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D/Gに巻き込まれる301-『千のプラトー』「3 BC10000年----道徳の地質学 (地球はおのれを何と心得るか)」 1:「生きるべきか、死ぬべきか」なんて悩むな! ならばいっそ不死になれ!-

聴衆は、かなり機嫌を損ねて、教授の陳述に含まれているたくさんの誤解、たくさんの意味の取り違え、そればかりか横領めいた理屈を告発した。
先生が、わが「友」と称して持ち出してくる権威たちにもかかわらず。
教授は、ドゴン族さえもそう呼んでしまうのだ・・・・・・。
そして事態はやがてさらに悪化する。
教授は人の目をかすめて、さまざまな子を生んでは、臆面もなく悦に入る。
だがそれはほとんどつねに出来損ない、傷もの、寄せ集めの類なのだ。
馬鹿げた俗物根性とまでは言わないにしても、そもそも教授は地質学者でも生物学者でもなかったし、言語学者や民俗学者、あるいは精神分析学者でもなかった。
もう長いこと人は、いったい何が彼の専門なのかを忘れてしまっていたのだ。
実際、チャレンジャー教授は二重の人、2度分節される人であり、そのことは自体を容易にはせず、みんなどのチャレンジャーを相手にしているのか決してわからないのだった。
彼 (?) は1つの学問を創り出したと主張し、それをさまざまな名で呼んでいた----いわく、リゾーム学、地層分析学、分裂分析、ノマドロジー〔遊牧学〕、ミクロ政治学、プラグマティック、多様体の科学。
だが、人はこの学問の目的も、方法も、根拠も、はっきりわからないのだった。

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ「BC10000年----道徳の地質学(地球は己を何と心得るか)」(『千のプラトー』上巻 p.99)

(※『千のプラトー』は1つのパラグラフが長いので、「D/Gに巻き込まれる」と題される一連の「落書き」では1文ずつ改行して引用している。なおパラグラフの区切りの場合は1行空けてある。)

移住後の作業と新たな環境での様々な試行錯誤のなかで、この落書きまでにだいぶ間が空いた。(ヒトラー『我が闘争』でのミクロファシズムの作り方やガンディー『わたしの非暴力』での持たない強さと持つことの弱さという考えに、自分の日常を照らし合わせる時間に充てていたのもある。)

さて、今回巻き込まれるのは、第3プラトー「BC10000年----道徳の地質学(地球は己を何と心得るか)」というタイトルの章である。文庫版で70p弱の長さがあるので数回に分けて巻き込まれていくことになる。上のエピグラフは、小説っぽい語り口でトリックスターが寸劇のようにコナン・ドイル『失われた世界』の登場人物チャレンジャー教授を演じる場面である。だが、語り手(トリックスター)はこの教授を演じているのだろうか? このプラトーを読むと、そんな疑問も湧いてくる。一方で、このプラトーはタイトルからすれば地質学での「地層」という言葉をパラフレーズするようにしてを生物学、言語学、神話学等々を横断していくようにも見える。

だが、そう考えるにはトリックスターの語りの「内容」にすんなりと入り込む必要がある。というのも、チャレンジャー教授の語りを代行するかのような語り手は、ドイルの冒険小説風の語りを演じながら、このプラトーの最後には、チャレンジャー教授をH・P・ラヴクラフトのコズミック・ホラー『銀の鍵の門を超えて』の中に溶解させてしまうからである。それゆえ、これは小説調のようだと思いながらと聴いていると、語り手かチャレンジャー教授かという排他的選択の論理をいつの間にか使い始めている自分がいる。

ここで「内容」という言葉を用いたが、このプラトーで最も話題に上るのはこの語なのである。一般には、「表現/内容」、「形式/内容」という「精神」の得意な「二分法」の片方に注意を向けると、もう片方の「表現」や「形式」を通して可能になるように思われている。上のエピグラフはこのプラトーの小説「形式」を通って物語「内容」を理解するという方向性があると思いがちだ。

そんなふうに素朴に思い込んでしまえば、どんなメッセージも事実や真実になってしまうだろう。その政治性はこれら二分法のどちらか側に回るということでは堂々巡りになる。むしろこの2つをセットとして扱うこと、精神の「二分法」(樹木状の)として扱ってみる。つまり、それを一部とする関係(リゾーム状の)から捉え直すことができれば、「二分法」の閉域からオルタナティブへ向かう脱出口へ踏み出せるはずだ。

小説風や小説調というスタイルがファクト/フィクション(事実/虚構)という二分法の片側を担うとするなら、このプラトーでトリックスターは、ファクトとフィクションを繋ぎ合わせ、溶け合わせてしまうのかもしれない。確かに、トリックスターは無意識への案内者であり無意識なのだ。時制も否定もない無意識において、二分する権力は無効になってしまうのだった。

このプラトーは小説風だ、と宣言するように、コナン・ドイルの冒険小説『失われた世界』(Lost World,1912)の登場人物チャレンジャー教授の紹介から冒頭が始まる。古生物学者の教授が語り手のいう「地質学」を語る役割を担わされるのは、「失われた世界」へ向かった冒険者の1人だからか。語り手(トリックスター)は、ドイルの原作からかけ離れた内容を教授に演説させる、否、教授であるかのように演じ始める。トリックスターの二色の声はさらに多数化する。誰が語っているのか?と疑うと訳がわからなくなる。

従来の言語分析では、以下の引用の語り方は「自由間接話法」と呼ばれる。小説などで三人称視点の地の文と登場人物の内的発話が鉤括弧で括られないまま記述される場合、こんなレッテルが貼られる。が、それは話法を「直接/間接」と分けた側が両者を曖昧にするケースに仕方なく当てはめたレッテルだろう。重要なのは、言語分析する学者側がこの話法を使用することがないという点だぞ、学者はこの話法のケースを引用するが、間接的に引用部内にその用法を止めることでこの話法を指示する手続きを採って知らんぷりするだろ、問題はそこだ、とトリックスターは言いたげである。

