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【讃岐秘話】 豊臣秀吉の家臣 仙石秀久と淡路島・小豆島 | 1583年の賤ヶ岳の戦いと引田の戦い ー 阿波水軍・森村吉、森権平久村 ー

はじめに


天正年間、16世紀後半の四国では、土佐の長宗我部元親が勢力を急速に拡大していた。

長宗我部元親は土佐を基盤として阿波へ進出し、さらに讃岐・伊予へと勢力を広げ、四国統一を目指していた。

一方、1582年、本能寺の変での織田信長の死後、急速に台頭した羽柴秀吉は、畿内を制圧するとともに、中国・四国方面への影響力を強めていった。

この両勢力が四国東部で衝突するなかで重要な意味を持ったのが、

淡路島―小豆島―讃岐―阿波

を結ぶ瀬戸内海・播磨灘の海上交通である。

その最前線に立った武将の一人が仙石秀久であった。




仙石秀久は秀吉の命を受けて淡路方面に進出し、さらに小豆島を経由して讃岐へ兵を送り、長宗我部軍と戦った。

そして、この仙石秀久の活動を考えるうえで非常に興味深いのが、阿波水軍森家との関係である。

阿波水軍 森村春の弟 森村吉は仙石秀久が淡路を抑えていた時期に招かれて家臣となった。

さらに、森村吉の次男・森権平久村は仙石秀久に従い、天正11年(1583)の引田の戦いで仙石軍の殿軍を務め、長宗我部方の稲吉新蔵人に討ち取られた。

また、1583年、引田の戦いに敗れた仙石軍・森村吉らは引田城を脱出し、小豆島、淡路島方面へ退避したとされている。

これらを、

『改撰仙石家譜』

『南海通記』

『長元記』

『南海治乱記』

『池田町史』(小豆島)

『内海町史』(小豆島)

などと照合すると、戦国末期の瀬戸内海において、淡路島と小豆島が仙石秀久の四国方面軍事行動の中で重要な位置を占めていたことが見えてくる。


小豆島の池田町史と内海町史




特に『池田町史』には「長曽我部元親の侵攻と仙石秀久の来島」という節があり、『内海町史』にも「長曽我部氏の侵寇と仙石秀久の来援」という節が設けられている。両町史はさらに「小豆島水軍」を扱っている。(香川図書館)

この記事では、これらを踏まえて、

仙石秀久―淡路島―小豆島―讃岐―引田―森村吉―森権平久村

という一連の関係を、時系列に沿って整理する。


・仙石秀久



仙石秀久


・仙石秀久は1585年の四国征伐の武功で讃岐一国を与えられた。しかし、1586年、戸次川の戦いで前代未聞の豊臣秀吉の命令を無視して敗戦、讃岐に逃げ帰ってしまう。しかも豊臣方の有力武将を討ち死にさせてしまい、秀吉の大逆鱗にふれ改易され、高野山に追放された。1590年の小田原征伐に人生の大逆転を賭け、旧家臣を20名集め浪人衆として参戦し、鬼気迫る活躍を見せる。この際、改易中の秀久のもとに馳せ参じたのが旧家臣の森村吉だった。

秀久は小田原征伐の武功が豊臣秀吉に認められ小諸藩5万石を拝領した。また、森村吉は小諸藩で仙石秀久から7000石を受領した。

森村吉は、1582年に仙石秀久に仕えて以来、何が起ころうが秀久を支え続けた。

森村吉の三男 森村明は仙石秀久の娘と結婚した。

次男の森権平久村は1583年の引田の戦いで仙石方として参戦し殿(しんがり)を務め、長宗我部元親軍により討ち死にした。



・小田原征伐での森村吉、森村重の活躍


・仙石秀久の家臣: 森村吉、森権平久村



・徳島藩海上方 森家の家系図


森村吉 (森村春の弟、1582年、仙石秀久の家臣となり運命を共にした)

長男 森村重 (260年間徳島藩海上方を世襲する家系)

次男 森権平久村 (1583年、引田の戦いで長宗我部元親軍により討死)

三男 森村明 (仙石秀久の娘と結婚)







この記事の結論


🔸長宗我部元親は、天正年間に阿波・讃岐などへ勢力を拡大し、四国統一を目指していた。

🔸仙石秀久は羽柴秀吉の命を受け、淡路方面を足場として四国への軍事介入を進めた。

🔸天正10年(1582)、仙石秀久は兵3,000を率いて小豆島から讃岐へ渡海し、戦闘後に小豆島へ退いたことが『改撰仙石家譜』系の記録から確認できる。

🔸したがって、小豆島は仙石軍にとって単なる退避場所ではなく、讃岐方面への出撃・退避に利用された海上拠点だったと考えられる。

🔸『池田町史』『内海町史』も「小豆島水軍」と仙石秀久の「来島・来援」を扱っており、小豆島の海上交通・水軍との関係が重要である。

🔸森家の系譜・資料によれば、森村吉は天正10年頃、淡路を抑えていた仙石秀久に招かれて家臣となった。
この仕官経緯は森家側資料を中心に、さらに公刊史料との照合が必要である。

🔸森村吉の次男・森権平久村は仙石軍に従い、天正11年(1583)の引田の戦いで殿(しんがり)を務め、伊座で長宗我部方の稲吉新蔵人に討たれた。

🔸森権平については、系譜資料だけでなく伊座の墓なども残っており、地域的痕跡がある。

🔸1583年、仙石秀久、森村吉らは長宗我部元親軍に敗れ、引田城を脱出し、小豆島、淡路島方面へ退避した。

🔸「仙石秀久が小豆島を一時支配・占領した」と断定するより、「長宗我部氏との戦いに際して小豆島を軍事的な拠点・来援拠点として利用した」と表現するのが妥当。

🔸淡路島と小豆島には役割の違いがあり、淡路島は畿内から四国へ向かう前進基地、小豆島は讃岐方面への出撃・退避を支える海上拠点として捉えると理解しやすい。

🔸仙石秀久ー森村吉ー森権平久村の関係は、個別の家伝だけでなく、淡路・小豆島・讃岐・阿波を結ぶ戦国末期の軍事・海上交通ネットワークの中で位置づけることができる。

🔸天正11年(1583)の引田の戦いと賤ヶ岳の戦いは、ともに4月の出来事であり、秀吉政権が近江と四国という複数の戦線に同時対応していたことを示す。

🔸天正13年(1585)には秀吉による本格的な四国征伐が行われ、長宗我部元親が降伏し、四国に対する豊臣政権の支配が確立する。

🔸天正13年(1585年)の四国征伐における豊臣秀長軍の動き:

1585年6月〜7月の動き:

時系列:

1585年(天正13年)

秀長軍
大和・和泉・紀伊方面の軍勢

淡路・洲本

淡路・福良

一方、秀次軍は
明石

淡路・岩屋

福良
と進み、福良で秀長軍と合流

神戸大学の史料解説は、秀次軍が「明石―岩屋―福良―土佐泊」ルートを進み、紀伊から洲本へ来た秀長軍と福良で合流したとしている。

その後、

福良

鳴門海峡を渡海

阿波・土佐泊に上陸

森村春の守る土佐泊城に入る

木津城攻略

一宮城包囲・攻撃

一宮城開城

阿波・讃岐・伊予で長宗我部方の防衛線が崩壊

長宗我部元親、秀吉に降伏(天正13年7月25日)

