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亡き義父との思い出 旧江田島海軍士官学校訪問記 

その頃、広島の江田島で、知人の別宅に居候していた義父を、私たち家族で訪れたことがあった。

何の用だったか忘れたが、義父と二人でふらりと出かけた。

「なんかやっとる」と、義父が顔を向けた先には、開け放たれた門が。

解放日とか、なんとか、そんな表示がされていたと思う。

「ここ、自衛隊の施設ですね?」

「昔の海軍士官学校よ。おもしろそうや、いってみよや」

丁寧な誘導で、駐車場に車をとめ、受付でそれぞれの氏名を記載。

つるりとはげ上がった頭に、伸ばした白髭を色ゴムで結び、作務衣を着て、という、どうみても怪しげな風貌の義父。

しかし、受付の方は怪訝な顔一つ見せず、私たちは、すんなり入場をゆるされた。

ガイドが付くコースもあったようだが、義父の選択肢には、そもそも載ってなかっただろう。

ちょっと緊張気味の私を尻目に、義父は、ずんずん先に進んで行く。

敷き詰められた白い砂利は、きれいに掃き清められ、枯山水の庭のようだ。

抜けるような青空に松の見事な枝振りが映えている。

日本庭園のような風情の中に、ひときわ目立つ瀟洒な白亜の洋館があった。

旧海軍兵学校大講堂。舞踏会が開催されることもあったとか。

一方、赤レンガ造りの校舎は、堂々とした佇まいで、講堂とは対照的だ。

文化財級の建物が建ち並び、見ているだけでも面白い。

ぐるりと巡って、最後に訪れたのが、海軍兵学校教育参考館だった。

敷地の奥まったところにあって、見落としてもおかしくない。他の見学者も見当たらなかった。

入り口には、ギリシャ神殿のような柱が屹立し、一種独特な雰囲気が漂っていた。

礼拝堂とか寺院のような、空気感。

よく分からないが、見逃してはならないところだろう。さすがに義父は、鼻がきく。

入ってまず仰天した。

廟にまつられていたのは、東郷元帥とネルソン提督の遺髪だった。

ここは、海軍の由緒ある貴重な品々を展示、保存するための建物であって、その一番のお宝が、東郷元帥とネルソン提督の遺髪なのである。

建設は昭和11年。おもに卒業生の寄付で建てられた。

終戦後、進駐軍の没収を恐れ、あちこちに分散して保持していたものを、再び集めて今にいたっているとのことだった。


「鬼畜米英」じゃなかったっけ。と、戸惑ったが、考えてみれば、日本海軍のもともとのルーツは、英国だ。

日露戦争では、日英は同盟国でもあった。日露戦争の歴史的勝利も、英国のサポートなしには成り立たなかった。


中に進むと、歴代の海軍大将の書や遺品が並んでいる。

「ほう」、「ええのぉ」と、感嘆しながら書を見つめる義父。

私には、書の善し悪しはわからないが、確かに、胸に響いてくるものがある。


日露戦争の海戦で沈めた敵艦から、敵兵を全力で救出した話。

質素倹約につとめた大将が、つくろいながら履いていた靴下。

クリスチャンか、と思えるような。南十字星をうたった詩もあった。

遺品と合わせて、見る者に伝わってくる、品格、人としての味わい深さ。


それが、がらっと様子が変わったのは、日露戦争後の展示だ。

整った字なのだけど、えらく淡泊に感じられる。

気品がないというか、人格が伝わらない。

「えらいちがうのぉ」とつぶやく父に、確かにそうだと同意する。


さらに時代が進み、太平洋戦争の時代になると、判を押したような、プロパガンダの羅列になった。

まるで無個性な、同じ文句が、似たような筆跡で並ぶだけ。

義父と二人、重苦しい思いで館を出た。

「こういうことよのぅ」 

父の言葉が胸に響いた。

数少ない、義父と私との二人だけの思い出だ。


4歳で被爆。墨アートを通して平和を訴えながら、放浪生涯を送った義父、月下美紀(つきしたよしのり)。

84歳の逝去から一年を覚えて。

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