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龍樹『中論』18.12

龍樹『中論』18.12
「正覚者たちが現れず、声聞たちもまた絶え果てたとき。縁覚(独覚)の智慧は、独り在ること(遠離)より現れ出る。」

投稿者註:
一つ前の18.11偈で、縁起生のものごとは不一・不異・不断・不常として特質づけられることが仏の教え(甘露)であると説かれた。もしその教えを説く人格仏がいなくなったらどうなるのかということに対しては、この偈12では"真理そのものは、独覚の智慧という形で発現する(pravartate)"と直説法現在形で断言するのである。人格仏や教団という"外部の助け"が消失した真空状態においてさえ、縁起という真理は絶えることなく、縁覚という存在を通じて"動き出す(pravartate)"という、縁起の法の安定不変を強調する力強い表現である(下記[補足:投稿者按]参照)。
ただし、その縁覚(独覚)の智慧の現れ出しは遠離を因縁とするというように結んであり、真理の自己発現としてではなく、その生起が無因による生起とすることは避けられている。なお、月称は独覚智の生起を、過去世に法の真実を聞いた因力というもうひとつの条件にも帰している。

[補足:投稿者按]
月称の註釈からやや離れて:
この龍樹の言明は"縁起法則の不変性・恒常的真理性"ということに基づいていると見られる。この"縁起法則の不変性・恒常的真理性"ということの典拠となるのは『相応部経典』縁起経(SN12.20)として良いであろう。そこに次のようにある:
"如来(にょらい)たちが世に出ようとも、如来たちが世に出なくとも、その界(かい)は確かに定まり、法としての安住性(法住性)、法としての決定性(法決定)、此縁性(しえんせい)として存している"(†)
という箇所があり、このような考えが龍樹のこの偈に反映していると見ることも可能であろう。
ここで触れておきたいことがある。それは縁起の「原理」そのもの(法住性・法定性・此縁性)は安定不変とされる一方、その原理に従って生起する諸法は無常・有為・壊滅性である、という二層構造があるということである。十二支縁起は安定不変の原理であるが、縁起によって生ずるものごとは無常であるというこの二重性を理解すべきところである。

(†)やや長くなるが、SN12.20の対応箇所は原文(Pali)次のとおりである..
"Katamo ca, bhikkhave, paṭiccasamuppādo? Jātipaccayā, bhikkhave, jarāmaraṇaṁ. Uppādā vā tathāgatānaṁ anuppādā vā tathāgatānaṁ, ṭhitāva sā dhātu dhammaṭṭhitatā dhammaniyāmatā idappaccayatā. Taṁ tathāgato abhisambujjhati abhisameti. Abhisambujjhitvā abhisametvā ācikkhati deseti paññāpeti paṭṭhapeti vivarati vibhajati uttānīkaroti. 'Passathā'ti cāha: 'jātipaccayā, bhikkhave, jarāmaraṇaṁ'."
「比丘(びく)たちよ、縁起(えんぎ)とは何か。 比丘たちよ、生(しょう)を縁(えん)として老死(ろうし)がある。如来(にょらい)たちが世に出ようとも、如来たちが世に出なくとも、その界(かい)は確かに定まり、法としての安住性(法住性)、法としての決定性(法決定)、此縁性(しえんせい)として存している。如来はそれを等正覚(とうしょうがく)し、現観(げんかん)する。等正覚し現観した後に、それを説き、教え、開示し、確立し、顕(あらわ)わにし、分析し、明白にする。そして、"見よ"と言うのである。すなわち、"比丘たちよ、生を縁として老死がある"と。」
なお、SN12.20を典拠として挙げるのは投稿者の判断であり、月称はこのことについては触れていない。

[独白的に]
因果一般、すなわち世俗の万象がことごとく因果で連なっているという命題 に対しては、疑問を呈することが可能である。その懐疑論はヒュームに学ぶところが大きいのである。原因と結果のあいだの"必然的結合"の印象は、外的事物の観察からはもとより、意志が身体や観念を統御するという内的意識への反省からさえも得られない、とヒュームは論じた(『人間知性研究』第4節・第7節)。因果については内省でもまた懐疑を免れない。したがって因果の一般論を立てるなら、それは論証されない断言とならざるをえない。
ところが、『相応部経典』縁起経(SN12.20)のような経説における因果説は、そもそもこの種の一般論ではない。それは十二支縁起という特定の系列 - 苦の生起とその滅 - に限定された救済論的な説法である。しかもその定式は「此有る時彼有り」という此縁性(idappaccayatā)の記述であって、世俗のものごとの間に潜む"力"の知覚を主張するものではない。ヒュームが難としたのは後者であって、前者ではない。
このことをフッサールの知覚論に引き寄せて言えば、次のようにも言えるか: 射映を通じて物へ向かう超越的知覚は、その本性上つねに一面的・推定的であり、疑わしさを免れない。一般化された因果というのはこの超越的知覚の領野に属する主張であるから、その推定性を引き継いでしまうのであり、ヒュームの懐疑は、この必然的な(先行した)帰結である。
他方、十二支縁起の中の少なくとも中核をなす支分(受・愛・取など)は、内在的知覚であり、超越的知覚ではないのであって、反省の領野において与えられうる。十二支縁起の解釈を刹那縁起として同時的相互依存における立ち上がりのことだと見るならばなおさらのこと十二支全てに及ぶと考えられる。十二支縁起の因縁が如来たちが世に出ようとも出なくとも定まっているという法住性・法決定性に対応するのは、事実の知覚と言うより、むしろ本質直観(直観されうる必然的・普遍的なあり方)であろう。経説(特に初期経典)における縁起とは、内在的領野において示される本質構造としての条件性なのであり、その限りにおいて此縁性は安住し、決定性を有していると言えるのだろう。ただし因果説を一般事象へ及ぼすことは、この二つの領野の区別を無視してしまった飛躍なのである。
なお、『華厳経』の説く"事事無礙"は、この問題への一つの応答と見ることもできるのではないか。ただしそれは因果一般を基礎づける解決ではなく、二項間の因果という図式そのものを無尽縁起、すなわち一切が一切を条件づけあう相即相入へと解消する展開であって、そこでは根拠づけの要求そのものが必要でなくあるいはすでに無効である。この進展が中観の"相互観待(parasparāpekṣā)"の論理を経由して準備されたと見うるかどうかは、別途の課題となる。

[偈18.12のSanskrit Original]
saṃbuddhānām anutpāde śrāvakāṇāṃ punaḥ kṣaye .
jñānaṃ pratyekabuddhānām asaṃsargāt pravartate .
(第18章『観法品第十八』了)

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