組織は生き物、ブランドは立ち上がる
前回、一つの問いを立てた。うちの良さは、並べても伝わらない。そして、外の人は、うちの内側など見ていないのに、なんとなく、いい感じ、という全体の印象だけは、はっきり持っている。その、外の人の中に立ち上がる全体像は、いったい、何でできているのか。今日は、ここに、踏み込む。
まず、はっきりさせておきたいことがある。外の人が見ているのは、部品ではない、ということだ。
私は、つい、自分のところの良さを、部品で説明しようとする。これと、これと、これをやっています、と。けれど、外の人が受け取っているのは、その部品の一覧ではない。もっと、ぼんやりとした、しかし、まとまりのある、全体の印象だ。心理学で、ゲシュタルト、という言葉があるらしい。全体は、部分を、足し合わせたものではない、という考え方だ。私が、外の人の中に見ているのも、たぶん、これだ。
組織を、生き物だと考えると、これは、よく分かる。前に、組織は生き物だ、と書いたことがある。生き物は、分解できない。心臓、肺、血管、と、部品に分けて、机に並べても、その動物の、生きて動いている感じは、どこにも、出てこない。生きている、というのは、それらが、つながって、全体として、動いているときに、はじめて、立ち現れる。組織も、同じだ。配置、育成、評価、と、施策に分けて並べても、その組織が生きて動いている、あの全体は、再現できない。外の人が、いい感じ、と呼んでいるのは、その、生き物としての全体のほうなのだ。
ここまでは、前回の続きだ。問題は、その先にある。
その全体は、どこに、あるのか。
私は、長いあいだ、それは、うちの中に、あると思っていた。うちが持っている、良さ。うちに、備わっている、何か。だから、それを、うまく取り出して、見せれば、伝わるはずだ、と。だが、どうも、そうではないらしい。
考えてみてほしい。いい感じだね、と言った人は、うちの中を、見ていない。来たことも、調べたことも、ない。その人が持っているのは、ホームページで見かけた何か、どこかで耳にした評判、たまたま目に触れた、私たちの活動の断片。そういう、ばらばらの、手がかりだけだ。その、わずかな手がかりを材料に、その人は、自分の頭の中で、一つの全体像を、組み立てている。いい感じの病院、という像を。
つまり、その全体像は、うちの中に、あるのではない。その人の中に、立ち上がっている。
これは、私にとって、見方が、ひっくり返るほどの話だった。ブランド、というものを、私は、こちらの内側から、にじみ出させ、外へ、押し出していくものだと、思っていた。けれど、そうではない。ブランドは、受け取る人の側に、立ち上がるものだ。その人が、断片的な手がかりに触れ、自分の経験と、知覚を働かせて、自分の中に、組み上げる。
ブランドとは、たぶん、その人の中に集まった、経験と知覚の、束なのだ。これまで、その人が、どんな病院を見てきたか。何を、良いと感じてきたか。その、その人だけの、経験の蓄積。そこへ、うちの断片的な手がかりが、触れる。すると、その人の経験という土壌の上に、うちの像が、立ち上がる。手がかりは、こちらが出したものだが、像を立ち上げる土壌は、その人のものだ。だから、像は、こちらのものでありながら、半分は、その人のものでもある。それが、ブランドの正体なのだと思う。
だとすれば、当然、こうなる。立ち上がる像は、人によって、違う。同じ手がかりに触れても、受け取る人の経験が違えば、立ち上がる像も、違ってくる。ある人の中の、いい感じの病院と、別の人の中の、それは、同じではない。ブランドとは、一つの、決まった像ではなく、見る人それぞれの中に立ち上がった、無数の像の、集まりなのだ。一つの旗を、こちらが立てて、みんなが同じものを見上げる、というのとは、違う。
これは、私の、勝手な思いつきかもしれない、と思って、少し、調べてみた。すると、ブランド論の世界では、近いことが、ずっと前から、言われているらしい。私の理解では、ケラーや、アーカーといった人たちが、ブランドというのは、会社が内側に持っている資産であると同時に、つまるところ、顧客が、さまざまな接点に触れて、その心の中に作り上げる、連想や記憶の集まりなのだ、というようなことを、論じているそうだ。ブランドは、顧客の側に、立ち上がる。手探りで考えてきたことが、そう外れていなかったらしいと知って、少し、心強くなった。
ただ、一つ、これらの理論と、私の感覚が、ずれるところがある。ケラーやアーカーの議論は、どちらかと言えば、ブランドを、企業が、計画的に、築き、管理していくもの、として捉えているように見える。設計し、構築する、という言葉が、しっくりくる立場だ。けれど、私の感覚は、もう少し、受け身だ。築く、というより、立ち上がるのを、待つ、に近い。こちらにできるのは、手がかりを、誠実に、置くことくらいで、そこから先、像が、どう立ち上がるかは、見る人に、委ねられている。この違いが、どこから来るのかは、もう少し、先で、書くことになると思う。
いずれにしても、これで、問いの形が、変わった。ブランドが、外の人の中に、立ち上がるものなら、こちらが考えるべきは、どう良さを取り出して見せるか、ではない。何を手がかりとして置けば、見る人の中に、ふさわしい像が、立ち上がるのか、だ。
そして、その立ち上がり方は、たぶん、手がかりだけでは、決まらない。同じ手がかりでも、それが、どういう状況の中に置かれているかで、見え方は、変わってくるはずだ。次は、その、状況——文脈、という厄介なものの話を、しなければならない。
【参照した文献・注記】 ・全体は部分の総和ではない、という「ゲシュタルト」の考え方は、ゲシュタルト心理学の基本的な発想にもとづく。 ・組織を、環境とやりとりしながら生きる生命体・有機体として捉える見方は、特定の一人に帰せられるものではなく、組織論における「オープン・システム」論や、近年の「ティール組織」などの系譜にもとづく。本稿の表現は著者の信条による。 ・ブランドを、企業の資産であると同時に、顧客が接点を通じてその心の中に形成する連想・知識の集合体として捉える見方は、ケラーの顧客ベースのブランド・エクイティ論、アーカーのブランド・エクイティ論などにもとづく(理解には留保がある)。 ※各概念の解釈、自院への当てはめは、著者の見解(留保つき)である。
