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ネタならば䜕を蚀っおもいいのか――冗談の倫理をめぐる芚曞



はじめに 「ネタだから」が請け負っおいるもの

「ネタだから」ずいう蚀葉は、二぀の異なる仕事を同時に請け負っおいる。

䞀぀は、発話の意味ず力を倉える仕事である。ある発話が冗談ずしお提瀺されるずき、それは字矩どおりの䞻匵ではなく、遊びの枠組みのなかに眮かれるリフレヌミングされる。グレゎリヌ・ベむト゜ンは、動物のじゃれ合いにおける甘噛みを䟋に、「これは遊びである」ずいうメタメッセヌゞが行為の意味を倉換するず論じた。遊びの甘噛みは、本気の噛み぀きの圢を借りながら、本気の噛み぀きならば䌝えるはずの敵意を䌝えない[1]。この分析を冗談に類比的に適甚するなら、「ネタである」ずいうメタメッセヌゞは、発話の字矩的な力を倉えるず考えられる。差別的な人物を挔じるこずは、差別的な信念を衚明するこずず同じではない。この区別を認めないこずは、挔技ず䞻匵を混同するこずである。

しかし、「ネタだから」ずいう蚀葉にはもう䞀぀、「責任をなかったこずにする」仕事がある。「ネタだから」は、しばしば道埳的批刀を無効化する仕掛けずしお䜿われるのだ。盞手が傷぀いたず蚀えば「ネタが通じない」ず返し、瀟䌚的な圱響を指摘されれば「本気で蚀ったわけではない」ず応じる。ここでは「ネタである」ずいう枠組みが、行為の垰結を無効にするものずしお想定されおいる。

冗談の枠組みは、行為者が負う責任の皮類ず皋床を正圓に倉えるこずがある。冗談の挔者を字矩的䞻匵の党面的な支持者ずみなすこずは正しくない。しかし、責任の皮類ず皋床が倉わるこずず、責任が自動的に免陀されるこずずは違う。「冗談である」ずいうリフレヌミングは、行為の意味を倉換するだけで、行為そのものを消すわけではない。人前で䜕かを蚀い、誰かを笑わせるこずは、遊びの枠のなかで行われおようずも、それ自䜓が瀟䌚的な行為である。ずりわけ他者や集団を察象ずする冗談では、誰が笑う偎に眮かれ、誰が笑われる偎に眮かれるかが珟実の関係ず評䟡に圱響する。

ここで問題にするのは、この埌者の皮類の冗談、すなわち特定の他者たたは瀟䌚集団を察象ずする冗談である。蚀葉遊び、ナンセンス、状況の䞍条理のように、人栌的な「笑われる察象」を必芁ずしないナヌモアは、本皿の䞻題ではない[2]。

䞭心ずなる䞻匵は、次のずおりである。冗談ずいう枠組みは、たしかに発話の字矩的意味ず発話行為ずしおの力を倉え、行為者が負う責任の皮類や皋床も倉えうる。しかしそれは自動的な免責を意味しない。冗談の倫理的評䟡には、予芋可胜な害、察象者の瀟䌚的地䜍ぞの䜜甚、参加・拒吊・応答・退出の自由、暩力ず芏範の文脈、芳客による受容、衚珟䞊の䟡倀を区別しお怜蚎する必芁がある。そしお、道埳的非難、矎的倱敗、公開の是非、法的犁止は、それぞれ異なる刀断である。

䞀 䞉぀の笑いの理論

笑い・ナヌモア研究では、教科曞的に優越理論、解攟理論、䞍調和理論の䞉分類が甚いられる[3]。ただし、これらは盞互に排他的で網矅的な競合理論ではない。笑いずいう生理的反応、面癜さの察象、ナヌモアの瀟䌚的機胜ずいうように、それぞれが説明しようずしおいる察象も異なる。ここでは䞉぀を、察象を持぀冗談の倫理的危険を怜蚎するための䞉぀の分析䞊のレンズずしお甚いる。したがっお、以䞋で各理論から取り出す含意は、各思想家自身の結論ではなく、本皿の芳点からの読み替えである。

優越理論は、笑いを他者に察する優䜍の感芚に結び぀ける。ホッブズは『リノァむアサン』第䞀郚第六章で、笑いを「突然の栄光」ず呌び、他人の欠点や自分の過去の匱さずの比范から生じる自己肯定の情動ずしお説明した[4]。プラトンやアリストテレスにも近い芋方があるずされるが、䞡者を優越理論に分類するこずには解釈䞊の議論がある[5]。この理論を倫理的に読み替えるなら、察象を持぀冗談の評䟡は、「誰を、なぜ芋䞋ろしおいるか」ずいう問いに導かれる。

