男性差別に気づく
日本国憲法第14条第1項には、次のように定められている。
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
すべての人は、性別によって差別されることがあってはならない。このことを前提として話を進めようと思う。
1. 「ある国」の話
ここで世界のどこかにある「ある国」を紹介しよう。その国ではこんなことが起きている。
――その国の女性は常に差別に曝され、圧迫を受けている。
その国の女性の健康状態は、男性に比べて非常に悪い。寿命には大きな差があり、女性は男性よりも約6年も寿命が短い。自殺者の約7割が女性である。住むところもなく、危険な野外生活を余儀なくされている人の約9割が女性である。
その国では男性が自由を謳歌する一方で、女性は「女性だからこうすべき」という古くからの性役割を周囲から押しつけられる。この国では女児が学業について「女なのだからこうしなさい」と言われる割合は、男児が言われる割合のおよそ倍である。こうして女性が負わされる性役割の結果、過労死者の約9割が女性である。
その国では性別によって受けられる教育が異なる。確かに多くの高等教育機関は女子学生も受け入れているが、いまだに男子学生しか受け入れない高等教育機関も少なくない。反対に女子学生しか受け入れない高等教育機関は存在しない。それだけではなく、女子学生を受け入れているとはいっても、男子学生よりも高い成績を収めなければ入学できない入試制度を導入している高等教育機関も存在する。
就職においても女性に対する差別は著しい。高等教育機関では男性が優遇して採用されており、男性と同等の業績を持っている女性がいたとしても男性が優先的に採用される。男性だけを対象とした公募は存在するが、女性だけを対象とした公募というものはない。
女性に対する暴力も深刻である。暴力的な犯罪に遭い、死亡したり重軽傷を負ったりする被害者は女性の方が多く、約6割が女性である。それにもかかわらず、「女性を暴力から守れ」という主張がなされることはほとんどない。かえって、この国の政府は「男性を暴力から守れ」というスローガンを発信している。
性暴力も蔓延している。この国ではある芸能プロデューサーが芸能人を目指す何千人もの幼い少女たちを、芸能人として活躍させることと引き換えにレイプしつづけていた。それは多くの国民が知る公然の秘密であったが、結局そのプロデューサーが死去するまで問題にならなかった。しかも、プロデューサーの死後にかつての性暴力を告発した元少女は、誹謗中傷を受けて自殺した。――
こんなとんでもない国が存在を許されるべき理屈がない。このような国の存在を知って、この驚くべき、残酷な女性差別に怒りを覚えない人がもしいるとすれば、その人にはまともな倫理観がない。
だが、この恐るべき国は実在するのである。この国がどこか、一読して気づいた読者もいるだろう。それは我が国、日本である。ただし、男性と女性をそっくり入れ替えた日本である。
もし本当に「すべての人が性別によって差別されることがあってはならない」と信じるならば、つまり、「女性が男性よりも尊重されるべきで、男性は女性よりも軽視されるべきである」と考えないならば、女性がこのような状況に置かれている国があった場合に怒りを覚える人は、日本の現状を知ってその男性差別に怒りを覚えずにいられるわけがない。
ところが現実はどうであろうか。もし女性が置かれていたら「驚くべき、残酷な女性差別」になるはずの状況が、男性であるために放置されているのだ。
2. 男性差別に目を向ける
このような男性差別を指摘すると、往々にして「恣意的な切り取りだ」という紋切型の非難がなされる。だが、生命を奪われない権利という何にも先立つべき人権を取り上げることが「恣意的な切り取り」であり、この権利を意図的に黙殺することが「公正な見方」だというのだろうか? 俗に言う「命あっての物種」である。
「女性の惨状」が語られるとき、それはしばしば数字を伴わない。数字を伴わせてしまえば、寿命、健康、犯罪被害――多くの指標が男性の不利を指し示してしまうからだ。代わりに、感情や共感に訴えられる。たった一つの例を示して、「女性がこんなに苦しんだ例が存在する」という物語で、女性保護の必要が語られる。誰かがそのようなフェミニズム的な演説をすれば、私たちはつい感動の涙を流しながらスタンディングオベーションをしてしまいそうになる。だが、女性保護の必要と言えば聞こえがいいが、人類が利用できる資源が有限である以上、それは裏を返せば、男性に対する保護を節約するということだ。男性を殺して、その命を女性に与えるということなのだ。
私たちが数字によって男性の苦境――相対的に、女性の困難は「まだしもマシ」であること――を語ると、しばしば、感情に訴える反発を受ける。曰く、数字ばかりを見て、個々の人の苦しみに目を向けない、共感を示そうとしないのは、人間らしい感情に欠けている、と。しかし、それが人間らしさであるならば、そのような人間らしさは捨てるべきだ。一つの個別の事例が壮大な修飾語を加えられて語られ、人の涙と同情を誘うとき、その裏には大量の語られることのない苦難がある。その語られることのない苦難は、私たちの前に、数字としてしか表れない。誰かに語ってもらえる一人の人間の壮絶な物語に同情して涙を流すのに、語られない一万人が同じように苦しんでいることを統計によって知ったときに一万倍の涙を流せないならば、それは偽善でしかない。本当の人間らしさとは、胸いっぱいの同情を、個別の物語にではなく、「統計上の数字」に対して捧げられることでなければならない。