元親は土佐一国を安堵される

阿波=蜂須賀家政、讃岐=仙石秀久・十河存保、伊予=小早川隆景らに分割


・淡路島の福良→森村春の土佐泊城入り→木津城攻略→一宮城包囲


・豊臣秀吉の四国攻め




・阿波水軍 森村春 (森村吉の兄)




🔸【仙石秀久の子孫・宗家のその後】仙石秀久の三男・忠政が家督を継ぎ、小諸→上田→出石へ。
1706年、仙石政明の代に出石藩主となり、幕末まで仙石家が藩主を務めた。
明治、最後の出石藩主・仙石政固は華族・子爵に。
その後、政敬→久英→政恭と宗家が継承。
そして1972年、最後の当主・仙石政恭が死去。子がなく、旧出石藩主仙石家の宗家・名跡が断絶した。

※仙石秀久の子孫全体が断絶したわけではない。





・【讃岐秘話】 阿波水軍 森家と直島 高原家――豊臣秀吉の朝鮮出兵が結んだ瀬戸内海の海上ネットワーク






1.戦国時代末期、長宗我部元親が四国へ勢力を拡大



16世紀後半、四国では戦国大名による激しい勢力争いが続いていた。

そのなかで急速に勢力を拡大したのが、土佐の長宗我部元親である。

元親は土佐を統一した後、阿波へ進出し、さらに讃岐・伊予へと勢力を伸ばしていった。

特に天正年間になると、長宗我部氏の勢力は四国東部へ大きく広がった。

阿波は土佐と讃岐を結ぶ地域であり、讃岐東部は瀬戸内海に面している。

そのため長宗我部氏の勢力拡大は、四国内部だけの問題ではなく、瀬戸内海の海上交通にも影響を与えるものだった。

一方、織田信長は畿内を制圧した後、中国・四国方面への進出を進めていた。

しかし、天正10年(1582)6月、本能寺の変によって信長が倒れる。

その後、織田政権内部で主導権を握ったのが羽柴秀吉であった。


2.羽柴秀吉の台頭と四国問題



本能寺の変後、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破り、さらに織田家内部で勢力を拡大した。

天正11年(1583)には柴田勝家と対立し、近江で大規模な戦闘が行われる。 

これが、

賤ヶ岳の戦い

である。

ここで注意したいのは、この時期の秀吉の正式な呼称である。 

天正11年(1583)の時点では、まだ「豊臣秀吉」ではなく、基本的には羽柴秀吉と呼ぶのが正確である。

秀吉が豊臣姓を朝廷から賜るのは天正13年(1585)である。

したがって、この記事では原則として、天正11年以前については「羽柴秀吉」、後世の一般的な呼称として言及する場合には「豊臣秀吉」とする。



3.仙石秀久と淡路島



仙石秀久は羽柴秀吉に仕えた武将である。

秀吉が四国方面への軍事的対応を強めるなかで、淡路島は非常に重要な場所となった。

淡路島は、

畿内・大阪湾

淡路島

播磨灘

小豆島

讃岐・阿波

という海上交通を考えるうえで重要な位置にある。

淡路島を確保すれば、畿内から瀬戸内海を通って四国へ兵力を送り込むための足場を得ることができる。

仙石秀久は天正年間初期から淡路方面で活動し、洲本などを拠点として四国方面への軍事行動に関わった。

香川県立図書館が公開する『池田町史』の目次には、近世第一節として「長曽我部元親の侵攻と仙石秀久の来島」が掲載されている。(香川図書館)

https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/know/local/local_2029


また『内海町史』にも「長曽我部氏の侵寇と仙石秀久の来援」という独立した節がある。(香川図書館)

https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/know/local/local_2028


これは、小豆島側の地域史においても仙石秀久の活動が、長宗我部氏の四国侵攻との関係で重要な出来事として位置づけられていることを示している。



4.森村吉、仙石秀久の家臣となる


ここで、阿波水軍森家が登場する。

森家家系図によれば、

森元村
├─ 森村春
└─ 森村吉

という系譜が伝えられている。

・阿波水軍 森家の家系図



森村吉は森村春の弟で、通称を「石見」「九郎左衛門」とする。

森村吉については、仙石秀久の家臣として知られる「仙石村吉」と同一人物である。




徳島県立図書館のレファレンス回答でも、森村吉は「森志摩守村春の弟・森九郎左衛門村吉」とされ、仙石秀久との関係が説明されている。(国立国会図書館サーチ)

また森家関係資料によれば、天正10年(1582)、淡路を抑え、森家を援助していた仙石秀久に森村吉が招かれ、家臣となったとされる。(Satoyama 4)

これは非常に重要な点である。

なぜなら、仙石秀久が淡路を拠点として四国方面へ軍事行動を展開するには、陸上兵力だけでなく、

  • 船舶

  • 水主

  • 海上交通

  • 水軍勢力

  • 四国側の在地勢力

との関係が必要だったからである。

阿波水軍 森家と仙石秀久が結びついたとすれば、淡路島と阿波・讃岐を結ぶ海上ネットワークを考えるうえで非常に興味深い。



5.森村吉と仙石秀久の関係



森家関係資料では、森村吉は単に一時的に仙石秀久に仕えたのではなく、その後も浮き沈みの激しい秀久に最後まで従った。



さらに、四国攻めの後、仙石秀久が信濃国小諸を与えられると、森村吉も秀久に従って信濃へ移り、7,000石を与えられている。

また、森村吉の三男・村明の系統は代々仙石家に仕えたとされる。森村吉の三男・村明については、仙石秀久の娘との婚姻を伝える資料もある。(Satoyama 4)


したがって森家側の系譜では、

森村吉
→ 仙石秀久に仕官
→ 次男 森権平久村を人質に差し出す
→ 四国方面の軍事行動に従軍
→ 信濃小諸へ移る
→ 7,000石を与えられる
→ 三男 森村明は秀久の娘と結婚

という長期的に密接な関係が伝えられている。



6.天正10年(1582)――仙石秀久、小豆島から讃岐へ




仙石秀久と小豆島との関係を考えるうえで、最も重要な史料の一つが、天正10年(1582)の記録である。

香川県立図書館の「香川県史年表」には、天正10年9月の出来事として、
仙石秀久、秀吉の命により十河存保を救うため、兵3000を率い小豆島より渡海し、屋島城を攻めたものの攻略できず、小豆島に退くという記録が掲載されている。

出典として『改撰仙石家譜』が明記されている。(香川図書館)

これは非常に重要な事実である。

つまり天正10年の時点で、
小豆島 → 讃岐
という仙石軍の渡海が記録されている。

さらに戦闘後、
讃岐 → 小豆島
へ退いている。

したがって、小豆島は少なくともこの時期、仙石秀久の軍事行動における重要な海上拠点として利用されていたと考えられる。



7.小豆島は単なる「逃げ場所」ではない



ここで『池田町史』『内海町史』の内容が重要になってくる。

『内海町史』は中世の項目で、
「小豆島水軍」
を扱い、近世では、
「長曽我部氏の侵寇と仙石秀久の来援」
を独立項目としている。(香川図書館)


『池田町史』も、
「小豆島水軍」
「室町時代末期の小豆島水軍」
を扱い、近世では、
「長曽我部元親の侵攻と仙石秀久の来島」
を独立した節としている。さらに「豊臣時代の小豆島」のなかに「加子浦としての活動」が置かれている。(香川図書館)


