天の意志か、人の策略か――TVアニメ『天幕のジャードゥーガル』第9幕「天(テングリ)」感想と考察
TVアニメ『天幕のジャードゥーガル』第9幕「天(テングリ)」を見ました。今回は、サブタイトルにもなっている「テングリ」を軸に、モンゴルの信仰と政治、そして史料に残るトルイの逸話が物語の中に巧みに組み込まれていました。
テングリとは何か――モンゴルの人々にとっての「天」
まず、テングリとは何かを簡単に整理しておきたいと思います。
テングリとは、モンゴルや中央アジアの遊牧民が信仰していた「天」や「蒼き空」を指す存在です。キリスト教やイスラームにおける唯一神とは少し異なり、広い空そのもの、世界を動かす大きな力、運命を司るような存在として考えられていました。
モンゴルの信仰では、テングリだけでなく、祖先の霊、山や川、火や大地などにも霊的な力があるとされていました。その中でもテングリは、数ある霊的存在の上に立つ、最高位の天の力として位置づけられていたといえます。
草原で暮らすモンゴルの人々にとって、空や天候は生活に直結するものでした。雨が降るか、雪が降るか、嵐が来るかによって、家畜の生死も、人間の暮らしも大きく左右されます。だからこそ、「天」は単なる空ではなく、人間の運命を左右する大きな力として受け止められていました。
さらにモンゴル帝国の時代になると、テングリは政治とも深く結びつきます。チンギス・カンやその子孫たちは、自分たちの支配は「永遠なる天」によって認められたものだと考えました。つまり、カアンの権威は単に武力によって成り立っているのではなく、「天の命令」によって世界を治めるという思想によって支えられていたのです。
三峰山の戦い――テングリに戦の行方を尋ねる
この第9幕では、そのテングリに「尋ねる」場面が二度描かれます。
一つ目は、三峰山の戦いです。
金国攻めの中で、トルイ軍は南宋領を通って金国の首都開封の南を大きく迂回し、漢水をわたり、オゴタイの援軍を迎えるべく、開封の南西130kmほどのところにある三峰山に麓に陣取りました。トルイ軍は4万弱、それに対して金国軍は約15万です。互いに長期の戦となり兵は疲弊していました。金国軍はオゴタイの援軍が来る前にトルイの軍を攻める必要があり、三峰山を囲むように陣取り、トルイ軍を包囲します。

不利な状況に置かれたトルイは、戦いの行方をテングリに尋ねるため、自軍の中からジャダミシを行える者を集めます。
ジャダミシとは、モンゴルや中央アジアで信じられていた、天候を操る呪術のことです。第5幕でも登場しましたが、カム(巫術師)がジャダ石を水に浸すことで雨や雪、風、嵐などを呼び起こすと信じられ、時には戦いで敵を混乱させる力があると考えられました。

作中では、祈祷の後に雪が降り始めます。その雪はやがて大雪となり、三日三晩降り続きました。トルイはあらかじめ兵に塹壕を掘らせており、モンゴル軍は寒さをしのぎながら体力を温存します。一方、金国軍は大雪の中で動けなくなり、寒さによって消耗していきました。
そして四日目、トルイ軍は塹壕から出て一気に攻撃を仕掛けます。金国軍は成すすべもなく敗走し、戦いはモンゴル軍の圧勝に終わりました。これが金国滅亡につながる「三峰山の戦い」です。
史料に残る三峰山の大雪と祈雪の記録
この場面も完全な創作ではなく、史料に残る記述をもとにしています。『元史』には、トルイが軍中で雪を祈らせ、羊の肩甲骨を焼いて吉凶を占わせたところ、吉兆が出たという話があります。また別の記述では、三峰山で大雪が降り、金軍が凍えて戦えなくなったため、トルイが好機と見て攻撃し、大勝したとされています。
つまり、作中の「テングリに戦いの行方を尋ねる」という場面は、史料にある雪を祈らせ、羊の肩甲骨を焼いて吉凶を占わせたという記録をもとに、非常にうまく脚色されています。史料そのものがどこまで事実を伝えているかはわかりませんが、トマトスープ氏の史料を丹念に読み取り、物語として膨らませていく手法は、やはり見事だと感心します。
オゴタイの病と、もう一つの「テングリに尋ねる」場面
二つ目の「テングリに尋ねる」場面は、金国遠征の帰途、オゴタイが病に倒れる場面です。
オゴタイの症状は、かつてボラクチンが罹った「鉱山のほこり」による病とよく似ていました。ボラクチンは、オゴタイに毒を盛ったのはドレゲネだとシタラに告げます。ドレゲネはすでに拘束されており、シタラ自身も疑いの目を向けられかねない危うい状況に追い込まれていきます。
ボラクチンは、ドレゲネがシタラを利用し、最後には罪を着せて逃げるつもりだったのだと語ります。動揺したシタラは、オゴタイを救うため、ジャダ石の残りを差し出しました。
その後、ボラクチンはオゴタイ回復のための祈祷を行うと言い、トルイにも立ち会うよう求めます。カムが太鼓を叩きながら祈祷を行い、器の水に悪霊を封じ込めたと告げます。そして、オゴタイの身代わりとして、誰かがその水を飲む必要があると言うのです。
最初にボラクチンが飲もうとしますが、カムは血縁者がよいと告げます。そこでトルイが「なら俺だね」と立ち上がり、その水を一気に飲み干しました。
(トルイ)「テングリよ、もし罪によって兄上の魂を連れ去ったなら、あなたはもっと罪深い魂をご存知のはず。兄上より多くの敵を殺し、多くのものを俺は奪った。」「いや待てよ、テングリが才能を見込んでお側に召したとも考えられるか。ま、その場合でも俺ですね」