※自由間接話法の他の話法との簡単な比較については以下を参照。

チャレンジャー教授、あのコナン・ドイルでおなじみの、地球を機械で責めて唸り声をあげさせたチャレンジャー先生が、例によって猿顔負けの気まぐれさで地質学や生物学の概説をあれこれミックスして、講演を行なった。
教授の説明によれば、この大地----脱領土化された世界、大氷河、一巨大分子としての地球----は、器官なき身体そのものである。
この器官なき身体は、まだ形をなしていない不安定な物質や、あらゆる方向の流れに縦横に貫かれ、自由状態の強度や放浪する特異性、狂ったような移行状態の粒子がそこを飛び交っている。
だが、さしあたっていま問題なのはそのことではない。
というのも、このとき同時に地球の上に、ある点ではありがたくもあるが他の多くの点では遺憾ともいえる、きわめて重要かつ不可避的な1つの現象が起きている。
すなわち地層化という現象である。
地層はまさに「層」であり、「帯」であって、その本質は物質に形を与え、共鳴と冗長性にもとづく安定したシステムのうちに強度を閉じ込め、特異性を固定して、地球というこの身体の上に大小の分子を構成し、それらの分子をさらにモル状の集合体へと組み入れていくところにある。
地層とは捕獲であり、いわば「ブラック・ホール」であって、圏内を通過するいっさいのものを引き止めようとする閉塞の現象なのだ。
地層は、この地球の上でコード化と領土化によって作用する。
コードと領土性を両輪に進行する。
地層は神の裁きであり、地層化全般は、まさに神の審判の体制そのものなのである (だが大地あるいは、この器官なき身体は、どこまでも裁きを逃れて逃走し、地層化を脱して、脱コード化し、脱領土化しつづける)。

(同上 pp.93-94)

「お前もそんな古典的な慣習で落書きとやらを進めるんだろうな、このバカめ!」という罵倒の声が耳奥に響く気がする(こうやって地の文と書きカッコ付きの文で文の主体が区別されるように)。直接そう言われなくても、そろそろこの話法に呑み込まれてしまいそうだ、という恐れがよぎる。というのも、ここは渦巻き世界だからだ。すべてに速度ベクトルが与えられたこの世界ではこの私自身も同様だからだ。「直接/間接」と分けるような安定した場にこちらがとどまっていることは無理な相談なのである。

いっそのこと、無理やりチャレンジャー教授の言葉と見なせば、その主張を教授のものとして聴くことができる。そうやってトリックスター(語り手)のトーンを無視すると、地の文に戻ってトリックスターが語り出しはじめる。すると、多数多様な事態を一元化しようとするとむしろ前面に出てくるのが「層」という考え方のようにも思える。

この多様体世界で、「地層」が固定されたものだと語り手(トリックスター/チャレンジャー教授)に言われても、固定もまた速度ベクトルの一部であることくらいは想像できるようになってきてはいる。むしろ語り手も「層」の重なりが徹底しているのだろう、などとちょっと悠長に構えることにした。(自分が多層化するという恐れと期待は、ひとまず傍に置いている。)

そうして、語り手(トリックスター/チャレンジャー教授)の声をチューニングするようにフィルタをかけてみると、聞こえてくるのは、あの「器官なき身体」というタームである。今回はアントナン・アルトーの作品『神の裁きと決別するため』に出てくる「神の裁き」が「器官なき身体」に介入することで器官ごとに分割されて「死すべき身体」に堕落させられるという考えを、「地層化」の過程から捉え直しているようなのだ。

チャレンジャーはここで、これはある地質学の概説書にあったのだが、理解できるようになるのは後になってからだから、よく覚えておくようにと断って、次の1節を引用している。
「地層化の表面は、2つの層のあいだにあってもっと稠密な存立平面である。」
層とは、形成される当の地層そのものであり、これは少なくとも2つが組となって、その一方が他方にとって基層となる。
しかし地層化の表面の方は、1つの機械状アレンジメントであって、地層それ自体とは区別されなければならない。
アレンジメントは2つの層のあいだ、2つのの地層のあいだにあり、したがって一面では地層の方へと向かっているが (その意味ではこれは間層である)、同時にまた器官なき身体、いいかえれば存在平面に向かう一面ももっている (メタ地層的な層である)。
実際、器官なき身体は、それ自身平面を形作り、地層レベルで稠密化した濃度を増しているからである。

(同上 p.94)

面白いのは「器官なき身体」が「間層」とされる点だ。「序 リゾーム」で出てきた動態としての「中間」(middle)、そして「・・・と・・・」がここでは「器官なき身体」とされ、「地層」の「稠密」化に関与しているのだという。その一方で、「地層」の概念は上下が安定して単層になっているというこちらの幼稚な思い込みを修正するように促す。というのも、「層とは、形成される当の地層そのものであり、これは少なくとも2つが組となって、その一方が他方にとって基層となる」とされるからだ。

問題は「地層化」のプロセスであり、地層が作り出される際に上下でも左右でも2つの面ができる。それらは表層とその下にある基層という関係にはなく、互いに互いの基層となるというのだ。後に言語学者イェルムスレウの表現/内容に言い換えられることを先取りすると、言語学的な偏見も拭えないので、仮に「差異」という言葉を重ねてみる。すると「間層」の「器官なき身体」にグレゴリー・ベイトソンの「差異を生み出す差異」を連想することができるからだ。(あくまで作業上の一時的な処置に過ぎないが。)