つまり、小豆島の地域史を見れば、

小豆島水軍

海上交通

長宗我部氏の侵攻

仙石秀久の来援・来島

豊臣期の海上活動

という流れを考えることができる。

したがって、仙石秀久にとって小豆島は単なる「敗軍が逃げ込む島」ではなかった。

むしろ、
船舶・水主・海上交通を背景とした軍事的な海上拠点
として理解する必要がある。



8.天正11年(1583)――引田の戦い



天正11年(1583)、長宗我部元親は讃岐への攻勢を強めた。

長宗我部軍には讃岐勢・阿波勢が加わり、仙石秀久軍と対峙することになる。

これが、
引田の戦い
である。

仙石秀久は長宗我部軍の進軍を察知し、軍勢を複数の隊に分けて伏兵を配置したとされる。

その部隊の指揮を執った人物の一人が、

森権平久村

である。

仙石軍は伏兵による奇襲を成功させ、緒戦では優位に立った。

しかし、阿讃勢が態勢を立て直し、さらに長宗我部側の援軍が到着すると戦況は逆転した。

仙石軍は劣勢となり、多くの将兵を失いながら引田城へ退却した。



9.森権平久村――森村吉の次男



森家にとって、この引田の戦いで特に重要なのが、

森権平久村

である。

森家の系譜では、

森元村

森村吉

森権平久村

という親子関係が伝えられている。



徳島県立図書館のレファレンス回答でも、森権平は「森志摩守村春の弟・森九郎左衛門村吉の次男・森権平久村」とされている。さらに、天正11年の引田合戦で大内郡伊座中山において稲吉新蔵人に討たれたとする資料が紹介されている。(国立国会図書館サーチ)

また、仙石秀久の家臣に関する記録では、
森権平は仙石軍の殿を務め、伊座まで退いたところで長宗我部元親軍の稲吉新蔵人に討ち取られた
とされ、享年18と伝えられている。(Japanese Wiki)


東かがわ市伊座にある森権平久村の墓


・1583年の引田の戦い後、長宗我部元親軍の追ってから逃れ馬篠の山奥に落ち延びた私の先祖。森権平久村一族と伝わる。


・阿波水軍 森家; 徳島藩蜂須賀家の海上方として260年間、参勤交代などの役目を務めた。


・蜂須賀卍と森家の家紋 木瓜


・森家感状箱


・高松藩森家の家紋瓦は丸に木瓜

高松墓森家の家紋瓦 丸に木瓜
家紋瓦


阿波水軍森家の家紋 木瓜と分家の家紋 丸に木瓜


・高松藩森家の過去帳



・私の高祖父 森喜平の除籍謄本。森家の先祖は森権平久村一族と伝わる。高松藩 森家は阿波水軍時代の高い土木技術を駆使して馬篠の柏谷の土地開拓、治水を行い一帯の土地を所有した。高松藩の普請役として橋や道路を作ったり、金刀比羅宮の石段造りにも参画した。

森喜平は徳島藩碁浦御番所役人家の長女 八田キヨと結婚。その長男 森虎太郎は讃岐黒羽城主 永塩因幡守氏継の末裔の永峰チヨと結婚。永塩因幡守氏継は細川京兆家の細川勝元の家臣て、永塩(長塩)家は摂津守護代を務めた家系。


徳島藩碁浦御番所役人を231年間、世襲した八田家屋敷。高祖母の生家。測量中の伊能忠敬や久米通賢、四国遍路途中の松浦武四郎らも訪れた。


私の祖父の姉の神戸新聞インタビュー記事



記事中の祖父は森喜平、阿波浄瑠璃が上手かった祖母は八田キヨ



徳島藩海上方 森家の歴史書 木瓜の香り



長塩永塩一族の歴史書。讃岐黒羽の永峰家は永塩姓から改姓した。



10.森権平、仙石軍の殿軍を務める



「殿軍」とは、退却する軍勢の最後尾に残り、追撃してくる敵を食い止める部隊である。

したがって、戦闘が敗勢になった場合には極めて危険な任務となる。

引田の戦いでは、仙石軍が崩れ、引田城へ退却する過程で森権平が殿(しんがり)を務めたと伝えられている。

そして伊座付近まで退いたところで、長宗我部方の稲吉新蔵人に討ち取られた。

享年18歳。

現在の東かがわ市伊座には、森権平の墓が残っている。

東かがわ市の指定文化財に関する解説では、森権平が仙石秀久の武将として長宗我部元親方の稲吉新蔵人と戦い、討死したという伝承が紹介されている。(石仏石神を求めて)

つまり森権平久村の討死は、単なる家伝だけではなく、地域に墓・伝承・文化財としても残されている。


・阿波水軍森家の拠点だった鳴門市の土佐泊、阿南市の椿泊

・高松藩森家の拠点東かがわ市馬篠


・東かがわ市伊座にある森権平久村の墓

・森権平庵







11.引田の戦いと賤ヶ岳の戦い――時系列上の注意





引田の戦いと賤ヶ岳の戦いは、どちらも天正11年(1583)4月に起こった。

そして、賤ヶ岳の決戦は4月21日とされている。(コトバンク)

したがって、
「引田の戦いが終わってから、かなり後に賤ヶ岳の戦いが起こった」
という単純な時系列ではない。

両者は非常に近い時期に起こった出来事である。

このことは、天正11年4月の秀吉政権が、

近江では柴田勝家と戦いながら、同時に四国では長宗我部元親への対応を進めていた

という状況を示している。

つまり、この時期の秀吉は、近江の賤ヶ岳と四国東部という、離れた二つの戦線に対応していたことになる。



12.引田城からの退却



長宗我部軍が優勢になると、仙石軍は引田城へ退却した。

その後、長宗我部軍は引田城を包囲する。

仙石軍は城から退却することになった。

その退却戦のなかで森権平が殿軍を務め、伊座付近で討死したというのが、森家関係資料および地域伝承に伝わる重要な部分である。

ここで森権平の存在が重要になる。

仙石秀久と森村吉の関係は、単なる「家臣になった」という記録にとどまらない。

森村吉の次男である森権平久村が、実際に仙石軍の前線に立ち、敗退時には殿軍を務めて戦死したとされるからである。



13.引田城から脱出、小豆島・淡路島方面へ



次に重要なのが、
引田から小豆島、淡路島への退避
である。

1583年、引田の戦いにおいて長宗我部元親軍に引田城を取り囲まれた仙石秀久側は引田城を脱出し、海路で退避し、小豆島・淡路島方面の態勢を立て直した。

また、これとは別に、天正10年の『改撰仙石家譜』系の記録では、仙石秀久が小豆島から讃岐へ渡海し、戦闘後に小豆島へ退いたことが明確に記録されている。(香川図書館)

さらに『内海町史』を基礎とする小豆島側の地誌では、天正11年に秀吉の命を受けた仙石秀久が長宗我部元親を制圧するため、小豆島を一時的な本拠としたという伝承も紹介されている。


ここから、

淡路島

小豆島

讃岐

引田

小豆島・淡路方面

という仙石秀久の軍事行動を考えることができる。



天正10年の、

小豆島から讃岐へ渡海 → 戦闘 → 小豆島へ退く

という動きは『改撰仙石家譜』に基づく記録として確認できる。(香川図書館)



