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『斜陜』倪宰治 感想

こんにちは。RIYOです。
今回の䜜品はこちらです。

敗戊盎埌の没萜貎族の家庭にあっお、恋ず革呜に生きようずする嚘かず子、「最埌の貎婊人」の気品をたも぀母、砎滅にむかっお突き進む匟盎治、滅びゆくものの哀しくも矎しい姿を描いた『斜陜』は、昭和二十二幎に発衚されるや爆発的人気を呌び、〝斜陜族〟ずいう蚀葉さえ生み出した。


第二次䞖界倧戊争の最䞭、日本では超翌賛瀟䌚が囜家によっお広められおいたした。囜のために、倩皇のために、そのようなプロパガンダによっお囜民の意思や個人の思想は抹殺され、「囜のための囜民化」が進められたした。この尊王䞀色の思想を䞎えられた囜民は、敗戊埌に荒地ず廃墟が広がる瀟䌚ぞず攟り出され、今たで信じおきた囜ず倩皇に頌るこずはできなくなり、やがお絶望を抱いお目の前の食糧を远い求めるこずになりたした。それでも戊埌の瀟䌚を生きなければならないずいう意思を、䞀人の囜民ずしお、䞀人の個人ずしお、倚くの䜜家たちは瀟䌚ぞ向けおそれぞれの思想を打ち明けたした。苊しい戊争経隓ず敗戊を経お、戊埌瀟䌚をどのような思想で生きおいくのかを瀺した戊埌掟や、鬱屈した瀟䌚や生掻環境に嚯楜芁玠を提䟛した新戯䜜掟など、䜜家それぞれが理解ず衝突を繰り返しお戊埌文壇を発展させおいきたした。この掻性化する文壇においお、戊埌の絶望を受け入れながら戊埌暩力に反抗を瀺す姿勢で立ち、自らを䜜䞭で「無頌掟」ず名乗っお独自の思朮を最埌たで貫いた䜜家が倪宰治19091948です。


青森県接軜郡における有数の倧地䞻である接島源巊衛門を父芪に持ち、倪宰は六男ずしお生たれたした。父芪は県䌚議員、衆議院議員、貎族院議員などを務めた地元の名士で、近所では「殿様」ず呌ばれるほどの裕犏な家庭で倪宰は育ちたした。殿様の子らは、小孊校では実力に関わらず党お優良な成瞟を䞎えられ、屋敷での身の回りは乳母や䞋女が党お䞖話をしおくれたす。䞭孊生になる盎前、殿様である源巊衛門が肺癌によっお亡くなるず、倪宰は緊匵が緩和しお勉孊に身を入れなくなっおいきたす。圌は、勉孊の代わりに文孊に耜溺し、芥川韍之介、志賀盎哉、宀生犀星、井䌏鱒二などの䜜品に圱響され、自らも小説家を目指すようになっおいきたした。党寮制の高等孊校文科に入るず、接島家の暩胜によっお䞋宿を蚱可させお芪戚筋の屋敷で自適に過ごしおいたした。このころに芥川の自殺を受け、粟神に倧きな圱響を䞎えられたす。翌幎、䞖間で倧きな畝りずなっおいたプロレタリア文孊に觊発されお同人䜜品を発衚したしたが、これは接島家の意向に沿わないため、連茉を差し止められおしたいたした。その埌、懞賞小説に応募するも萜遞が続き、圌はカルモチン自殺鎮静催眠剀の倚量服甚を図りたした。ひず月ほど母芪ず枩泉で療逊し、䜓力はすぐに回埩したしたが、粟神には蟠りが残りたした。倧孊では受隓者が少ないために詊隓が無いず聞いおいた東京垝囜倧孊文孊郚仏文科を志望したしたが、実際には詊隓が行われ、これに詊隓官に察しお泣き寝入りをしお特別に入孊させおもらいたした。フランス語を党く孊ばずに入孊したため、圓然のように講矩内容を理解できず、倪宰は矎孊科ぞず転入を考えたすが、同時に小説家の道を切り拓くために井䌏ぞ匟子入りを願い出たす。


倪宰は、高校時代から亀際しおいた芞者の初代ず結婚したいず考え、接島家ぞ決意を䌝えたした。しかし、名士の子が芞者ずの結婚を蚱されるわけもなく、倧きく反察されたす。意地でも曲げない倪宰の意思に、接島家は考えを倉えお倪宰を分家陀籍するかたちで結婚を認めたした。倪宰はこの結果を受けお、喜び以䞊に財産分䞎の察象倖ずなったこずに萜胆しおしたいたす。陀籍ずなった十日埌、自棄を起こすようにバヌの女絊ず勢いでカルモチン自殺を図りたした。そしお、女絊だけが亡くなり、倪宰は生き残りたした。この事件で倪宰は自殺幇助の眪に問われたしたが、接島家に泣き぀き、起蚎猶予凊分で収たりたした。接島家長男は倪宰に察しお、倧孊を無事に卒業するこず、問題行動を起こさないこず、この二点を玄束する条件で仕送りを継続するこずにしたす。そしお、初代が䞊京しお入籍はしないものの結婚生掻が始たり、ようやく萜ち着きを芋せ始めたころ、倪宰は呚囲の空気に流されるように巊翌掻動に身を投じお抜け出せなくなるず、こちらもやはり長男に助け出されたした。仕送りは枛額されたしたが、最埌たで継続されたした。


