疲れたあなたへ贈る「解毒剤」― オリバー・バークマン『ネガティブ思考こそ最高のスキル』の世界
いつも笑顔で、前向きでいなければならない――。
現代社会に蔓延する、そんなプレッシャーに息苦しさを感じたことはありませんか?
自己啓発書が説くポジティブシンキングを実践しても、なぜか心が満たされなかったり、かえって疲弊してしまったり。
ポジティブであろうと頑張るほどに、何か大切なものを見失っているような感覚に陥る人もいるかもしれません。
もしそう感じているなら、イギリス出身の気鋭のジャーナリスト、オリバー・バークマンが提示する視点が、新たな光となるかもしれません。
彼は『ガーディアン』紙をはじめ、『ニューヨーク・タイムズ』や『ウォール・ストリート・ジャーナル』など数々の有名メディアに寄稿し、前作『限りある時間の使い方』は世界的なベストセラーとなりました。
その彼が、現代にはびこる「ポジティブ信仰」に鋭く切り込んだ話題作が、本書『ネガティブ思考こそ最高のスキル』です。
日本語版は当初『解毒剤 ポジティブ思考を妄信するあなたの「脳」へ』というタイトルで刊行され、後に『ネガティブ思考こそ最高のスキル』として改題復刊されました。
本書は単にネガティブさを礼賛するのではなく、行き過ぎたポジティブ思考への「妄信」に対する強力な「解毒剤」として機能します。
一見ネガティブに見える思考法こそが、実は現代を生き抜くための「最高の知性にしてスキル」であると、バークマンは数多の研究や事例、そして自身の体験を通して力強く主張するのです。
「絶えずネガティブな要素――不安、不確かさ、失敗、悲しみ――を排除しようと努力することこそが、私たちをこれほどまでに不安で、不安定で、不幸に感じさせているのではないか?」 と彼は言います。
そして、これらの「ネガティブ」とされる側面を避けるのではなく、むしろ積極的に受け入れることこそが、より確かで、より豊かな幸福へと至る道、「ネガティブな道」なのではという逆説的なことを言っています。
ポジティブシンキングという「処方箋」の副作用
楽観主義を貫き、ポジティブな思考を維持すれば、望むものが手に入り、人生は輝かしいものになる――。
バークマンは「そうじゃない!」と言います。
彼によれば、その多くは驚くほど浅薄で陳腐なアドバイスに過ぎない。
例えば、歴史的なベストセラー『7つの習慣』は、突き詰めれば「自分にとって最も重要なことを見極め、それを実行せよ」という、ある意味当然の教えです。
同様に『人を動かす』は、「感じの悪い人間になるより、感じの良い人間になり、相手の名前を頻繁に呼べ」と助言します。
さらに問題なのは、これらの教えが時に完全な偽りに基づいていることです。
目標設定の重要性を説く多くの書籍が引用する有名な「イェール大学目標研究」――1953年の卒業生のうち、具体的な目標を書き留めていた3%が、20年後に残りの97%を合わせたよりも多くの富を築いていたという話――は、実は全く行われていなかった研究であることが後に判明しています 。
また、自己啓発書はしばしば富と幸福を安易に結びつけますが、「幸福学」の最もよく知られた知見の一つは、物質的な豊かさが必ずしも幸福度の上昇に繋がらないという事実です。
一定の収入レベルを超えると幸福度は頭打ちになり、国際比較調査では、物質的に貧しい国々の方が幸福度が高いという結果さえ出ています(ナイジェリアが1位になった調査もある)。
成功物語ばかりが語られ、人生における避けられない失敗にはほとんど触れられないのも、この業界の特徴です 。
ではなぜ、これほどまでに推奨されるポジティブシンキングが、時に私たちを苦しめるのでしょうか?
