【短編小説】 ガラムマサラで、もう一度。
近所に、本格的なインドカレー屋がある。
扉を開けて入ると、スパイスの香りが出迎え、
薄暗い店内には、インド象のタペストリー。
まるで異国に迷い込んだみたい。
香辛料の効いたマトンのカレー。
豆カレー。エビカレー。
今日はほうれん草カレーにした。
スプーンで掬って、インドのライスと共に口にほうり込む。スパイスと、甘さの奥の辛さを楽しむ。
この店は甘さの奥に、とんでもない辛さを仕込んでくる。今日もやりやがったな。
◆
彼氏が一度行ってみたいとしつこく言うので、
渋々連れて行った。
彼はひと口食べて、スプーンをガチャリと置いた。
「うわっ、辛〜〜〜!!やべぇな、
こんな辛いの普通に提供していいのかよ?
こんなん好んで食うやつの気が知れねー」
ちょっと、店内で大声で言うのやめてよ。
そして好んで週3で通ってるの、あなたの彼女なんですけど?
すごく辛いよ?って言っておいたじゃん。
いつもながら、何も聞いてない……。
「いいよ、食べられないなら無理しないで。
あたし、この店の辛さ得意だから」
手を差し出したら、
「はぁ?んな事頼んでねーよ!お前より辛いの得意だし!」と言う。
カレーを掬って口に運んでは、ラッシーをがぶ飲み。後から来る辛さに、舌が麻痺してるんだろう。
◆
「おい、店員!ラッシー!」
空っぽになったグラスを指さし、インドの方らしき店員さんを呼びつける。
「ラッシーね、OK」
ごめんね、店員さん。
カスハラ気味なの、この人。
あたしは心の中で謝った。
出会った頃は、こんな風じゃなかったのになぁ。
◆
あたしが大学1年生のころ、
彼はテニスサークルの1年先輩。
テニスボールとラケットに振り回されていた時、
スっと手を取って、フォームを教えてくれた。
「ユミちゃん、こうスイングするんだよ」
掴まれた手首が熱い。
体温まで伝わりそうな距離。
「あっ、いい感じじゃん」
「うるせー、お前ら黙ってろよ」
ムキになって言い返す姿が、特別扱いの証拠な気がして、それからいつもその証拠を探してる自分に、「あ、これ恋かも」って気づいたの。
そうしてふたりでいくつもの年を跨いで、
いまここにいる。
それは、紛れもなく眩しくて、
何もかもが強くて熱かった。
◆
カレーをやっと食べ終わった彼は、
吹き出す汗を拭いながら、あたしを睨んだ。
「お前さぁ、いつも配慮が足りないよな」
「どういうこと?」
空調がブーンと唸りをあげる。
「こんな異常な辛さの店なら、もっと本気で言えよ。そしたら俺、こんな店来なかったわ」
あたしは心がスっと冷えるのを感じた。
空調が強くなった訳じゃない。
ただ、紅茶が冷めるように、自然に冷えただけだ。
「もういいよ、別れよ」
あたしはキッパリと言った。
「え、おい……」
「何か起きると、全てあたしのせいになる。
あたし、それに疲れたの」
言った途端、急に身体が熱くなるのを感じた。
スパイスのせいかもしれない。
でもそんな事、どうでもいい。
◆
店の閉店時間が近づく頃、彼は荒々しく店を出て行った。お互いに、満身創痍だ。
納得してくれたかは、分からない。
けれど、もうあたしの中では彼氏じゃない。
あたしにも悪いところが沢山あったんだろう。
彼があんな言い方をするくらいに。
ポタリ、と涙が溢れてきた。
どこかで、道を直せればよかったな。
自分なりに努力したけど、それはいつもボタンをかけ違えてすれ違っていた。
インド人の店員さんのいるカレー屋で、
あたしはひとり号泣した。
「はい、ドーゾ」
気づくと、店員さんがカップを差し出していた。
チャイからカルダモンの香りが立ち上っている。
「ありがとうございます。これ店のおごり?」
店員さんは、ぷっと吹き出した。
「アナタ、逞しい。きっと、ダイジョブ」
ニコッと笑った顔が、チャイより甘くほどける。
スパイスとカルダモンの香りがする。
また足繁く通うことになりそうだな……。
ここは、本格インド料理と、
ちょっとあたしを救ってくれる店。
『インド料理店 ガラムマサラ』
了

