衣類とは、日々あなたの心から分泌されるストレスを最も間近で吸い上げてきた、いわば精神の身代わりです」
「身代わり……」
「左様でございます。あなたが蓄積した精神のエラーを、衣類の汚れと同時に感知・選別し、特殊な液体で洗浄いたします。追加料金は発生しません」
「……何を洗浄するかは、誰が決めるんですか」
「基本的にはシステムが判断いたします」
gerimiは一拍置いた。
「お客様の場合、ここに辿り着くまでの絶望感が、心のドロドロ純度を大幅に引き上げています。さらに、特定の『数字』に対するストレス値が基準を超過。手放したいという強いシグナルを検知しております」
「数字……」
小さく息を呑んだ。
脳裏をよぎったのは、会社を追われてから、そこにしがみつくように毎日のように投稿しているWebプラットフォーム『nyatto(ニャット)』の画面だった。 ビュー数、スキの数、フォロワーの増減。誰かに認められたい、自分の存在価値を証明したいという、乾いた承認欲求。
「処理可能です」
gerimiは海月の心を透視するように言った。
「お客様が手放したいと思っているものをシステムが感知し、洗浄します。ただし――洗浄後に何が残るかは、システムには判断できません。それはあなた自身にしか、わかりません」
海月はディスプレイを見つめた。
『心の洗浄をしますか? Y / N』
椎間板の鈍い痛みが、じくりと腰に走る。リストラ、立ち退き、積み上がった段ボール、残されたわずかなお金。 神様なんかいない、と叫んだ夜の冷たい雨。
すべてを、洗い流してしまえたら、どんなに心が楽だろう……。
こんな浅ましい自分ごと……。
海月はゆっくりと指を伸ばし、迷いを振り切るように『Y』の画面を押し込んだ。
カチリ、と静かな電子音が響き、ゴトゴトと重低音を響かせながら洗濯機が回り始める。
「洗浄終了まで、四十五分でございます」
gerimiが静かに告げた。
「お退屈でしたら、あちらの読書コーナーをご利用ください」
ロボットが示した店の隅には、重厚な木製のカラーボックスがあった。棚には、見たこともない奇妙な背表紙の本がずらりと並んでいる。
『魔女っぽ天使ひと仕事です』
『本当は教えたくないドキドキ魔術』
『飼って良かった地獄の番犬』
『二流の悪女の節約術 666編』
『100均でできる。天使避けアクセサリー』
『地獄の炎が思ったより熱かった件』
『声に出して読みたい恨み節。関西編』
『あくまでも正論です』
『こんな天使にはマジ気をつけろ』
海月はプラスチックの椅子に腰を下ろし、棚の背表紙を眺めた。
(何よこれ……、どんな趣味のセレクトなの?)
呆れを通り越して不気味だった。一冊として手を伸ばす気にはなれない。
気を紛らわせようとポケットからスマホを取り出したが、画面の右上には『圏外』の文字が無機質に表示されていた。
(そうか、ここ、圏外なんだ……。nyattoも無理か)
妙に納得した。この店に入ってから、外の世界の音が一切聞こえない。嵐の雨音も、車の風切り音も、何もかも。
まるで世界からバッサリと切り取られてような、奇妙な感覚だった。
海月はスマホをポケットにしまい、丸いガラス窓の向こうで、謎の光る液体に揉まれながら回転する、自分のブラウスをただじっと眺め続けた。
第三章 脱水と、崩壊の予兆
洗濯機の回転が変わった。
ゆっくりとうねっていたドラムが急加速し、淡く発光していた液体が激しい渦を巻く。海月のブラウスがその中で引きちぎられんばかりにひるがえった。同時に、海月の頭の奥がじわりと緩む感覚がした。
ずっと肩に乗っていた重苦しい塊が、少しずつ剥がれていく。nyattoのビュー数、スキの通知、数字に一喜一憂して消耗し続けた日々が、ブラウスと一緒にぐるぐると回され、遠ざかっていく。
「洗浄、進行中です」
gerimiが淡々と告げた。
「現在、SNS関連の劣等感データを優先処理中。全体の約四十三パーセントを占めています。なお、この中に混在する『創作への純粋な衝動』は保護対象として残します。汚れと動機は別物ですので」
「保護、してくれるんだ……」
海月は小さく呟いた。
そうだ、私はただ、誰かに聞いてほしくて、自分のためにnyattoでエッセイを書いていたはずだった。その純粋な気持ちをシステムが認めてくれたことに、少しだけ救われた気がした。