すると、語り手は、「神はロブスターだ」と突拍子もないことを叫び始めている。チューニングを通した語り手の声は、「神の裁き」が「器官なき身体」という分割不能な「大地」を分割し地層化する権力である、とそのプロセスから暴いて行きたいようだ。

神は巨大なロブスター、二重挟み、ダブル・バインドである。
これは地層が少なくとも2つ組になって形成されるだけでなく、それとは別に1つ1つの地層もまた二重になっている (各地層自体が複数の層から成る) からだ。
事実、どんな地層にも二重分節を構成する現象が認められる。
B-A、BAと2度、はっきり分節がわかるように区切って言ってみたまえ。
といってもこれは、地層が話をしたり言語からなるなどということではまったくない。
二重分節にはさまざまな変化があって、われわれは一般的なモデルから出発することはできず、比較的単純なケースから出発するしかない。
第1次分節は、不安定な流れ-粒子群から、分子状もしくは準分子状の準安定的単位 (実質) を選びとり、または取り出し、これらに結合と継起の一定の統計的秩序 (形式) を課すものといえるだろう。
第2次分節は、稠密で機能的な安定した構造 (形式) を配置して、モル状の複合物 (実質) を構成するものといえるだろう。
そうした構造自体も、この複合物において同時に実現を見るのである。
例えばある地質学的地層では、第1の分節は「堆積作用」であり、これは周期的に沈降するさまざまな堆積単位を統計的な秩序にしたがって集積する。つまり砂岩と片岩の交互継起をともなう堆積物(フリッシュ)の形成である。
第2の分節は「褶曲作用」であり、これによって安定した機能的構造が配置され、堆積物から堆積岩への移行が保証されるのである。

明らかにこの2つの分節は、その一方が実質をにない、他方が形式をになうといった形で区別されるのではない。
実質とは形式化された物質以外の何ものでもない。
形式は、一定のコードと、コード化、脱コード化のさまざまな様相を含んでいる。
一方、形式化された物質としての実質は領土性や領土化、脱領土化のさまざまな度合いにかかわっている。
ところが、まさにこの二重の分節は、そのどちらにもコードあれば領土性あり、そのおのおのがそれなりの形式と実質をともなっているのである。
さしあたって言いうることはただ、そうしたおのおのの分節が異なった2つのタイプの切片性segmentaritéもしくは多様体に対応しているということだ。
どちらかといえば分子レベルの、単に順序づけられているにすぎない柔軟なタイプと、もっと硬い、モル状の、組織化されたタイプの多様体である。
実際、第1の分節にも体系立った相互作用が欠けているわけではないが、中心化、統一化、全体化、総合化、階層化、合目的化といった超コード化を形作る諸現象は、特に第2の分節のレベルで起きてくる。
どちらの分節も、そのおのおのの要素の切片間に2項関係を打ち立てる。
しかし一方の分節の切片と他方の分節の切片のそれとのあいだには、もっと複雑な法則にもとづく1対1の対応関係が成り立っている。
こうした関係や連関は一括してこれを構造という言葉で一般に呼ぶことができるだろうが、構造という言葉がこの地上の究極の言葉だと思い込むのは幻想である。
それどころか2つの分節がつねに分子状、モル状という区別によって分けられるかどうかも、確かではないのだ。

(同上 pp.94-96)

上の引用では、「ロブスター」の比喩から2つのパラグラフを跨ぐようにして、「分節」という語に引っ張られるように地層学から言語学への移行が進む。そして、言語的知が地質学構成として捉えられるようになる。それなら構造言語学で十分だろう、という考えも浮かばなくはない。が、語り手は「地層」という言い方で固さ/柔らかさモル状/分子状という度合い(強度)という基準を導入し、差異という抽象的な概念操作を感覚的な場面に引き摺り出そうとしているように思える。

「形式」/「実質」は互いにとって「基層」であり、それらを「間層」のように分割不能な「器官なき身体」が繋いでいると語り手はいう。一方、語り手によれば、「神の裁き」を行使する「神」はそう考えないようだ。創造神話っぽい物語を重ねてみると以下のような感じだろうか----「大地」(器官なき身体)をコード(神の声)によって分節化し、コードと分節化されたものを対応させて様々な切片segment (体節、階層、線分)を作る。同時に、コード(声)の組み合わせの運動(コード化:暗号化-脱コード化:解読)として、自らを主とする神話の中で、「大地」を「地層」に変えて自ら創造した世界として示す---と。

このような「神の裁き」に対して、語り手は「そうしたおのおのの分節segmentが異なった2つのタイプの切片性segmentaritéもしくは多様体に対応している」のだと主張している。しかも、モル状/分子状の2タイプに分類可能だとしても、両者ともに「-状」、つまり状態であり、明確に区分できるものではないという。一方では動態であり、区切りもこちら側の基準であって実際は明確に区別できるものではないのである。

神を「ロブスター」に喩えた語り手は、さらに言い換えて神の特徴をロブスターの2本の鋏をイメージさせながら「ダブルバインド」と呼んだ。グレゴリー・ベイトソンのダブルバインド理論を思い起こさせる場面とも言える。ベイトソンは親とこの関係がこの症状を子に顕在化させる家族関係に焦点を当てて、関係論的な観点から学習段階における齟齬としてダブルバインドを取り出した。
※ダブルバインドを学習段階に沿って説明する「ダブルバインド、1969」については以下を参照。

※ついでにその章に関する落書きも、、、

ダブルバインドはクライアントが非言語的コミュニケーションを言語に置換してメッセージと捉え、同時に、親が発話した言語メッセージと比較して矛盾することを見出すことが続くと親のパターンイメージが作り出せないまま生じるこの症候を指していた。確かに、神の気まぐれに付き合わされる民はダブルバインド状況に陥るんだから神自身がダブルバインドだ、というのなら面白い考え方だな、と単純に思う。

