少年時代の話。
高度成長期、昭和のベビーブームと言われた時期に私は生まれた。日本が豊かになろうとしていた時代。人々の暮らしも変化していた頃、小学校には光化学スモッグ発令中の立て看板があったのを覚えている。
文化住宅に住んでいてトイレというより便所という言葉が似合う汲み取り式トイレ。小さい白黒テレビに電話も最初は無かった。風呂も無いので家族で夕食後は銭湯に出掛けた。
母は私が小学四年生になると縫い物を習いに出掛け、やがて家のすぐ近所にあった縫い物の会社に就職し、鍵っ子になった。
家に一人で居るのは好きでは無かったので友達と遊んだり、祖母が来たり、小学校の空き地に建てられた学童保育に預けられたりした。
父は塗装の個人経営の店に勤めていて盆と正月以外は休みが無かった。たまに休みがあると大盤振る舞いしてくれたが孤独を解消してくれたのは3歳の頃に生まれた猫のミーコとテレビゲームだった。
映画好きだった父の影響も受けてブルース・リーがキッカケで映画も大好きに。渋い語り口調の荻昌弘の月曜ロードショー、分かりやすい解説の水野晴郎の水曜ロードショー、メジャー娯楽映画が多かった高島忠夫のゴールデン洋画劇場、エンディング曲が怖かった淀川長治の日曜洋画劇場…。
映画を観れる機会は多かったし市内には沢山の映画館もあった。夏休み前は東映まんがまつりの割引券を映画館のオヤジが校門前で配るのをもらうのが嬉しかった。
銭湯の近くに二軒本屋があり父がよく漫画の単行本を買ってくれた。テレビアニメの「カムイ外伝」が好きだったので「カムイ伝」を買ってもらっていたものの結構大人向けの内容だった。
生まれ育った大和高田市は春には堤防に植えられた桜が一斉に咲き、屋台が沢山並んだ。夏祭りも色々な場所であり家族でよく出掛けた。
物心がついた頃には豆腐屋さんは来なくなっていたが(写真では見たことがあった)、八百屋さんはクルマに沢山の野菜を乗せて売りに来ていた。
家の周りは田圃だらけで夏はカエルの大合唱と蚊が多く、蚊取り線香や蚊帳が欠かせなかった。〇〇さんがくれたという西瓜が毎年大量にあり毎朝4分の1を食べ続けたが、それでも無くならないので仕舞いには半分に切ってスプーンでほじって食べた。
冬はストーブと炬燵。
今考えると恐ろしいが小学生鍵っ子がストーブにシュポシュポ(正式名称醤油チュルチュル)で灯油を入れてマッチで火を付けていた。
また親戚から送られてきた大量のみかんを指が黄色くなるまで食べ続けた。
鍵っ子だったこともあって友達が集まる家だった。秋に稲刈りが終わると田圃でよく野球をした。
高い月謝の塾に行かせてもらっていたものの成績は芳しくなかった。一応、自分で自分に危機感は持っていて、このままではマトモな大人になれないので高校は全寮制の厳しいと評判のところに行きたいと自分から両親にお願いした。
こうして生まれ育った奈良県大和高田市から独り離れることになった。
堤防の桜が咲く頃に私は単身三重県へと旅立った。それは若さ故の冒険でもあった。
