トイレや浴場をめぐる「不公平論」のグロテスクな本質
時折奇妙な理屈に出くわします。例えば、高速道路のパーキングエリアなどで「中年女性が男性トイレに入ってきた」という話を鬼の首をとったように語り、「男女平等なのだから、男性も女性用の浴場やトイレに清掃や点検などを名目に堂々と入れるべきだ」「女性が男性エリアに入れるのは不公平だ」と主張する人たちです。
一見すると、「男女の公平性を求めているまっとうな意見」のようにも聞こえますが、その裏に透けて見えるのは、現実の構造や安全管理の視点を完全に無視した、あまりにも身勝手でグロテスクな欲望です。

今回は、この手の「ズレた男女逆転論」の正体について、少し掘り下げて考えてみたいと思います。
1. 加害者の現実を見ない「男女逆転の例え話」の嘘
ネットの議論では、都合が悪くなると「もしこれを男女逆にしてみろ、大騒ぎになるはずだ」というレトリックがよく使われます。例えば性被害や暴力をめぐる議論でも、「男性だって女性から加害されることがあるんだから、被害の実態は対等だ」と言わんばかりの主張が飛び出します。
しかし、実際の統計データや社会通念に目を向ければ、物事はそう単純ではありません。例えば子どもの頃や未成年期の性被害に関する専門的な研究・調査を見てみると、男児に対する加害者は男性(知人、親族、教師など)が約3分の2を占める一方で、女性(親族、教師、身近な年上の女性など)が約3分の1を占めるケースもあると指摘されています。
確かに女性加害者の割合がゼロではないという特徴はあるものの、数として多いのはやはり男性による加害であり、しかもそれは「自分より力や立場が上の相手から受ける被害」という構造を持っています。
それなのに、男性側の被害を語る際に「女性が加害者であるケース」をことさらに持ち出し、無理やり「女性が加害する偶像」を作り上げて対立構造に仕立て上げようとするのは、実際の犯罪実態から目を背けた身勝手なレトリックにすぎません。

女性の受ける性被害の多くも、圧倒的に力関係が上の男性や知人・関係者から受ける構造になっています。そうであれば、男性側の被害を考えるときも「男女逆の理屈」で女性を標的にするより、「自分より力が上の相手から受ける加害」という現実に向き合うほうが、よほど被害の実態や女性側の受ける恐怖と近い感覚としてイメージできるはずです。
物事を何でもかんでも「男女の陣取り合戦」や「やり返しのゲーム」に回収しようとするその姿勢自体が、すでに現実の議論の土俵から降りてしまっていると言えます。
2. トイレや清掃をめぐる「ズルい」という被害妄想
先ほどのトイレや浴場をめぐる話に戻りましょう。
もし本当に「異性が自分のプライベートな空間に足を踏み入れてくるのが生理的に耐えられない」のであれば、結論は「男女ともに同性スタッフや同性によるオペレーションに徹底的に改めよう」という方向に向かうはずです。
それなのに、「女性が男性の領域に入ってくるのだから、俺たちも女性の領域に入らせろ(あるいは同等の権利をよこせ)」と主張するのは、話の筋が全く通っていません。生理的に嫌なはずの空間に「自分が入りたい」と言い出す時点で、最初の「嫌だ」という主張の動機が防衛ではなく、単なる「相手と同じ特権が欲しい」「俺たちも侵入してみたい」という身勝手なルサンチマン(鬱憤)でしかないことがバレてしまいます。

そもそも、男性エリアの清掃に女性(特に中高年層の労働者など)が多いのは、ビルメンテナンス業界の労働市場の構造や、現場のシフトを管理している経営層・管理職(その多くは男性です)の采配によるものです。現場で働いている女性たちが好んでその仕事を好んでいるわけでもなければ、男性を攻撃するためにそのポジションを陣取っているわけでもありません。