解攟理論は、笑いを心的な゚ネルギヌの攟出ずしお説明する。ハヌバヌト・スペンサヌを経お、フロむトの『機知』䞀九〇五幎で最も粟緻な圢をずった[6]。フロむトの蚀う「傟向性のある機知」は、攻撃や性的欲望のように日垞では抑制されおいる衝動を、機知ずいう技術を介しお満足させる。本皿の芳点から再構成すれば、この理論は、冗談が抑圧されたものの「安党な出口」ずしお機胜するずいう含意を持぀。それは治療的にも読めるし、偏芋が衚出される経路ずしおも読める。どちらに読むかは、䜕が解攟されおいるかによる。

䞍調和理論は、笑いを期埅ず珟実のずれ、あるいは抂念の䞍敎合に求める。カントは『刀断力批刀』第五十四節で、笑いを、緊匵した期埅が突然無に転じるこずから生じる情動ずしお蚘述した[7]。この理論は䞉぀のなかで最も倫理的に䞭立に芋える。ずれそのものは誰も傷぀けないからである。しかし、この分析は次の問いを提起する。䜕が「ずれ」ずしお認識されるかは、聞き手が䜕を「正垞」ずみなしおいるかに䟝存する。ある集団の存圚や振る舞いが「ずれ」ずしお提瀺されるずき、笑いは正垞性の境界を匕き盎す装眮になりうる。

瀟䌚心理孊者マむケル・ビリッグは、これらの理論史を远いながら、重芁な指摘をしおいる。圌は、近代以降の思想がナヌモアを無条件に肯定的なものずみなす「ポゞティブ・ナヌモア」のむデオロギヌに傟いおきたこずを批刀した。ビリッグによれば、笑いは芏範を匱めるこずもあるが、実際にはむしろ、芏範を匷化し、笑われるこずぞの恐れが瀟䌚的な懲眰ずしお働くこずが倚い[8]。笑いは、笑う本人の心を解攟するこずもあれば、解攟されようずする人を元の堎所や芏範ぞず抌し返すこずもある。

ベルク゜ンの『笑い』䞀九〇〇幎は、笑いを瀟䌚的な矯正の機胜に結び぀け、同時に、笑うためには䞀時的に心を麻酔しなければならない、すなわち察象ぞの共感を停止しなければならないず述べた[9]。共感の停止が笑いの条件であるずいう分析は、誰に察しお共感を停止するこずを遞ぶのか、そしお誰に぀いおなら蚱されるのか、ずいう問いを提起する。

䞉぀のレンズず二人の批刀者から、次のような瀺唆が埗られる。ヌヌ察象を持぀誰かを笑いのネタにする冗談の倫理は、笑いの本質を䞀぀に定めるこずによっおではなく、ある笑いが優越、攟出、境界画定のどの機胜を、誰に察しお果たしおいるかを芋るこずによっお進められる。

二 䞉人目の笑い手――フロむトずコヌ゚ンを接続する

フロむトの分析のなかで、冗談の倫理を考えるずき重芁なのは、傟向性のある機知、぀たり攻撃や性的な欲望ずいった隠れた目的を持぀機知の䞉者構造である。フロむトによれば、この皮の機知には䞉぀の人物が必芁である。機知を䜜る第䞀の人物、攻撃や性的な傟向の察象ずなる第二の人物、そしお機知の快を受け取る第䞉の人物である。第䞀の人物は、第二の人物を盎接攻撃するこずあるいは口説くこずを瀟䌚的に犁じられおいる。そのため、代わりに欲望を機知ずいう技術で包装し、第䞉の人物に差し出す。第䞉の人物は、掗緎された圢で提䟛されたおかげで、眪悪感なくその攻撃性を楜しんで笑い、その笑いが第䞀の人物ぞの賛同ずしお働く。第䞀の人物は、盎接攻撃では埗られなかった満足を、この笑いを通じお手に入れる[10]。いわば第䞉の人物は快によっお買収された共犯者であり、その笑いが攻撃を成立させる。そしお第二の人物は、このやりずりあるいは機知の参加者ではなく、材料である。第䞀ず第䞉の結蚗は、第二の人物を蚊垳の倖に眮くこずで成り立぀。フロむトの䟋では、口説きが犁じられた状況で、女性が退堎したあずに男たちのあいだで猥談が亀わされる、ずいう構図が原型になっおいる。

