やってあげたい気持ちは、まだある。
やってあげたい気持ちは、
まだある。
助けたくないわけではない。
会いたくないわけでもない。
大切ではなくなったわけでもない。
むしろ、
大切だからこそ、
できることなら応えたいと思う。
家族でも、
友人でも、
仕事でも。
来てくれるのは、
うれしい。
頼ってくれるのも、
うれしい。
声をかけてもらえることも、
本当はうれしい。
でも、
うれしいことにも、
受け入れるための力がいる。
時間がいる。
体力がいる。
準備がいる。
お金がいることもある。
あとから休む余白もいる。
昔のゲームなら、
ここで「ガッツが足りない」と表示されたのかもしれない。
でも現実の人間関係では、
その残量が見えない。
だから、
気持ちがなくなったように見えてしまうことがある。
それを、
冷たい言葉で数えたいわけではない。
でも、
何も減っていないことにはできない。
誰かを受け入れるとき、
そこには、
目に見えないものが動いている。
用意すること。
整えること。
予定を空けること。
終わったあとに、
少し横になること。
気を遣わせすぎないように、
こちらも気を遣うこと。
そういうものは、
数字にはなりにくい。
だから、
受け取る側には見えにくい。
喜んでくれていると思っていた。
大丈夫だと思っていた。
いつも通りだと思っていた。
でも、
支えている側の中では、
少しずつ何かが減っていたのかもしれない。
それは、
愛情が減ったということではない。
ただ、
その愛情を形にするための余白が、
足りなくなっていく。
そういうことが、ある。
最初から断るのは、
むずかしい。
うれしいから。
かわいいから。
家族だから。
助けたいから。
水を差したくないから。
だから、
最初は受け入れる。
このくらいなら大丈夫。
今回だけなら大丈夫。
喜んでくれるなら大丈夫。
そう思っているうちに、
それがいつのまにか、
当たり前になっていくことがある。
頼る側は、
甘えているつもりがない。
支える側も、
無理をしているつもりがない。
けれど、
続いていくうちに、
どこかで片方の余白が足りなくなる。
そのとき、
断る言葉は、
急に冷たく聞こえる。
今月は少しむずかしい。
今回は来ないでほしい。
もう前みたいにはできない。
そう言われた側は、
驚くかもしれない。
嫌だったのかな。
迷惑だったのかな。
もう大切じゃなくなったのかな。
でも、
そうとは限らない。
支援が止まったことは、
愛情が止まったこととは限らない。
その人も、
自分の続きを守らなければならなかっただけかもしれない。
関係を続けるために、
境界が必要になることがある。
境界は、
拒絶とは限らない。
もう関わりたくない、
という線ではなく、
このままだと、
関わり続けられなくなる、
という線かもしれない。
支えたい気持ちと、
支えられる余裕は、
同じではない。
会いたい気持ちと、
受け入れ続けられることも、
同じではない。
好きだからできることがある。
でも、
好きだからといって、
何も減らないわけではない。
市場にも、
少し似た景色がある。
需要がある。
期待がある。
支援がある。
資金が用意される。
それだけを見ると、
まだ大丈夫に見えることがある。
でも人は、
その需要が何に支えられているのかを見始める。
誰が支えているのか。
その支えは続くのか。
支えが外れたあとにも、
その価値は残るのか。
需要があることと、
需要が自分の足で立っていることは、
同じではない。
支えられていることは、
悪いことではない。
むしろ、
支えがあったからこそ、
立ち上がれるものがある。
でも、
その支えをしている側にも、
続いていくための形がいる。
そこを見ないまま、
支えを当たり前にしてしまうと、
いつかどこかで、
関係そのものが苦しくなる。
やってあげたい気持ちは、
まだある。
でも、
いまは少しむずかしい。
その言葉の中には、
冷たさだけではなく、
続けていくための精一杯が入っていることがある。
愛情がないのではない。
大切ではなくなったのでもない。
ただ、
その愛情を形にするための余白が、
いまは足りない。
そういうことも、
あるのだと思う。
断られたとき、
すぐに愛情が減ったと思わなくてもいいのかもしれない。
断る側もまた、
その関係を壊さないために、
遅れて境界を置いているのかもしれない。
支えることと、
支え続けられることは、
同じではない。
そして、
支え続けられないことと、
信頼していないことも、
同じではない。
── 観測ログ