執筆掻動に粟を出しおいた倪宰でしたが、倧孊の受講は惚憺たるもので、倧孊生掻が五幎目に突入しおしたいたす。倧孊を無事に卒業するずいう玄束に觊れおいるず自芚した倪宰は、仕送りが打ち切られるこずを恐れお新聞蚘者になっお生掻を維持しようず詊みたした。しかしながら、入瀟詊隓は䞍合栌、立ち行かなくなるこずを恐れお銖吊り自殺を図りたす。その埌、䜓調䞍良が重なったこずもありたすが、孊費の滞玍によっお倧孊を陀籍されおしたいたした。この闘病生掻の際、倪宰は頻繁に打った鎮痛剀パビナヌルの䟝存症ずなりたす。執筆掻動は継続しおおり、䜐藀春倫などにも評䟡されるなど、少しず぀文壇に顔を芋せ始めるようになりたしたが、パビナヌル䟝存症の治療を先茩文士たちに勧められおしたいたす。暩嚁を早く埗たい倪宰は、呚囲に死を仄めかしお回るなどの䞍安定な蚀動を芋せおいたしたが、䜕床も繰り返した自殺未遂を匕き合いに出されお、蚘者からは愛想を尜かされおしたいたした。パビナヌル䟝存症は䞀向に治らず、薬を買うために初代の着物を売り捌き、知人ぞの借金は膚れ䞊がっおいきたした。あたりに酷い症状ず生掻に、井䌏は匷制的に倪宰を入院させたす。䞀ヶ月の療逊で少しは症状が治りたしたが、入院䞭の初代の䞍貞行為が発芚し、倪宰は初代ずずもにカルモチン自殺を図り、二人ずも生き延びお離別したした。


井䌏の玹介で、倪宰は矎知子ずいう地質孊者の嚘ず芋合いをしたす。人生をもう䞀床正す、幞犏な生掻を新たに築く、そのような思いを合わせお、倪宰は矎知子ず結婚したした。その決意が実ったのか、実際に二人の結婚生掻は安定し、倪宰の執筆掻動も順調で、この時期に『女生埒』や『駆蟌み蚎え』などの䜜品が発衚されたした。執筆の䟝頌も増え続け、収入が安定しおきたこずからも、倪宰にずっお幞犏な時期であったず蚀えたす。


1941幎、䞖界戊争が拡倧しおいたころ、倪宰は文士城甚什を受けたしたが、肺浞最を理由に城兵を免れたした。その盎埌、倪宰の『虚構の圷埚』に圱響を受けた歌人の倪田静子が、早逝した我が子の日蚘颚の告癜文を圌に送り付けたした。関心を持った倪宰は、圌女に遊びに来るようにず働きかけたした。これがきっかけずなり、静子は倪宰の愛人ぞず確立しおいきたす。矎知子に疑いの県差しを向けられるも、倪宰は策略を甚いお誀魔化し続けたした。戊争が激化しおも倪宰は倉わらずに䜜品を発衚し、『新ハムレット』や『埡䌜草子』など、勢い衰えずに執筆を続けたした。そしお、1945幎の東京倧空襲では矎知子の実家の甲府ぞ疎開したすが、今床は甲府空襲によっお接軜の接島家ぞ疎開したした。その埌、戊争は敗戊ずいう圢で終わりを迎えたす。


敗戊した日本政府は、GHQ連合囜軍総叞什郚の呜によっお蟲地改革を発衚したした。これは、日本囜内での貧富の差を排陀し、戊争の匕き金ずなった軍囜䞻矩を消滅させるために行われたした。囜内の地䞻から匷制的に土地を取り䞊げ、小分けにしお安䟡に小䜜人ぞ売り぀けたした。囜民から思想を取り䞊げ、戊埌の食糧䞍足を自らで解消させようずしたこの囜策は、䞀芋するず効率的に思われたすが、现かく土地を分配したための蟲民の零现化が進み、抜本的な解決には至らず、珟圚たで続く問題ずしお残っおいたす。接軜の倧地䞻であった接島家は兞型的な搟取を受け、抱えおいた人や資産は恐ろしい勢いで消滅しおいきたした。倚くの財産を取り䞊げられた接島家を芋た倪宰は、アントン・チェヌホフの『桜の園』を思い起こし、この光景を題材ずした䜜品を生み出そうず考えたした。これが、本䜜『斜陜』です。


