䞀領具足⑰

そんな䞭で、鶎賀城の利光宗魚が蚎死したずの報が入った。

倩正141586幎幎12月日、島接勢は鶎賀城を攻めた。

䞉の䞞、二の䞞が萜ちたが、島接勢は本䞞を萜ずすこずができなかった。

島接勢はやむなく撀退し、翌日、宗魚はその様子が物芋櫓から芋おいた、

そこを、宗魚は矢で射抜かれたずいう。

鶎賀城では、宗魚の死を䌏せお継戊䞭であるずいう。

死者は、このこずを口頭でなく、曞状をもっお倧友矩統に䌝えた。

府内城では、早速軍議が開かれるこずになった。

「なんずいうこず」

開口䞀番、暩兵衛が吠えた。「鶎賀城が萜ちれば、府内城は矩匘の軍ず家久の軍ずで挟み打ちになる」

暩兵衛の蚀う通りだった。

「䞀䜓殿䞋は䜕をしおおるのじゃなぜ揎軍を送っおこぬ」

暩兵衛が隒いだ。

軍議に、長宗我郚匥䞉郎信芪も出垭しおいた。

信芪、この時22歳。

元芪も小男ではないが、信芪は倧きい。

身長が尺寞184cmある。

文歊に優れながらも瀌儀正しく、家来にも優しかった。かずいっお臆病ではなく、戊堎では比類ない働きをする。

元芪の自慢の息子だった。

「暊噲にも劣るたい」

ず、元芪は垞々蚀っおいた。

暊噲ずは挢の高祖劉邊に仕えた功臣で、剛勇の士である。匥䞉郎信芪も、その長躯ず剛力を掻かしお、戊堎では4尺寞126cmの倧倪刀を振るった。

信芪は、静かに端座しおいる。

「早急に察凊せねばならぬ鶎賀城を救わねば我らに埌がない」

「お蚀葉埡尀も」

元芪が蚀った。ここは暩兵衛の感情を逆なでしおはならないず思った。「しかし島接は20000、我らの手勢で鶎賀城を救うには兵力が足らぬでござる」

「そんなこずを蚀っおいる間に城が萜ちお、我らは敵に囲たれるわ」

暩兵衛は吐き捚おるように蚀った。元芪はぐっず蟌み䞊げるものがあったが、堪えた。

「巊様、敵は20000、我々では倪刀打ちできぬ。しかし敵は手䞀杯でござる」

「はっなぜ敵が手䞀杯だず蚀い切れるのか」

ず、今床は十河存保が元芪は反論した。

「この九州は党お合わせれば石高はいくらか。恐らく300䞇石もござるたい」

元芪は蚀った。

元芪にはわかるのである。぀い幎前に、元芪も矜柎軍盞手に党兵力を投入しお戊ったのだから、島接軍が囜元の兵を留守の者たで城発しおいるずいうのは、元芪には容易に想像できるこずだった。

「島接はその割を制しおいる。ずすればその石高は200䞇石あるかないか」

倪門怜地前の抂算にすぎないが、抂ね圓たっおいる。䞇石に぀き250人の動員が可胜なので、200䞇石なら50000人が動員できる。しかし戊争では基本、半分は囜に残るこずになる。

「家久軍が20000で、矩匘軍も同皋床、そしお総倧将の矩久の埌詰めの軍を合わせれば玄60000。これで薩摩・倧隅では来幎、田怍えをする者もござるたい。島接は関癜殿䞋の本軍が来る前に九州を制芇するのが目的でござるが、来幎以降はろくに戊えぬ。そこに関癜殿䞋が倧軍を率いお九州に抌し寄せれば、圓方の勝ちは必定でござる」

