四十三、時代小説 義賊 千変万化の三太(せんぺんばんか の さんた)
第四話 三太対山女衒
八章 女牙 お滝
その夕刻。 箱根の湯は、昼間よりも湯気が濃かった。 三太は湯船の隅に肩まで浸かり、ふう、と長い息を吐いた。 傷もだいぶ癒え、脇腹の痛みもほとんど消えている。 湯気の向こうに山の稜線がぼんやりと見えた。 「……。」 ふと、太助とお雪の顔が浮かぶ。 今頃は、もう江戸への道を急いでいるだろう。 三太は湯をひと掬いして胸へかけた。 「あの矢場の野郎ども……。」 ぽつりと呟く。 「このままほっとくわけにはいかねえな。」 山女衒。 娘を騙し、売り飛ばす外道ども。 考えれば考えるほど腹が立つ。 その時だった。 からり。 湯殿の戸が開いた。 「おや。」 女の声である。 三太が振り向く。 一人の女が立っていた。 年の頃は二十七、八。 黒髪をきりりと結い上げ、目元にはどこか男勝りな気配がある。 だが、姿はなかなかに粋だった。 女は三太を見ると、くすりと笑った。 「隣、いいかい。」 「……好きにしな。」 女は湯へ足を入れた。 白い湯気が立ち昇る。 「いい湯だねぇ。」 「そうだな。」 しばらく静かだった。 やがて女が、ちらりと三太を見た。 「夕べの猿芝居、見せてもらったよ。」 三太は眉をひそめる。 「猿芝居?」 「おや、とぼけるのかい。」 「何のことだ。」 女は肩をすくめた。 「知らなきゃ教えてやる。」 そして、にやりと笑った。 「森の石松は死んだよ。」 ……。 三太は黙っている。 女は続けた。 「それが分かれば、あの連中、血なまこになってあんたを探す。」 「ふん。」 三太は鼻で笑った。 「あんな奴らに捕まる俺様じゃねえ。」 「どうだか。」 女が湯に肩まで浸かる。 「あんた、私につけられてるくらいだからね。」 三太はちらりと女を見た。 女もこちらを見ている。 目が合った。 女が、くすり。 笑う。 「……。」 三太は、ふいと視線を逸らした。 女は面白そうに目を細める。 「なんだい。」 「別に。」 「何か言いたそうな顔だ。」 「言いたくねえ。」 「変な男だねぇ。」 また、くすり。 そして少し身を寄せた。 「まあいいさ。」 「……。」 「実は、あんたに話がある。」 「話?」 「ああ。」 女は湯を指ですくった。 「いい話だよ。」 「ほう。」 「まあ、話だけなら聞いてやってもいいが。」 女はにやりと笑った。 「じゃあ、上がったら鶴の間で待ってるよ。」 そう言うと、すっと立ち上がった。 湯気の向こうへ歩いていく。 その後ろ姿を、三太は何となく目で追った。 「……。」 女が戸口で振り向く。 「ちゃんと来なよ。」 「……。」 「来なかったら、あんたが森の石松だったって、大声で言いふらすからね。」 「脅しか。」 「そうとも。」 女は楽しそうに笑うと、からりと戸を閉めて出て行った。 湯殿は静かになった。 三太は、しばらく戸を見つめていた。 やがて。 「……チキショウ。」 ぽつり。 「いい女じゃねえか。」 自分で言って、自分で苦笑する。 そして頭まで湯に潜った。 ぶくぶくぶく……。 顔を出す。 「おっと、いけねえ。」 鼻を押さえる。 赤いものが、つう、と流れた。 「……のぼせた。」 湯殿には、誰もいない。 三太は一人、鼻を押さえたまま天井を見上げ、 「これだから箱根の湯は効きすぎる。」 と、もっともらしく呟いたのであった。
つづく

