鶯谷は、東京なのに東京ではない顔をしていた
大阪から上京して三年以上が経ったけれど、まだ足を運んだことがない街ばかりだ。
東京に住んでいると言えるようにはなった。でも、東京を知っているとはまだ言えない。行ったことのある駅は少しずつ増えているのに、路線図を見るたび、知らない名前がいくつもこちらを見ている。
名前だけは知っている街。乗り換えで通り過ぎただけの街。誰かの会話の中でしか聞いたことのない街。そういう場所が東京にはまだたくさんある。
はじめて足を運ぶ街は、なるべく前情報がないほうが楽しい。
どんな風景を見られるか。どんな店が有名か。どんな人がいるか。どの出口から出るべきか。そういうことを調べれば、きっと効率よく歩ける。けれど、その行為は街の奥深さを半減させているように思う。知らないまま降りて、知らないまま迷って、何でもない看板や古い階段、予想外の行き止まりに引っかかる。そのほうが街の輪郭がくっきりと浮かび上がるはずだ。
そんな思いで始めたのが、知らない街を地図を持たずに練り歩くという個人企画だった。
今回は鶯谷。その街を名前の響きが可愛いという理由で選んだ。うぐいすだにという文字をひらがなにすると、どこか丸みを帯びている気がする。鳥の名前が入っているせいか、どこかやわらかい。可愛いのにどこか寂しくて、なんだか夕暮れみたいでもある。駅に着く前からもうその名前に少し騙されていた。

改札をくぐると、無数の線路が目に入った。地上から電車が過ぎる様を眺めながら大きな階段に向かう。駅の階段にはその街の第一声みたいなものがある。鶯谷の階段は、こちらに少し考える時間をくれる階段だった。降りながら頭上を見ると、提灯が並んでいた。昼間の提灯は灯っていないのに、どこか白い気配だけを残していて、夜のために眠っている生きものみたいだ。

街の名前が可愛いから来たのに、駅前には可愛いだけでは済まない空気があった。古い建物。細い道。昼間なのに少し夜を引きずっている看板。人通りは多すぎず、少なすぎず、みんな何かを知っている顔で歩いていた。はじめて来たぼくだけが何も知らない顔をしていた。
そこに少しだけ安心感を覚える。知らない街では、こちらの素性もまだ薄い。誰もこちらのことを知らないし、ぼくも誰のことも知らない。だからこそ、歩くことに少しだけ自由がある。どの角を曲がってもいいし、どの店の前で立ち止まってもいい。何もわからないまま、何かわかったような顔をして歩くのが許されたような感覚だ。
本を読むために、喫茶店に入ることにした。知らない街を歩くとき、途中で喫茶店に入るのが好きだ。街を外から眺めるだけではなく、いったん街の喫茶店の雰囲気を確かめたいのだと思う。歩いているだけでは、街は風景のまま。けれど店に入って、水の入ったグラスを置かれ、隣の席の会話が少し耳に入ると、その街の時間の中に、ほんの少しだけ混ぜてもらえる気がする。

この旅のお供は、きまって又吉直樹さんの『東京百景』だ。東京のどこかを歩きながら、東京について書かれた本を読む。そうすると、自分の見ている街の解像度が少しだけ上がる気がする。それは誰かの言葉を借りて、目の焦点を合わせ直すような感覚に近い。
けれど、『東京百景』には鶯谷のエピソードは収録されていなかった。そのことがなんだかおかしくて、少し笑ってしまった。鶯谷に来て、鶯谷について書かれていない本を開く。なんだか間が抜けている。けれど、街歩きなんて、そもそも間の抜けたものだ。目的もなしに歩き、情報を調べないのに知ろうとし、名前の響きだけで駅を選ぶ。そういういい加減さの中にしか、出会えないものがある。
喫茶店のテレビに、音楽番組が流れていた。画面の中では、有名なアーティストが歌っていた。画面には若い人たちが次々に映る。カウンターの中のマスターは、洗い物をしながら画面をちらちら見ていた。
「ねえ、これは誰?」
マスターが言った。
ぼくは画面の右下に出た名前を見て、「宮野真守さんという声優さんとゆずです」と答えた。マスターは「ゆずは知ってるけど、宮野さんは知らんわぁ。スタイルええな」と言って、また洗い物に戻った。そこから数回、別のアーティストが映るたびに、マスターにアーティストの名前と情報を説明した。
知らない街の、知らない喫茶店で、アーティストの情報をマスターに教えている。考えてみれば、ずいぶん不思議な時間だった。ぼくは音楽に詳しい人間としてそこにいたわけではないし、マスターも本気で知りたかったのかどうかはわからない。ただ、テレビに映るアーティストの名前と情報をこちらが教え、それをマスターが受け取る。その往復だけが、店の中に小さく浮かんでいた。