語り手(トリックスター)は、宗教で神の声を人間の言語に転換する過程が、神と人間の関係(「地層化作用」)に起こると考えているようだ。確かに、タイトル冒頭にある「BC10000年」は中石器時代にあたる。人類史的には、氷河期が終わり狩猟採集から農耕牧畜による定住化が始まり、各地に文化が芽生えたとされる時期である。

最近のデータの更新は確認していないのだが、昔読んだミルチャ・エリアーデ『世界宗教史』によれば、インド・ヨーロッパ文化の起源が中石器時代に遡れるとし、農耕社会では、始原への回帰を描く時空が生まれ、遊牧社会では直線上を終末へ向かう時空が生まれたという。そんな文脈から語り手がこの時期に神と人間の関係、つまり「神の裁き」の誕生を見ているとしたら、突拍子もないように感じる彼(彼ら)独自の地質学の主張をもう少し拝聴しようかな、とも思う。

・・・などと思い巡らしていると、急に速度が変わってきたようだ。語り手の話題が早回しになってきたのか、渦巻き世界の速度が高まり始めているのか、急展開にこちらの目が、否、頭の方がクラクラしてくる。

この世界では慣れたと思うとまたぶり返し、進んでいると思うと振り出しに戻っている。

ここで話は、エネルギー論的、物理-化学的、地質学的な地層の厖大な多様性を一足飛びに超える。
話は有機体の地層に、というか有機体にも大いなる地層化作用があるということに移るのだ。
さて、有機体(オルガニスム)の問題----すなわち、いかにして身体を有機体に「する」か?・・・・・・それはまたしても分節の、分節的関係の問題なのである。
ドゴン族は教授が知りつくしている一族なのだが、彼らはこんなふうに問いをたてる。
すなわち、鍛治師の身体が有機体(オルガニスム)になるのは、身体に地層化を施すような機械の、または機械状アレンジメントの効果によってである、というように。
「衝撃のショックで、大槌と鉄床が、彼の腕と足を、肘と膝のところでへし折った----この肘と膝はそれまで彼にはついてなかったものである。
彼は人間の新たな形態に特有の関節をもつようになったが、このような姿こそ、のちに地上に広まり、労働するべく定められていた人間の姿であった。(・・・・・・) 彼の腕は働くために折れまがった。」
とはいえ、分節関係を骨格の問題に還元するのは、もちろん1つの言い方にすぎない。
有機体全体が二重分節のさまざまな種類として、それも実にさまざまなレベルで考察されなければならないのだ。
第1にまず形態発生のレベルでは、一方において、もろもろの分子タイプの現実が偶然的関係のもとに結びついて、群集現象もしくは統計的集合のうちにとらえられ、これによって一定の秩序の決定をみる (蛋白質繊維の形成と、その連続あるいは切片性)。
もう一方で、今度はそうした集合そのものが安定した構造のうちにとらえられ、これによって各種の立体構造をもつ複合物が「選択され」、さまざまな器官や機能、調節機構が作り出されて、モル状のメカニズムが組織される。
群集の上を舞い、メカニズムを監視し、さまざまの道具箱を使ったり修復したりすることができ、全体を「超コード化」することができるような各種の中心機構も、そうした安定した構造によって配分されるのである。 (稠密な構造における繊維の折り畳み、第2の切片性)。
堆積と褶曲、繊維と折り畳みである。

(同上 pp.96-97)

「いかにして身体を有機体に「する」か?」・・・語り手は、「身体は有機的である」というこちら側の常識を問い直す。そうして、世界をかき回すトリックスターの役割を存分に生かして、地質学からドゴン族の冶金師が世界を作り出す神話へ、さらに生物学的な細胞レベルへと横断していく。(ドゴン族の神話については後のプラトーに詳細があるので、ここではスルーしたい。)「地層化」は生命の「有機体」化に及ぶ。そうしながら、語り手は意図的に「有機体に「する」」主体に聞く者の注意を向ける。「神の裁き」だ。「神」が「裁」くことで「身体」は「有機体」に「させられる」とでも言いたいようだ。

すると、「神」は「裁き」とセットに語られることで、神話や宗教を出て権力システムの頂点を指すことがわかる。忘れていた、語り手(トリックスター)はいつもミクロ政治学について語っていたのだった。ミクロレベルの政治では、「堆積」と「褶曲」は足元の地層に起きている現象ではない。身体を有機体化する際のタンパク質合成や細胞分裂にも起きている、というのだ。

分節不可能なものの分節という過程では、ミクロレベルでの諸権力の場(身体)がマクロレベルへ分節される(有機体)。そんなことを「する」者がもしいるなら、確かに「神」くらいしか想定できない。安定した構造を作ることが創世神話での神の役割だとすれば、そうなる(初めに光ありき)。しかし、神話の中だけでそれが行われるのではない、と語り手は言いたげだ。構造を安定させるあらゆる権力の動きは「神の裁き」を通らざるを得ないというのだ。全体を監視する「超コード化」する社会的な権力構造も、語り手には「神の裁き」のバージョンなのだ、と。

ところで、「神」は「ロブスター」、そして「ダブルバインド」だった。語り手の主張に従えば、安定した構造へ向かう権力は、その反対へも向かうはずである。彼(彼ら)の説に倣うなら安定した構造(モル状)を前提として生きる社会では、もう一方は乱流的(分子状)で、まるで散逸したかのようなカオティックな世界に映るのだろう。語り手はこの二方向的な分岐を、安定から見た対立としてではなく、「二重分節」として扱う。

