九重の花──宮中にめぐる春
「ゆたかなる 世の春しめて 三十(みそじ)あまり 九重(ここのえ)の花を 飽かず見しかな」
江戸時代後期の光格天皇が、息子へ譲位するにあたって詠んだ歌である。三十年余にわたる在位を振り返るこの御製には、過ぎた歳月への満ち足りた感慨が滲む。九重とは宮中を指し、遠く中国で王城の門を九重に築いたことに由来するという。「花」は、春とあわせて桜と解される。
百人一首六十一番に「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな」(作:伊勢大輔)。
光格天皇は周囲の事情から思いがけず皇位に就いたが、博学多才を謳われ、儀式の復興や朝廷権威の維持に努め、名を残した。後を継いだ恵仁親王すなわち仁孝天皇も学問に熱心で、とりわけ皇族や公家を教育する機関の設置を志した。在世中には実現しなかったものの、その計画は現在に続く学習院の淵源となる。
仁孝天皇の次代が孝明天皇、そして維新を経て、明治・大正・昭和と続いていく。光格天皇の治世三十七年は、確実な記録として残る天皇の在位期間として三番目に長い。これを上回るのが明治天皇の四十五年、さらに歴代最長となるのが昭和天皇の六十二年である。
大日本帝国から日本国へ、戦前から戦後に至るこの激動の時代の大部分を、昭和天皇の側近として支え続けた人物がいた。堂上華族出身の入江相政である。半世紀に及ぶ侍従生活を送り、残した膨大な日記は政治の裏側を窺う貴重な記録として参照される。『侍従とパイプ』『天皇さまの還暦』など「菊のカーテン」の向こう側を親しみやすい筆致で綴った随筆でも知られる。
入江家は維新後に子爵となった中級貴族で、遡れば藤原定家らにつながる歌道の家、冷泉家の支流にあたる。その父も皇室に仕えていたが、若き日の相政自身は「本を読みながら暮らしたい」と、学者になることを望んでいたという。
東京帝大国文科では「少年の春は惜しめども留まらぬものなりければ」で知られる『狭衣物語』を卒業論文の題材とし、二十代で学習院の少壮教授となった(学習院の源流は、先述のように仁孝天皇の構想まで辿りうる)。
しかし宮内省からの要請は拒みがたく、結局は父と同じ道を歩み、八十歳まで侍従長を務め上げた。退任の数日前に急病で世を去るという最期もまた、「皇室の藩屏」たる生涯を象徴するかのようである。
晩年には回想録『いくたびの春──宮廷五十年』が編まれた。題を選ぶとき、往時の「少年の春」や、歩まなかったもう一つの人生が、ふと胸をよぎることはあったのかどうか。
東京は葉桜の季節となった。年度が改まり、新たな生活を始めたと思しき人々が街を行き交う。いくつもの、またそれぞれの春があろう。なにより、二度とない若い日の「惜しめども留まらぬ」時を、大切に歩んでほしいものである。
