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『狼少年と妻の腹痛』

妻の「お腹痛い」は、我が家における最も解像度の低い定型句だ。

下痢だろうが、生理痛だろうが、胃もたれだろうが、彼女の口から出力されるコードは一律に「お腹痛い」である。

身体の異変という膨大な情報量を、たった一つのフォルダへ乱暴に放り込んでしまう。

その雑な言語感覚に、私は以前から一抹の危うさを覚えていた。


言葉の解像度が低いということは、世界の解像度が低いということでもある。


今朝もそうだった。

彼女は「お腹痛い」と言いながら、何やらごちゃごちゃと訴えてくる。

しかし、あいにくその瞬間、私自身も文字通り「お腹痛い」状態であった。


私にとってその言葉は、緊急事態を知らせるアラートではない。

日常的に流れ続ける背景ノイズの一つでしかなかった。

ふと見ると、彼女はすがるような目でこちらを見ていた。

それでも警戒心は動かなかった。

「またいつものやつだろう。」

そう脳が自動的に処理してしまったのである。


だが、あまりにもしつこく訴えてくるため、急患受付に電話をかけてみた。

こちらに伝わっている情報はお腹が痛いと腰が痛いのみ。

血尿やその他の症状はない。


やはり電話からは、「通常の診察時間に来てください」と返ってきた。


救急車を呼ぶ提案もしたが、妻はそれを固く拒んだ。

「ああ、その程度の痛みか」と納得してしまった。


車が運転できないということで、午前休をとり病院へ付き添ったが、診察結果は腎炎だった。

しかも、あと少し受診が遅れていれば入院は避けられなかったという。

背筋が冷えた。

そして同時に、ある事実の恐ろしさを思い知らされた。

問題は、彼女が大袈裟だったことではない。

むしろ逆だ。

本当に危険なSOSですら、いつもの「お腹痛い」という記号の中へ埋没してしまったのである。

まさにオオカミ少年の寓話と同じ構造だった。


もっとも、冷静になって考えれば、これは彼女だけの問題ではない。

人間は強烈な身体的苦痛に襲われると、認知リソースを著しく消耗する。

特に内臓の痛みは場所の特定が難しく、脳は状況を客観視する余裕を失う。

限界が近づくほど思考は単純化し、幼い頃から使い慣れた「一番わかりやすい言葉」へ退行してしまう。


「お腹痛い。」

それは彼女にとって、最も古く、最も省エネなSOSだったのだろう。

さらに、人は苦しいほど「この苦しさは言わなくても伝わるはずだ」という錯覚に陥る。

しかし受信する側に届くのは、感情ではない。

文脈を失った記号だけである。

今回、私が本当に恐ろしく感じたのはそこだった。

言葉の解像度が低いこと自体ではない。

危険なのは、その低解像度な通信が繰り返されることで、本当に命に関わるSOSまでもが日常会話のノイズとして処理されてしまうことだ。


これは夫婦に限った話ではない。

親子でも、職場でも、医療現場でも同じである。


通信の信頼性が失われたシステムでは、本当に重要な警報ほど埋もれてしまう。

幸い、今回は最悪の結末を免れた。

だが、システムの欠陥が一度露呈した以上、「次も大丈夫だったから」という楽観は通用しない。

必要なのは精神論ではなく、通信インフラの改善である。

例えば、「いつもの不調」を痛みスケールで数値化する。

「今日は7」「今は9」のように、感情ではなく数字で伝える。

あるいは、発熱、嘔吐、血尿、歩行困難などの随伴症状をチェックリスト化し、一定数を超えたら迷わず受診するというルールを共有する。

曖昧な言葉ではなく、客観的な基準を用意しておく。


それだけで通信精度は大きく向上する。

正論をぶつけても、人は防衛本能から反発するか、殻に閉じこもるだけだ。

だからこそ、喉元を過ぎた熱さが冷め、互いが平静を取り戻した頃に、この「通信エラー」について淡々と話し合おうと思う。


今回アップデートすべきだったのは、彼女の語彙ではない。

私たち夫婦の通信プロトコルそのものだった。


人間は、命の危機に近づくほど、正確なSOSを発信できなくなる生き物である。

だからこそ、平時のうちに通信規格を整備しておかなければならない。

オオカミ少年の教訓とは、「嘘をつくな」という道徳ではない。


本当に伝えるべき警報が、誰にも警報として認識されなくなる――

その恐ろしさを忘れるな、という寓話なのである。

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