本当にそれが不審で嫌なことなら、ネットで不満を垂れ流す前に、その場で管理人を呼ぶなり通報なりすればいいだけの話です。それをせず、都合の良い「叩くための材料」としてネットの伝聞を使い回しているあたりに、本気度のなさと浅ましさが表れています。
3. 子育ての現場に見る「信頼とリスク管理」
こうした「男女逆転の理屈」が全く通用しないのが、実際の育児や生活の現場です。
例えば、外出先で子どもを連れていて、どうしても自分一人では手が回らないとき、赤の他人であっても女性に「子供のことで助けてください」と声をかけられる社会的蓄積や安心感が、私たちの社会には少なからず存在します。
我が家では普段から多目的トイレや共同トイレを利用しているため、まだ直接そうした修羅場に直面したことはありませんが、仮に多目的トイレがなく、私と娘、あるいは妻と息子という組み合わせで外出しているときに同様の状況になったとしたら――。
私は、たとえ赤の他人だとしても、周囲のほかの女性に事情を伝え「娘をお願いできませんか」と頼むでしょう。逆に、妻と息子の場合は、見知らぬ男性に頼むくらいなら「ごめんなさい」と言いながら女子トイレに一緒に連れて入ってくれと私から妻に言うはずですし、おそらく妻もまったく同じ気持ちでそうするはずです。

これは個人の偏見というよりも、児童に対する性被害の加害構造や、現実の安全管理における統計的・経験的なリスクを踏まえた、親としての切実な生存戦略です。
プロセスも結果も全く異なるこの現実を、「男女平等なのだから同じにしろ」「他人に子どもを預けるのも男女同権であるべきだ」と同一視することは、子どもの安全を守る上で必要なリスク管理をすべて台無しにする机上の空論でしかありません。

この件において、男性である私が同じ男性を全く宛にせず女性を頼りにしている時点で、女性が男性を頼るというハードルはその比にならないくらい高いのではないでしょうか。
そうならないことこそ理想ではあるものの、いざという緊急事態に頼るのはデータではなく親としての感覚がすべてであり、あれこれ言われようとそれで済むなら安いものというだけなのです。
4. ヒエラルキーの低い男性による「不公平感のすり替え」
結局のところ、こうしたズレた男女逆転論や「女性ばかりズルい」という理屈をこね回す人たちの正体は一体何なのでしょうか。
それは、社会の構造的な問題や、自分自身の置かれた立場に対する満たされない不満を直視できず、都合よく「男女平等」という言葉を免罪符にして、己の欲求や歪んだルサンチマンを満たそうとする浅ましさに他なりません。

本当に性別できっちり区切って、お互いが快適にプライバシーを守りたいのであれば、相手の領域に侵入しようとするのではなく、「どうすれば同性間で安全や衛生、プライバシーをスマートに守れるか」という運営上の改善に知恵を絞るのが筋というものです。

結び:生身の信頼と、歪んだイデオロギーの決別
私たちは日々、冷徹なデータや、ネットのギスギスした論争、そしてこうした下心を隠した「歪んだ男女平等論」に囲まれて暮らしています。
これはあくまで私個人の経験でしかない話ですが、以前、外国の女性が自分のスマホを差し出して翻訳アプリで道を尋ねてくれたことがありました。見ず知らずの男性である私にスマホを差し出すなんて、リスクを考えれば本来は慎重になるべき場面かもしれません。
それでも、その瞬間の相手の目や声、そして自分自身が感じた「真摯に歩み寄ってくれている」という直感を信じて、ぎこちないながらも道を伝えたところ、相手はとても嬉しそうにしてくれました。
それを当たり前だとは思わないし、運が悪く何かに巻き込まれるリスクだってゼロではないでしょう。それでも、その瞬間の相手の態度や、自分自身の生身の感覚を何よりも信じたいのです。

理屈のすり替えや不満をぶつけるための道具として「男女平等」が使われるる悲しい現実もありますが、だからこそ自分自身の生身の感覚と誠実さを大切にして生きていきたいものです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。男女それぞれの視点からのリアルな声を歓迎します。皆さんのコメントが、わが家のこれからのドタバタな毎日を、少しだけ心地よく回す、次のヒントになります。
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