効率化はもう、便利な言葉ではいられない
効率化、
という言葉がある。
速くなる。
ラクになる。
ムダが減る。
そんなイメージ。
待ち時間。
確認。
面倒なやり取り。
そういったものは
減るにこしたことはない。
でも、
効率化って、ただ単純に
ムダを減らしているだけなのだろうか。
たとえば、
Amazonの置き配。
少し前なら、
玄関に置いて帰るなんて
信じられなかった。
盗まれたら?
届かなかったら?
間違っていたら?
でも今は、
普通に受け入れている。
効率が上がった、
というよりも、
もしかしたら
信頼の前提が
変わってきているのかもしれない。
そうであれば。
効率化って、
ただ速くなる話ではなくなる。
「どこまで疑わなくていいか」
そこが変わる話でもある。
でも、
もう少し見てみると、
それだけでもなさそうだった。
置き配で減ったのは、
確認だけではない。
受け取るために待つこと。
タイミングを合わせること。
人とひとこと交わすこと。
そういうものごとが、
まとめて省略されている。
それは、確認の手間だけじゃない。
待つこと。
合わせること。
少し気を遣うこと。
ほんの一瞬だけ、
相手の時間に入ること。
そういうものまで、
いつのまにかコストに見えるようになっている。
レストランでも、
似たようなことがある。
端末で注文できるのに、
わざわざ人を呼びたい人もいる。
その隣で、
人を呼ぶこと自体が、
誰かの時間を止めているように
見えることもある。
同じやり取りなのに、
ある人には、
少し安心する時間になる。
別の人には、
流れを止めるものに見える。
どちらが正しい、
という話でもない。
もしそうであれば、
効率化って、
ムダを減らしているだけじゃない。
何をムダと呼ぶのか。
その線引きそのものを、
静かに変えているのかもしれない。
以前、
「レゾナント資本主義」
という言葉でしか拾えなかった違和感が、
少しずつ、
別の輪郭を持ちはじめている。
── 観測ログ