洗濯機がさらに速度を上げ、脱水へと移行する。ドラムの回転音が店内に低く響き渡る。
その時だった。
「ガガガ、バキッ!」
店の地下から、耳が痛くなる凄まじい金属音が響いた。
「――まずい!」
gerimiが叫んだ。その瞬間だけ、ロボットの事務的な声が完全に崩れた。排水メーターの針が異常値を指し、警告灯が真っ赤に明滅する。
「床から離れてください!」
海月が椅子から飛び上がると同時、洗濯機の底部から、どす黒いヘドロのような液体が噴き出した。それはただの汚水ではない。形を持たないまま、独自の意志を宿したように床を這い、海月の足元へ迫ってくる。
「何ですかこれ!」
「地下の『不浄の場』からの逆流です! パイプの老朽化により――」
gerimiが慌てて予備のバルブを回すが、水圧が強すぎてビクともしない。黒い液体が海月の足首に絡みつこうとした、その瞬間。
背後の自動ドアが、豪快に跳ね上がった。
「おいおい、またここの配管がイカれたか!」
怒鳴り込んできたのは、三人の男たちだった。 黒い作業着に身を包み、背中には巨大な銀色のタンクと太い蛇腹ホースを背負っている。無骨な手には使い込まれた工具が握られていた。
「モヤモヤが凝固する前に吸い上げるぞ!」
リーダー格の男が吠えると、残りの二人が即座に動いた。一切の迷いなく、黒い液体に向けて極太のバキュームホースを突き刺す。
「ズゴゴゴゴゴゴゴ!」
凄まじい吸引音が店内に轟き、どす黒い液体が渦を巻いてホースの中へ吸い込まれていく。空間に漂う重苦しい気配まで、根こそぎ吸い上げられていくようだった。
「お嬢さん、そこに突っ立ってると魂まで吸い込んじまうぞ! 下がってな!」
壁際まで後退した海月の前で、一人が壊れたパイプの根本に特殊な粘土を叩きつけ、もう一人がすかさずバーナーで炙る。一瞬で溶接が完了した。わずか数分の出来事だった。
床に残ったのは、少しの濡れ跡と、うっすらとした洗剤の香りだけ。先ほどまでの混沌が嘘のように、店内には再び穏やかなジャズが流れ始めた。
「ふぅ、やれやれ。そろそろこの旧式配管も限界だ。次は最新のチタン製に替えなよ」
リーダー格の男がgerimiにそう毒づいてから、海月をちらりと一瞥した。
「レジリエンスのお嬢さん、ご無事で何より」
「おお、レジリエンスか!」
「……俺たちみたいになるなよ」
「あ、あの……あなたたちは?」
思わず問いかけた海月に、リーダーの男はにやりと笑った。
「聞かないほうがいい」
男たちは悪意が詰まった重いタンクを背負い直すと、来た時と同じように風のように去っていった。
自動ドアが閉まり、再び静寂が戻る。
gerimiがゆっくりと海月の隣に歩み寄った。緑色の目が、いつもと変わらない輝度で海月を見つめる。
「……彼らは何者なんですか?」
海月はまだ、トクン、トクンと波打つ胸を押さえながら尋ねた。
「かつて人間界で腕を鳴らし、理不尽にリストラされ、あがいた方々です」
gerimiは淡々と語り始めた。
「しかし、精神の回復――レジリエンスが上手くいかなかった。やむを得ずこの世界の住人となり、契約を結んだ職人たちです。……ですから『俺たちみたいになるな』と」
「成れの果て……」
海月はgerimiの横顔を見つめた。
「ねえ、もしかして、あなたも……?」
gerimiの顔部分にあるセンサーが、かすかに明滅した。
やがて、gerimiは静かに言った。
「レジリエンス――立ち直る力は、特別な能力ではありません。誰もが最初から心に備えている、しなやかなバネのようなものです。あなたの中にも、小さくても必ず存在します」
海月は少し驚き、それから苦笑した。
「そんなことまで、私に話していいの? 案内人の秘密なんでしょう?」
「はい。問題ありません」
gerimiの緑色の光が、ほんの少しだけ柔らかく灯った気がした。
「お客様の、この店での『記憶』は、外へ出たらすべて消えてしまいますので」
「……そっか。忘れちゃうんだ。じゃあ、私が今『あがいてみよう』って思ったこの気持ちも、全部無駄になっちゃうの?」
「いいえ」
gerimiはきっぱりと首を横に振った。
