【歴史探訪】虎御前山城跡 〜小谷城攻略のため、信長率いる織田家臣団が集結した城〜

織田信長と同盟関係にあった浅井長政は、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いを契機に離反し、両者は敵対関係へと転じました。信長は、長政の居城である小谷城攻略のため「虎御前山」に布陣し、両軍の対峙はやがて姉川の戦いへと発展します。
織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍に勝利したものの、その後も対立は続きました。元亀3年(1572年)、信長は再び虎御前山に陣を敷き、さらにこの地に城を築くよう命じます。完成した城について、『信長公記』には次のように記されています。
虎御前山の城普請はまもなく竣工した。見事な設計で、この山の景観を生かした仕上がりには、誰もが「多くの城を見聞したが、これほどのものは見たことがない」と言い、目を見張って驚いた。
太田牛一著 中川太古訳
新人物文庫出版
そして天正元年(1573年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が虎御前山の信長陣地へ、長政の父・浅井久政の首を持参したことを契機に、信長自ら虎御前山から小谷城へ出陣。浅井長政を自害へと追い込みました。
本稿では、虎御前山の登山ルートや、城の遺構についてご紹介します。
【虎御前山について】
標高約230mの虎御前山には、織田信長をはじめ、織田家重臣の柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、木下秀吉(後の豊臣秀吉)等の陣地跡が残されています。
なお、虎御前山という名前には、以下の伝承が関わっています。(現地案内板より引用します。)

虎姫という名のおこり
「虎姫」その地名には、世にも美しくはかない一人の女性の物語が隠されています。
その昔、長尾山という山の麓に桃酢谷というところがありました。 そこには井筒という泉があり、そのほとりに虎御前という名の美しいお姫様が住んでいました。虎御前は中野に住む世々開という長者と結ばれ、仲睦まじく暮らしていました。やがて虎御前は身ごもりましたが、生まれてきた子は15匹の小蛇でした。我が身を嘆いた虎御前は女性淵という池に身を投じてしまいました。その後、子供たちは成人する頃には人間の容姿となり、辺りの土地を治める長となったということです。以来この山は虎御前にちなみ、いつの頃からか虎御前山というようになりました。
明治22年に町村制が施行されたとき、虎御前姫を親しんで「虎姫村」 と名付けられ、昭和15年に現在の「虎姫町」となりました。
【小谷城跡登城ルート・遺構】
虎御前山登り口(虎御前山駐車場)

虎御前山の南には「虎御前山公園」があり、画像の祠の裏手には駐車場があります。最寄り駅の虎姫駅は南西に位置し、徒歩約15分です。

ここから、登山開始です。

登山道とはいえ、鳥居が立てられており、南側は「矢合神社」と呼ばれる神社の境内となっていて、よく整備されています。
虎御前山 多賀貞能陣地跡

しばらく登ると、虎御前山城の最初の遺構である多賀貞能陣地跡に着きます。多賀貞能の生涯について解説板がありましたので引用します。

多賀貞能
近江?
?~天正十五年(一五八七)
豊後守真隆の子。近江高島帯を領し各地を転戦する。
元亀三年(一五七二)の江北出陣に際し織田信長に従軍、虎御前山に陣を構え、戦功をあげた。
しかし、天正十年(一五八二)の山崎合戦に際し、明智光秀に応じたために戦後所領を没収され、京都東福寺に塾居の身となった。
貞能には男子がなく、堀秀政の弟秀種を養子に迎えている。
矢合神社

多賀貞能陣地跡の北は、矢合神社となっています。

※「?」部分が読めず、他にも誤字が含まれている可能性がありますがご容赦ください。
矢合神社由緒
延喜式所載社
祭神 葦那陀迦神
当神社は延喜式神名帳に近江国浅井郡十四座、一と記され、古くは八相社又は八相大明神と云えり。
鎮座するこの一帯の山を八相山という。八相と"やはひ"と訓読すけだし当神社には往古弓矢の神事ありて村民盛んに射的を神前で行ない多くの矢が行き合うことより矢合の文字を以って社名とせり。
祭神の葦那陀迦神は葦の生じ易き水辺を司どり給う神なり。この地は古くより水利の便意の如くならざりしかばこの神を祭る。世にいう並々開長者?の"せせらぎ"は水の湧き出ずる状を表す語にして村民篤く敬仰す。天正年間信長の小谷城の攻略?の際、戦禍に遇い多くの古文書逸散したるも現社殿は天明年間の作なり。境内に現存する鐘楼は戦火をまぬがれし道成寺の再築したものなり
蜂屋頼隆陣地跡

