『盗みの境界線』
人の物を盗むことは悪いことですか。
そう問われれば、世の中の九十九パーセントの人は、反射的に「悪いことに決まっている」と答えるだろう。
小学生でも知っている道徳であり、刑法にも定められた社会の大前提だからだ。
では、なぜ窃盗や強盗はなくならないのか。
あるいは、もっと日常のあちこちで起きている、他人の物や時間を無断で消費するような行為は、なぜ繰り返されるのだろうか。
彼らは「盗むこと」を当然の権利だと居直っているのだろうか。
おそらく、そうではない。
事実はもっと滑稽で、そして恐ろしい。
彼らの中にも「盗みは悪い」という倫理観そのものは存在している。
ただ、自分が今まさに犯している行為を「盗み」であると認識できていないのだ。
大量の梨が盗まれる事件があった。
トラックを横付けし、一年もの歳月をかけて育てられた果実を根こそぎ奪い去る悪質な犯行だ。
では、その犯人に「人の物を盗むことは悪いことですか」と尋ねたら、どう答えるか。
きっと彼らでさえ、「悪いことに決まっている」と答えるはずだ。
自分の財布が盗まれれば警察へ駆け込み、我が子が万引きをすれば叱り飛ばすだろう。
「盗み=悪」という概念は、彼らの中にも確かにある。
にもかかわらず、盗みは起きる。
頭の中にある「盗み」という抽象概念と、目の前の自分自身の行動が、全く結びついていないからだ。
ここには、「解像度」と「境界線」の決定的なズレが存在している。
例えば、作業中にドライバービットが欠けたとする。
手元に替えがなく、休憩に行った別の業者のインパクトドライバーを黙って使い、作業を終える。
モーターはわずかに摩擦し、バッテリーは消耗し、ビットも削れる。
失われた量は微々たるものかもしれない。
しかし、その微細な消耗は、本来持ち主が享受するはずの資源である。
あるいは、突然の雨に降られ、コンビニの傘立てから他人のビニール傘を黙って持ち出す。
「あとで返せばいい」と自分に言い訳をしながら。
あるいは、約束の時間に十分、二十分と平気で遅れてくる。
「たったの十分だから」と笑うその時間は、相手が二度と取り戻すことのできない人生の一部である。
もちろん、これらは法的に同じ重さではない。
だが、その根底にある「他者の資源を、自身の都合で無断利用する」という構造は、驚くほど共通している。
財産であれ、時間であれ、労力であれ、その資源には必ず所有者がいる。
それを本人の同意なく消費している点において、本質は何も変わらない。
にもかかわらず、多くの人は自分を「盗人」だとは思わない。
「ちょっと借りただけ。」
「少し使っただけ。」
「たまたま遅れただけ。」
「これくらいなら問題ないだろ。」
便利な言葉へと言い換えることで、自らの行為を「盗み」というカテゴリーの外へ追いやる。
そうして倫理の境界線は、都合よく後退していく。
梨泥棒にとって、枝に実る梨は農家が流した血汗の結晶ではなく、ただの「金になる大地の恵み」に過ぎない。
遅刻を繰り返す人間にとって、他人の十分は二度と戻らない寿命ではなく、単なる「誤差」に過ぎない。
工具を無断で使う人間にとって、他人の機械は誰かの財産ではなく、「そこにある便利な道具」でしかない。
見えている世界の解像度が、根本から違うのだ。
だからこそ、「人の物を盗むことは悪いことですか」という問いは、自覚のない人間には永遠に届かない。
彼らは「悪いことだ」と口では言いながら、自分自身だけを例外として処理する。
その解像度の低さこそが、自らを罪悪感から守る完璧な鎧になっているからだ。
ならば、「誰もが日常的に無自覚な掠奪を行っているのだから、互いに目をつぶるしかない」のだろうか。
あるいは、「社会とはそういうものだ」と諦めるべきなのだろうか。
私は、そうは思わない。
重要なのは、解像度の低い他者を糾弾することではなく、自分自身の境界線を決して曖昧にしないことだ。
他人の所有物に手を伸ばしかけたとき。
誰かの時間を軽く扱いそうになったとき。
「これくらいなら許されるだろう」と自分に言い訳を始めたとき。
その瞬間にこそ、自分の解像度が試されている。
「人の物を盗むことは悪いことですか。」
この問いは、他人を説得するための言葉としては無力かもしれない。
しかし、自分自身を律するための問いとしては、これ以上なく重い意味を持つ。
言葉だけで「盗みは悪い」と唱えながら、他人の時間や財産を無自覚に食い荒らす人間になるのか。
それとも、他者の境界線を丁寧に尊重し、己の欲や都合によって踏み越えない人間であり続けるのか。
世界は今日も、目に見えにくい「小さな盗み」に満ちている。
だからこそ、自分だけは決してその一人にならない。
他人の所有権だけでなく、時間や労力、その人生そのものへの敬意を失わない。
その厳格な自制心と高い解像度こそが、不都合で曖昧な社会の中で、自らの尊厳と品格を守り抜く最後の境界線になるのである。