この構造は、冗談をめぐる利益ず負担の配分を、ほがそのたた描いおいる。冗談の䜜り手ず芳客は冗談の快利益を分け合う。察照的に、冗談のネタにされた察象者は、その負担を抌し付けられるが、冗談の快利益は配圓されない。

テッド・コヌ゚ンは、この構造の肯定的な偎面を匷調した哲孊者である。コヌ゚ンによれば、冗談の倚くは「条件぀き」であり、聞き手が特定の知識や態床を共有しおいるこずを前提ずする。冗談が成功するずき、話し手ず聞き手のあいだには、その前提を共有しおいるずいう確認が生じ、そこから䞀皮の芪密さが生たれる[11]。冗談は共同䜓を䜜る。同時に、コヌ゚ンはこの芪密さの裏面も芋おいる。すなわち、共有できない者は、その共同䜓から締め出される。

フロむトの第二の人物ずコヌ゚ンの「締め出される者」を重ねるず、「誰が笑いによる利益を受け取り、誰がそのための負担を匕き受けおいるのか」ずいう問いは、感傷的な配慮の芁求ではなく、冗談の構造そのものから導かれる分析の問いであるこずがわかる。ただし、この問いを単玔な損益蚈算ずしお立おるべきではない。問われおいるのは、誰が他者の結束の手段にされるか、誰に発蚀暩、拒吊暩、退出暩があるか、誰の瀟䌚的地䜍が䜎䞋するか、ずいう関係的で分配的な問題である。

ここで、フロむトの䞉角圢に぀いお、「閉じおいる」か「開いおいる」かずいう区別を導入したい。これはフロむトにもコヌ゚ンにもない、䞡者を接続した本皿独自のモデルである。閉じた䞉角圢では、察象者は第二の人物の垭に固定され、第䞉の人物の垭に移るこずができない。開いた䞉角圢では、察象者は笑う偎にも回るこずができる。芪しい者同士の軜口、自集団に぀いおの自嘲、察象者が蚀い返す䜙地のあるやりずりがそれである。

察象者が参加できるか、拒吊できるか、応答できるかずいう問いは、䞉角圢が開いおいるかを問うおいる。ただし、察象者が笑ったずいう事実だけでは、䞉角圢が開いおいるこずの蚌明にならない。その笑いが自発的か、埌から撀回できるか、笑わない堎合に䞍利益がないか、関係を維持するための愛想笑いではないか。これらを怜蚎しお初めお、笑いは参加の蚌拠になる。

䞉 意図・態床・垰結――哲孊的論争の敎理

英語圏の分析哲孊では、䞀九八〇幎代以降、「冗談はい぀道埳的に悪いのか」をめぐる議論が蓄積されおいる。アヌロン・スマッツは、先行理論を䞉぀に敎理した。態床説、適切な応答説、情動責任説である。そのうえで自身は、冗談や笑いがもたらしうる害を介しお責任を考える立堎を提瀺しおいる[12]。この敎理は、「意図だけでは決たらない」ずいう䞻匵を、より粟密に怜蚎する足堎になる。

態床説の代衚は、ロナルド・ド・スヌザである。ド・スヌザは「笑うこずはい぀悪いのか」䞀九八䞃幎で、性差別的な冗談を面癜いず感じるためには、その冗談が前提ずする性差別的な態床を、少なくずもその瞬間に共有しおいなければならないず論じた。冗談の前提は、仮説的に受け入れるだけでは笑いを生たない。したがっお、笑うこずは態床の衚明である[13]。メリヌ・バヌグマンも同時期に、性差別的なナヌモアの䜕が悪いのかを分析し、性差別的な信念を知っおいるこずず、それを持っおいるこずを区別し぀぀、その冗談を面癜いず感じるこずが䜕を意味するかを問うた[14]。

しかし、これらの䞻匵に察しおは、有力な反論がある。デむノィッド・ベネタヌは、偏芋を含む冗談を面癜いず感じるこずず、偏芋を持぀こずずは切り離しうるず論じた。人は自分が支持しない信念を前提ずする冗談に笑うこずができる。したがっお、冗談の悪質さは笑い手の態床からではなく、それが匕き起こす害から評䟡されるべきである、ず䞻匵した[15]。スマッツも、ド・スヌザの議論は冗談が理解できないこずず面癜くないこずを混同しおいるず批刀しおいる[16]。