だが、それとはまた別の水準でさまざまなタンパク質の構成を決定する細胞化学変化もまた、二重分節によって進行するのである。
二重分節は分子的なものの内部で、つまり、大小の分子のあいだで、継起的な組み替えによって生ずる切片性と、重合によって生ずる切片性のあいだで作用するのである。
「第1期には、環境からあらかじめ取り込まれた要素は一連の変換を通して結合される。(・・・・・・)
これらすべての活動には数百もの反応が関与する。
しかし、結局のところ、それはせいぜい数十の、かぎられた数の小さな化合物を生産することに終わる。
細胞の化学の第2期では、小さな分子は集められ、大きな分子を生産する。
単位を端と端とで結ぶ重合によって、巨大な分子を特徴づける鎖が作られる。(・・・・・・)
したがって、この細胞化学の2つの時期は、同時にその機能、その生成物、その性質によってちがっている。
第1期は化学的パタンを刻印し、第2期にそれらを集める。
第1期は一時的にしか存在しない化合物を形成する。
というのは、それは生合成の途上での中間体を構成するからである。
第2期は安定した生成物を作る。
第1期は一連の異なる反応によって操作され、第2期は、同一の反応の繰り返しである。」
----そしてさらに、細胞の化学変化そのものが依存する第3の次元では、遺伝子コードの方は二重の切片性、あるいは二重の分節と不可分である。
この二重の分節は、今度は互いに独立した2つのタイプの分子群のあいだに介入する。
一方には蛋白質単位のシークエンス、他方には核蛋白質(スクレイン)のシークエンス、もろもろの2項的関係をもつ同じタイプの諸単位と、1対1対応関係を有する互いに異なるタイプの諸単位。したがって、つねに2つの分節、2つの切片性、2種類の多様体が存在し、そのそれぞれがさまざまな形式と実質をともなうのである。
しかしこの2つの分節は、ある特定の地層の内部においてすら、恒常的な仕方で配分されるわけではないのだ。

(同上 pp.97-99)

生化学領域をミクロ政治の舞台に仕立てる語り手/チャレンジャー教授は、「二重分節」的な「地層化作用」という自らの主張を、化学から生物学へ段階的に「細胞」に至る形成過程の例で繰り広げていく。が、この場面は、その過程が「二重分節」的ゆえに単線的にはならない。「二重分節」自体が「二分法」のようにきれいに二方向化しないという点が強調されるのである。

「二重分節」が「ダブルバインド」とも言い換えられるので、上の引用をパターン認知とみなしてベイトソンの学習理論に重ねてみると、語り手のいう生化学レベルでの「第1期」がその場限りでのパターンを学習する段階(学習 I)、「第2期」が、その場で学習したパターンを他の場所でも応用する段階(学習 II)に当たる。ベイトソンは2つの学習ステップがうまくいかない場合、つまり最初の場所で学習したパターンが次の場所で応用できない場合、ダブルバインドが起こると考えた。(前掲「ダブルバインド、1969」の落書き記事を参照)

ベイトソンはクライアント側、つまり家族関係に喩えるなら、主に子供の側からダブルバインドという考えを引き出したのだが、語り手/チャレンジャー教授は「神の裁き」、ベイトソンの参照する家族関係なら、親の側からダブルバインドを見ようとする。それが「神の裁き」というメッセージ(命令、教義、戒め)である。

「神の裁き」に意味を見出そうとするほど、人々がそのつどの振る舞い(トーン、雰囲気)にも意味を見出さねばならないなら、「神の裁き」は全体を分割しトップダウンで支配するような「安定した構造」を揺るがす方向に向かう。身体という全体を「器官」という部分に分割するほど、分割不能な「器官なき身体」が溢れ出す、というのである。

さて、ここまで、こんなふうに落書きできたのは、今、私が語り手の発話と見なしているこれらの言葉が、チャレンジャー教授の講演を代演していると見なしていたからだった。多数多様な発話をモル状で安定した構造ばかりに私の注意が向くことで、言葉の意味が固定されていたのである。語り手はチャレンジャー教授の演説から離れて聴衆の方を見渡す。「聴衆は、かなり機嫌を損ねて、教授の陳述に含まれているたくさんの誤解、たくさんの意味の取り違え、そればかりか横領めいた理屈を告発した。」(同上p.99)

語り手はトリックスターの一面を前面に出してくる。そうしてチャレンジャー教授の言葉や振る舞いを突き放すように、聴衆側の「告発」、教授の「出来損ない、傷もの、寄せ集めの類」でできた演説の様子を述べたてる。冒頭のエピグラフに引用した場面である。そうして、講演会場の雰囲気が「さらに悪化する」様をベルトルト・ブレヒトの「叙事的演劇」さながら異化していく。冒頭のエピグラフはその場面である。

確かに、教授の講演という劇の枠内では、チャレンジャー教授は自身の専門領域を深める話、あるいは聴衆に噛み砕いた話が求められるのだろう。さらに、聴衆の中には何ほどかの専門家も少なからずいるだろう。それゆえ、聴衆にとってチャレンジャー教授の話は「ほとんどつねに出来損ない、傷もの、寄せ集めの類」に思え、教授というレッテルを貼られているがゆえにチャレンジャー自身が信用ならないと疑うは確かではある。

が、講演会場で作られるクローズドな関係の枠を外すと、多様体世界が速度を増して聴く者(講演の聴衆というより語り手の演説を聞いている私)に迫っているのがわかる。というのも、主語述語の関係が崩れ、名詞の連鎖が始まっているからだ。「いわく、リゾーム学、地層分析学、分裂分析、ノマドロジー〔遊牧学〕、ミクロ政治学、プラグマティック、多様体の科学。」

