雨降り御殿
もうずっと前、子どもたちが小さかった頃に話していた昔語りがある。
村人たちの間で語られていた話だ。
雨が降ると険しい山の上に大きな御殿が現れるという。
あれはきっと神様のお社に違いない。
恵みの雨を降らせてくれる神様じゃ。
村人の何人かは雨が降り出した日に、その御殿を確かめに行こうとした。
険しい山である。道などない。
それでもひたすら岩場を見つけ、足を掛け、少しずつ登っていく。
雨はますます激しくなり、もう次に手をかける岩場を見上げることさえ出来なくなった。
それからも何度か、腕っぷしの良い若い衆が雨の日に挑んだが、誰も果たせなかった。だが怪我をした者はいなかった。
神様がこの山を登ることを許さないのだ、だが決して誰も怪我をしないように見守ってくれているのだ、村人たちはそう考えるようになった。
それ以来、雨が降るたびに、雨と霧に煙る御殿を見上げて手を合わせるようになった。
ところがある土砂降りの日に、憔悴しきった旅人が、隣りの山の尾根に続く険しい道を下って村に辿り着いた。
村人に背負われて現れた旅人は、ずぶ濡れの着物を着替えさせてもらい、蒲団の上で眠りこけた。
「目を覚まされたか」
「いや、助けて頂いた上にこんなにしてもろうて、なんとお礼を」
「お前さん、ようここまで来られましたのう」
勧められた粥をかき込んで、少し力を取り戻した旅人は、ゆっくりと話し始めた。
「道に迷うてしもうて、おまけに前も見えんような雨で、この道で合っとるのかどうかも分からんままに、何とか少しでも下へと降りようとしとりまして」
「あの辺りは村の若い衆でも行かん険しいところじゃからのう」
「それが、不思議なことがありましてな」
旅人は記憶を手繰るように話した。
「山の中でもう疲れきって足腰も立たんようになってしもうて、とりあえず腰を下ろそうとしたものの、泥に足をすくわれて前のめりに倒れ込んでしまいましてな」
「それで、どうなさった」
「からだの前半分が泥に埋まって、底なし沼に落ちたように動けんようになり、このまま沈んで行って息もできんようになるのか、あぁ、もうこれで終わりじゃと」

いつのまにか村人たちは旅人を囲むように集まっていた。
「その時、泥の中にうつ伏せになった体が、こう、少し浮き上がったような気がしましてな。そのまま暫く柔らかい泥の上を滑っていくような、不思議な感じじゃった」
「ほう、それで」
「気がつくとふもとの街道が見えるところに倒れていましてな。何とか少し身を起こして、滑って来た泥の道を振り返ったら」
皆が次の一言を聞き逃すまいと身を乗り出した。
「緑色にぬめって光る背中に、赤や黒や黄色の模様が見えましてな。あれはたまげた。とんでもない大きさの、あれはガマじゃなかろうか」
「それじゃガマが、お前さんを運んでくれたっていう訳ですかい」
「あんな大きなガマがいるはずがないし、もはや目も霞んで意識も朦朧としていましたからな、見間違いかも知れませんがの。しかし腹ばいになっていた間、岩にも石ころにもぶつからず、ずっと柔らかじゃった」
「そういえばお前さん、着物はずぶ濡れじゃったが、腹ばいになって泥の中を滑ってきたって割には、泥などどこにも付いておらんかったで」
その日、雨が降ると現れるはずの御殿が見えない、と言う者がいた。そんなはずはないと村人たちは目を凝らした。
「雨もひどいからのう。霧もだいぶ出とるから、今日は見えんのかも知れん」

誰が建てたのか、どんな由緒があるのか、山の一番上には「蝦蟇堂」という小さな祠が残っていた。
今では登山道が整備され、たまにこの付近を通る登山者もいたようだ。
賽銭箱には何枚かの白錆で膨れ上がった一円玉や、緑青で表面が見えなくなりそうな五円玉や十円玉が入っていた。しかしただでさえ難しいのに、墨が消えかかった蝦蟇(ガマ)の字を読める者はいなかった。
いつしか、お堂とか小さな祠と呼ばれるようになっていた。
山のふもとは住宅地となり、広い道路が隣り町からずっと先の大きな都市を結んでいる。
雨の日に、山を見上げる者はいない。
この話を残してくれた古老の墓に、摘んできたカタクリの花を手向けた。