天正11年の引田の戦い後に、具体的にどの船・どの経路で小豆島へ退いたのか

については、森家側資料や地域伝承と公刊史料をさらに照合する必要がある。





14.小豆島を「一時支配した」のか



ここも非常に重要な問題である。

「仙石秀久が小豆島を一時支配した」

という表現を使う場合には注意が必要である。

小豆島全域を仙石秀久の領国として恒常的に支配した、という意味で使うなら、表現として強すぎる。

一方、

「仙石秀久が小豆島を軍事拠点・本拠として一時的に利用した」

という意味なら、小豆島側の地域史や伝承と整合する。

『池田町史』は「長曽我部元親の侵攻と仙石秀久の来島」を独立した節としている。(香川図書館)

『内海町史』も「長曽我部氏の侵寇と仙石秀久の来援」を独立項目としている。(香川図書館)

したがって、この記事では、

仙石秀久は、長宗我部氏との戦いに際して小豆島を軍事的な拠点・来援拠点として利用した。さらに地域史には、一時的な本拠としたという伝承も残されている。

とするのが最も適切である。



15.『池田町史』から見た小豆島




『池田町史』は1984年に刊行された。

香川県立図書館の公開目次によれば、第三章「近世」の第一節に、

「長曽我部元親の侵攻と仙石秀久の来島」

があり、その次に、

「豊臣時代の小豆島」

が続く。


さらにその中に、

「加子浦としての活動」

が置かれている。(香川図書館)


また、前段の中世史では、

「小豆島水軍」

「室町時代末期の小豆島水軍」

が扱われている。

これは非常に重要である。

つまり『池田町史』では、小豆島の歴史を、

中世の水軍

長宗我部元親の侵攻

仙石秀久の来島

豊臣時代

加子浦としての活動

という連続した歴史のなかで見ることができる。

したがって、仙石秀久と小豆島の関係を考える場合、小豆島の水軍・海上交通という地域的背景を無視することはできない。



16.『内海町史』から見た小豆島



『内海町史』は昭和49年(1974)3月30日に刊行された。

香川県立図書館の公開目次によれば、第二章「通史」の第三節「中世」に、

「小豆島水軍」

があり、第四節「近世」には、

「長曽我部氏の侵寇と仙石秀久の来援」

が置かれている。(香川図書館)


つまり『内海町史』でも、

小豆島水軍

長宗我部氏の侵攻

仙石秀久の来援

という流れで小豆島の歴史が構成されている。

さらに小豆島の近世史・産業史・交通史には、加子浦、廻船業、海上交通などのテーマが登場する。

これは、小豆島が古くから海上交通と結びついた地域であったことを理解するうえで重要である。



17.小豆島水軍という背景




小豆島が重要だった理由の一つは、その地理的位置である。

小豆島は、

  • 播磨灘

  • 備讃瀬戸

  • 讃岐

  • 備前

  • 淡路方面

を結ぶ海上交通上の要衝に位置している。

そして『池田町史』『内海町史』の双方が小豆島水軍を扱っている。(香川図書館)

したがって、仙石秀久が小豆島を利用したことは、単なる偶然ではなく、

小豆島が持っていた海上交通・水軍・船舶動員能力

という地域的背景と関連づけて考えることができる。

これは、森家の歴史を考えるうえでも重要である。

なぜなら森家は阿波水軍につながる家系だからである。



18.阿波水軍森家と瀬戸内海




森家は阿波の水軍勢力と結びついた家として伝えられている。

森村吉の兄・森村春も阿波水軍を率いた人物として伝えられている。

森村吉自身も、仙石秀久の家臣となる以前から阿波側の武士団・水軍勢力の中で活動していたとされる。

そのような人物が、淡路を抑えていた仙石秀久に招かれて家臣となったという森家側の伝承は、

淡路―阿波―讃岐―小豆島

という海上交通の歴史を考えるうえで非常に興味深い。

もちろん、森村吉の仕官経緯については森家側資料を中心に検証する必要がある。

しかし、その後の森村吉・森権平久村の活動を考えると、仙石氏側史料・地域史と照合する価値がある。



19.森村吉から森権平久村へ



森家の系譜では、

森村吉

長男・森村重 (森甚五兵衛、徳島藩海上方を260年間世襲)
次男・森権平久村
三男・森村明

という系譜が伝えられている。

長男の森村重は後に森甚五兵衛を名乗り、阿波水軍・徳島藩の海上方につながる系統を形成した。

次男の森権平久村は引田の戦いで討死。

三男の森村明は父・森村吉と行動を共にし、後に仙石家との婚姻関係を持ったとされる。

したがって、森村吉の子孫は、

阿波に残る系統
讃岐に残る系統
仙石家に従って信濃へ移る系統

という形で展開していく。

これは、引田の戦いが森家の歴史にとって大きな分岐点だったことを示している。



20.引田の戦いで森権平久村が討死した意味



森権平久村の討死は、森家の歴史だけでなく、仙石秀久の軍事活動を考えるうえでも重要である。

森村吉が仙石秀久に仕官した。

その子の森権平久村も仙石軍に参加した。

引田の戦いで仙石軍が長宗我部軍と戦った。

仙石軍が敗退。

森権平久村が殿(しんがりのを務める。

伊座まで退き、討死。

この流れが森家資料・地域伝承に伝えられている。

徳島県立図書館のレファレンス資料でも、森権平久村が天正11年の引田合戦で伊座中山において稲吉新蔵人に討たれたという系譜資料が紹介されている。(国立国会図書館サーチ)

したがって、森権平久村は、仙石秀久と森家の関係を象徴する人物といえる。





21. 天正11年(1583)の情勢――引田と賤ヶ岳



天正11年は、秀吉にとって極めて重要な年だった。

北では柴田勝家と対立し、近江で賤ヶ岳の戦いが行われた。

一方、四国では長宗我部元親の勢力拡大に対して仙石秀久らが対応していた。

賤ヶ岳の戦いは天正11年4月21日に行われたとされる。(コトバンク)

引田の戦いも天正11年4月に起きている。

したがって、両者を単純に、

「引田の戦いの後に賤ヶ岳」
という順序で並べるのではなく、

天正11年4月、近江では秀吉が柴田勝家と決戦し、同じ時期に四国東部では仙石秀久が長宗我部軍と戦っていた

と理解する方が正確である。

これは、秀吉政権が同時に複数の戦線を抱えていたことを示している。



22. 天正13年(1585)――本格的な四国征伐・豊臣秀長軍の阿波攻めのルートと森村春



天正13年(1585)になると、秀吉は本格的な四国征伐に乗り出す。

この段階では、秀吉はすでに豊臣政権の中心人物となっていた。

豊臣軍は四国各方面へ進軍し、長宗我部元親は最終的に秀吉に降伏した。

この時、病気になっていた豊臣秀吉に代わり、弟の豊臣秀長が淡路島の福良港から阿波水軍森家の拠点だった土佐泊城に渡り、森村春が豊臣秀長軍に協力した。この働きにより武功をあげたことが記録に残る。


・徳島藩蜂須賀家家の海上方として260年間、参勤交代などで活躍した森家



これによって、長宗我部氏による四国統一の試みは終わり、四国は豊臣政権の支配下に入った。

仙石秀久も四国征伐に参加し、讃岐を与えられた。

ここに、

長宗我部元親の四国制覇の時代

豊臣秀吉による四国支配

という大きな転換が起こる。


・豊臣秀長軍は淡路島の福良港から阿波水軍森家の土佐泊城に移動した。そこから森村春の協力により木津城、一宮城を攻めた。


天正13年(1585年)の四国征伐における豊臣秀長軍の動き:

1585年6月〜7月の動きです。

時系列:

1585年(天正13年)
秀長軍
大和・和泉・紀伊方面の軍勢

淡路・洲本

淡路・福良

一方、秀次軍は
明石

淡路・岩屋

福良
と進み、福良で秀長軍と合流

神戸大学の史料解説は、秀次軍が「明石―岩屋―福良―土佐泊」ルートを進み、紀伊から洲本へ来た秀長軍と福良で合流したとしている。

その後、

福良

鳴門海峡を渡海

阿波・土佐泊に上陸

森村春の守る土佐泊城に入る

木津城攻略

一宮城包囲・攻撃

一宮城開城

阿波・讃岐・伊予で長宗我部方の防衛線が崩壊

長宗我部元親、秀吉に降伏(天正13年7月25日)

元親は土佐一国を安堵される

阿波=蜂須賀家政、讃岐=仙石秀久・十河存保、伊予=小早川隆景らに分割


神戸大学の史料解説では、この一連の展開を天正13年(1585)の四国長宗我部攻めとして明記している。

また、6月16日に秀長を総大将として、阿波・土佐泊、讃岐・屋島、伊予・今治の三方面から四国攻めが開始されたことも確認できる。


23. 小豆島と豊臣政権




天正13年以降、小豆島は豊臣政権の海上支配を考えるうえでも重要となる。

『池田町史』では「豊臣時代の小豆島」のなかに、

「加子浦としての活動」

が設けられている。(香川図書館)


加子浦とは、船役・水主役など海上活動に関わる地域であり、豊臣政権が瀬戸内海の海上交通・船舶・水主を軍事的・行政的に利用していたことを考えるうえで重要である。

したがって、戦国末期から豊臣期にかけての小豆島は、

農業・漁業の島

というだけでなく、

船を出し、人を動員し、物資を運ぶ海上拠点

として見る必要がある。




24. 淡路島と小豆島の役割の違い



ここまでを整理すると、仙石秀久にとって淡路島と小豆島は、似ているようで異なる役割を持っていたと考えられる。

淡路島

淡路島は、

畿内・大阪湾から四国へ向かう入口
として重要だった。

秀吉の勢力圏から四国へ軍事力を投射するための前進基地である。


小豆島

小豆島は、

播磨灘・備讃瀬戸・讃岐をつなぐ海上拠点

として重要だった。

実際、天正10年には仙石秀久が小豆島から讃岐へ渡海し、戦闘後に小豆島へ退いている。(香川図書館)

したがって、

淡路島=四国へ向かう入口

小豆島=讃岐方面への前進・退避拠点

という構図で理解すると分かりやすい。



25. 淡路島―小豆島―讃岐―阿波


この時代の地理を考えると、

淡路島

小豆島

讃岐

阿波

という広域的な海上ネットワークが見えてくる。

淡路島は畿内側。

小豆島は瀬戸内海の中央部。

讃岐は長宗我部氏との戦場。

阿波は森家など水軍勢力が存在した地域。

したがって仙石秀久と森村吉の関係を、

淡路島だけの出来事

として見るのではなく、

瀬戸内海東部から四国東部にまたがる軍事・海上交通ネットワーク

の中で見ることが重要である。




26. 森村吉の仕官と阿波水軍



森村吉が仙石秀久に仕えたという森家側資料は、まさにこの海上ネットワークを考えるうえで興味深い。

森村吉は阿波水軍森家の人物である。

仙石秀久は淡路方面を拠点としていた。

そして秀久は小豆島から讃岐へ渡海した。

この関係を地理的に並べると、

阿波水軍・森家

淡路・仙石秀久

小豆島

讃岐

という接続が見えてくる。

もちろん、これだけで「森村吉が水軍として小豆島への渡海を直接指揮した」と断定することはできない。

しかし、森家の水軍的背景を考えれば、仙石秀久との関係が海上交通と無関係だったと考える必要もない。




27. 森権平久村の討死と伊座




森権平久村は引田の戦いで討死したと伝えられている。

その場所は、

讃岐国大内郡伊座中山、
とされる。

徳島県立図書館のレファレンス回答でも、森権平久村が伊座中山で稲吉新蔵人に討たれたという資料が紹介されている。(国立国会図書館サーチ)

また現在の東かがわ市伊座には、森権平の墓と伝えられる石塔が残る。

森権平の墓については東かがわ市指定文化財となっており、地域では足の神様としても信仰されている。(石仏石神を求めて)

つまり、

仙石秀久の家臣

引田の戦いに参加

殿軍

伊座で討死

という森権平の最期は、現在の地域社会にも記憶されている。



28. 森家にとっての引田の戦い



森家の歴史から見ると、引田の戦いは一族の大きな分岐点である。

森村吉は仙石秀久に仕えた。

その次男・森権平久村は仙石軍として戦い、18歳で討死したと伝えられる。

一方、森村吉自身はその後も仙石秀久に従ったとされる。

三男の森村明も父とともに行動し、後に仙石家との婚姻関係を持ったとされる。

長男の森村重は阿波に残り、後に森甚五兵衛を名乗る系統につながる。

つまり、

引田の戦いは森家を三方向へ分岐させる歴史的な転機

として見ることができる。




29. 仙石秀久・森村吉・森権平久村の関係



ここまでを一つの系譜・軍事関係としてまとめると、次のようになる。


森元村

森村春
  └─弟 森村吉
     ↓
    仙石秀久に仕官
     ↓
    長男・森村重
    次男・森権平久村
    三男・森村明
     ↓
森権平久村
     ↓
天正11年(1583)引田の戦い
     ↓
仙石軍の殿軍
     ↓
伊座で稲吉新蔵人に討たれる