『東京百景』は、なかなか進まなかった。一ページ読んでは、テレビを見る。少し読んでは、コーヒーを飲む。マスターが何かを言い、こちらが答える。そんなことをしているうちに、本を読むために入ったはずの喫茶店で、あまり本を読んでいなかった。
でも、それでよかった。本を読むために入った店で、本が読めないこともある。むしろ、その読めなさこそがこの企画の醍醐味なのかもしれない。予定していた自分の時間に、知らない人の声やテレビの音やカップの触れる音が混ざってくる。自分ひとりで完結しようとしていた時間が、誰かとのやりとりに派生していく。その瞬間を楽しめたとき、街は少し近くなる。
マスターは入谷朝顔まつりのことを教えてくれた。「鶯谷に来るなら、絶対に足を運んだほうがいい」と言っていた。道路を封鎖して、片側には色とりどりの朝顔が並び、もう片方には出店がずらりと並ぶようだ。朝顔という花は、名前だけで朝の匂いがする。まだ涼しい時間に咲いて、昼になる頃には少し疲れた顔をする。そんな花が道路いっぱいに並ぶところを想像すると、さっきまで昼なのに夜を引きずっているように見えた鶯谷に、急に朝の色が差した。
「地域のお祭りは楽しいから」
マスターはそう言った。観光名所として勧めるのではなく、自分の生活の延長にあるものを少し分けてくれるような言い方だった。街のことは、ガイドブックよりも、その街で働く人の何気ないひと言で近くなることがある。入谷朝顔まつり。その名前を喫茶店のコーヒーの匂いと一緒に覚えた。
喫茶店を出ると、外の光が少し変わっていた。
ぼくは路地に入った。地図は見ない。見ればきっと、無駄のない道がわかる。行き止まりも避けられるし、目的地まで最短距離で進める。けれど、それではこの企画の醍醐味がなくなってしまう。

そして、鶯谷は何度もぼくを行き止まりに連れていった。細い道を曲がる。少し進む。いけると思う。すると、急に建物の壁が現れる。あるいは、誰かの生活に続くような私道に入ってしまい、慌てて引き返す。地図があれば避けられる。けれど、避けられないからこそ、街に触れている気がした。道に拒まれることも、街歩きの一部なのだと思う。
知らない街の行き止まりには、少しだけ恥ずかしさがある。誰も見ていないのに、間違えたことを街に知られたような気がする。けれどその恥ずかしさも悪くない。行き止まりに当たるたび、少しだけその街の内側に入り込んだ気がした。正しい道だけを歩いていたら知らなかった壁や鉢植えや、窓辺のカーテンの色があった。
適当に街をぶらついていると、いくつかのラブホテルが現れた。
これは後で知った話なのだけれど、どうやら鶯谷とラブホテルは切り離しにくいらしい。建物の名前はどこか大げさで、入口の暗さだけが妙に現実的だった。昼間に見るラブホテルには、不思議な静けさがある。カーテンを閉めた部屋の中にだけ時間が流れていて、外の道はその時間に触れないように、少しだけ距離を取っている。
鶯谷のラブホテルは値段が安く、大学生たちがよく足を運んでいるらしい。それを聞いて、大阪の京橋や桜ノ宮、堂山町のあたりを思い出した。妙に生活感があって、妙に生々しい街。安い居酒屋があり、ホテルがあり、終電を逃した人がいて、何も始まらなかった夜と何かが始まってしまった夜が同じ道に落ちている。鶯谷にも、そういう湿度があるのかもしれない。
街を歩いているうちに、少し足が疲れたため、どこかで休憩しようと思った。地図を持たない街歩きは、思っているより体力を使う。目的地がないぶん、歩くのをやめる理由も見つけにくい。とりあえず目に入った近くのドトールに入った。知らない街で知っているチェーン店を見つけると、少しだけ気が抜けるのは、ぼくだけだろうか。
席に座ると、近くで眠っている人がいた。東京にもこんな風景があるのだと、最初は少し驚いた。けれど、店内の誰も特に気にしていないようだった。コーヒーを飲む人がいて、本を読む人がいて、スマホを触る人がいて、その人は眠っている。街の中にいろいろな用途の時間があるように、ドトールの中にもいろいろな時間があった。
しばらくして、その人の電話が鳴った。
「あ、着いた? じゃあいまから向かうわ」
そう言って、電話はすぐに切れた。てっきりその人がすぐ店を出るのだと思った。けれど、そこから身支度が始まった。鞄の中からポーチを出し、鏡を立て、化粧を直していく。急いでいるようで、急いでいない。向かうと言った人の時間と実際に向かう人の時間のあいだに、鶯谷の午後がゆっくり挟まっていた。
結局、その人が店を出たのは、電話を切ってから三十分を過ぎたあたりだった。
待っている人はどこかでまだ待っているのだろうか。あるいは、向こうも向こうで、同じくらいゆっくりしているのだろうか。そんなことを考えながら、ぼくはアイスコーヒーを飲み干した。知らない街で知らない人の三十分を眺めてしまう。観光地を見たわけでもないのに、なぜかその時間は鶯谷の記憶として妙に残った。
ドトールを出ると、外はすっかり暗くなっていた。さっきまで眠っていたような提灯も、夜の中では少しだけ役割を思い出したように見えた。駅前へ向かうと、居酒屋の明かりが街を照らしていた。昼間に見た古い建物や細い道は夜になると輪郭がやわらかくなり、そのかわり看板の文字だけが少し強く浮かび上がっていた。
駅前の居酒屋に入った。
店員さんたちは、驚くほどテキパキと動いていた。注文が入り、皿が運ばれ、グラスが下げられていく。そのやりとりに迷いがない。店内にはお酒を飲み交わす人たちがいた。仕事帰りらしい二人組が、少し身体を前に倒して笑っている。カウンターには、一人でお酒と料理を楽しんでいる人もいた。
誰かと話すための夜もあれば、誰とも話さないための夜もある。
居酒屋には、その両方が同じ明かりの下に並んでいた。
メニューを眺めていると、オムライスがあった。
ずっと食べたいと思っていたオムライス。これは頼まない理由がない。ぼくはすぐにオムライスを注文した。しばらくして運ばれてきたそれは特別ふわふわでも、とびきり濃厚でもなかった。味は、普通だった。けれど、その普通さが妙によかった。
値段は七百円だった。
東京の夜に駅前の居酒屋で、オムライスが七百円。そう思うと、また少しおかしくなった。先ほど鶯谷で見かけたハイボール二百九十円の看板を思い出した。東京で生活していると、値段の感覚が少しずつ麻痺していく。けれどこの街には、まだ生活の値段が残っている気がした。