バークマンは、その「副作用」とも言えるメカニズムをいくつか明らかにしています。
第一に、「逆行の原理」と呼ばれる現象があります。
これは、幸福を強く求め、ポジティブな気持ちになろうと努力すればするほど、かえって幸福が遠のいてしまうという逆説的な法則です。
幸福を掴もうと必死にもがく努力そのものが、不幸や苦しみの源泉となり得るのです。
「すべてを正しくしようとする努力」こそが、問題の一部である、とバークマンは指摘します。
第二に、「皮肉過程理論」が働きます。
これは、「白熊のことを考えないでください」と言われると、かえって白熊のことばかり考えてしまう、という有名な実験で示されるように、特定の思考(この場合はネガティブ思考)を抑制しようとすると、逆にその思考がより強く意識されてしまう現象です 。
ネガティブな思考を排除しようと心の中を見張る(自己モニタリングする)行為自体が、ネガティブ思考を増幅させてしまうのです。
この監視システムは、特にストレス下ではうまく機能しなくなることも指摘されています。
第三に、自己肯定感を高めるとされる「アファメーション(肯定的自己暗示)」も、現実の自己認識とかけ離れている場合、逆効果になる可能性があります。
心は一貫性を保とうとするため、現実と乖離したポジティブな言葉を無理に受け入れようとすると、最終的にはそれを拒絶し、かえって自尊心を低下させてしまうことがあるのです。
これらの心理的メカニズムの結果として、強制されたポジティブさは、不安や焦燥感、自己不信といった感情を引き起こしやすくなります。
常にポジティブであろうと努めることは、精神的な燃え尽きや、何か大切なものが欠けているような空虚感につながることもあるのです。
良い時も悪い時もあるのが人生の自然な姿であるにもかかわらず、悪い時を認めず、常にポジティブでいようとすることは、現実からの乖離を生み、かえって私たちを脆くしてしまうのかもしれません。
興味深いのは、こうしたポジティブシンキングの落とし穴にもかかわらず、自己啓発文化が依然として根強い影響力を持っている点です。
その背景には、うまくいかなかった時に、方法論そのものを疑うのではなく、「自分の努力が足りなかった」「もっとポジティブにならなければ」と自己を責めてしまう傾向があるのかもしれません。
そして、その自責の念が、さらなる自己啓発への探求、つまり同じ轍にはまるサイクルを生み出している可能性があります。
バークマンの著作は、この悪循環に陥っている人々にとって、問題はあなた自身ではなく、押し付けられた方法論にあるのかもしれない、と語りかけ、彼らが感じてきた違和感や失敗感を肯定してくれる力を持っている。
「ネガティブな道」へようこそ
ポジティブシンキングへの傾倒がもたらす弊害を踏まえ、バークマンが示するのが、幸福への「ネガティブな道」です。面白い。
ネガティブな感情や出来事を排除しようとする「無益な努力をやめる」ことから始まる道です。
人生の困難な側面から逃げるのではなく、それらに巧みに「向き合い、関わっていく」ことを目指します。
不確かさを楽しむ
未来は予測不可能であり、完全にコントロールすることはできないという現実を受け入れること。
確実性を渇望するのではなく、不確実な状況を「何が起こるか見てみよう」という好奇心をもって受け入れる姿勢です。
バークマンによれば、不確実性こそが、成功や幸福、そして真に生きるための機会が潜んでいる場所なのです。
不安定さを受け入れる
不安や不安定さは、しばしば「安定を求めすぎる努力」の結果として生じます。
確固たる足場など存在しないという認識、つまり「根拠のなさ」を受け入れることの中に、逆説的な安定が見出されるのかもしれません。
これには、傷つく可能性を受け入れる「もろさ」や、世界に対する「開かれた姿勢」が求められます。
失敗に慣れ親しむ
失敗は、否定したり恐れたりすべきものではなく、人生における避けられない一部であると認識すること。
失敗から学び、それを次への糧とする姿勢が重要です。
悲観主義/現実主義の価値を認める
無理に楽観的な見方を強制するのではなく、物事のネガティブな側面や起こりうる最悪の事態を冷静に考慮することの価値を認めること。
「あるがまま」を受け入れる
ネガティブな感情も含め、今この瞬間の現実を、抵抗せずに受け入れること。
この「ネガティブな道」が目指すのは、ポジティブシンキングが追い求めるような、一時的でもろい幸福感ではありません。
むしろ、人生の良い時も悪い時も穏やかに乗り越えていくための、より深い次元での心の平和や満足感なのです。
ここで重要になるのは、バークマンが「幸福」や「成功」という言葉の意味そのものを問い直している点です。
一般的な自己啓発が提示する幸福は、しばしば絶え間ないポジティブ感情、目標達成、物質的な豊かさと同義に語られます。
しかしバークマンは、これを表面的で持続不可能なものとして退けます。
彼が示す「ネガティブな道」における幸福とは、むしろ困難や不快な感情も含めた人生の全体験をうまく受け入れ、乗りこなしていく能力、すなわち「レジリエンス(回復力)」に近いものです。
同様に、成功も単に事前に設定した目標を達成することだけを意味しません。
不確実な状況への適応力、失敗からの学習、そして計画通りにいかない現実の中で意味を見出す力といった、より柔軟でしなやかな能力が、真の成功の鍵となるのです。
つまり、バークマンの著作は、幸福とは「常に気分が良いこと」ではなく、「人生のあらゆる側面とうまく付き合っていく術を身につけること」であり、成功とは「直線的な達成」ではなく「変化への適応力」である、という根本的な視点の転換を促しているのです。