矢合神社を後にして、さらに登っていくと蜂屋頼隆の陣地跡に着きます。

蜂屋頼隆
美濃
?~天正十七年(一五八九)九月二十五日
織田信長に仕えてより頭角をあらわす。
元亀三年(一五七二)の江北出陣に従軍。虎御前山に陣を構え、柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛らとともに小谷の町を破った。その後も越前朝倉攻め、伊勢長島攻めなど各地を転戦している。近江国愛知郡肥田城主に封じられたのはこの頃か。
天正十年(一五八二)に勃発した本能寺の変直後、頼隆は新たに封じられた和泉岸和田に居たようだが、その後の山崎合戦で羽柴秀吉に属し主君の仇を討った。同十三年(一五八五)越前敦賀城主に転封、同十六年(一五八八)には「羽柴」の姓を与えられ、羽柴敦賀侍従と呼ばれた。 継嗣がなく、家は断絶となった。

陣地跡は、曲輪(城の中に土等で造られた区画)状となっており、撮影地点からもう一段下に、かつての曲輪とみられる地形がみられました。
虎御前山 展望台

蜂屋頼隆陣地跡の北には、展望台があります。

展望台から北向きに撮影した画像。虎御前山の尾根が続いています。

赤丸で囲った山が、浅井長政の居城・小谷城があった小谷山です。
岩屋寺

展望台から先へ進むと、四国八十八ヶ所霊場 第45番札所の岩屋寺の末寺があります。
丹羽長秀陣地跡(虎御前山公園)

岩屋寺の先の階段を登ると、丹羽長秀の陣地跡に着きます。
丹羽長秀は織田四天王の一人にも数えられる重臣で、軍事はもちろん、信長全盛期に築かれた安土城の普請も担当しました。様々な政務をこなし米のようになくてはならない存在であったことから「米五郎左」とも称されています。

丹羽長秀
尾張
天文四年(一五三五)~天正十三年(一五八五)四月十六日
天文十九年(一五五〇) 頃から織田信長に仕える。
永禄十一年(一五六八)九月の上洛に従い、六角氏の近江箕作城を攻略した。元亀元年(一五七○)の姉川合戦後は、佐和山城攻めを担当し、翌年浅井氏の磯野員昌を降して佐和山城主となる。
元亀三年(一五七二)の江北出陣では、柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆らとともに小谷の町を破り、虎御前山に陣を構えた。以後も信長指揮の戦いにほとんど従軍し、戦功をあげている。また大船建造や安土城普請の総奉行を務めるなど技術官僚としても有能であった。
天正十年(一五八二)の本能寺の変後は、羽柴秀吉とともに明智光秀を討伐、その後近江高島・志賀の二郡を得た。
天正十一年(一五八三)の賎ヶ岳合戦後は、柴田勝家の旧領が与えられ、越前北ノ城主となる。

織田家重臣の陣地跡ともあり、広大な敷地となっていることがわかります。

側面から見た写真です。急峻な坂には、城郭の名残が感じられます。
虎御前山古墳群(信長馬場)

丹羽長秀陣地跡の先は、無線中継所の道路入り口となっています。舗装道路とはなっていますが、無線中継所用の専用で、車で通ることはできません。 徒歩での見学自体は可能です。貸し出し用の杖もあります。

そして、舗装道路の右手が古墳群となっています。藪化しており、道路側から眺めるといった見学方法が良さそうです。

虎御前山には現在八五基の古墳が確認されています。そのうち信長馬場古墳群は一基の前方後円墳(全長四三 m)を含み総数三三基からなる地元豪族の墳墓です。年代は西暦四〇〇年代から五〇〇年代と考えられています。
虎御前山古墳と中世城郭保全顕彰会

しばらく道を進むと、一度カーブに差し掛かるのですが…

曲がった先の左手に、さらに古墳が延々と続きます。

道標に記されている略図を見ると、数多くの古墳が並んでいることがわかります。
信長馬場と呼称されているように、織田信長は虎御前山の尾根に築かれた古墳群を巧みに陣城として活用しました。
現代人の感覚では罰当たりと思うかもしれませんが、古墳が陣地として利用されることは、当時としては珍しくありませんでした。元々高台状となっており、土木作業を省力化できたことが、その理由の一つと考えられます。

信長は姉川の戦いにおいても、
姉川付近の古墳を陣地としています。

舗装道の終点には無線中継塔があります。
なお、冒頭の画像のように、小谷城跡など別の場所から眺める際は、この中継塔を目印にすると、虎御前山であると判別できるでしょう。
滝川一益陣地跡