そしてこの枠を外すとチャレンジャー教授と語り手が似ていることに気付かされるのである。小説の記述としてこの部分をリアリズムから解釈すれば、チャレンジャー教授は語り手自身であり、教授は実在しないという現実/虚構の枠に置き直すことも可能だ。が、多様体世界では、「現実/虚構」を区別する「神の裁き」のような基準もまたその安定性を確保できないとすれば、「彼(?)」という指示代名詞は、一つの実体を指し示さず、多様な方向性を指し示す可能性を示唆する機能を発揮し始める。

語り手(無意識への導き手であり無意識でもあるトリックスター)は、終わらない自己(?)紹介を、「彼(?)」または彼(彼ら)の流儀で、彼の演説を聞く者に向けて、チャレンジャー教授を二重写しさせ、自ら「二重分節」となって、ただひたすら続けているだけのかもしれない。(おそらく、トリックスターの「自由間接話法」は話法のみならず語そのものにも自由を与えるのだろう。)

しかし、名詞の連鎖による速度の高まり、中間地帯の露呈(・・・と・・・と・・・と・・・)、多様体世界の接近は、再び遠のいていく。そうして、家レムスレウの言語理論と銘打ったチャレンジャー教授:「彼(?)」/語り手:トリックスター:彼(彼ら)の「二重分節」された言葉が、1人の人物の声のように聞こえてくる。

19世紀末から20世紀初頭にかけて興隆した構造主義言語学が言語を話し手と聞き手という想定からシニフィアン/シニフィエに二分したのに対し、イェルムスレウはこの二分法を表現と内容と言い換え、さらに細分化して形式と実質の「層」strataを加えて、4層(表現の形式/表現の実質/内容の形式/内容の実質)からなるネットワーク構造として言語を捉え直したとされる。

語り手(トリックスター)がイェルムスレウを「スピノザ主義地質学者」という風変わりな肩書きで紹介するのも、この言語における4層を強度における関係ネットワークに開く入り口と見なしているからだろう。その一方で、この4層理論は言語化を世界の実体化へ向かう「地層化作用」と捉えようとするチャレンジャー教授/語り手自身の主張に引き寄せられていく。

そこで彼が引き合いに出すことにしたのは、友人の----と彼は言うのだが----デンマーク人でスピノザ主義地質学者のイェルムスレウである。
ハムレットの末裔たるこの陰鬱なプリンスはまた、言語をも研究対象としているが、それはまさしくそこから「地層化作用」を掘り起こしてくるためなのだ。
イェルムスレウは、質料、内容と表現、形式と実質という観念によってある解読格子の全体を構成するにいたった。
そのようなものが「地層」 strata なのだ、とイェルムスレウは言った。
ところで、この解読格子はすでに、形式-内容という二元性と手を切っているという利点がある。
というのも、表現の形式があるように、内容の形式というものもあるからだ。
イェルムスレウの敵たちはそこに、シニフィアンとシニフィエという、信用を失った概念を命名し直す方便しか見なかったが、問題はそんなことではない。
そしてイェルムスレウ自身の意図に反して、この解読格子は言語学上のそれとは別の射程、別の起源をそなえている (二重分節ということに関しても同様のことを言っておかねばならない----言語というものになんらかの特殊性があるとしても、そして確かにそれはある特殊性をそなえているのだが、それは二重分節に存在するのでも、イェルムスレウの解読格子に存するのでもない----この2つは地層の一般的性質なのである)。

(同上 p.100)

ベイトソンを思い出して論理学方面からこの特異な言語学に接近してみる。というのも、彼が置き換えた表現面と内容面の関係が、排他的論理和と呼ばれる関係にとてもよく似ているからだ。デンマークの王子「ハムレットの末裔」であるこの言語学者は、「to be or not to be」のような「or」の領域、すなわち排他的論理和の世界で言語を検討しているように見える。言語はシニフィアンかシニフィエかという2方向に独立に分岐するようでいて、「or」を繰り返すことで両者の領域全体を多層化していくからである。

ベイトソンの落書きでも使ったベン図で視覚化してみると、排他的論理和の場合、どちらにも共通する論理積は含まないことがわかる。つまり、2つの円が重なる白の部分(論理積)と赤の部分(論理和)は同じ次元に属していない。つまり「層」strataをなしているのである。イェルムスレウが言語をネットワークとして捉えていると考えられているのは、論理積の部分を含まない論理和の部分で働く加算的な論理計算が彼の言語理論の作動ルールになっているからではないか。

排他的論理和(XOR)のベン図 薄い赤の部分がその領域であり論理積(白の部分は含まれない。命題文にすると「A or B」となる。)

ここから上の引用を見ると、「内容/表現」を細分化して得られた「形式/実質」が作る4層は、「二重分節」、あるいは論理学では排他的論理和の計算に沿ってその全体領域に「地層」を形成していることがわかる。と同時に、語り手はこの動きの逆も考える。つまりこの加算的な論理計算の空白地帯(イェレムスレウにならって語り手は「素材」と呼ぶ)、ベン図の白い部分は細分化不能な「地層」として残されることになる。「それは二重分節に存在するのでも、イェルムスレウの解読格子に存するのでもない----この2つは地層の一般的性質なのである)。

