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三十、時代小説 義賊 千変万化の三太(せんぺんばんか の さんた)

第三話、三太の恋

十一章、狐の失策

虎屋の店。番頭が慌てて奥へ飛び込む。
「旦那!」
「何事だ!」
「これが!」
宗兵衛は書状を受け取る。読み始める。その顔から血の気が引いていく
虎屋宗兵衛は奥座敷に入り文を何度も読み返していた。 すでに十度は読んでいる。 それでも何故か腑に落ちなかった。 文面は短い。 だが、そこに書かれた言葉は妙に芝居がかっている。 まるで誰かが意図して自分を怒らせようとしているように思えた。 宗兵衛は煙管を置いた。 「待てよ……」 その顔から怒りが少しだけ引く。 代わりに別の感情が浮かんだ。 疑念だった。 もし越前屋が本当に証拠を手に入れたのなら、こんな文を送るだろうか。 相手に警戒を与えるだけではないか。 黙って金を持ち逃げした方が早い。 「おかしい……」 宗兵衛は独り言を漏らした。 「これは越前屋じゃねえかもしれねえ」 その時だった。 若い衆の一人が慌てて駆け込んできた。 「旦那!」 「なんだ」 「越前屋の若い衆が十人ほど集まっております!」 宗兵衛の顔が変わった。 「どこだ」 「河岸の倉でございます!」 先ほどまで浮かんでいた冷静な考えが吹き飛ぶ。 若い衆を集めている。 それは事実だった。 宗兵衛は立ち上がった。 「やはり仕掛ける気か」 しかし心の片隅では、まだ何かが引っかかっていた。 その頃、越前屋清蔵もまた同じようなことを考えていた。 帳場に一人残り、文を見つめている。 最初は虎屋の脅しだと思った。 だが読み返すほどに違和感が強くなる。 あまりに露骨だった。 まるで虎屋らしくない。 「馬鹿げている」 清蔵は小さく呟いた。 「宗兵衛もそこまで阿呆じゃあるまい」 長年付き合ってきた相手である。 敵ではあっても、その程度の知恵はあると知っている。 ならば誰が書いた。 何のために。 その答えが頭をよぎった。 「第三者か」 思わず声に出る。 十年前の秘密を知る者。 そして自分たちを争わせようとしている者。 「そういうことか」 清蔵は初めて文の正体に気づきかけた。 その時だった。 裏口から若い衆が飛び込んできた。 「旦那!」 「どうした」 「虎屋の連中が武器を集めております!」 清蔵は顔を上げた。 「確かか」 「間違いございません」 若い衆は息を切らしている。 「浪人まで雇っております」 清蔵は黙った。 先ほどまでの推理が揺らぎ始める。 第三者かもしれない。 しかし虎屋が動いているのも事実だった。 もし相手が本気なら。 こちらだけが構えていなければ。 やられる。 その考えが頭を占める。 同じ頃。 代官所でも神尾伊織が文を見つめていた。 彼もまた気づいていた。 この文には誰かの作為がある。 虎屋でも越前屋でもない。 もっと別の誰かだ。 だが、そこまで考えたところで家臣が駆け込んできた。 「申し上げます!」 「何事だ」 「虎屋と越前屋の双方で人集めが始まっております!」 神尾は眉をひそめた。 「本当か」 「はっ」 神尾はゆっくり立ち上がった。 そして窓の外を見た。 宿場町の屋根が夕陽に赤く染まっている。 「馬鹿どもめ」 小さく呟いた。 誰かの仕掛けであることは分かる。 だが、それを知ったところで事態は止まらない。 疑いはすでに心へ入り込んでいる。 十年抱えてきた秘密。 三万両の御用金。 裏切りへの恐怖。 その全てが今、爆ぜようとしていた。 夜になると、町のあちこちで提灯が揺れ始めた。 虎屋の若い衆は刀を帯びる。 越前屋の手下は蔵から火薬を運び出す。 互いに、 「先にやらねばやられる」 と思い込んでいる。 本当は違うかもしれない。 誰かに踊らされているのかもしれない。 そんな考えが頭をよぎる者もいた。 だが、それを口にする者はいなかった。 疑いよりも恐怖の方が強かったからである。 そして恐怖は、人を最も愚かにする。 その夜更け。 寺の一室で、三太は窓の外を見つめていた。 遠く宿場の方角に、ぼんやりと灯が揺れている。 「始まるな」 そう呟くと、隣でお鈴が不安そうな顔をした。 三太は何も言わなかった。 ただ静かに目を細めた。 狐が仕掛けた罠に、獲物たちは気づき始めている。 だが、気づいた時にはもう遅い。 坂を転がり始めた石は、誰にも止められないのであった。

                                        つづく

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