適切な応答説は、ベリス・ゎヌトの「倫理䞻矩」に代衚される。ゎヌトによれば、冗談は聞き手に特定の応答、すなわち面癜がるこずを求めるものである。そしお、冗談が面癜いずいうこずは、その求めに応じるこずがふさわしい、぀たり面癜がるだけの倀打ちがその冗談にあるずいうこずである。ここに倫理が入り蟌む。ずいうのも、応答がふさわしいかどうかの評䟡には、倫理的な考慮も含たれるからである。冗談が内容を通じお倫理的に悪い態床を衚明しおいるなら、それを面癜がるこずは、その悪い態床に付き合うこずを含む。だからその冗談には、面癜がるにふさわしくない理由が䞀぀あるこずになり、そのぶん面癜さが損なわれる。ただし、これは比䟋的で郚分的な䞻匵である。ゎヌト自身が、倫理的欠陥があっおも、蚀葉遊び、技巧、期埅の転芆による面癜さが残りうるこずを認めおいる[17]。倫理的欠陥が面癜さを党面的に消すずいう匷い道埳䞻矩ず、ゎヌトの穏健な倫理䞻矩は区別しなければならない。

より広い芞術ず倫理の論争では、ダニ゚ル・ゞェむコブ゜ンが、䞍道埳な䜜品が芞術的にすぐれおいる可胜性を擁護し、倫理䞻矩的な立堎を批刀しおいる[18]。ゎヌトの倫理䞻矩は、この自埋䞻矩・反道埳䞻矩ずの察立のなかに䜍眮づけられ、ゎヌト自身が埌の著曞で反論に応答しおいる[19]。近幎は、倫理的欠陥がナヌモアの面癜さを高めるこずさえあるずする「匷い喜劇的反道埳䞻矩」も提案されおおり、論争は決着しおいない[20]。ノ゚ル・キャロルの「穏健な道埳䞻矩」は、倫理的欠陥が䜜品の矎的評䟡に圱響する堎合ずそうでない堎合を区別する立堎である[21]。

第䞉の情動責任説は、人が自分の情動的応答に察しお、぀たり䜕を面癜がり、䜕に笑うかに察しおも道埳的な責任を負いうる、ずする立堎である。態床説が「この笑いは悪い態床の衚明だから悪い」ず蚀うのに察し、この立堎は、衚明かどうかを経由せず、応答そのものを責任の察象にする。ただし、笑いは垞に随意に制埡できるわけではないから、笑ったずいう事実だけからどう責任を導くのかが争点になる。スマッツは、適切な応答説ず情動責任説の䞻芁な定匏化がいずれも、暗黙のうちに問題含みの態床説を前提しおいるず批刀したうえで、自身の立堎ずしお、効果を媒介ずする責任論を提瀺する。ナヌモアの感芚に向けうる最も匷い倫理的批刀は、それが䜕らかの怠りを瀺しおいるかもしれない、ずいうものであり、その怠りが非難に倀するのは、圓の冗談が自分や他人に害をなしうる堎合に限られる。そしお、そのような害の機構が本圓にあるのかずいうコヌ゚ンの疑いに察しお、スマッツは、ナヌモアの害の䞻芁な媒䜓は笑いそのものだず応じおいる[12]

これらの論争から取り出せるこずが二぀ある。

第䞀に、態床ず垰結は、どちらか䞀方に還元できない。笑い手の態床を問う理論は、冗談を「内面の衚明」ずしお扱い、垰結を問う理論は、冗談を「䞖界ぞの介入」ずしお扱う。しかし、冗談はその䞡方である。悪意なく語られた冗談が偏芋を匷化するこずもあれば、悪意をもっお語られた冗談が誰にも届かないこずもある。

第二に、意図ず態床ず泚意は同じではない。「傷぀ける意図はなかった」ずいう匁明は、悪意の䞍圚を䞻匵しおいる。悪意の䞍圚は責任の重さに関わる。悪意をもっお䟮蟱した堎合ず、盞手も楜しむず思っお冗談を蚀った堎合ずでは、非難の皋床は異なる。しかし、悪意の䞍圚は免責を意味しない。車を運転する人に事故を起こす意図悪意がない堎合にも泚意矩務があるように、人前で冗談を蚀う人にも、文脈や盞手ずの関係、予想される圱響をある皋床考える責任がある。ポヌル・バタヌフィヌルドは近幎、冗談の道埳的な悪さの䞀類型ずしお「冷淡さ」を提案しおいる。悪意ある意図も差別的な信念も持たない人が、それでも他人の苊痛に察しお十分な泚意を払わずに冗談を蚀うこずがあり、その冗談は冷淡さのゆえに批刀されうる[22]。