素材と呼ばれるのは、存立平面、また<器官なき身体>、つまりまだ形式化されていない、有機的に組織化されていない、地層化されていない、あるいは脱地層化された身体のことであり、またそうした身体の上を流れるいっさいのもの、いいかえれば分子以下、原始以下の素粒子群、純粋状態の強度、物理現象や生命現象以前の自由な特異点のことである。
内容と呼ばれるのは、形式化された素材のことであり、したがってこれはその実質と形式の2つの観点からとらえなければならない。
ある個々の決まった質料が「選択」されるかぎりにおいては実質の観点から、またそうした一群の質料が一定の秩序のもとに選択される限りにおいては形式の観点から、とらえられなければならないのだ (内容の実質と形式)。
表現と呼ばれるものは、機能的な構造のことだろうが、これはこれでやはり2つの観点からとらえなくてはならない。そうした構造自体のもつ形式の組織という観点、そして、これによって各種の複合物が形成されるというかぎりでは実質の観点である (表現の形式と実質)。
1つの地層にはつねに、その相対的な不変性の条件として、表現されうるもの、もしくは表現という次元がある。
例えば核蛋白質の配列は、一定の相対的に普遍な表現と不可分に結びついており、この表現をとおしてそれら個々の配列は有機体を構成するさまざまな複合物や器官、機能を決定している。(5)
表現すること、それはつねに神の栄光を歌いたたえることである。
すべての地層が神の裁きであるからには、歌を歌い、自己を表現しているのは、何も植物や動物、蘭と雀蜂ばかりではない。
岩山も川の流れさえも、およそこの地球の上にある地層化されたいっさいのものが歌っているのである。
かくて第1の分節は内容に、第2の分節は表現にかかわっている
この2つの分節の区別は、形式と実質のあいだにあるのではなく内容と表現のあいだにある。
表現にも内容と同じく実質があり、内容にも表現と同じく形式があるからだ。
二重分節が、ときには分子状とモル状の区分に一致し、ときには一致しないのは、内容と表現が、ある場合にはそうした形で分かれ、ある場合には別の形で分かれるからである。
内容と表現とは、決して対応もしなければ符号もしない。
この両者は、互いに他を前提しつつ同形的であるというにすぎない。
内容と表現のあいだの区別は、さまざまに定義されるにしても、どこまでも現実的な区別である
これによって区別される両項がその二重分節以前に存在するということはできない。
二重分節こそが、その軌跡にしたがって各地層のうちにこの両項を配分するのであり、両者の実在的区別をかたちづくっているからだ (これとは反対に、形式と実質のあいだには現実的区別は存在せず、単に思考の上で、あるいは様相的に区別されるにすぎない。
実質は形式化された質料でしかない以上、形式をもたない実質など考えられないからである。
たとえ場合によって、その逆は可能だとしても)。

(同上 pp.100-102)

「素材」から、この排他的論理積でできた言語世界を想像してみる。すると、「層」間はただ細分化されているのではなく、論理積と論理和の異質なルールでできた領域同士の交流(二重化)によってそのつどこの世界が「地層化」されている、と考えることができる。語り手が「二重分節」と呼ぶのは、異質な領域同士、つまり「二重」になった論理積領域(白の部分)から、全くルールの違う論理和的な「分節」が起こるからではないか、と思われるのである。

ちなみに、論理積は「and」として言語化される。つまり、「・・・と・・・」のルールでできているのが白の部分の領域だ。そして、チャレンジャー教授/語り手は、この「素材」の領域を分割し得ない「器官なき身体」とも呼んだ。分割不能な領域から分割可能な領域への跳躍からすれば、「たとえそれが不変性の力をそなえていても、表現は内容と同じく1個の変数である。内容と表現は、地層化作用という機能における2つの変数」と見なされるのだろう。

内容面と表現面は「or」のルールで「形式」と「実質」に細分化され、「地層化」していく。だが、その作用にはそのつど「and」のルールからの跳躍が起こっていると考えてみる。すると、「二重」に「分節」が起こるのだから、「すべての分節化というものは二重である」という言葉も理解できるように思える(手前勝手で一時的な理解ではあるのだが)。ここから今回の落書きで扱う最後のパラグラフに移ることにする。

実際、すべて分節化というものは二重であるからには、内容の分節表現の分節があるというわけではない。
つまりそれは、内容の分節がそれ自体二重であり、同時に相対的な表現を内容のうちに構成するということを前提とする----そして表現の分節の方もまた二重であり、同時に内容を表現のうちに構成することがその前提である。
それゆえに、内容と表現のあいだ、表現と内容のあいだにはもろもろの媒介的状態が、さまざまな水準、均衡と交換があって、1個の地層化されたシステムはこれらを経由するのだ。
要するに内容の形式と実質があって、それらは他に対して表現の役割を果たしており、表現に関してもやはり、その逆のことが言えるということだ。
それゆえ、これらの新たな区別はおのおのの分節におけるもろもろの形式と実質の区別に一致するものではない。
それらが教えてくれるのはむしろ、どうしてそれぞれの分節がすでに、あるいは依然として二重なのかということである。
われわれはそれを有機体の地層に関して見てみよう。
内容をなす蛋白質は1つの形態をもち、その一方 (折り畳まれた繊維) は他方に対して機能的表現の役割を担う。
同じように、表現をなすもろもろの核酸の方では、二重分節によって特定の形式的かつ実質的要素が、他の要素に対して内容の役割を演じる。
つまり、ただ単に連鎖の半分がもう半分によって複製されて内容となるのみならず、再構成された連鎖はそれ自体「メッセンジャー」との関連において内容となるのである。
1つの地層の内部に、いたるところに二重-挟みが、いたるところにダブル・バインド、ロブスターが存在し、四方八方へ向かって、あるときは表現を、あるときは内容を横断し、さまざまな二重分節からなる多様体があるのだ。
これらのことすべてに関して忘れてはならないのは、イェルムスレウの次のような警告である----「表現面(プラン)と内容面(プラン)という言い方自体、慣例に従って選択されたものであり、まったく恣意的なものである。
それらは機能的な定義にとどまるから、これらの広がりの一方を表現と呼び、他方を内容と呼ぶのが正当で、その逆の呼び方をしてはならない、などと主張するのは不可能である----2つのものは、ただ互いに結合し合うかぎりで定義されるのであって、どちらもそれ以上明確に定義することはできない。
これらを切り離してとらえた場合には、それらは対立によって、または相対的な仕方だけで定義することができる。」
われわれはここで、現実的な区別、相互的前提、また一般化された相対主義のあらゆる源泉を組み合わさなければならないのだ。