このような言葉からは、単なる勇敢さだけでなく、自分が積み重ねてきた殺戮や略奪を、どこかで引き受けているようにも見えます。実際、トルイは戦場で多くのものを奪ってきた人物です。その彼が、自分の命を差し出すことで兄を救おうとする。この矛盾を抱えた姿が、非常に印象的でした。
トルイの身代わり――史料に残る有名な逸話
そして、この「トルイの身代わり」もまた、史料に残る有名な逸話をもとにしています。
『元史』の「睿宗(トルイ)伝」には、オゴタイが病に倒れ、病状が重くなったため、トルイが天地に祈り、自分が身代わりになることを願い、カム(巫者)が祓い清めに使った水を飲んだと記されています。その数日後、オゴタイの病は回復し・・・とあります。
また『元朝秘史』にも、かなり近い話があります。そこでは、オゴタイの病は、金・中国方面の土地や水の霊が怒っているためだとシャーマンたちが説明します。そして、財物や家畜では収まらず、皇族の誰かが身代わりになればよいという占いの結果が出たとされます。その後、トルイは自分がオゴタイの代わりになると申し出て、シャーマンたちが儀礼を行った水を飲み・・・と語られています。
つまり、作中の展開は完全な創作ではありません。祈祷師やシャーマンが関わったこと、トルイが身代わりを申し出たこと、そして儀礼の水を飲んだことは、史料に見える伝承をもとにしています。
ただし、ボラクチンがこの祈祷を主導したという部分は、作中の創作・脚色です。ボラクチンについては史料が非常に少なく、彼女が実際にこのような政治的な動きをしたかどうかは確認できません。
ボラクチンは黒幕なのか――史料の空白に差し込まれる不穏さ
この第9幕では、ボラクチンの胡散臭さが一気に強まります。
ドレゲネを追い詰め、シタラを揺さぶり、オゴタイの病と「鉱山のほこり」を結びつけ、さらにトルイを祈祷の場へ呼び込む。ここまで来ると、すべてが偶然とは思えません。作中では明確には示されませんが、ボラクチンがシタラやドレゲネを利用しながら、何か大きな企みを進めているように見えてきます。
もちろん、史料に書かれていない以上、それが本当にボラクチンの策略だったとは言えません。むしろ、史料の空白があるからこそ、物語はそこに不穏な想像を差し込むことができるのだと思います。
天の意志か、人間の策略か
第9幕「天(テングリ)」は、モンゴルの信仰、戦場での呪術、王権の正当性、そして皇族たちの権力争いが重なり合う回でした。
三峰山の戦いでは、テングリは戦の行方を示す存在として描かれます。一方、オゴタイの祈祷の場面では、テングリは命を差し出す相手、あるいは人の運命を決める存在として描かれます。
どちらの場面でも、人間たちは天に尋ね、天の意志を読み取ろうとします。しかし、実際にその意志をどう解釈し、どう利用するかは人間の側に委ねられています。この作品はそれを緻密な人間描写とともに描いています。
天の意志なのか。人間の策略なのか。信仰なのか。政治なのか。その境目が曖昧なまま、物語はさらに不穏な方向へ進んでいきます。
第10幕「知恵」では、トルイのその後については、すでに放映された第10幕で描かれているので、答えはでているのですが、王宮内での権力争いは、次第に激しさを増し、帝国を揺るがす段階へと入っていきます。
それではまた次回。
