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九十二、時代小説 義賊 千変万化の三太(せんぺんばんか の さんた)

題七話 風小僧 名前を盗まれる

十六 章 風の帰るところ

 夕暮れが近づいていた。  江戸の町を一日歩いた二人は、堀田の屋敷へ続く道まで戻ってきた。  遠くに、屋敷の黒い門が見えている。  そこまで来ると、鶴姫の足が急に遅くなった。 「……もう、着いてしまいましたね」 「ああ」  三太も、足を止めた。  朝からあれほど楽しそうにしていた姫が、今は黙っている。  町娘の姿をしていても、あの門の向こうへ入れば、また大名家の姫に戻る。  三太も、それが分かっていた。 「今日は……ありがとうございました」 「礼なんかいりませんよ」 「でも、私……」  鶴姫は少し笑った。 「蕎麦も、団子も、初めてでした」 「団子は俺が一個盗りましたけどね」 「……あれは忘れません」 「まだ怒ってるんですかい」 「少しだけ」 「そいつは参った」  三太は頭を掻いた。  いつもの三太なら、ここで冗談の一つも言うところだった。  だが、今日は何も浮かばない。  鶴姫もまた、何か言おうとして口を閉じた。  やがて小さな声で、 「三太さん」 「はい」 「私は……屋敷の中に戻りたくありません」  三太は黙った。 「今日一日だけでしたけれど、初めて、自分で歩いて、自分で食べて、自分で笑いました」 「……」 「私は今まで、それができることを知りませんでした」  三太は川の方を見た。 「姫様は……」 「姫様ではありません」 「……鶴さんは」 「はい」 「鶴さんは、これからもきっと笑えますよ」 「三太さんが連れて行ってくださるなら?」  三太の顔から笑みが消えた。 「それは……」  答えが出てこない。  鶴姫は静かに言った。 「あなたは、私を助けてくださいました」 「たまたまです」 「今日も?」 「……それも、たまたま」  鶴姫は微笑んだ。 「三太さんは、嘘が下手ですね」 「盗っ人としては致命傷ですな」  二人とも笑った。  だが、その笑いはすぐに消えた。  鶴姫が三太を見る。 「あなたは……寂しい人ですね」  三太は少し驚いた。 「俺が?」 「はい」 「初めて言われましたよ」 「嘘です」 「……ばれましたか」 「あなたはいつも笑っています。でも、時々、とても寂しそうな顔をします」  三太はしばらく黙っていた。  そして、ぽつりと言った。 「俺には、帰る家がねぇんですよ」  鶴姫の表情が変わった。 「昔は旅の一座にいました。仲間が家みたいなもんでした」 「今は?」 「今は……風の向くままです」  少し笑う。 「風小僧なんて呼ばれてますからね」 「では、風はどこへ帰るのです?」  三太は空を見上げた。 「帰るところなんか、ねぇんじゃないですかね」 「……」 「吹いて、消える。それが風です」  鶴姫は首を横に振った。 「私は、そうは思いません」 「え?」 「風にも、帰る場所があると思います」  三太は何も言わなかった。  胸の奥が、妙に痛かった。  やがて門の向こうから人の声が聞こえた。 「姫様!」  二人の時間が終わる。  三太は一歩下がった。 「行ってください」 「三太さん……」 「ここから先は、俺が入っちゃいけねぇところです」  鶴姫が少し潤んだ瞳で三太を見上げた。
「……また会えますか?」三太の胸が、どくん、と鳴った。 盗みの最中に刀を突きつけられても、こんな音はしなかった。参った。 「……そうですね」  三太は少し考えた。 「じゃあ、約束します」  鶴姫の顔が明るくなる。 「本当ですか?」 「ええ。ただし――」 「ただし?」  三太はいたずらっぽく笑った。 「次に会った時は、団子を一本とも俺にください」 「嫌です」 「即答ですかい!」  鶴姫が笑った。  その笑顔を見て、三太も笑った。  だが、その笑顔の奥には、二人とも分かっていた。  自分たちの間には、越えられないものがある。  身分。  家柄。  そして、三太が風小僧であるという事実。 「さようなら」  鶴姫が小さく頭を下げた。 「……また」  三太はそれだけ言った。  姫が門の向こうへ消えていく。  最後に振り返った鶴姫と、三太の目が合った。  そして門が閉じた。  三太はしばらく、その場に立っていた。  やがて、 「……参ったねぇ」  と頭を掻く。 「盗みなら、どんな鍵だって開けられるんだがな」  苦笑する。 「人の心ってやつは……どうにもならねぇ」  夕暮れの江戸を、一陣の風が吹き抜けた。  三太はその風に背を向けると、一人で歩き出した。  帰る場所はない。  それでも――。  今日だけは、心の中に帰りたい場所ができてしまった。
                                              つづく

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