九十一、時代小説 義賊 千変万化の三太(せんぺんばんか の さんた)
題七話 風小僧 名前を盗まれる
十五章 風の散歩
夜明け前の江戸は、まだ薄青い闇の中にあった。 三太は、町娘姿の鶴姫を連れて、細い路地を歩き鶴姫の顔を改めて見た。まだ少女の面影を残した、可憐な顔立ちだった。細い眉、すっと通った鼻筋、ほんのりと赤みを帯びた頬。何より三太の心を奪ったのは、その瞳だった。澄んでいる。まるで朝露を含んだ水晶のように、どこまでも濁りがない。 それでいて、何かを堪えているのか、瞳の奥には薄く涙が潤んでいる。盗みの最中なら、どんな屋敷でも一瞬で見回し、逃げ道まで頭に入れる男である。ところが今は――。
目の前の娘の、目すら見れない。
「……どうしました?」
鶴姫が不思議そうに首を傾げた。
「いや……」 三太は慌てて顔を背けた。「足元に気をつけてくださいよ」 「大丈夫です」 「そう言って、さっきから三度つまずいてますぜ」 「……三度ではありません。二度です」 「そこを数えてるんですかい」 鶴姫は少し頬を膨らませた。 「だって、三太さんが笑うから」 「そりゃ笑いますよ。普段、畳の上しか歩いてねぇ人が、朝っぱらから江戸の裏道を歩いてるんですから」 「そんなにおかしいですか?」 「ええ。面白くて仕方ねぇ」 「もう……」 鶴姫はむっとした顔をした。 だが、その目は楽しそうだった。 やがて二人は大通りへ出た。 空が白み始める。 魚河岸では男たちの威勢のいい声が飛び交い、荷車が行き交っている。 「まあ……」 鶴姫が立ち止まった。 「これが江戸……」 「何を今さら」 「屋敷から見る江戸とは、まるで違います」 「そりゃそうでしょう。屋敷からじゃ、魚の匂いまでは届きませんからね」 「魚の匂い……」 鶴姫が鼻をつまむ。 三太は吹き出した。 「何です?」 「いや、姫様でも鼻はつまむんだなと思いまして」 「姫様ではありません」 「おっと、そうでした」 三太はわざとらしく頭を下げた。 「失礼いたしました。鶴さん」 「……はい」 呼ばれた鶴姫は、少しだけ嬉しそうに笑った。 しばらく歩くと、蕎麦屋の屋台が見えてきた。 「食べますか?」 「ここで?」 「ここ以外にどこで食べるんです?」 「でも……」 「大丈夫ですよ。毒なんか入ってません」 「そういうことを言っているのではありません!」 「じゃあ何です?」 「……私は、このようなところで食事をしたことがないのです」 三太は少し驚いた。 「そいつは気の毒だ」 「気の毒?」 「江戸に生まれて蕎麦を食ったことがねぇなんて」 「そんなに大事なものですか?」 「人生の半分くらいは蕎麦でできてます」 「嘘です」 「ばれましたか」 鶴姫は声を上げて笑った。 二人は屋台の端に腰を下ろした。 湯気の立つ蕎麦が運ばれてくる。 鶴姫は箸を持ったものの、どう食べればいいのか分からない。 三太が横目で見る。 「……鶴さん」 「何です?」 「箸をそんな上品に持ってちゃ、蕎麦が逃げますぜ」 「蕎麦が逃げる?」 「ええ」 三太はずるずるっと豪快にすすった。 「こうです」 「……そんなに音を立てて?」 「江戸じゃ音を立てた方がうまそうに見えるんです」 「本当ですか?」 「今、俺が決めました」 「もう!」 鶴姫は笑いながら、恐る恐る蕎麦をすすった。 少しだけ音が鳴る。 「……!」 鶴姫自身が驚いた顔をする。 三太が笑う。 「上出来!」 「本当?」 「江戸っ子の仲間入りです」 鶴姫は嬉しそうにもう一口すすった。 「美味しい……」 「でしょう」 その横顔を、三太は黙って見ていた。 姫の顔に、今まで見たことのない無邪気な笑顔が浮かんでいる。 大名屋敷の奥では決して見られない顔だった。 店を出ると、今度は団子売りが目に入った。 「三太さん」 「何です?」 「あれは?」 「団子です」 「食べたい」 三太は目を丸くした。 「……鶴さん、ずいぶん欲が出てきましたね」 「悪いですか?」 「いや、結構」 三太は団子を一本買った。 ところが――。 「はい」 「ありがとうございます」 鶴姫が受け取った瞬間、三太が一個の団子をひょいと抜き取った。 「あっ!」 「一ついただき」 「ずるい!」 「盗っ人ですから」 「返してください!」 「嫌です」 三太は逃げる。 「待って!」 鶴姫も追いかける。 朝の江戸の通りを、二人が笑いながら走っていく。 町の人々が振り返った。 誰も、その娘が大名の姫だとは思わない。 誰も、その男が江戸を騒がせた風小僧だとは思わない。 ただ、仲のいい若い男女が、朝の町で戯れているだけだった。

やがて二人は隅田川のほとりまで来た。 川面には朝日がきらきらと揺れている。 鶴姫は欄干に手を置き、川を眺めた。 「……綺麗」 「でしょう」 「私、こんなところに来たのは初めてです」 「そうですか」 「今日は……とても楽しいです」 三太は返事をしなかった。 「三太さん?」 「……いや」 三太は川面を眺めた。 「俺も、こんなに楽しいのは久しぶりだなと思って」 鶴姫が三太を見る。 二人の目が合った。 ほんの一瞬。 どちらも、何も言わなかった。 風が吹いた。 鶴姫の髪が揺れる。 三太が手を伸ばしかけ――やめた。 「……そろそろ戻りましょう」 「はい」 歩き出す。 だが、今度は鶴姫の方から、そっと三太の袖をつまんだ。 「三太さん」 「はい?」 「また……連れてきてくださいね」 三太は振り返った。 「……風が吹いたら、また」 「約束ですよ」 「へい」 鶴姫は笑った。 その笑顔を見て、三太も笑った。 だが二人とも、この時はまだ知らなかった。 この何気ない一日の思い出が―― やがて二人にとって、忘れられないものになることを。
つづく

