リーダーになれない管理者
「真我」という言葉を、稲盛和夫さんはよく使う。
これは仏教や東洋哲学に由来する概念で、簡単に言えば「本来の自己」「魂のレベルの自己」のことだ。
日々の損得や感情に振り回されている表層の自分ではなく、その奥にある純粋な自分を指す。
ビジネスの文脈にこの言葉を持ち込むと、多くの人は戸惑う。
経営に「真我」と言われても、現場には書類が積まれているし、四半期決算は迫っているし、悠長な話をしている場合ではない。
だが稲盛さんがここで言いたかったことは、極めて実務的だ。
リーダーには、二つの役割がある。
一つは「管理者」としての役割。
意思決定、業務管理、評価、報告、調整。
これらをきちんと回すこと。
これは技術の話だ。
もう一つは、「人格」としての役割。
組織の空気を作り、メンバーの人生に影響を与え、ピンチのときに人々の安心の根拠となる。
これは存在の話だ。
管理者としての役割は、極論すれば誰がやってもいい。
スキルがあれば、ある程度は回せる。
だが人格としての役割は、その人にしか果たせない。
代替できない。
そしてメンバーは、リーダーの「管理者の顔」より「人格としての顔」の方をはるかに見ている。
判断の正確さよりも、その人がどんな人間か、何を大事にしているか、ピンチのとき何を選ぶか。
そこを見ている。
稲盛さんが言う「真我に目覚める」とは、この人格としての自分に向き合うこと、と読み解くことができる。
具体的には、こういう問いだ。
「自分は、どんな人間でありたいのか」
「自分の存在は、組織にとってどういう意味を持つのか」
「自分が去ったあと、何が人々の心に残るのか」
こうした問いは、業務とは関係しない。
だが、業務に向き合っている自分の在り方を、根っこから決めている。
稲盛さんは晩年、京都に建立した稲盛財団の活動を通じて、若い研究者や学生にこの種の問いを伝え続けた。
技術や戦略よりも先に、自分という存在の根本を整えること。
それがリーダーシップの本質だと。
管理者であるだけでは、リーダーにはなれない。
自分の「人格としての役割」について、考えてみませんか。
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