やっぱりここは東京じゃないのかもしれない。そんなことを考えながら、普通のオムライスを食べた。お酒を飲み交わす人たちの笑い声が店内を包み込む。そして、見慣れた黄色い卵をスプーンで崩していると、どこにいるのか少しわからなくなった。東京にいるのに、大阪の夜を思い出してしまった。
鶯谷という街は、名前ほど単純ではなかった。名前には鳥がいて、谷があって、どこかやわらかい。けれど歩いてみると、そこには朝顔の祭りがあり、行き止まりがあり、ラブホテルがあり、眠る人がいて、三十分かけて店を出る人がいて、七百円のオムライスがあった。昼間なのに夜があり、夜の気配の奥に朝の花があった。
東京の街はときどきこちらの先入観を静かに外してくる。
鶯谷という名前から勝手にやわらかい街を想像していた。けれど実際には、やわらかさだけではなく、くたびれた明るさや昼でも消えない夜、知らない者を特に歓迎も拒絶もしない平熱があった。優しい街ですねと簡単に言うこともできなければ、怖い街ですねと決めつけることもできない、そんな風景がこの街では流れていた。
街はこちらにわかりやすい感想を許してくれないことがある。それを知ることこそが、この企画の醍醐味なのだと思う。
上京したばかりの頃、東京の街をもっと役に立つものとして見ていた気がする。住みやすいか。仕事を獲得できるか。もちろんそれも大切だ。けれど最近は、それだけでは少し足りないと思うようになった。役に立つかどうかではなく、その街に自分の知らない感情を見つけられるかどうか。そこに、街を歩く意味がある気がする。
階段の上に並んでいた提灯を思い出した。昼間の提灯。眠っている赤。灯っていないのに、夜の準備だけをしているもの。鶯谷という街もどこかそれに似ていた。
鶯谷について、ぼくはまだ何も知らない。今日歩いただけで、この街を語れるとは思わない。でも街を知るというのは、最初はそのくらいでいいのだと思う。小さな引っかかりと、説明できない印象だけを持ち帰る。そうして東京の中に、またひとつ、自分だけの小さな点が増える。
帰り道、もう一度、鶯谷という名前を心の中で言ってみた。
うぐいすだに。
やっぱり可愛い名前だと思った。けれど、来る前とは少し違っていた。可愛いだけではない。可愛さの奥に古い階段と眠っている提灯、テレビの前で首をかしげるマスターがいる。昼間に沈黙しているホテル。駅前で酒を飲む人たちがいる。そして、七百円のオムライスがある。
街の印象は、そうやって上書きされていく。足を運んだことがない街を、地図を持たずに歩く。それは東京を攻略するためではない。むしろ、攻略できないままにしておくためなのだと思う。わかりきらない街をわかりきらないまま好きになる。そのくらいの距離感でいたほうが、東京を長く楽しめる。
鶯谷の駅へ戻る頃、頭上の提灯は灯っていた。足を運んだときに見た、眠っているような白ではなかった。夜の中で、提灯はちゃんと提灯の顔をしていた。けれど、同じ景色には見えなかった。来たときよりも少しだけ、街の音が近くなっていた。
次はどんな街のどんな顔を見に行こうか。東京を知れば知るほどに、何も知らないと思い知らされる。そのたび、きっと東京という街を好きになるに違いない。
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