三十一、時代小説 義賊 千変万化の三太(せんぺんばんか の さんた)
第三話、三太の恋
十ニ章、一触即発の夜
寺の本堂には夕暮れの影が静かに落ちていた。 三太は傷こそ塞がり始めていたが、まだ長く歩ける状態ではない。畳の上に胡坐をかき、広げた宿場町の絵図を見つめていた。 その横ではお鈴が灯明に火を入れている。 寺の空気は穏やかだった。 しかし、その穏やかさは長く続かなかった。 廊下を駆ける足音が聞こえた。 次の瞬間、障子が勢いよく開く。 「三太!」 飛び込んできたのは彦六だった。 額には汗が浮き、息も荒い。 ただならぬ様子に三太は顔を上げた。 「何かあったな」 彦六は大きく頷いた。「中山稲荷だ」「稲荷神社?」「代官所の取り方が大勢で警備を始めやがった」くなる。 「警備だと?」 「そうだ」 彦六は畳に手をついた。 「昼頃から急に人が増えた」 「神主も困ってる」 「参拝客まで追い返してるそうだ」 三太は黙った。 何かを考えている。 彦六はさらに続けた。 「それだけじゃねえ」 「うむ」 「神社の古老に聞いた」 彦六は声を潜めた。 「十年前だ」 その言葉にお鈴が振り向いた。 「十年前?」 「そうだ」 彦六は頷く。 「ちょうど御用金が消えた年だ」 部屋の空気が変わった。 「その年」 彦六はゆっくり言った。 「稲荷神社は大規模な補修工事をやってる」 三太が顔を上げた。 「なんだと」 「社殿の床下も掘り返したそうだ」 静寂。 三太の脳裏で何かが繋がった。 三万両。 十年前。 補修工事。 稲荷神社。 そして代官所の警備。 三太は静かに呟いた。 「臭うな」 彦六がにやりと笑う。 「だろう?」 「臭うどころじゃねえ」 三太の目が細くなる。 「狐でも鼻をつまみたくなるほどだ」 その時だった。 さらに廊下から叫び声が聞こえた。 「大変だ!」 今度は豆吉だった。 転がるように飛び込んでくる。 「虎屋だ!」 「何があった」 「火だ!」 豆吉は息を切らしながら叫んだ。 「虎屋に火が放たれた!」 お鈴が思わず息を呑む。 「焼き討ちか」 三太が低く言う。 「まだ蔵だけらしい!」 「だが若い衆が刀を持って飛び出した!」 彦六と三太が顔を見合わせた。 始まった。 ついに始まったのだ。 すると豆吉はさらに言った。 「まだある!」 「なんだ」 「越前屋だ!」 「越前屋?」 「代官所の取り方に囲まれてる!」 その場にいた全員が息を呑んだ。 代官が動いた。 虎屋と越前屋が争い始めたその瞬間を狙って。 まるで待っていたかのように。 三太は絵図の上へ視線を落とした。 虎屋。 越前屋。 代官所。 稲荷神社。 点だったものが線になり始める。 「やはりだ」 誰に言うでもなく呟いた。 「奴らは金を気にしている」 「三万両か」 と彦六。 「そうだ」 「虎屋は越前屋を疑っている」 「越前屋は虎屋を疑っている」 「代官はその両方を始末しようとしている」 三太は拳を握った。 「そして全員が」 そこで言葉を切る。 「金の在処を知っている」 本堂の灯明が揺れた。 外では日が落ち始めている。 遠く宿場町の方角から、 かすかに半鐘の音が聞こえてきた。 カン、カン、カン―― 火事を知らせる音である。 虎屋の火はまだ燃えているのだろう。 そしてその炎は、 十年前から燻り続けていた悪事を焼き尽くす炎でもあった。 三太はゆっくり立ち上がった。 傷が痛む。 脇腹に鈍い痛みが走る。 それでも立った。 「三太さん!」 お鈴が慌てる。 「まだ無理です!」 三太は笑った。 その顔は久しぶりに生気を帯びていた。 「無理じゃねえ」 窓の外を見る。 宿場町の空が赤く染まっている。 夕焼けか。 それとも火の色か。 「いよいよ終幕だ」 その言葉に、彦六も豆吉も黙って頷いた。 誰もが感じていた。 長い長い化かし合いが終わる。 そして今、 十年前の闇が姿を現そうとしているのであった。
つづく