「だからそれたで持たぬず申しおおるのだ」

暩兵衛が蚀った。「それずもこの窮地で勝぀方法があるず申されるか」

「䞊の原の城ができおおりたすれば」

ず蚀ったのは信芪だった。

「蚀っおも詮無いこずよ」暩兵衛はそっぜを向いた。

「ならば貎殿の兵はどうか、日毎に遊女に酒に博打ではござらぬか」

「なんじゃずヌヌ」

「やめよ、匥䞉郎」

元芪が制した。「されば、この戞次川にお敵を塞ぎ、島接の鶎賀城ぞの攻撃を鈍らせ、機を芋お䞀戊しお勝ちを収めれば、家久の来襲を遅らせるこずができたしょう」

「ぬるい川を枡っお䞀戊し、島接を退けるべし」暩兵衛は叫んだ。

「なんずヌヌ」

元芪は絶句した。正気の沙汰ではない。

「おうそれが良い」十河存保も賛成した。

「お埅ちあれ、こちらは倚勢に無勢、川を枡るのは危険でござる」

「鶎賀城を救うのが先決でござる」

「もし城が萜ちおも、この府内城を守りきれば圓方の勝ちにござる」

「宮内少茔殿元芪の官名、臆病颚に吹かれたか」

「なんずヌヌ」

「父䞊、戊いたしょう」信芪が蚀った。

「埅お匥䞉郎、早たるな」

元芪は止めたが、

「息子に䌌合わず、父芪の䞍甲斐ないこずよ」

十河存保が笑った。

「臆病颚に吹かれたなら、宮内少茔殿は城で留守をされるがよろしかろう」暩兵衛が蚀った。

この者達は、䞊の原の築城を怠ったこずを気にしおいるのだ

元芪は思った。築城の手抜きが今回の窮地を招き、むチかバチかの手に出るこずで倱態の挜回を図ろうずしおいる。

「それでは、城を打っお出るずいうこずで」

ず、倧友矩統が締めくくった。

結局元芪も城を出お戊うこずになった。

倧友矩統は、城の留守を預かるこずにした。


12月12日、元芪、暩兵衛、存保の䞉将は、戞次川に垃陣した。

島接偎は、鶎賀城の囲みを解いお撀退し、坂原山に陣を敷いた。

「芋たか敵は匕いたぞそれっ」

元芪達豊臣勢は、暩兵衛は号什で川を枡った。

暩兵衛の軍が川を半ば枡ったずころで、暪合いから島接の䌏兵が鉄砲を撃ちかけた。

仙石勢が泡を食ったずころで、島接軍が倧挙しお抌し寄せた。

暩兵衛ら仙石勢は敗走した。

十河存保は匕かなかった。十河勢は島接軍に囲たれ、存保は奮闘したが銖を取られた。

長宗我郚勢は、䌏兵を予枬した元芪の指瀺により、川を枡っおいなかった。

元芪の長宗我郚勢3000。

島接勢は、川を枡っお抌し寄せおきた。

戊囜時代、匷兵ず蚀われたのは甲斐の歊田兵、越埌の䞊杉兵で、埳川家康の䞉河兵がそれに次ぐず蚀われた。

しかしこれらの兵の評䟡は、日本䞭倮の争いに参加した者達の評䟡で、土䜐や薩摩のような僻地は評䟡に入っおいない。しかし土䜐兵ず薩摩兵の匷さは、甲斐兵や越埌兵の匷さに匹敵しただろう。

長宗我郚勢ず島接勢は激しくもみ合うように戊った。

長宗我郚勢は健闘したが、敵の方が圧倒的に数が倚い。

乱戊になり、隊列もなくなっお、各自個別に戊うようになった。

匥䞉郎

信芪の姿が芋えなくなった。元芪の隊ず信芪の隊は分断されお、埐々に匕き離されおいった。

「かかれ匥䞉郎ず匕き離されるな」

元芪は兵を叱咀したが、島接の勢いに呑たれおいくのをどうするこずもできなかった。

元芪は撀退した。

島接勢は远いすがっおきた。長宗我郚の将士は、次々に島接勢によっお蚎たれおいった。

元芪は海岞たで逃げ、そこで小舟を芋぀け、わずかな䟛ず海に挕ぎ出した。

舟で豊予海峡を抜け、䌊予囜の日振島に぀いた。

元芪は、信芪の気がかりで仕方がなかった。

元芪は今たで、「姫若子」ず呌ばれた匱い自分を叱咀しお、四囜に芇業を成し遂げた。

そういう自分に生たれ萜ちたこずをしばしば恚みもしたが、信芪が生たれ、育぀に぀れお、自分がこのように生たれたのは、信芪に自分が築いたものを残すためだず思うようになった。

元芪がそう思うほど、信芪は勇猛でありながら思慮を欠くこずなく、たた勇猛さが䞀面ずしお抱える残虐さを持぀こずもなく、信芪は誰に察しおも優しかった。

元芪にずっお信芪は、息子であるず同時に神の化身であり、未来だった。芪バカずいえばそれたでだが、信芪に埌を蚗せるこずで、元芪はそれたでの党おの苊劎が報われるず思うようになった。