「消えるのはデータとしての記憶だけです。当店の洗濯機で汚れを落とし、軽く、しなやかさを取り戻した『あなたの心の感覚』は、そのまま元の世界へお持ち帰りいただけます。理由は分からなくても、明日、あなたは少しだけ前を向けるはずです」
「……ご不便をおかけしました。洗浄および脱水は、正常に完了しております」
電子音が鳴り、洗濯機のロックが解除された。
海月はしばらく呆然としていたが、やがて、お腹の底から小さく吹き出した。 笑うつもりなんてなかった。でも、可笑しくてたまらなかった。
リストラされて、理不尽に全てを奪われて、それでも別の世界で泥臭くあがいて、力強く生きている男たちがいる。
それに比べて、自分はどうだ。nyattoの数字や、神様がいないという絶望に、ただ泣いていただけじゃないか。
たとえ、ここでの記憶が消えてしまうのだとしても。
「……そうね。私もあがいてみようかしら」
第四章(最終章) 陰干しと影星の夜
洗濯が終わった。
gerimiが無言でドラムからブラウスを取り出し、海月に手渡した。 手のひらに、清潔な温もりが伝わる。洗剤の香りが、ほんのりと指先に残った。
「洗浄、完了です」
「……ありがとう」
海月は自分でも驚いた。ロボットに自然と礼を言うなんて思っていなかった。
gerimiは特に反応しなかった。ただ、緑色の目がわずかに明るくなったような気がした。気のせいかもしれなかった。
海月はプラスチックの椅子に腰を下ろしたまま、ブラウスを膝の上に広げた。 頭の中が、驚くほどスッキリしていた。nyattoのビュー数も、スキの通知音も、他の誰かと自分を比べる焦燥もない。 ただ、穏やかな静寂だけがあった。
「一つ、聞いてもいいですか」
海月は正面のgerimiを見上げた。
「はい」
「さっきあなたが言っていた、創作への純粋な衝動。それは……本当に残っていますか」
gerimiの胸のあたりで、小さな駆動音が微かに響いた。まるで、事務的なAIが思考の海深くへ潜り込んだかのような、奇妙な間だった。
「はい。処理されていません。保護対象として、完全な状態で残っています」
「そうですか」
海月は膝の上のブラウスを見下ろした。白くて、清潔で、少し温かい。
(これが、残ったもの)
数字なんかじゃない。私がただ、言葉を紡ぎたかったあの気持ちが、自分の中にまだちゃんとあった。それがわかっただけで、冷え切っていた胸の奥に、じわりと温かい灯がともるようだった。
海月はgerimiをじっと見つめた。緑色の目は相変わらず静かで、感情を映さない。この夜のことを覚えているのはgerimiだけなのだと思うと、妙な愛おしさが湧いた。
「覚えておいてください。私がここに来たこと」
gerimiは緑色の目を一度だけゆっくりと瞬かせ、
「……記録します」
海月はブラウスをバッグに大切に仕舞い、自動ドアへ向かった。
外は、まだ夜だった。 いつの間にか激しい嵐は去り、濡れたアスファルトが街灯の光を静かに反射している。ひんやりとした冷たい空気が、海月の火照った頬に触れた。
一歩、また一歩と歩き始めると、海月の頭の中から、この夜の記憶が少しずつ崩れ、薄れていった。
コインランドリーの白い光も、gerimiの緑色の目も、三人の職人たちの怒鳴り声も。嵐の夜に自分が何を求めて彷徨っていたのか、もう上手く思い出せない。ただ、胸の中に圧倒的な「軽さ」だけが、確かな感覚として残っていた。
見慣れたはずの帰り道。だが、曲がる角を一つ間違えたのかもしれない。
街灯の薄明かりの中に、ぽつんと佇む見慣れない店舗が、ふいに視界に入った。
古びた木製のドア。ガラス窓の向こうには、アンティークなアイロンや、見たこともない歪な形のハンガーが並んでいる。その店の軒先にある看板の文字に、海月の目は釘付けになった。
『レジリエンスの仕上げ処。心の皺、綺麗に伸ばします』
海月は足を止め、じっとその文字を見つめた。
「レジリエンス……」
今度の店は、何を吸い上げ、どこへ流すのだろうか。
バッグの中で、すっかり綺麗になったブラウスの清潔な生地が、カサリと音を立てた。
(了)
ここまでお読みいただき感謝いたします。
シロクマ文芸部さんのお題「洗濯機」にて短編小説を投稿させていただきました。
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