仏教の歴史と超能力
こんにちは。今回は、密教の歴史について書いてみようと思います。
密教は超能力志向と結びついているという話に前回の記事で少し触れました。
しかし、実はこれは少し不自然なことと言えなくもありません。
というのも、仏教の中心的な教えは、縁起と空であり、それを悟ることは、すべては関係性の結び目として存在しているということを理解することだからです。
少し解説をしましょう。
縁起というのは、「関係性」のことです。
そして、空(くう)の意味は、「あるとも言えるしないとも言える」ということです。
具体例で考えてみましょう。
例えば、あなたを定義しようとしてみて下さい。
名前、住所、仕事、両親、出身地、学歴、などなどいろんなことに触れることになるでしょう。
さらに厳密に行うためには、名前とは何か、住所とは何か、仕事とは何か、親とは何か、出身地とは何か、学歴とは何か、とそれぞれについて定義をしていかなくてはなりません。
そして、その定義について、さらに定義をすることになるのです。
自分を定義しようとすれば(自己紹介を完璧にしようとすれば)、どんどん自分以外のことについて語っていかなければならなくなるということです。
ということは、自分とは自分以外の宇宙そのもののことなのだということが分かりますよね。
これが、縁起ということです。
これを頭で理解するだけではなく、体感的に把握したとき、それを悟りといいます。
これが分かれば、自分は自分のみによってある訳ではないということが分かりますから、あると言えばあるし、ないと言えばないということも分かりますよね。
これが空という発想です。
それを悟るための方法を釈迦は説法し、それが仏教となります。
そして、仏教は釈迦が死んでから進化を続けていきました。
その進化は、どうすれば悟りへと近づけるかということや、どうすれば多くの人を悟りに導くことができるかということを目的として起こっていくのです。
大まかな歴史としては、小乗仏教、大乗仏教、そして密教(初期密教、中期密教、後期密教)という流れで仏教は発展します。
小乗仏教(もしくは上座部仏教)は、煩悩の火を吹き消すことによって縁起を悟ることを目指します。
そして、大乗仏教は慈悲(利他の精神によって自分以外の人を幸せにすること)の実践によって悟りを目指します。
なぜならば、利己的な煩悩が目を曇らせて悟りを不可能にしていると考えるからです。
密教は少し特殊で、まず悟ってみて(即身成仏)、そのあと縁起や空を体感させることで多くの人を悟りに導くことを目指します。
全ては空(あるとも言えるしないとも言える)という意味で幻ならば、よりよい幻を作り出すことで、この世は幻であることを実感してもらおうということです。
ですから、小乗仏教と密教は少し相性が悪いと言えます。
というのも、煩悩の火を吹き消すという小乗仏教と、煩悩を叶えることで幻を気づかせるという密教は、実践することが表面上は全く逆方向だからです。
ちなみに僕は、密教をやっているので、煩悩は全肯定です。
煩悩はコントロールできれば、全く問題ないのです。
ここでも、皆さんの煩悩(お金持ちになりたい、健康になりたい、いい暮らしがしたい、幸せになりたい、モテたい、出世したい、など)をたくさん叶えていこうと思います。
そのためには、僕は遠隔気功のようなオカルトチックな方法論も使います。現代科学で解明されていないけれども人類が持っている超能力は、密教的な文化の中でたくさん見つけられてきているのです。
その技術を、ここでも使っていくつもりです。
こういう現世利益によってこの世を豊かにすることが、密教の存在意義の1つなのすから。
是非、みんなで一緒に世界を豊かにしていきましょう。
幸せな人が増えれば、世界は幸せになり、平和になっていくと僕は信じています。
