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境目を消す作業

画面の中では、全員が揃っていた。

けれど私は、その子がその日、
そこにいなかったことを知っていた。

集合写真を撮った日とは別の日に、
その子だけを一人で撮影した。

これから出来上がる写真の形を、
その子は知らない。
みんなと並んでいるわけでもない。
自分がどんなふうに写り、
どこに収まるのかも分からない。

少し不安そうな表情をしていた。

私は、その子に立ち位置を伝える。

身体の向きを、少し右に。
ポーズは、こんな感じで。
はい、笑顔で。

集合写真の中に違和感なく馴染ませるには、みんなと同じ角度で、同じような姿勢をつくってもらわなければならない。

その子は、自分がいなかった瞬間の顔に合わせて、表情をつくる。

普段の撮影でも、子どもの緊張をほぐし、自然な表情を引き出すことは、
カメラマンの技術のひとつだと思ってきた。

けれど、このときの技術は、いつもとは少し違う意味を持っていた。

その子に、いなかった時間の顔をさせる技術。

撮影した写真を、集合写真の中へ入れていく。

顔の大きさを合わせる。
立つ位置を合わせる。
肩の高さを合わせる。
光の向きを合わせる。

切り抜いた境目が見えないように、画面を何度も拡大する。

少しずつ、その子はクラスの中へ馴染んでいく。
最初からそこにいたように。
みんなと同じ日に、同じ場所で、
同じ光を受けていたように。

やがて、境目は見えなくなる。

けれど、作業した私は知っている。
その一枚の中に、別の日の時間が入っていることを。

卒業アルバムの集合写真では、欠席していた子をあとから撮影し、写真の中へ入れ込むことは、もう珍しい作業ではない。

目を閉じてしまった顔を、別のカットの顔に替える作業にいたっては、しないほうが少ないくらいだ。

デジタルになってから、そうした手直しは、特別な処置ではなく、仕上げの一部になっていった。

初めて合成をした頃は、こんなことまでできるのかと驚いた。
そこにいなかった人を自然に写真の中へ入れ、
失敗した瞬間を別の瞬間に替えることができる。

できることは、確かに増えた。
そして、その技術に助けられたことも何度もあった。

全員が揃った日に、集合写真を撮れるとは限らない。
一人だけが写っていないまま、その写真を卒業アルバムに残すことにも、ためらいがある。

あとから入れることは、その子のための配慮でもある。
みんなと一緒に写っている写真を残したいという、学校や家族の願いでもある。

けれど、あとから一人で撮影することになる子の中には、普段なかなか学校へ来られなかったり、来てもクラスの子たちと一緒に過ごすことが難しかったりする子もいる。

そういう子をカメラの前に立たせるとき、
私はいつも考える。

この子は、本当にこの写真の中へ入りたいのだろうか。

自分だけが写っていないことを、寂しいと思うのか。

その子の気持ちが、どこまで確かめられているのか。
私には分からないまま、撮影は進む。

周りから見れば、写真に入れてあげることは、やさしさなのかもしれない。

けれど、そのやさしさが、その子自身の望んだものとは限らない。

この写真には、いったい誰の願いが残ろうとしているのだろう。

私がこの作業で一番迷うのは、そこだった。

画面の中で、その子がみんなと一緒にいる。

それは、やさしさでもある。

救いでもある。

けれど同時に、そこには本当にはなかった時間が生まれている。

その子は、その日そこにはいなかった。
あの笑顔も、あの日に浮かべていたものではない。
別の日に、別の場所で、みんなの中へ入るためにつくられた表情だった。

その写真にあるやさしさも、そこに本当にはなかった時間も、私はどちらも知っている。

完成した写真を見る人には、境目は見えない。
その子が別の日に撮られたとは、誰も思わないだろう。

けれど私には、その一枚を一つの時間として見ることができない。

みんなが並んでいた日の時間。
その子が一人で撮られた日の時間。

二つの時間が、一枚の中で静かに重なっている。

境目を消したのは、私だ。

けれど、そこに境目があったことまで、
私の中から消えるわけではない。

むしろ、境目を消すために画面を拡大するほど、私はその境目だけを見続けることになる。

どこまで馴染ませれば、自然に見えるのか。
どこまで消せば、気づかれないのか。

誰にも分からなくなったところで、作業は終わる。

そこに、少し不思議な孤独がある。

今ではAIが、以前なら時間をかけていた境目を、驚くほど簡単に消してくれる。

人を切り抜き、いなかった場所へ入れる。
足りない部分を補い、余計なものを消す。
表情さえ、自然につくり替えることができる。

できることは、これからも増えていくのだと思う。
けれど、できることが増えたからといって、迷わなくてよくなるわけではない。

むしろ、簡単にできるようになったからこそ、どこで手を止めるのかが、これまで以上に問われる気がしている。

何を足すのか。
何を消すのか。
何を、なかったことにするのか。

全員が揃って見えることが、本当に一番いいことなのか。

その答えを、私はまだ持っていない。

写真の仕事を続ける中で、私は何度も技術に支えられてきた。
合成も、補正も、誰かの大切な記録を整えるために必要なものだった。

それを否定したいわけではない。

ただ、どれだけ自然に仕上げられるようになっても、迷いだけは残しておきたいと思う。

この子を、ここに入れていいのか。
この表情を、あの日のものとして残していいのか。
今、自分の手が何を消そうとしているのか。

その迷いがなくなったとき、写真はただの処理に近づいていく気がする。

画面の中では、全員が揃っている。
切り抜いた跡もない。
光の違いもない。

その子は、最初からそこにいたように見える。

私も、それでよかったのだと思いたい。

けれど、最後にもう一度だけ画面を拡大する。

もう、境目は見えない。

それでも私は、そこに二つの時間があることを知っている。


※公開後、いただいたコメントをきっかけに、もともと自分の中にありながら、本文に書ききれていなかった問いを一部加筆しました。

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