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龍樹『中論』18.6

龍樹『中論』18.6
「我(がある)とも仮設され、無我(である)とも説かれた。諸仏によって、いかなる我もなく無我もないともまた説かれた。」

投稿者註:
月称の『明句論』での註釈にはこの偈の文脈が提示してあって、反対者が、無我ということを言うなら、仏説にはまた「我こそ我の主(cf. Dhp 160)」「自ら作った業は自ら受く(『三昧王経(Samādhirāja):出典は要確認)」等 とある。そうならば無我ということはそれらの仏説と矛盾しないかと問ったとする。それに対する答えは、それは機根に応じた方便であると龍樹は答えたとするのである。以下に見てゆこう[補註]。

次のような対機説法(方便としての段階的教示)の三段階構造が認められるとする。以下は月称の"第一読解"を敷衍した説明法となっている。

Ⓐ 肯定的教説 ..
方便としての"我"の仮設:"我がある(ātmety api prajñapitam)"。ここで動詞が deśita(説かれた)ではなく prajñapita(仮設された)であることには注意。仮施設は、勝義としての存在主張ではなく、世俗において便宜的に概念を設定することを意味する。この教説は、断見論者(ucchedavādin、死後の断滅を主張する者)など、因果の連続性を否定しかねない者らに対し、行為と果報を担う責任主体を仮に設けるためのものである。

Ⓑ 否定的教説 ..
無我の教示:"無我である(anātmety api deśitam)"。仏教の根本教説たる無我説であり、五蘊のうちに常一主宰の我(ātman)は存在しないという教えである。実我見の強い者など、自我への執着(有身見)が強い者らを我執から解放するために説かれた。

Ⓒ 超越的教説 ..
我・無我の超越:"いかなる我もなく無我もない"。ここでは"我"と"無我"という概念的対立そのものが超克される。"無我"すらもひとつの概念的立場(法執)として手放されるべきことが示されている。この構造は、後出18.8で正式に展開される四句否定(catuṣkoṭi:テトラレンマ)の論理 - 肯定・否定・両肯定・両否定 - のうち第四句(両否定)に対応するものとして読むこともできる(四句否定の正式導入は後出偈18.8)。ただし注意すべきは、これはもちろん"我でも無我でもない何か第三の実体"を主張するものではなく、あらゆる実体的見解(dṛṣṭi)からの離脱を志向するものであるという点である。

以上の三段階は、ブッダの教説が聴衆の機根に応じた方便であるという理解を前提としている。結局のところ、教説そのものもまた空であり、執着の対象としてはならない。これは「筏の喩え」(kullūpama、『中部ニカーヤ』22経)の教えに通じるものであるが、龍樹が本偈で直接論じているのは、教説の方便的性格そのものである。

次の偈(18.7)において、心の対象領域(citta-gocara)が止むとき、言説さるべきもの(abhidhātavya)も止むという主題へと展開してゆく。教説の段階的深化から、言語・概念活動そのものの寂滅へ向かうのであるが、ここに偈18.5から18.7に至る一貫した論理的流れがある。

[補註]
月称のこの偈の註釈前半部を忠実に見るならば次のとおり..
月称による第一読解: 三種の機根(月称註の中心で、ツォンカパの三機根説の出典でもある):
ⓐ 劣機:邪見に覆われ、前世・後世・業果・化生を信ぜず、悪業に走り地獄へ向かう者。その悪行を止めさせるため、仏は 「我あり」と世俗に仮設した。
ⓑ 中機:実我の見という「長い綱」に繋がれ、善業を積んでなお三界を出て涅槃の城に至れぬ鳥のような者。有身見への執着を緩め涅槃を希求させるため、仏は 「無我」を教示した。
ⓒ 上機:宿習により甚深法への信解の種子が熟し、我愛を離れた者。彼らには 「我も無我もない」と教示した。「我見が真実でないように、その対治たる無我見もまた真実ではない。」
このようにして、段階説と見るならば経典との矛盾はないとする。
月称による第二読解として順世派(ローカーヤタ派)への対応として見る解というのもあるが、ここでは省略する。

[Sanskrit Original]
ātmety api prajñapitam anātmety api deśitam .
buddhair nātmā na cānātmā kaścid ity api deśitam .

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