中継塔の側は、滝川一益の陣地跡となっています。
滝川一益は、織田信長に仕えた「織田四天王」の一人です。鉄砲の名手としても知られ、長篠の戦いでは鉄砲隊の総指揮を任されていました。
一益は、武田家滅亡のきっかけとなった甲州征伐にも出陣し、武田勝頼を天目山で自刃に追い込みました。
天正10年(1582)3月、信長から関東管領に任じられ、上野国および信濃国小県・佐久二郡が与えられました。この際、熱心な茶人であった一益が、領地よりも名物茶器「珠光小茄子」を望んだという逸話がよく知られています。
しかし、本能寺の変後に、敵に囲われた領地を拝領したが故にその守備に追われ、織田家の後継を決める清洲会議に出席できませんでした。その後、賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家方につき敗北。以後、豊臣秀吉から冷遇され、不遇の晩年を送った悲運の武将です。

滝川一益の陣地も、古墳群となっています。

滝川一益の陣跡から、さらに北へ進むといよいよ山城らしい景色となっていきます。
堀切

草木が生い茂っており、分かりづらいので輪郭部分を赤字で加筆しました。山の尾根伝いに敵が一気に侵入することを防ぐために、「掘切」と呼ばれる掘を設けられています。

さらに進むと、曲輪が幾重にも連なっています。各曲輪には守備兵が配置されていたでしょうから、仮にここを突破しようとすれば、相当困難だったに違いありません。

最下段の曲輪の下は、入念にも堀切が設けられています。
横堀

さらに、2つの曲輪の間には横堀が設けられ、曲輪間への進入を防いでいます。

下から見た写真です。横堀によってさらに高低差が生じ、よじ登るのに手間取っているうちに火縄銃で打たれてしまうという構図です。
竪堀

尾根伝いに侵入しようとしても堀切があり、曲輪から曲輪へ上がろうとしても横堀があるので、敵兵は「斜面を横伝いに進めばよいのでは」と考えるかもしれません。しかし、その行く手には「竪堀」が待ち構えています。
竪堀とは、山の斜面に縦方向へ掘られた堀のことで、こうした敵の横移動を妨ぎます。
礎石復元建物

曲輪の1つには、建物の礎石と床板が復元されています。

虎御前山城跡の礎石復元建物
当地に復元した礎石建物は、小谷山城跡をはじめ太尾山城跡や鎌刃城跡などでも発掘されており、当時の山城においてごく一般的な主要施設であったといえる。復元に用いた礎石は大津市伊香立の生津城(1560年頃)跡で発掘されたものであり、四間四方(一間ーメートル)の建物(四メートル四方)であった。
側柱のなかに束柱があり、床張りの高床建物であったことが分かる。このため一部床を復元しそれをベンチとした。前面間近に横堀があり、東には巨大竪堀がある。そして西に琵琶湖と竹生島が遠望でき、北側には堀秀政の陣が認められる。この場所は虎御前山城跡のなかでも要の位置を占めたといえる。
虎御前山古墳と中世城郭保全顕彰会

ここからは、琵琶湖と竹生島を一望できます。
堀秀政陣地跡

最初の曲輪群のさらに北は、掘秀政の陣地跡となっています。さらに曲輪が続いています。

織田四天王の丹羽長秀、滝川一益の陣に続き、次は堀秀政の陣…。前の二人と比べても、知名度は低く、「誰?」と思われるかもしれません。しかし、秀政の陣地は、とある武将を守護するように配置されており、極めて重要な人物だったことがうかがえます。
実際、字名から「名人久太郎」とも称された武将で、織田信長に重用され活躍しました。もとは信長の小姓として取り立てられましたが、永禄11年(1568年)には、室町幕府第15代将軍・足利義昭の本圀寺普請奉行を務めるなど、16歳にして側近として確固たる地位を築きます。
姉川の戦いで初陣を飾ると、以後は武将としても活躍。本能寺の変で主君・織田信長を失った後は、豊臣秀吉からも厚い信任を受け、秀吉の一族の他で、羽柴姓を与えられた最初の人物ともいわれています。
山崎、賤ヶ岳、小牧・長久手と数々の戦で功績を挙げましたが、天下統一目前の小田原征伐の最中、38歳の若さで病没。統一後に華々しく出世した他の武将達と比べ、後世での名声は薄れてしまったのかもしれません。
帯曲輪

堀秀政陣地跡の周囲は、帯状の曲輪で囲われ防御性が高められています。
大曲輪

名前の通り、広大な敷地を有する大曲輪です。
多くの兵や物資を収容できそうですが、これほどの守りが必要な場所といえば……。
その先の階段を上がります。
織田信長陣地跡

