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三十六、時代小説 義賊 千変万化の三太(せんぺんばんか の さんた)

第四話 三太対山女衒
一章 箱根の湯治

 箱根への道 春も半ばを過ぎた頃であった。 宿場を出てから十日余り。 三太は東海道を西へ向かっていた。 脇腹の傷は塞がってはいたが、まだ時折鈍く痛んだ。 長く歩けば、傷口が内側から引きつるような感覚がある。 道端の松の根元に腰を下ろし、三太は苦笑した。 「まったく、派手にやられたもんだ。」 遠くで鶯が鳴いた。 春の山々は淡い霞をまとい、畑では菜の花が風に揺れている。 行き交うのは、伊勢参りへ向かう旅人、荷を積んだ馬子、行商人、旅芸人、浪人風の男たち。 東海道は、まるで一本の大河のように人が流れていた。 その流れの中を、三太もまた一人の旅人として歩いている。 「江戸はまだ遠いな……。」 空を見上げる。 雲はゆっくりと西へ流れていた。 ふと、お鈴の顔が浮かんだ。 泣きながら追いすがってきた姿である。 三太は小さく首を振った。 「いけねえ。」 そう呟いて立ち上がった。 考えれば、足が止まる。 歩かなければならぬ。 風は止まらぬものだ。 やがて前方に山並みが見えてきた。 箱根である。 険しい峰々が幾重にも連なり、まるで巨大な屏風を立てたように東海道を塞いでいる。 旅人たちは皆、ここで足を止めた。 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川。」 そんな言葉がある。 東海道随一の難所。 坂は急で、道は狭く、霧が出れば一間先も見えぬ。 山賊も出る。 狼の遠吠えを聞いたという者もいる。 しかし同時に、この山にはもう一つの顔があった。 湯である。 箱根七湯。 湯本、塔之沢、宮ノ下、堂ヶ島……。 古くから傷や病を癒す名湯として知られ、武士も町人も百姓も、分け隔てなく湯治に訪れる。 湯宿には様々な人間が集まる。 病人。 訳ありの浪人。 身を隠す者。 商いに失敗した者。 旅芸人。 そして、ときには人に言えぬ過去を背負った者も。 三太は笑った。 「俺にはおあつらえ向きだ。」 そう言って、笠を少し上げた。 山風が吹いてくる。 硫黄の匂いが微かに混じっていた。 温泉が近い。 道端の茶店から湯気が立っている。 団子を焼く香ばしい匂いも漂ってくる。 三太の腹が、ぐうと鳴った。 「まずは湯より飯か。」 茶店の老婆が笑った。 「兄さん、いい顔してるねえ。」 「そうかい?」 「死にかけた顔じゃない。」 三太は思わず苦笑した。 「当たってる。」 老婆は目を丸くした。 「なんだい、本当に死にかけたのか。」 「少しばかり。」 「それならなおさら湯に浸かりな。」 老婆は山を指差した。 「箱根の湯はな、傷だけじゃない。人の心の古傷まで洗い流してくれるよ。」 三太は黙った。 そして、ふっと笑う。 「そいつぁありがてえ。」 茶店を後にすると、山の向こうから湯煙が白く立ち昇っていた。 箱根の春は遅い。 ところどころ桜がまだ咲き残り、風に散った花びらが山道を流れていく。 三太はその中を、一人歩いていった。 まだ、この先に待つ騒動を知る由もなかった。 まして、湯治場で出会う一人の娘と、一人の女牙が、再び風を呼ぶことになろうとは――。

                                           つづく


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