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『帰る場所を決めるまで』 第26話 帰ったあとで

退院して、二週間が過ぎた。

夜。

廊下の灯りが、ふっとついた。

隆三は、寝室の入口で一度止まる。

一本杖を持つ。

足元を見る。

急がない。

それから、ゆっくり歩き出した。

トイレまでの短い距離。

以前なら、何も考えずに歩いていた場所だった。

今は、少し違う。

曲がるところ。

小さな段差。

杖を置く場所。

身体の調子。

一つずつ、確かめながら歩く。

トイレを済ませ、寝室へ戻る。

布団の横には、携帯電話。

隆三は、それを見て少し鼻を鳴らした。

「ちゃんと置いとるわ」

誰に言うでもなく、小さく言う。

布団へ腰を下ろす。

今日は、少し腰が重い。

痛いというほどではない。

でも、いつもより重い。

隆三は、そのまま横になろうとして一度止まった。

「……今日はもうええな」

明日の朝、洗濯をしようと思っていた。

けれど、やめる。

急ぐことでもない。

明日、起きた時に決めればいい。

隆三は、布団へ身体を横たえた。

それだけのことだった。

けれど、入院前の隆三ならたぶん、やっていた。

できるなら、やる。

しんどくても、やる。

人に頼るくらいなら、自分でする。

それが、普通だと思っていた。

今は、少し違う。

やらないことも、決められる。

翌朝。

隆三は、いつもより少し遅く起きた。

硬性コルセットをつける。

台所へ行く。

冷蔵庫を開ける。

パン。

牛乳。

卵。

昨日の総菜。

「多いな」

誰もいない台所で、小さく言う。

美和が、また少し買いすぎた。

パンを焼く。

コーヒーを淹れる。

それだけで、終わろうとして。

隆三の手が止まる。

冷蔵庫を見る。

「……何か足すんやったな」

卵を一つ取り出す。

少し考えて、今日は茹でるのをやめた。

冷蔵庫に入っていた、ヨーグルトを出す。

「これでええやろ」

椅子へ座る。

パン。

コーヒー。

ヨーグルト。

病院で真理に言われた、理想的な献立ではない。

けれど、昨日より一つ増えた。

毎日続けられる形なら、それでいい。

隆三は、パンをかじった。

昼前。

インターホンが鳴る。

「はい」

玄関へ向かう。

一本杖を持つ。

急がない。

ドアを開けると、配食の弁当を持った人が立っていた。

「こんにちは」

「どうも」

弁当を受け取る。

最初の頃は、これくらい自分で買いに行けると思っていた。

今も、行ける日はある。

でも、今日は行かない。

腰が少し重い。

昨日も、少し疲れていた。

だから、今日は頼む。

弁当を台所へ置く。

「楽しすぎやな」

少し笑う。

けれど、以前ほどその言葉に抵抗はなかった。

午後。

電話が鳴った。

美和だった。

「もしもし」

『お父さん?』

「何や」

『何やちゃうわ。元気?』

「元気や」

少し間を置いて、隆三が続ける。

「昨日から、ちょっと腰重いけど」

電話の向こうが、一瞬静かになる。

『痛いん?』

「痛いいうほどちゃう」

『大丈夫?』

隆三は、少し考えた。

「今は大丈夫」

『ほんま?』

「でも」

隆三は続ける。

「明日も重かったら、病院に電話する」

美和が、少し黙った。

『……そっか』

「何や」

『いや』

少し笑う声がする。

『ちゃんと言うようになったなと思って』

「何を」

『しんどいって』

隆三は、少し顔をしかめる。

「言うたらあかんのか」

『逆や』

美和が笑う。

『言うてほしいねん』

隆三も、少し笑った。

「分かっとる」

『今日、行こか?』

隆三は、すぐには答えなかった。

自分の身体を考える。

今日、何をするつもりだったか。

食事はある。

薬もある。