という流れになる。

森村吉自身はその後も仙石秀久に従い、信濃小諸へ移ったとされる。



30.歴史的に見ると何が重要なのか


この一連の出来事で重要なのは、単に、

「仙石秀久が小豆島へ行った」

ということではない。

より大きな視点で見ると、

豊臣政権による四国への軍事介入

と、

瀬戸内海の海上交通・水軍

が結びついていたことが重要なのである。

仙石秀久は、

淡路島

を足場とし、

小豆島

を経由して、

讃岐

へ進出した。

そして、

引田

で長宗我部軍と激突した。

その戦いで、

森権平久村

が殿軍として討死した。

そして、その後、

小豆島方面へ退避

した。

この一連の流れを考えると、小豆島は単なる地理的な中継地点ではなく、仙石秀久の四国方面軍事行動における重要な海上拠点だったと考えられる。



31.天正10~13年の流れ



ここまでを年表にすると、次のようになる。



天正8年(1580)頃
長宗我部元親の四国での勢力拡大が進む

天正8~10年頃
仙石秀久が淡路方面で活動

天正10年(1582)
森家資料では森村吉が仙石秀久の家臣となる

天正10年9月
仙石秀久、兵3,000を率いて小豆島から讃岐へ渡海

天正10年9月
讃岐で長宗我部軍と戦い、小豆島へ退く

天正11年(1583)4月
引田の戦い

天正11年4月
森権平久村が仙石軍の殿軍として討死

天正11年4月
賤ヶ岳の戦い。羽柴秀吉が柴田勝家を破る

天正11年
仙石秀久、森村吉、引田から小豆島方面へ退避

天正13年(1585)
豊臣秀吉による四国征伐

天正13年
長宗我部元親が秀吉に降伏

天正13年
仙石秀久が讃岐を与えられる


なお、天正11年4月の引田の戦いと賤ヶ岳の戦いは極めて近い時期に発生している。



32.史料について



公刊史料・地域史などで確認できる事項

  • 長宗我部元親が四国で勢力を拡大したこと

  • 仙石秀久が淡路方面で活動したこと

  • 天正10年に仙石秀久が小豆島から讃岐へ渡海したこと

  • 戦闘後に小豆島へ退いたこと

  • 天正11年に引田の戦いがあったこと

  • 森権平が仙石軍の殿を務め、伊座で討死したとする資料があること

  • 『池田町史』が仙石秀久の来島を扱っていること

  • 『内海町史』が仙石秀久の来援を扱っていること

  • 両町史が小豆島水軍を扱っていること




32.仙石秀久にとって小豆島とは何だったのか



ここまでの資料を総合すると、小豆島は仙石秀久にとって、

①讃岐への出撃拠点
②敗戦時の退避拠点
③海上交通上の中継地点
④水軍・水主を背景とする海上拠点

という複数の意味を持っていた可能性がある。

少なくとも天正10年には、

小豆島から讃岐へ渡海 → 戦闘 → 小豆島へ退却

という動きが記録されている。(香川図書館)

さらに小豆島の町史が仙石秀久の来島・来援を独立項目として扱っていることからも、その存在が小豆島史の中で重要だったことが分かる。(香川図書館)


33.仙石秀久にとって淡路島とは何だったのか


一方、淡路島は、

秀吉の勢力圏から四国へ軍事力を投射するための前進基地

として重要だった。

仙石秀久が淡路方面を抑えたことで、

畿内

淡路

小豆島

讃岐

という海上ルートを利用できるようになった。


森村吉がこの時期に仙石秀久の家臣になったことを重ねると、

淡路で始まった仙石秀久と森村吉の関係は、小豆島を経由して讃岐の戦場へつながり、その後の四国征伐、小諸藩支配と運命を共にしていく出会いの地が淡路島だった

と見ることができる。



34.仙石秀久と運命を共にした森村吉、森権平久村、森村明



森村吉の経歴は、長男・村重、次男・権平久村、三男・村明を含めて次のように整理できる。



森村吉の経歴

① 出自・家系

  • 森村吉(仙石村吉)は、通称・石見、九郎左衛門

  • 森元村の次男で、森村春の弟

  • 長男・森村重(初代森甚五兵衛)、次男・森権平久村、三男・森村明の父。

  • 後に仙石姓を与えられたと、坪内氏の資料では説明されている。


② 天正10年(1582)――仙石秀久に仕官

  • 淡路を押さえ、森家を援助していた仙石秀久に招かれて家臣となったと森家関係資料では伝えられている。

  • この時期から、森村吉は仙石秀久の四国方面の軍事行動に関わるようになる。

  • また、坪内氏の資料では、森村吉が息子の森権平らを織田・羽柴家への人質として差し出したこと、土佐泊城に仙石秀久らを招き入れたことも記されている。


③ 天正10年(1582)――仙石軍の讃岐進出

  • 仙石秀久は小豆島を経由して讃岐へ渡海し、長宗我部勢と戦った。

  • 森村吉もこの時期の仙石秀久の四国方面軍事行動に従ったと、森家側資料では位置づけられている。

  • ただし、森村吉本人の個別の戦闘行動については、仙石側史料と森家資料を分けて評価する必要がある


④ 天正11年(1583)――引田の戦い

  • 長宗我部元親軍と仙石秀久軍が讃岐東部で激突。

  • 森村吉は仙石軍として参加し、緒戦の勝利に貢献したと坪内氏の資料に記載されている。


🔸次男・森権平久村

  • 森村吉の次男。

  • この引田の戦いで仙石軍に属して戦ったとされる。

  • 仙石軍が敗退すると殿軍(しんがり)を務めたと伝えられる。

  • 伊座付近で長宗我部方の稲吉新蔵人らに討たれたとされる。

  • 18歳前後であったという伝承がある。


つまり、

森村吉 → 仙石秀久に仕官

次男・森権平久村 → 仙石軍として引田の戦いに参加

殿軍を務めて討死

という親子の関係になります。


⑤ 天正15年(1587)――九州征伐

ここは森村重について重要な記録があります。

  • 天正15年、秀吉の九州征伐に蜂須賀家政が参加。

  • 蜂須賀家政の家臣として、森村重(甚五兵衛)、森氏村、森村春らが参加。

  • 豊後方面で敵船を奪ったと坪内氏の資料に記されています。

したがって、村吉の長男・村重は、父とは別に蜂須賀家政の家臣として軍事活動を続けていたことになります。


⑥ 天正18年(1590)――小田原征伐


🔸長男 森村重

  • 蜂須賀家政の家臣として小田原征伐に参加。

  • 伊豆下田城を攻撃した際、
    「先登してこれを抜いた」
    と記されています。

  • つまり、下田城攻撃で先陣を務め、城を攻略したという武功です。


森村吉

そして同じ小田原征伐について、資料は明確に、

森村吉(森村重の父)は仙石秀久のもとで大戦果を上げた
と記しています。

したがって、現段階では、
森村吉=小田原征伐に仙石秀久軍として参加し、大戦果を挙げたと森家関係資料に記載

森村重=蜂須賀家政軍として参加し、下田城攻撃で先登して攻略

と整理するのが適切です。

これは非常に重要で、父子が小田原征伐に参加し、それぞれ別の主君の軍勢として武功を挙げたという構図になります。


⑦ 天正18年(1590)以降――小諸へ

小田原征伐後、仙石秀久は信濃小諸の所領を与えられます。

そして森家関係資料では、

森村吉も仙石秀久に従って信濃へ移る

小諸で7,000石を与えられる

仙石家の筆頭家老となる

とされています。坪内氏の資料にも、村吉が小諸で7,000石の筆頭家老になったと明記されています。


🔸三男・森村明

  • 森村吉の三男。

  • 父・村吉に従って仙石家の家臣となったと伝えられる。

  • 仙石秀久の娘と婚姻したとする森家側の系譜がある。

  • その系統は信濃に定着し、代々仙石家に仕えたとされる。


⑧ 長男・森村重のその後

森村重は父・村吉とは別の道を歩みます。

  • 村吉の長男。

  • 初代森甚五兵衛

  • 蜂須賀家政の家臣として阿波に残る。

  • 九州征伐、小田原征伐、さらに朝鮮出兵などで水軍として活動。

  • 森甚五兵衛家は後に阿波・徳島藩の海上方を260年間、担う家系となる。

特に小田原征伐では、
下田城攻撃 → 先登 → 城を攻略
という明確な武功が記録されています。


森村吉一家の流れ


森元村
   │
   ├─ 森村春
   │
   └─ 森村吉(石見・九郎左衛門)
          │
          ├─ 長男・森村重
          │      ↓
          │   初代 森甚五兵衛
          │      ↓
          │   蜂須賀家政に仕える
          │      ↓
          │   九州征伐で戦功
          │      ↓
          │   1590年 小田原征伐
          │      ↓
          │   下田城攻撃で先登・攻略
          │      ↓
          │   阿波水軍・森甚五兵衛家へ
          │
          ├─ 次男・森権平久村
          │      ↓
          │   仙石秀久に従う
          │      ↓
          │   1583年 引田の戦い
          │      ↓
          │   仙石軍の殿軍
          │      ↓
          │   伊座で討死
          │
          └─ 三男・森村明
                 ↓
              父・村吉と行動
                 ↓
              仙石家に仕える
                 ↓
              仙石秀久の娘と婚姻
                 ↓
              信濃小諸に定着
                 ↓
              代々仙石家に仕える