(同上 pp.102-104)

表現、内容、形式、実質からなる「地層」は単独では存在せず、互いに層を成しながら重なり合うことで、相対的にそのように呼ばれる。上の引用が一見4層が主語、述語、目的語の仮面をかぶって取っ替え引っ替え役割を変えていくように見えるのは、これら変数が相対的で独立していないからだろう。

多様体multiplicitéは同一物の中での多様性という意味があった。「1つの地層の内部に、いたるところに二重-挟みが、いたるところにダブル・バインド、ロブスターが存在し、四方八方へ向かって、あるときは表現を、あるときは内容を横断し、さまざまな二重分節からなる多様体があるのだ。」 チャレンジャー教授/語り手は、言語の4層を作り出す4つの変数を、文法に従う文の内部に経巡らせながら、多様体に満ちた渦巻き世界の接近を聴く者たちに仄めかしているのかもしれない。

すると、イェレムスレウもまたシフター(指示詞)だったことに気づかされる。固有名詞もまたこの世界では速度ベクトルを与えられ、別の何かを示唆する指示詞なのである。チャレンジャー教授もそうであり、「彼(?)」を演じると思われる語り手(トリックスター)も二色の声で語り続けていたのだった。至る所に二重化があり、「二重分節」が作動している。演説を聴いているのに小説世界の中に入っているような・・・そして、小説世界にいるようでいて、チャレンジャー教授の仮面をかぶった語り手の主張を聴いているかのような・・・そして・・・and・・・and・・・と・・・と・・・と・・・

そして、イェレムスレウという固有名詞は、この後登場する博物学者ジョフロワ・サンティエールを指示するシフターとなることが予想されてくる。もちろん、ジョフロワ・サンティエールもさらにシフターとして機能するということも・・・。

今回の落書きはイェルムスレウをチャレンジャー教授/語り手の主張に引き寄せた場面で終えることにする。ジョフロワ・サンティエールに始まる落書きを次回に繰り越すのは、論理積andのルールには果てがないからだ。つまりこの落書きの終わりは、分割不能な領域の分割を無理やり入れることで終わる、と言える。語り手のいう「現実的な区別」とは、区別不可能なものの区別であり、言語に沿った区別ではない。そのような意味でこの落書きの終わりは、語り手の嘲笑を浴びるような稚拙極まりない区別である。

とはいえ、ここで一つだけ補足したいのは、「排他的論理和」の排他性を「総合(包含)」するという意図が、前著『アンチ・オイディプス』の前半、「離接的総合」という言葉ですでに語られているという点だ(第1章第4節「登録の離接的総合」)。ハムレット的な「AかBか」のorの論理(排他的総合:論理学での略称はXOR)に対して、語り手は「AであれBであれ」という包含の論理に転換しようと試みていたのである。

ちょっと深読みするなら、そこには「排他的論理和」(XOR)をめぐってイェレムスレウ - ハムレット - キエルケゴールというデンマークという土地から連想を広げた「地図作製」の痕跡が垣間見えなくもない。キエルケゴールは、30歳の時、美的生活か倫理的生活かと問う「あれか、これか」という作品を書いてデンマークの哲学界に足を踏み入れた。この作品の最後に彼は「美的生活でもなく、倫理的生活でもなく」という排中律を置いて作品を終えていた。語り手(トリックスター)は、その別方向を示そうとしたようにも思える。

『アンチ・オイディプス』によれば、排他的な離接的総合(論理和)は、命題文にすると「AかBか」(A or B)のどちらかを選択し、正誤のレッテルを貼る超越的な立場を引き寄せてしまう(フロイト教授)。今回の落書きでの地層学を中心とした部分では、「AかBか」を「AであれBであれ」(whether A or B)に変換するシフターとしてイェレムスレウの言語素論が前面に押し出されていた。イェレムスレウがその細分化と地層化の過程で「表現/内容」のどちらかに選べないように注意深い配慮をしていたからだろう。語り手はわざわざ最後に以上のように引用している。

「表現面(プラン)と内容面(プラン)という言い方自体、慣例に従って選択されたものであり、まったく恣意的なものである。
それらは機能的な定義にとどまるから、これらの広がりの一方を表現と呼び、他方を内容と呼ぶのが正当で、その逆の呼び方をしてはならない、などと主張するのは不可能である----2つのものは、ただ互いに結合し合うかぎりで定義されるのであって、どちらもそれ以上明確に定義することはできない。
これらを切り離してとらえた場合には、それらは対立によって、または相対的な仕方だけで定義することができる。」

(同上 再掲)

(※上のイェルムスレウの引用については以下を参照。)

「or」の論理で一貫する「離接的総合」を、排他から包含に転換すれば、その先には「AとBとCと・・・」というandが連鎖する「接続的総合」の領域、言い換えれば、関係それ自体のネットワーク(強度に満ちた多様体世界)へと限りなく接近するのかもしれない(前掲『アンチ・オイディプス』第1章第3節「生産の接続的総合」参照)。


※見出し画像は『千のプラトー』の第3プラトー「道徳の地質学(地球は己を何と心得るか)」の見出しページにあるロブスターの写真画像(全体の上3割ほど、全体写真は以下の通り。キャプションも引用する。(画像もキャプションもどことなく雑な感じだが、見下ろしてばかりの神(ロブスター)が仰向けの姿勢になって、両前足を上げて降参しているようなポーズに見えてしまうところがどこか滑稽に見える。)

二重分節 [仰向けのロブスターのモノクロ写真]


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