織田信長の陣地跡です。目の前に広がるのは広大な曲輪、そして虎御前山の地形を巧みに利用した急斜面の崖。敵の侵入を容易に許さない陣地であることがわかります。

虎御前山城
伝織田信長陣跡
信長の陣跡と伝えられる。最高所に位置する規模の大きな曲輪で北東西の三方を切り立った崖で防御されている。ここから南東に尾根が伸び、伝信長先兵陣地跡と伝わる曲輪群がある。

もはや、信長の生涯の説明は不要でしょう。信長の陣地へ続く階段を上がります。

名前の通り、周囲を土塁で固められた細長い枡形(四角)の「虎口」となっています。虎口とは、防御機能を加えられた城の入口のことです。
信長を守る土塁にしては流石に低めのため、塀があったものとみられます。

織田信長陣地跡の主要部です。かつてここで、織田信長が小谷城攻略の策を練り、命令を下していたのでしょう。

信長陣地跡からの南の下方に撮影した画像。やはり、かなりの急斜面となっています。

信長陣地跡からの眺めです。

手前の並木は、草野川と呼ばれる姉川の支流で、その奥の赤線で囲った並木が、姉川本流でその周辺で姉川の戦いは勃発しました。

信長陣地跡から階段を下ります。

進路を振り返って、信長陣地跡方面を撮影した画像です。切岸(山の斜面を削って崖のような構造としたもの)となっているように見受けられました。
北からの進入も防げるようになっていることがわかります。
信長馬場

信長陣地跡より先は、信長馬場と呼ばれる平坦地となっています。なお、虎御前山のように、よく山城に馬場とされる場所があり、高所に馬がいるのはありえないと思うのですが、一説には「番場」つまり番所を指すとの説もあるようです。
番所であれば、信長陣地跡前の見張り場として理にかなっていると思います。
木下秀吉陣地跡

堀秀政と同じように信長陣地跡に隣接するのが、木下秀吉(後の豊臣秀吉)です。
画像の道標が立つ、入り口を進みます。

木がたくさん生えており、わかりづらいですが、堀秀政の陣地跡と同じように曲輪が構成されていることがわかります。

曲輪の階段を上がると…

秀吉の陣地跡となっています。姉川の戦い勃発前の金ヶ崎の退き口で殿を務めた秀吉。信長の信頼を勝ち取ったためか、信長の陣地跡の北側の守護を任されています。

虎御前山城
秀吉の陣跡と伝えられる。
秀吉は虎御前山城の城番に任ぜられており陣跡も小谷城に近接していることから、ここが最前線であったと考えられる。三角形の曲輪を中心に小谷城側に土塁を築いた帯状曲輪が設けられている
秀吉の生涯も大河ドラマ『豊臣兄弟!』が放送されているので、説明不要ですね。

虎御前山の城番を務めた秀吉の陣地跡の一段下には、大曲輪があります。

陣地への侵入を阻む虎口もあります。

また、かざし掘という珍しい堀があります。解説がなく一般的な城郭用語ではないため詳細は不明ですが、右側の急斜面に対し、さらに中央部を掘り下げることで高低差を大きくし、敵がよじ登りにくい構造としたものとみられます。
柴田勝家陣地跡

秀吉の陣地跡の先は、織田四天王の一人、柴田勝家の陣地跡となっています。彼の生涯も、秀吉とも関わりが深く説明不要でしょうか(別記事でその足跡をたどる予定です)。
他の武将の陣地跡と比べると、整備はやや行き届いていない印象で、残念なところです(とくに秀吉との扱いの差には、どこか寂しさを覚えます)。
とはいえ、「鬼柴田」の異名にふさわしく、虎御前山の陣地の中では最北端に位置し、小谷城に最も近い最前線を任されています。そこからは、信長の厚い信頼を受けていたこともうかがえます。

柴田勝家の陣地付近にも古墳があります。
小谷城跡展望所

柴田勝家陣地跡から、北へ進むと浅井長政の居城・小谷城があった小谷山が見えます。(木々に遮られ全てを見渡せませんでしたが)
浅井氏の小谷城山頂の大獄と曲輪群
眼前の山が小谷山。全山に大規模な郭(曲輪・くるわ)群が連なる。天正元年(一五七三)八月末、信長は秀吉(藤吉郎)に命じ、京極つぶら(丸)を攻略して小谷城を落城させ、妹お市を救出した。
虎御前山古墳と中世城郭全額彰会
『信長公記』には虎御前山から、浅井・朝倉勢が大嶽へ登って籠城する様子も見えたことが記述されています。