以上から、森村吉の生涯を一言でまとめるなら、

「阿波水軍森家の出身者として仙石秀久に仕え、引田の戦いで次男・権平久村を失いながらも仙石家に従い続け、小田原征伐では大戦果を挙げ、その後小諸で7,000石の筆頭家老となった人物」

とするのが、資料に最も沿った表現です。


森水軍の成り立ちとその活躍pdf

https://satoyama4.omiki.com/mori060216.pdf?utm_source=chatgpt.com






35.仙石秀久の子孫――小諸から出石、そして昭和まで


仙石秀久(1552~1614)は、豊臣秀吉の家臣として出世し、戸次川の戦いで改易されたものの、小田原征伐で復活し、信濃小諸5万石を与えられた武将です。出石仙石家の祖でもあります。





1.秀久の子・忠政が家督を継ぐ



秀久の子には、久勝(久忠)、秀範、忠政らがいました。

長男の久勝は廃嫡、次男の秀範も廃嫡となり、三男の仙石忠政が家督を継ぎました。忠政は小諸藩主となり、1622年に信濃上田へ移封されます。

その後、

秀久
→ 忠政
→ 政俊
→ 政明

と仙石家は続き、1706年、仙石政明の代に信濃上田から但馬出石へ移封されました。以後、仙石家は出石藩主となります。


2.しかし、江戸後期には養子による継承が増える





ここが重要です。

出石仙石家は「秀久の男系子孫だけ」で一直線に続いたわけではありません。

歴代藩主を見ると、

政房 → 政辰 → 久行 → 久道 → 政美 → 久利 → 政固

と続きますが、途中には養子・娘婿による家督相続が入っています。

特に政美の死後、弟の仙石久利が養子として家督を継ぎ、さらに久利の養子となった仙石政固が跡を継ぎました。

したがって、江戸後期以降については、

「仙石秀久の血統がそのまま続いた」

というより、

「秀久が開いた仙石家の宗家・家名が、養子による継承を含めて続いた」

と表現するのが適切です。

・仙石氏





3.最後の出石藩主・仙石政固


仙石久利の養子となった仙石政固(1844~1917)は、最後の出石藩主ではなく、正確には最後の出石藩知事を務めた人物です。

1871年の廃藩置県によって出石藩は廃止され、その後、1884年の華族令で政固は子爵となりました。

その後は、

仙石政固

仙石政敬(1872~1935)

仙石久英(1895~1960)

仙石政恭(1923~1972)

と旧出石藩主仙石家の宗家が続きました。政敬は賞勲局総裁・宗秩寮総裁、久英は貴族院議員を務めています。



4.1972年、宗家・名跡が断絶


そして最後の当主が、
仙石政恭(1923~1972)
です。


政恭は仙石久英の長男で、1960年に家督を継ぎ、1972年に死去。子がなかったため、これによって旧出石藩主仙石家の宗家・名跡が断絶したとされています。

ただし、これは、
「仙石秀久の子孫が1972年に全員いなくなった」
という意味ではありません。

仙石秀久には七男・久隆から続く旗本家など複数の分家がありました。

したがって、1972年に断絶したのは「旧出石藩主仙石家の宗家・名跡」であって、仙石秀久の子孫全体ではありません。

系譜を一行で整理すると

仙石秀久
→ 三男・忠政
→ 政俊
→ 政明(1706年、出石へ)
→ 政房
→ 政辰
→ 久行
→ 久道
→ 政美
→ 久利(養子)
→ 政固(養子)
→ 政敬
→ 久英
→ 政恭(1972年没・宗家断絶)

という流れになります。

つまり、仙石秀久が築いた家は、戦国の小諸から上田、出石へと約360年間続き、江戸時代には大名、明治以降は華族・子爵となり、1972年に旧出石藩主家の宗家・名跡が断絶した――というのが、最も正確な全体像です。


※1972年、最後の当主・仙石政恭が死去。子がなく、旧出石藩仙石家の宗家・名跡が断絶したが、仙石秀久の子孫全体が断絶したわけではない。



仙石久英





おわりに


仙石秀久と淡路島・小豆島との関係を調べていくと、単なる一武将の移動記録ではなく、戦国時代末期の瀬戸内海を舞台とした軍事・海上交通史が見えてくる。

土佐の長宗我部元親が阿波・讃岐へ勢力を広げる。

それに対して羽柴秀吉が四国への対応を強める。

その前線を担った武将の一人が仙石秀久であった。

仙石秀久は淡路方面で活動し、天正10年には小豆島から讃岐へ渡海した。

そして長宗我部軍と戦い、敗退後には小豆島へ戻ったことが『改撰仙石家譜』に基づく香川県史年表に記録されている。(香川図書館)

翌天正11年には、讃岐東部の引田で長宗我部軍と激突した。

この戦いで仙石軍は敗退し、引田城へ退却。

その撤退戦で殿軍を務めたと伝えられるのが、森権平久村である。

森権平久村は伊座まで退いたところで稲吉新蔵人に討ち取られたとされる。徳島県立図書館のレファレンス資料にも、この系譜・伝承が紹介されている。(国立国会図書館サーチ)

そして、引田城から小豆島方面へ退避したという伝承が残されている。


ここに、

淡路島

小豆島

讃岐

引田

小豆島・淡路方面

という海上ネットワークが浮かび上がる。

さらに『池田町史』と『内海町史』を読むと、この小豆島の位置づけがより明確になる。

『池田町史』には、

「小豆島水軍」
「室町時代末期の小豆島水軍」
「長曽我部元親の侵攻と仙石秀久の来島」
「豊臣時代の小豆島」
「加子浦としての活動」

が収録されている。(香川図書館)

『内海町史』にも、

「小豆島水軍」
「長曽我部氏の侵寇と仙石秀久の来援」

が収録されている。(香川図書館)

したがって、小豆島は単なる「戦場から逃げ込む島」だったのではない。

むしろ、

船を持ち、人を動かし、物資を運び、四国と本州を結び、軍事行動を支える海上拠点

として見る必要がある。

そして森家の歴史をここに重ねると、

森村吉

仙石秀久に仕官

小豆島を経由した仙石軍の讃岐進出

引田の戦い

森権平久村、殿軍として討死

引田城からの脱出、小豆島、淡路島方面への退避

という一連の歴史が浮かび上がってくる。

この歴史をさらに研究するうえで重要なのは、

森家の系譜・古文書

『改撰仙石家譜』

『南海通記』などの軍記

『池田町史』

『内海町史』

墓碑・地名・地域伝承

を相互に照合することである。

そうすることで、森村吉がなぜ仙石秀久に仕えたのか、森権平久村がなぜ引田の戦いで殿軍を務めたのか、そしてなぜ小豆島が仙石軍にとって重要だったのかを、より立体的に理解することができる。