特に、急ぐことはない。

「今日はええ」

『ほんまに?』

「ほんまや」

少し間を置く。

「でも」

『何?』

「明後日」

『うん』

「買い物だけ頼める?」

美和は、すぐに答えた。

『ええよ』

「重いもんだけ」

『分かった』

「いっぱい買うなよ」

『お父さんが食べへんからやろ』

「食うとる」

『ヨーグルトは?』

隆三が、少し黙る。

「今日食うた」

『おお』

「何やその反応」

美和が笑う。

隆三も、少し笑った。

電話を切る。

静かな部屋。

以前と同じ、

一人の家。

けれど、

以前と同じ暮らしではなかった。

自分ですること。

頼むこと。

今日はやめること。

明日に回すこと。

そのどれも、隆三が決めている。

数日後。

高田が、家を訪ねてきた。

「こんにちは」

「どうも」

玄関へ上がる。

新しくついた手すり。

廊下のセンサー照明。

壁際に置かれた一本杖。

高田は、一つずつ見ながら居間へ入った。

「どうですか?」

隆三が聞き返す。

「何が」

「家に戻って」

「ああ」

隆三は、少し考えた。

「まあまあ」

高田が笑う。

「西岡さんの“まあまあ”は、どのくらいですか?」

「普通」

「その普通を聞きたいです」

「面倒やな」

隆三は言いながら、少し笑った。

「飯は?」

「食うとる」

「配食は?」

「使っとる」

「ヘルパーさんは?」

隆三の顔が、少しだけ渋くなる。

「来とる」

「どうですか?」

「まだ慣れん」

高田は、すぐには何も言わなかった。

「嫌ですか?」

隆三は、少し考える。

「家に人入るんは」

「はい」

「やっぱり、ちょっと嫌や」

高田がうなずく。

「でも」

隆三は続けた。

「全部嫌ではない」

「はい」

「掃除とか」

少し間を置く。

「しんどい時は助かる」

高田は、少し笑った。

「それなら、今はそのくらいでいいと思います」

「増やさんでええぞ」

「必要になったら相談します」

「勝手に?」

「しません」

隆三が、少し笑う。

「それならええ」

高田は、手元のメモを見た。

「夜はどうですか?」

「電気つく」

「はい」

「杖使う」

「はい」

「電話も置いとる」

「はい」

「森下に言うといて」

高田が、少し笑う。

「私からですか?」

「知らんけど」

「病院に伝える機会があれば」

「別にそこまでせんでええ」

「どっちですか」

隆三は、少し笑った。

高田も笑う。

「入浴は?」

「まだ一人では入ってへん」

「最初の予定どおりですね」

「娘おる時に入っとる」

「どうでした?」

「いける」

少し間を置く。

「でも、疲れる」

高田がうなずく。

「それが分かっているのは大事ですね」

隆三は、少しだけ考えた。

「ずっとこれでいくん?」

「何がです?」

「風呂も」

「人来るんも」

「飯も」

高田は、隆三を見る。

「ずっと同じとは限りません」

隆三が笑う。

「またか」

「またです」

「状態が変わったら」

高田が続ける。

「減らすこともできます」

「増やすこともあります」

「方法を変えることもあります」

隆三が、静かに聞いている。

「今決めた形が」

高田は言った。

「西岡さんの一生の形ではありませんから」

隆三は、少し黙った。

それから、小さくうなずいた。

「ほな」

「はい」

「また考えたらええんやな」

高田が笑う。

「そういうことです」

「ほんま」

隆三も笑った。

「この病院の連中と同じこと言うな」

高田が帰る際、隆三は、玄関まで見送った。

ドアを閉める。

一人になる。

けれど、以前ほどその言葉は重くなかった。

一人で暮らしている。

でも、一人で全部をしているわけではない。

その違いを、隆三はもう知っていた。

さらに一週間後。

