欠史八代の年代を縮めると、葛城と纒向がつながってくる
3世紀の大和盆地で何が起きていたのか
古代史を考えていると、どうしても引っかかる問題があります。
それが、欠史八代(けっしはちだい)の年代と、纒向遺跡(まきむくいせき)の年代が合わないということです。
『日本書紀』の伝統的な年代をそのまま西暦にすると、欠史八代は紀元前のかなり古い時代に置かれます。
綏靖天皇(すいぜいてんのう)前581~前549年
安寧天皇(あんねいてんのう)前549~前511年
懿徳天皇(いとくてんのう)前510~前477年
孝昭天皇(こうしょうてんのう)前475~前393年
孝安天皇(こうあんてんのう)前392~前291年
孝霊天皇(こうれいてんのう)前290~前215年
孝元天皇(こうげんてんのう)前214~前158年
開化天皇(かいかてんのう)前158~前98年
そして崇神天皇(すじんてんのう)が前97~前30年。
これをそのまま採れば、欠史八代と纒向はほとんど関係しません。
ところが考古学では、纒向遺跡は3世紀(西暦200~300年頃)を中心に発展した大規模拠点と考えられています。
つまり、伝統年代のままでは全く合わない。
ここが出発点です。
欠史八代を「実年代」として圧縮するとどうなるのか
神武天皇紀元前660年を歴史的実年代とみるのは難しく、欠史八代の非常に長い在位年数も、そのまま受け取る必要はないと考えます。
そこで仮に、一代20~30年程度として並べ直してみる。
すると、欠史八代の後半は2世紀後半~3世紀前半に入り込む可能性があります。
かなり大胆にイメージすると、孝霊天皇が2世紀後半、孝元天皇が2世紀後半~3世紀初頭、開化天皇が3世紀前半、崇神天皇が3世紀中頃~後半、という配置も可能になります。
もちろん、これは確定年代ではありません。
ただ、系譜の順番は残し、在位年代だけを現実的な長さに圧縮するという考え方です。
そうすると、一気に景色が変わります。
ちょうどそこに纒向が出てくる
纒向遺跡は、奈良盆地東南部に3世紀初頭ごろから急速に形成されたと・・
しかも普通の農村集落ではありません。
吉備、東海、北陸、山陰など、各地の影響を受けた土器が出土し、大型建物、祭祀施設、水路、初期古墳群が集中します。
要するに、各地域の人・物・情報が集まる広域政治センターだった可能性が高い。
ここに欠史八代後半の仮想年代を重ねると、孝元~開化あたりで纒向が出現し、崇神期に本格化するという配置も見えてきます。
ただしこれは、あくまで年代を圧縮して重ねた仮説です。
では、その前に葛城では何が起きていたのか
ここで葛城です。
現在の御所市周辺には、纒向よりはるかに古い弥生集落があります。
中西遺跡(なかにしいせき)、秋津遺跡(あきついせき)、鴨都波遺跡(かもつばいせき)などです。
特に中西・秋津周辺では、弥生時代前期から大規模な水田農耕が行われていました。
つまり、纒向が成立する何百年も前から、葛城にはすでに農業生産・集落・祭祀・地域社会の基盤があった。
これは重要です。
纒向はゼロから突然生まれたのではありません。
大和盆地の中には、それ以前から複数の地域社会が存在していた。
葛城はその有力な一つだったはずです。
「葛城から纒向へ引っ越した」ではない
ここで一番気をつけたいのは、葛城の人々がみんな纒向へ移住したと考えることです。
むしろ、葛城の地域勢力が本拠地を維持したまま、纒向を中心とした広域政治連合に参加したと考える方が自然だと思います。
纒向に集まったのは、吉備だけでも、東海だけでも、出雲だけでもありません。
大和盆地内部の勢力も当然関わったはずです。
その中に、葛城、磯城、三輪などがあったと考える。
つまり纒向とは、単独の一族が築いた都というより、各地の有力勢力が共同で利用する新しい政治センターだった可能性があります。
欠史八代をここに置くと面白い
ここで、欠史八代の宮伝承を思い出します。
葛城高丘宮、掖上池心宮、室秋津島宮など、欠史八代の宮伝承は葛城周辺に多く残っています。
もちろん、「そこに本当に天皇の宮があった」と証明されているわけではありません。
ただし、古い王権の記憶が葛城地域に強く結び付けられていることは興味深い。
そこで一つの仮説が出てきます。
欠史八代とは、後世に創作された架空の天皇だけではなく、弥生時代後期の大和盆地に存在した複数の地域首長や王統の記憶が、後に一本の皇統へ整理されたものではないか。
もしそうなら、葛城に残る宮伝承と、葛城の弥生遺跡が少し意味を持ってきます。
西暦で並べるとこう見える
かなり仮説的ですが、私は今こんな図をイメージしています。
紀元前数世紀~1世紀
葛城――中西・秋津・鴨都波などの農耕集落
↓
1~2世紀
葛城を含む大和盆地各地に地域首長層
↓
2世紀後半
地域勢力の再編
欠史八代後半の記憶がこの辺にある?
↓
200年前後
纒向が出現
孝元~開化あたりを仮にこの時期へ置く
↓
230~270年頃
纒向が急速に広域化
開化~崇神初期?
↓
270~300年頃
纒向を中心とする王権が成熟
崇神的な再編?
ここで「ハツクニシラス」が効いてくる
崇神天皇には、**御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)**という称号があります。
つまり、「初めて国を治めた天皇」という意味です。
神武天皇が初代なのに、なぜ崇神も「初めて国を治めた」と呼ばれるのか。
ここは以前から不思議でした。
でも、葛城などの古い地域勢力 → 纒向を中心とする広域連合 → それを再編した崇神、という流れで考えると分かりやすくなります。
神武が「王統の始祖」。
崇神が「広域王権の始祖」。
そういう二重の建国記憶が残ったのではないか。
もちろん、これも証明された事実ではありません。
しかし、欠史八代・葛城・纒向・崇神を西暦の時間軸に置き直すと、意外なほどきれいにつながります。
葛城は纒向成立を支えた地域勢力の一つだったのか
私が今一番気になっているのはここです。
纒向は突然現れたように見えます。
しかし、その背景には、葛城のような古い農耕社会、磯城の集落、三輪の祭祀、吉備や東海などとの広域交流、そうした複数の地域社会が存在していました。
だから、纒向は「何もないところから生まれた王権」ではなく、複数の古い地域勢力が再編された結果、生まれた政治センターだったのではないか。
そして葛城は、その成立を支えた地域勢力の一つだったのではないでしょうか。
欠史八代は本当に「欠史」なのか
記紀には事績がほとんど書かれていない。
だから欠史八代と呼ばれます。
しかし、宮の名前と場所は残っている。
その場所を地図に落とすと、葛城、大和高田、橿原、田原本、奈良。
そしてその先に、三輪・纒向がある。
もしこれが単なる偶然ではないとしたら、欠史八代の宮伝承には、大和盆地の複数の地域勢力が、やがて纒向を中心とする初期ヤマト王権へ再編されていく以前の記憶が、何らかの形で反映されているのかもしれません。
これはまだ仮説です。
でも、「紀元前何百年」という伝統年代を一度外して、3世紀(西暦200~300年頃)の考古学的時間軸に置き直すと、欠史八代が突然、葛城と纒向の間に姿を現す。
そこが、今一番面白いところです。