戦国末期、秀吉と長宗我部元親が四国をめぐって対峙したとき、その戦いは陸上だけで行われていたのではない。

その背後には、

淡路島、
小豆島、
阿波水軍、
讃岐の海岸部、
船と水主、
そして瀬戸内海を行き交う武将と兵士たち

が存在していた。

その歴史の一端に、

森村吉と森権平久村

という森家の人物が位置しているのである。




参考資料・文献


1.『池田町史』
川野正雄編さん責任、香川県小豆郡池田町、1984年。

香川県立図書館の公開目次によれば、第三章「近世」第一節に、
「長曽我部元親の侵攻と仙石秀久の来島」
があり、第二節「豊臣時代の小豆島」の中には、
「加子浦としての活動」
が置かれている。

また、中世史では「小豆島水軍」「室町時代末期の小豆島水軍」が扱われている。(香川図書館)
今回のテーマでは、小豆島側から長宗我部元親と仙石秀久の関係を検討するうえで重要な地域史料である。

2.『内海町史』
川野正雄編さん責任、香川県小豆郡内海町、1974年。
昭和49年3月30日刊。

香川県立図書館の公開目次によれば、第二章「通史」の第三節「中世」に、
「小豆島水軍」
があり、第四節「近世」に、
「長曽我部氏の侵寇と仙石秀久の来援」
が置かれている。(香川図書館)

小豆島の海上交通・水軍史と仙石秀久の来援を関連づけて考えるうえで重要な資料である。

3.『改撰仙石家譜』
仙石氏の家譜・由緒関係史料。
仙石秀久の淡路・讃岐方面での軍事行動を、仙石氏側の視点から検討するための重要資料。

特に天正10年9月の、
小豆島から讃岐への渡海
→ 屋島方面での戦闘
→ 小豆島への退却

について確認するうえで重要である。香川県立図書館の県史年表も、この部分の出典として『改撰仙石家譜』を挙げている。(香川図書館)

4.『南海通記』
四国の戦国期の戦乱を記した軍記。
長宗我部氏と仙石秀久の対立、讃岐・阿波方面の戦闘を比較検討するための史料である。 
ただし軍記物であるため、同時代一次史料とは性格が異なることに注意が必要である。

5.『長元記』
長宗我部氏・阿波・讃岐方面の戦乱を考える際の関連史料。 
仙石秀久の軍事行動を、仙石氏側資料だけでなく、四国側の記録と比較するために用いる。 

6.『南海治乱記』
四国の戦乱を扱う軍記類の一つ。
長宗我部氏を中心とした四国の戦乱を検討する際の比較資料となる。 

7.森家関係資料 『木瓜の香り』他

森村吉、森権平久村について伝わる、

  • 系譜

  • 古文書

  • 家伝

  • 墓碑

  • 地域伝承

など。

特に、
森村吉の仙石秀久への仕官
森権平久村の系譜
引田の戦いでの討死
引田から脱出、小豆島、淡路島方面への退避

を検討するうえで重要である。

森権平久村については、徳島県立図書館のレファレンス資料にも、森村吉の次男であり、天正11年の引田合戦で伊座中山において稲吉新蔵人に討たれたとする資料が紹介されている。(国立国会図書館サーチ)


史料を読む際の重要な注記

本稿では、すべての資料を同じ史料的確度で扱ってはいない。

仙石氏側・公刊史料で確認できる事項

  • 仙石秀久が淡路方面で活動したこと

  • 天正10年に仙石秀久が小豆島から讃岐へ渡海したこと

  • 戦闘後に小豆島へ退いたこと

  • 引田の戦いが行われたこと

  • 森権平が仙石軍の殿を務めたとする記録

  • 伊座で稲吉新蔵人に討たれたとする記録


小豆島側の地域史で確認できる事項

  • 小豆島水軍の存在が地域史上重要なテーマとして扱われていること

  • 長宗我部元親の侵攻と仙石秀久の来島・来援が独立項目として扱われていること

  • 豊臣期の小豆島における加子浦としての活動が扱われていること

これらは『池田町史』『内海町史』の構成から確認できる。(香川図書館)

  
森家側資料を中心に検証する事項

  • 森村吉が仙石秀久に仕官した経緯

  • 森権平久村が森村吉の次男であること

  • 森権平久村が18歳で討死したという伝承

  • 引田から小豆島へ退避した経緯

  • 森村吉が後に信濃小諸へ移り7,000石を与えられたという系譜上の記録

これらについては、森家側資料を尊重しつつ、公刊史料との照合を進める必要がある。


したがって、
「森家の伝承だから歴史的価値がない」
とする必要はない。   

同時に、
「森家に伝わるからすべて一次史料で確認された事実である」
と一括して断定することも避けるべきである。  
 
最も適切なのは、
森家資料を独立した重要な史料群として扱い、仙石氏側史料、地域史、軍記、墓碑、地名・伝承と相互照合すること

である。

最終的な歴史的位置づけ

現時点で最も慎重かつ説得力のある整理は、次のようになる。 

仙石秀久

淡路方面を拠点として四国への軍事介入

天正10年、小豆島から讃岐へ渡海

長宗我部軍と戦闘

小豆島へ退却

天正11年、讃岐・引田で長宗我部軍と激突

森村吉の次男・森権平久村が仙石軍の殿軍を務める

伊座で稲吉新蔵人に討たれ討死

仙石軍が引田城から退却

引田城から脱出し、小豆島、淡路島方面へ退避

天正13年、秀吉による四国征伐

長宗我部元親降伏

という流れである。 


そして、この一連の歴史の背景に、 

淡路島―小豆島―讃岐―阿波

を結ぶ瀬戸内海の海上交通と、

小豆島水軍・阿波水軍

という海上勢力が存在していた。
 
この視点から見ると、森村吉の仙石秀久への仕官と、森権平久村の引田の戦いでの討死は、単独の家伝ではなく、戦国末期における淡路・小豆島・讃岐・阿波を結ぶ広域的な軍事史の一場面として位置づけることができる。



プロフィール



“インバウンドと語学で、地域と人の価値を高める専門家”








Bizconsul Office代表



森啓成(Yoshinari Mori)


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企業・自治体のインバウンド支援と、個人の語学×キャリア支援を行っています。

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■事業領域

・TOEIC × キャリア戦略コーチング



・直島・瀬戸内 VIP対応 通訳ガイド
(全国通訳案内士〈英語・中国語〉)



・インバウンド戦略コンサルタント
(観光庁インバウンド研修認定講師)



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■経歴



米国大学経営学部でマーケティングを専攻。

大手エレクトロニクス企業で20年間、海外営業職に従事し、中国・北京オフィス所長を務める。

その後、外資系商社の設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。

米国・シンガポール・中国で計16年間の滞在経験を持ち、海外ビジネスと異文化コミュニケーションの経験を積む。



現在は、これまでの海外ビジネス経験と語学力を生かし、TOEIC × キャリア戦略コーチ、企業・自治体へのインバウンド戦略コンサルタント、直島・豊島での富裕層向け通訳ガイドとして活動している。



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■ 資格



語学・教育



・全国通訳案内士(英語・中国語)



・英検1級



・TOEIC 970点(Listening満点)



・国連英検A級



・TESOL(英語教授法)



・HSK6級



・香川せとうち地域通訳案内士(中国語)

観光




・観光庁インバウンド研修認定講師


・総合旅行業務取扱管理者


・国内旅行業務取扱管理者


・国内旅程管理主任者


・せとうち島旅ガイド認定
(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)



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■ 所属


四国遍路通訳ガイド協会



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■ 登録





香川県登録通訳案内士サイト




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■座右の銘



雨垂れ石を穿つ

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