隆三は、病院の外来に来ていた。

一本杖をつき、待合室の椅子へ座る。

硬性コルセットは、まだつけている。

診察を終えた俊介は、画像と隆三の様子を確認した。

「経過は順調です」

「ほな」

隆三が、すぐに聞く。

「柔らかいやつは?」

俊介が笑った。

「まだです」

「何や」

「もう少しです」

「この前も聞いた」

「そのために定期的に見ています」

隆三が、少し顔をしかめる。

「暑いんやぞ」

「分かっています」

「ほんまか」

「でも」

俊介は、少しだけ真面目な顔になる。

「順調なのは確かです」

隆三は、少し黙る。

「痛みは?」

「前よりええ」

「夜は?」

「まあまあ」

「家で困っていることは?」

隆三は、少し考えた。

「あるにはある」

「例えば?」

「風呂は疲れる」

「はい」

「掃除も」

「はい」

「飯も面倒な日ある」

俊介は、黙って聞いている。

「でも」

隆三は続けた。

「そういう日は」

少し間を置く。

「やらんかったり」

「人に頼んだりしとる」

俊介が、ゆっくりうなずいた。

「それでいいと思います」

隆三が、少し笑う。

「みんな同じこと言うな」

「チームなので」

俊介が言った。

隆三は、一瞬止まった。

それから、声を出して笑った。

「それ」

「入院した時も聞いたわ」

診察を終える。

隆三は、一本杖を持って立ち上がる。

「先生」

「はい」

「また来るわ」

「必ず来てください」

「分かっとる」

「コルセットも」

「勝手に外さん」

俊介が笑う。

「完璧です」

隆三は、診察室を出た。

廊下を歩く。

病院の中。

少し前まで、毎日いた場所。

けれど今は、帰る場所ではない。

診てもらうために来る場所。

必要な時に、助けてもらう場所。

その違いが、今は分かる。

エレベーターを待っていると、少し離れたところから声がした。

「西岡さん?」

隆三が振り返る。

悠真だった。

青いスクラブ。

いつもの眼鏡。

隆三の顔が、少しだけ緩む。

「おう」

悠真が、近づいてくる。

「外来ですか?」

「そうや」

「どうでした?」

「順調」

「よかったです」

隆三が、少し胸を張る。

「家でもちゃんとやっとるぞ」

悠真が笑う。

「何をです?」

「いろいろや」

「雑ですね」

隆三が、一瞬止まる。

それから笑った。

「それ、俺が言うたやつやろ」

悠真も笑う。

「そうでしたっけ」

「とぼけんな」

悠真は、隆三の一本杖を見る。

それから、歩き方を見る。

けれど、何も言わない。

隆三が、その視線に気づく。

「何や」

「いえ」

「また評価か」

「今日は違います」

「ほんまか」

「はい」

悠真は、少しだけ笑った。

「ちゃんと暮らしてます?」

隆三は、すぐに答えた。

「暮らしとる」

その声は、思っていたより、

自然に出た。

「しんどい日は休む」

「はい」

「頼む時は頼む」

「はい」

「違ったら変える」

「はい」

隆三が、少し笑う。

「お前らのせいで、面倒なこと覚えたわ」

悠真も笑った。

「忘れないでください」

「忘れへん」

エレベーターが来る。

扉が開く。

隆三が乗ろうとして、一度止まる。

「中本」

「はい」

「元気でな」

悠真が、少しだけ目を細めた。

「西岡さんも」

「次会う時までに」

隆三が、コルセットを叩く。

「これ柔らかくしとくわ」

「僕が決めることじゃないですよ」

「知っとる」

隆三が笑う。

扉が閉まる。

悠真は、その場でしばらく見送った。

「中本くん」

後ろから、声がした。

悠真が振り返る。

玲奈だった。

「森下さん」

玲奈が、閉じたエレベーターを見る。

「今、西岡さん?」

「はい」

「外来?」

「みたいです」

「元気そうだった?」

悠真は、少し笑った。