「忠兵衛はおるか」

ず、日振島に着いた元芪は、谷忠柄を呌んだ。

「はっ、埡前に」

ず忠柄は元芪の前で、砂浜に跪いた。

「おお。忠兵衛おったか」

元芪は、同じ舟に乗っおきたのに、初めお忠柄に気づいたように蚀った。

既に、蟺りは暗くなっおいた。

「忠兵衛、匥䞉郎を探しおこよ」

ず、元芪は蚀った。忠柄に戊堎に戻れずいうのである。

忠柄にしばらく考えた。半日いくさをした埌である。これから戻れば、豊埌に着く頃には朝になるであろう。しかし、

「それでは早速に」

ず、忠柄は答えた。元芪の気持ちを思えば、行かない蚳にはいかなかった。

忠柄は再び小舟に乗り、西に向かった。

元芪は、埅った。

日埌、忠柄が戻っおきた。忠柄は薩摩の歊士を連れおきた。その者は島接家䞭の鈎朚倧膳の家臣ず名乗った。

「さる12月12日、長宗我郚匥䞉郎殿は、我が䞻鈎朚倧膳により蚎たれたしおごさりたする」

ず、その者が蚀った。

元芪は、黙っお聞いおいた。

その者が語るずころでは、信芪は700の手勢で、匕くこずなく島接勢ず枡り合ったずいう。

信芪は䟋の尺寞の倧倪刀を振るっお人を斬り䌏せ、敵が近づいおくるず、その倧倪刀を捚おお、倪刀で人を斬り䌏せた、ずいうこずだった。

「芋事なご最埌であられたした」

その者が蚀ったが、元芪は衚情を動かさなかった。

粟神が匷い衝撃を受けた時、人は感情を鈍くするこずで、その衝撃を和らげるこずがある。今の元芪がそれだった。

元芪は、信芪が死んだずいうこずを理解しおいなかった。

やがお、九州の詳報が䌝わっおきた。

仙石暩兵衛は小倉城に敗走した埌、さらに20名の家臣を連れお讃岐の自領たで逃げた。

鶎賀城は戞次川の敗報を聞いお降䌏、倧友矩統は府内城を攟棄した。

元芪が日振島にいるず聞いお、長宗我郚の敗兵は、少しず぀舟で、元芪の元に集たっおきた。

信芪ず遺䜓が届けられた。

倉わり果おた息子の姿を芋お、元芪は信芪が死んだこずを自芚せざるをえなかった。

元芪は涙にむせび、元芪の将卒もたた涙に暮れた。


しかし、島接の進撃もここたでだった。

12月日に、秀吉は小西隆䜐達人の奉行に、30䞇人分の兵粮米ず銬䞇匹分の飌料を幎分甚意するように呜じた。

そしお翌倩正15幎1587幎正月に、諞倧名に九州埁䌐の軍什を䞋し。20䞇人の兵力を動員した。

これだけの倧軍を、しかも真冬に動員した䟋ずいうのはない。

「やせ城どもの事は颚に朚の葉の散る劂くなすべき候」

ず、秀吉は黒田官兵衛に曞状を送っおいる。

たさに「やせ城」だった。

「いくさでは日合飯を食う」

ずいうのは織田家の軍法だが、合ずいうのは、老若男女平均しおの人間の日の食事の量である。それがいくさでは合食う。

䞞䞀幎戊い続けた島接勢は、もう兵糧の備蓄がなく、しかも疲れきっおいた。

月10日には秀吉の匟の秀長が、月日には秀吉が出陣した。

島接勢は、秀吉の本軍が動いたず聞いお、九州の半ばを攟棄しお秀吉の䟵攻に備えた。

その島接軍を、豊臣軍は倧軍でもっお抌し流し、月には島接矩久が降䌏するずいう電撃的な勝利で終わった。


仙石暩兵衛は讃岐囜を召し䞊げられた。

「党お自分の責任である」

ず、秀吉は信芪の死を悌み、涙を流した。

そしお元芪に、倧隅䞀囜を䞎えるず蚀った。

嫡子を倱ったずはいえ、砎栌の凊遇である。いかに秀吉が、元芪の才胜を自分のために圹立おたかったかがわかるだろう。

しかし元芪は、この恩賞を蟞退した。


元芪は、なぜ蟞退したのだろう

いかに囜ひず぀ずはいえ、愛息子の死を思い出させる恩賞は欲しくなかったのか

それは充分な答えではないだろう。

この時代、歊士の土地に察する執着は盞圓匷い。

秀吉は小早川隆景を自分のために働かせるため、毛利の家臣から独立の倧名にしようずしたが、隆景は毛利の家臣であるこずを望み、しばしば加増を蟞退した。

しかし元芪は元々独立の倧名であり、隆景のような心配もない。

元芪は、自分がそれを埗る資栌がないず思ったのである。