静子の子を認知した倪宰は、別の愛人である山富栄ずも関係しおいたした。肺の病は進行し、病状がひどくなっおいたこずから、富栄は愛人兌看護垫のような圹回りをしおいたした。倪宰の面倒を芋続けた圌女でしたが、やがお䞍安定な関係性が問題ずなり、圌女自身も粟神を病んでいきたす。そしお、匷い意思を持っお倪宰に迫り、ずもに心䞭するこずになりたした。倪宰は享幎䞉十八歳でした。


倪宰は、䞊蚘のような反倫理的ず蚀える生掻を過ごしたした。しかしながら、圌の日垞生掻は極めお芏則的で、几垳面なものであったず蚀われおいたす。定刻に起床し、午前䞭に執筆を行い、午埌には読曞や亀友を、そしお倜は自らを芋倱うほどに飲み明かすなど、党おが無法者のような生掻であったのではなく、圌自身が衝動だけでなく理性を持っお野攟図な生掻を送っおいたした。これらの理由の䞀぀ずしお、呚囲ぞの奉仕の粟神ずいう、自分を道化の存圚ぞず萜ずし蟌んだ意図があったのだず考えられたす。

圌の䜜品には、独自に解釈した聖曞の匕甚が倚く蚘述されおいたす。カトリックでも、プロテスタントでもない、圌自身によっお信じようずした神の存圚がそこにがあり、圌の匷い求道粟神が導いおいたのだず芋るこずができたす。䜜品のなかには、䞊蚘の人生が随所に玠材ずしお珟れ、背埳感や頜廃思想が滲み出おいたす。このような、頜廃を自ら求める姿は、圌の心の芯に確固たる思想が根付いおいたからだず考えられたす。自分を人間倱栌者であるず、そしおそれを求めようずする思考には、倪宰の生い立ちが匷く圱響しおいたす。


接島家ずいう貎族ずしお生たれた圌は、党おに満たされた環境を芋お、この先には衰退しかないのだずいう考えが頭を過りたす。奪われる者、壊される者、貎族がそういった察象ずしお芋えた圌は、い぀蚪れるずもわからない恐怖に取り憑かれたす。読み持った芥川韍之介やプロレタリア文孊からは、悲痛な民衆の声ず、持぀者ぞの敵意が䌝わっおきたした。そしお事実、蟲地改革によっお党おを取り䞊げられた接島家を芋お、これこそが為されるべき鉄槌であったず確信を抱きたす。倪宰は、革呜を起こされる偎の人間ずしおの理解を持ち、そこに察しお正圓性さえ認識しおいたした。このような革呜を望む被革呜者ずしおの思想は、すでに手にしおいた求道粟神によっお裏付けされ、自らを頜廃ぞず導くこずが圌自身の為すべき革呜行為であったのだず、倪宰自身は理解しお䜜品ぞず思いを昇華させおいきたした。


こうした圌自身が執筆した䜜品には、圌の持぀「運呜論」ずも蚀える思想を随所に埋め蟌んでいたす。たた、頜廃を求めるものずしおの「堕萜者」ずしおの自身の投圱をも詊みおいたす。圌の䜜品には幟぀も圌自身の経隓や心情が反映しおいる点も、このこずが圱響しおいたす。しかし、圌の䜜品には日本の自然䞻矩文孊のような赀裞々な告癜を䞭心に据えたものはなく、感傷や同情ずいったものから寧ろ遠ざけようずする描写が倚く芋られたす。自分が頜廃を望み、堕萜を望んだからこその状況であり、それは被革呜者が受けるべき眰ずも蚀える運呜であるず䞻匵するかのようです。こうした既成の倫理に自ら反しようずする行動を正圓化した姿勢を、倪宰自身は「無頌掟」ず呌びたした。圌は同情から遠ざかるように、根底に告癜するかたちでその思想を䜜品に織り蟌みたした。


瀟䌚䞻矩に傟倒し、プロレタリアに賛同し、それらを「貎族」である接島家に吊定された倪宰は、自らが抱いた思想を吊定され続けたした。この苊悩は、自らが瀟䌚革呜に手を染めるこずが叶わないならばず、自己を抹殺する頜廃を遞んでしたいたす。本䜜『斜陜』の䞻題に眮かれた「革呜」は、自身の身代わりである䞭心的な登堎人物に委ねられ、それぞれの行末を提瀺しおいたす。匟の盎治は青春期の姿を、母芪には幌幎期の姿を、語り手の姉には革呜を起こしお頜廃を求める姿を、倪宰は貎族の没萜劇に隠し蟌むように自身の告癜を蚘したした。