「元気でした」

玲奈も、少しだけ笑う。

「そっか」

その一言に、悠真は少しだけ懐かしいものを感じた。

退院前日。

同じように、玲奈が言った。

そっか。

「何?」

玲奈が聞く。

「いえ」

悠真は、首を振る。

「何でもないです」

玲奈が、少し不思議そうに見る。

「変なの」

「森下さんに言われたくないです」

「どういう意味?」

「そのままです」

玲奈が、少し笑った。

「感じ悪いなあ」

悠真も笑う。

二人は、並んで廊下を歩き出した。

途中で、玲奈が聞く。

「今日、何時まで?」

悠真が、少しだけ玲奈を見る。

「たぶん定時です」

「珍しい」

「森下さんは?」

「私も」

「珍しいですね」

「失礼だなあ」

二人とも、少し笑う。

そこで、玲奈が言った。

「じゃあ」

一度、言葉を切る。

「帰ろっか」

悠真の足が、ほんの少しだけ遅くなる。

玲奈は、もう前を歩いている。

「……はい」

悠真は、その隣へ追いついた。

ただ、仕事が終わったらそれぞれ家へ帰る。

それだけの言葉だった。

たぶん。

まだ、それ以上の意味はない。

けれど、二人で歩く廊下はいつもより少しだけ短く感じた。

その頃。

隆三は、美和の車の助手席に座っていた。

外来の帰りだった。

「どうやった?」

美和が聞く。

「順調」

「コルセットは?」

「まだ硬い」

美和が笑う。

「残念やったな」

「次や」

「ほんま?」

「先生が言うとった」

「“次に替える”とは言うてへんやろ」

隆三が、
少し黙る。

「お前」

「何」

「先生みたいなこと言うな」

美和が笑った。

隆三も笑う。

窓の外を、見慣れた街が流れていく。

やがて、家が近づく。

隆三は、以前のように身体を前へ出すことはなかった。

ただ、窓の外を見る。

もう、珍しい景色ではない。

ここへ、毎日帰っている。

車が止まる。

隆三は、一本杖を持つ。

「荷物持つ?」

美和が聞く。

「今日は頼む」

「はい」

「軽いやつだけ」

「分かった」

隆三が、車を降りる。

玄関へ向かう。

新しい手すり。

慣れてきた一本杖。

ドアを開ける。

廊下へ入る。

夕方でも、少し暗い。

センサーの灯りが、ふっとつく。

隆三は、もう驚かなかった。

「ただいま」

誰に言うでもなく、自然に出た。

家の中は、静かだった。

けれど、もう知らない静けさではない。

妻の写真。

いつもの布団。

少し場所を変えた椅子。

手の届くところに置かれた携帯電話。

配食の予定を書いた紙。

美和が持ってきた食材。

高田からの連絡先。

一本杖。

全部が、今の隆三の暮らしだった。

帰る場所は、最初から、

ここだったのかもしれない。

けれど、そこへ帰る方法は一つではなかった。

一人で頑張ることでもない。

誰かに全部任せることでもない。

自分でできることをして。

できない時は頼って。

違ったら、また考える。

そうやって、暮らしは続いていく。

隆三は、妻の写真の前で、

少しだけ笑った。

「まあ」

小さく言う。

「何とかやっとるわ」

写真は、何も答えない。

それでよかった。

隆三は、一本杖を手の届くところへ置いた。

今日は、少し疲れた。

だから、夕食の準備はしない。

冷蔵庫には、昨日の総菜がある。

それを食べる。

明日のことは、明日決める。

隆三は、椅子へ腰を下ろした。

帰る場所を決めたあとも、暮らしは続く。

だから、答えも一度決めて終わりではない。

その時々で、また選び直せばいい。

隆三は、窓の外を見る。

夕方の光が、家の中へ入っていた。

ここが、隆三の帰る場所だった。

そして、ここからまた、

暮らしていく。

 完。


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