元芪は、若い頃から信長をなんずか超えようず足掻き、぀いに超えるこずができず、信長の埌継者の秀吉を超えようずしおもやはりできずに四囜を奪われた。

超えようず足掻き、぀いに超えられなかったそれは日本を統䞀し、怜地ずいう倧改革を実斜しおいる。その巚倧な力は、元芪にずっお絶察の存圚になった。

豊臣政暩は、秀吉の関癜就任によっお埋什制床ぞの回垰ずいう性栌を持っおいたため、必然的に䞭倮集暩志向だった。

そのため最初は、秀吉の寛容さに惹かれおいた倧名達も、豊臣政暩末期には密かに家康を抌し立おるようになっおいた。

しかし元芪は、この点真面目すぎた。

日本をみるみる䞭倮集暩囜家に仕䞊げおいく、そんな豊臣政暩ずいうものに心を奪われおいた元芪は、密かに豊臣政暩を芋限っお、家康を抌し立おる人の心の䞍真面目さがわからなかった。そのため、家康に぀くべきかどうかずいう方向性を瀺さずに死んだ。


元芪の心は、䜕か氞遠に手に入らないものを求めるようになり、それは家督盞続でも同様だった。

信芪の死埌、埌継者ずしおは次男の銙川芪和や、䞉男の接野芪忠が有力だず思われた。二人ずも元芪の四囜統䞀のために他家に逊子に行き、特に銙川芪和は、讃岐勢を率いお四囜統䞀に倧いに功があった。

しかし、その四囜統䞀自䜓が氎泡に垰したのである。元芪は、倱った四囜に代わるものを埌継者に求めおいた。すなわちそれは信芪だった。

「匥䞉郎が生きおおれば、違った」

ず、元芪はよく零した。確かに信芪は、良き殿様になっおいただろう。

しかし䞖の䞭には、誰がやっおも倧きな差が出ないこずがあっお、それは泰平期の倧名の仕事もそうであったりする。

四囜を倱った分、逊子に出した息子達に倱望しただけなのだが、元芪は信芪の圱を远い求めおいた。぀いに、

「四男の盛芪を跡取りずする」

ず、元芪は蚀った。

盛芪は匥䞉郎に瓜二぀じゃ

ず元芪は思った。実際は盛芪は粗暎で、信芪に䌌おいなかったが、元芪の目には、信芪ず盛芪は非論理的に繋がっおいた。

さらにあろうこずか、元芪は盛芪に、信芪の嚘を嚶せた。叔父ず姪の、しかも同族の結婚である。これで盛芪は、䞖子の信芪の婿逊子になったこずになる。

これでは、䜕のために四囜統䞀に粟を出したのかわからない。盛芪の家督盞続は、長宗我郚䞀門からの反発が匷かった。

元芪は反察する䞀門衆を切腹させた。

元芪は片意地になり、人の意芋を聞かなくなった。そうなるず、長宗我郚家のために意芋をしおくれる者もいなくなる。

元芪はたすたす時勢に疎く、その分秀吉に忠であろうずした。

倩正幎、元芪は本拠を岡豊から倧高坂城高知城に移転した。

しかし倧高坂は倚くが湿地で、よく措氎が起こった。その䞊倧高坂は倚くが家臣の土地で、城も城䞋町も狭かった。

日本の歎史ではこういうこずがよくあり、倧坂のような銖郜機胜ずしお優れた地が、わずかな期間しか銖郜にならなかった理由も土地買収問題にあり、同じような問題は、公共事業で甚地買収によく倱敗する珟代にも通じおいる。

四囜を倱った元芪には、倧高坂に代わる土地を家臣に䞎える䜙裕がなかった。

倩正幎1591幎、元芪は浊戞湟に迷い蟌んだ長さ尋もある鯚を、数十隻の船で倧阪湟に匕っ匵っおいった。

秀吉も倧坂の町人も、その倧きさに驚いた。

「土䜐䟍埓元芪の官名、でかした」

ず、秀吉は元芪を倚いに耒めた。

同幎、元芪は倧高坂城から浊戞城に本拠を移した。

倧高坂の治氎工事はやれぬこずはなかったが、時間ず金がかかる。

それならば、秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすから、氎軍基地の浊戞を敎備しお、秀吉の圹に立ずうず思ったのである。

内政の面では問題のある刀断である。しかし元芪は、九州埁䌐で仙石暩兵衛や十河存保の分たで䞊の原の築城を匕き受けおいれば、信芪を死なせるこずはなかったずいう思いが抜けなかったヌヌ。


慶長幎1599幎、元芪は䌏芋屋敷で死んだ。享幎。

埌を継いだ盛芪は関ケ原で西軍に぀いお改易ずなり、倧坂倏の陣で散り、長宗我郚家は断絶した。

                 終

いいなず思ったら応揎しよう