匟の麻薬䞭毒ず貎族であるずいう矞恥心は、終幕で明確に綎られおいたす。貎族に嫌悪感を抱きながら、自身から溢れおしたう貎族ずしおの振る舞いず意識に耐えられず、匟は激しく苊悶したす。䞀方で、没萜しおいく身の回りを受け入れるこずなく、たた抵抗もしない母芪には、無知な貎族ずしおの結末が据えられおいたす。双方ずも、倪宰自身が生涯を通しお苊しんだ自己嫌悪の情が根源にあり、それぞれに圌が描く「こうあるべき」結末が甚意されおいたす。

革呜者である姉は、前述の愛人である静子が投圱されおおり、子を宿した点や認知した点は事実を元にしおいたす。貎族の子が頜廃を求めお革呜を起こす熱量や、瀟䌚的貎族の䟡倀芳に察する厭悪の熱情は、こうした珟実的な描写が拍車を掛けお有無を蚀わさぬ説埗力を瀺しおいたす。


倪宰の文章は、ずくに戊埌においお、柔軟な文䜓が特城であるず蚀われおいたす。これは圌自身が意識しお取り組んでいたこずで䜜品にも蚘されおいたすが、戊埌に浞るべき文䜓は「軜み」であるず断蚀しおいたす。過剰な挢字の䜿甚を避け、句読点をこためにおいお、読み手が軜みを感じるように工倫されたした。


この「かるみ」は、断じお軜薄ず違うのである。慟ず呜を捚おなければ、この心境はわからない。くるしく努力しお汗を出し切った埌に来る䞀陣のその颚だ。䞖界の倧混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翌のすきずおるほどの身軜な鳥だ。これがわからぬ人は、氞遠に歎史の流れから陀倖され、取残されおしたうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん叀くなっお行く。君、理窟も䜕も無いのだ。すべおを倱い、すべおを捚おた者の平安こそ、その「かるみ」だ。

倪宰治『パンドラの匣』


戊埌、接軜より東京に垰っおきた倪宰は、敗戊の跡を目の圓たりにし、匷烈な怒りを芚えたす。打ち荒れた街に文化の圱は無く、目の前を飢逓が埋め尜くし、再び自分は貎族の名に守られたこずを悟りたした。埩興しようずする文化によっお、やがお文士たちも息を吹き返し、それぞれが思想を持っお寄り集たり、各所で文芞サロンを開いおいたした。しかし、掲げる思想に誇倧な印象を埗た倪宰は、これら党おのサロンを厭悪したす。


私はサロン芞術を吊定した。サロン思想を嫌悪した。芁するに私は、サロンなるものに居たたたらなか぀たのである。
いたではもう、瀟䌚䞻矩さぞ、サロン思想に堕萜しおゐる。私はこの時流にもたた぀いお行けない。
日本の文化がさらにたた䞀぀堕萜しさうな気配を芋たのだ。このごろの所謂『文化人』の叫ぶ䜕々䞻矩、すべお私には、れいのサロン思想のにほひがしおならない。

倪宰治『十五幎間』


目の前の惚状を芋ようずしないサロンの姿勢に、珟状を理解しお䌝えようずしない報道姿勢に、倪宰は怒りを露わにしたした。文化人を気取る者たちの銎れ合いずしおのサロン、そのように目に映った倪宰は、この瀟䌚そのものを厭悪し、自己の革呜が必須であるこずを確信したした。圌が自らを芪の仇のように傷付けお生み出した䜜品は、圌が起こそうずした革呜の䞀端であり、そこには匷い芚悟ず思想が蟌められおいたす。しかし、それでも、倪宰は他人に情を掛け続けたした。圌は心底、人間を嫌っおいた蚳ではありたせんでした。


ああ、䜕かこの人たちは、間違っおいる。しかし、この人たちも、私の恋の堎合ず同じ様に、こうでもしなければ、生きお行かれないのかも知れない。人はこの䞖の䞭に生れお来た以䞊は、どうしおも生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きおいる事。生きおいる事。ああ、それは、䜕ずいうやりきれない息もたえだえの倧事業であろうか。

倪宰治『斜陜』


貎族の生たれず斜陜貎族の生たれ、共に城兵を病で逃れ、共に身を賭しお瀟䌚を憂い、共に自死を遞んだ二人の䜜家、倪宰治ず䞉島由玀倫は意倖ず倚くの共通点を持っおいたす。しかし、それぞれが盞容れなかったこずは残された䜜品からも理解できたす。それでも、違った圢で亀友があったなら、ただ芋ぬ理解の䞊で、二人に違った未来があったのではないかず考えおしたいたした。倪宰治の『斜陜』、未読の方はぜひ、読んでみおください。

では。


いいなず思ったら応揎しよう