古代の知恵を現代の処方箋に
バークマンが提唱する「ネガティブな道」は、決して目新しい発明ではありません。
むしろ、その根底には、古くから受け継がれてきた哲学的な知恵が存在します。
特に彼が注目するのが、古代ギリシャ・ローマのストア派哲学と仏教の思想です。
これらの思想は、現代のポジティブ思考文化とは対照的に、人生の困難や不確かさと向き合うための実践的なことがたくさん詰まっている。
ストア派哲学:理性と平静の技法
ギリシャで生まれ、ローマで発展したストア派哲学は、理性を重んじ、徳に従って生きることを説きました。
現代で使われる「ストイック(禁欲的、感情を表に出さない)」という言葉が持つ、どこか諦念に満ちた響きとは異なり、本来のストア派哲学は、困難な状況に直面しても動じない、強靭で積極的な精神的平静を養うことを目指す、よりタフな思想です。
ストア派の核となる教えの一つは、「自分ではコントロールできない外部の出来事」と「自分でコントロールできる内部の反応(思考や判断)」を区別することです。
宇宙や他人の行動はコントロールできませんが、それらに対する自分の理性的な判断や態度はコントロール可能です。
苦しみは出来事そのものから生じるのではなく、その出来事に対する私たちの「信念」や「判断」から生じる、と彼らは考えました。
この考え方を実践に移すための具体的な技法として、バークマンが特に注目するのが「ネガティブ・ビジュアリゼーション」、ストア派の言葉で言えば「悪の先取り瞑想」です。
これは、物事がうまくいくことばかりを想像する「ポジティブ・ビジュアリゼーション」とは対照的に、起こりうる最悪のシナリオを意図的に、具体的に、そして冷静に想像する訓練です。
この一見気が滅入りそうですが、やる価値はあります。
1.快楽順応への対抗
人間はどんなに素晴らしいものでも、手に入れるとすぐに慣れてしまい、ありがたみを感じなくなる傾向がある。
しかし、自分が享受しているものを失う可能性を定期的に想起することで、この順応効果を打ち消し、今あるものへの感謝の気持ちを新たにし、維持することができます。
エピクテトスは「何かを愛するようになったら、それが奪われ得ないものであるかのように振る舞ってはならない」と説きました。
2.不安の軽減
最悪のシナリオを直視し、具体的に検討することは、漠然とした不安からその力を奪います。
実際にそうなった場合にどう対処できるかを考えることで、恐れていた事態が、実は乗り越えられないものではないかもしれない、という感覚が生まれるのです。
バークマン自身も、ロンドンの地下鉄で次の駅名を叫ぶといったストア派流の「恥かき訓練」を実践し、想像していたほど悪いことは起こらないと体験しています。
3.確かな平静の獲得
ポジティブ思考によって得られる幸福感は、しばしば移ろいやすく、脆いものです。
しかし、ネガティブ・ビジュアリゼーションを通じて育まれる心の平静は、より堅固で、信頼できるものとなります。
さらに、「ストア派の小休止」と呼ばれる考え方もあります。
これは、困難な状況に陥った際に一歩引いて、「これは本当に『最悪』なのか、それとも単に『望ましくない』だけなのか?」と問い直し、苦しみを生んでいるのが状況そのものではなく、それに対する自分の反応(「これは耐えられない!」といった判断)であることに気づく、という内省的なプロセスで。
仏教:マインドフルネスと「あるがまま」の受容
バークマンはまた、仏教の思想、特にマインドフルネスや受容の概念にも「ネガティブな道」との親和性を見出します。
仏教は、人生には苦しみがつきものであること(一切皆苦)、そしてその苦しみの多くは、変化し続ける現実(諸行無常)に対する私たちの執着や抵抗から生まれると説きます。
ストア派と仏教は、それぞれ異なる文化的背景とアプローチを持ちながらも、現代のポジティブ思考文化への強力なカウンターとなりうる点で共通しています。
ストア派が理性的分析と意志の力によって内面の平静を築こうとするのに対し、仏教はマインドフルな観察と受容を通じて苦しみからの解放を目指します。
バークマンは、これら二つの偉大な知恵の伝統から洞察を汲み上げ、組み合わせることで、現代版最強キットみたいのを作ろうとしているわけです。
「ネガティブ思考」という名のスキルを磨く
幸福を直接追い求め、ネガティブな感情や出来事を無理に排除しようとする努力は、逆説的に私たちを不安にし、不幸にする可能性があること。
そして、真の心の平静は、むしろ不確実性や失敗、困難な感情といった、私たちが避けがちなものを受け入れ、それらに巧みに向き合う「ネガティブな道」の上に見出されるのかもしれないこと。
この二つがかみ砕いて丁寧に書いてある本でした。
ストア派哲学や仏教といった古来の知恵を現代的な視点から読み解き、その実践的な価値を鮮やかに示してくれます。
現実をありのままに認識し、人生の避けられない困難や不確かさに対して、より賢明に、より柔軟に対処していくための「心理的なスキル」を磨くことの重要性を説いている。
それは、感情に振り回されることなく、状況に冷静に対処するための心理的な柔軟性であり、困難から回復し、むしろそれを成長の糧とする力(レジリエンス)と言えます。
もし終わりのないポジティブさの追求に疲れを感じているなら、オリバーが示す「ネガティブな道」は、必読書です。
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これからも毎日、本を紹介したいのですが、このnote、ずっと赤字状態です。もし本好きの方がいらしたら、チップを送っていただけると嬉しいです。