冗談をいう者ぞの非難可胜性を考えるずきには、少なくずも次の芁玠を分けお芋る必芁がある。害する意図があったか。差別的な信念を持っおいたか。害のリスクは予芋可胜だったか。リスクに無関心だったか。批刀を受けたあずに蚂正する胜力ず意思があったか。これらは互いに独立しおおり、「傷぀ける意図はなかった」ずいう答えだけで党䜓を芆うこずはできない。

四 「ただの冗談」が芏範を動かすずき――瀟䌚心理孊の知芋ずその射皋

哲孊的な論争が「笑うこずは䜕を衚明するこずなのか」をめぐっお続いおいるあいだに、瀟䌚心理孊は「冗談は実際には䜕を匕き起こすか」を実隓的に調べおきた。

トヌマス・フォヌドずマヌク・ファヌガ゜ンは、二〇〇四幎に「偏芋芏範理論」を提唱した。この理論によれば、特定の集団を貶めるナヌモアにさらされるこずは、偏芋そのものを新たに怍え぀けるのではなく、その集団ぞの差別を蚱容する芏範がその堎に存圚するずいう理解を生み出す。この効果は、もずもず偏芋の匷い人においお顕著であり、圌らは冗談を「批刀的でない心構え」で受け取り、その堎に偏芋を蚱容する芏範が珟れたず解釈し、続いお遭遇する差別的な出来事ぞの寛容床を高める[23]。

理論の建お付けずしお重芁なのは、責任逃れのためによく持ち出される「ただの冗談だ」ずいう枠組みが、ここではメカニズムの䞀郚ずしお組み蟌たれおいる点である。冗談ずしお提瀺されるこずで、聞き手は内容を批刀的に吟味する構えを解陀する。この理論が正しければ、「ネタだから」ずいう免責の䞻匵は、無害であるどころか、偏芋を蚱容する芏範が広がる感染経路そのものだずいうこずになる。

ただし、この理論を冗談䞀般の因果メカニズムにたで広げるこずはできない。実蚌研究が支持しおいるのは、次のような条件が圓おはたる堎合である。集団を貶めるタむプの冗談であるこず、受け手が圓該集団ぞの偏芋をもずもず匷く持っおいるこず、差別を蚱容する局所的芏範が曖昧であるこず、そしお短期的な刀断や実隓䞊の資源配分を枬定した研究であるこず。たずえばフォヌドらの二〇〇八幎の研究では、男性参加者のうち敵察的な性差別意識の高い人が、性差別的な冗談にさらされた埌、女性団䜓ぞの予算配分をより倧きく削枛する傟向が瀺された[24]。これは冗談が行動に圱響しうるこずを瀺す䟋だが、あらゆる人に新たな偏芋を怍え぀けるこずを瀺した研究ではない。

チリで行われた埌続研究は、同性愛男性を貶める冗談が圓該集団ぞの偏芋の受容床を高めた䞀方、政治家を貶める冗談には同様の効果が芋られなかったこずを報告しおいる[25]。この結果は、察象集団の瀟䌚的䜍眮や、その集団ぞの偏芋をめぐる芏範状況が、貶めるナヌモアの䜜甚を巊右する芁因になりうるこずを瀺す。ただし、これは「䞊を叩く笑いはよく、䞋を叩く笑いは悪い」ずいう䞀般的な倫理原則の実蚌ではない。この研究が瀺しおいるのはむしろ、その瀟䌚での偏芋蚱容芏範が察象集団ごずに異なるずいうこずであり、そこから「䞊䞋だけで個々の冗談の道埳性を刀定できる」ずいう結論は出ない。

関連しお、ホド゜ンらは、貶めるタむプのナヌモアを軜く無害なものずみなす「無頓着なナヌモア信念」が、瀟䌚的支配志向、䞀般化された偏芋、倖集団を貶める冗談ぞの奜意的反応ず関連するこずを報告しおいる[26]。これは盞関研究であり、その信念自䜓の因果的䜜甚や道埳的性質たでは確定できない。それでも、「冗談を冗談ずしお受け流せるべきだ」ずいう態床が、偏芋の有無ず無関係ではない可胜性が瀺唆される。

これらの研究は、冗談に぀いおの我々の芋方を広げるが、䞀方で限界がある。倚くは米囜の孊生を察象ずした実隓宀での短期的な効果を枬定しおおり、長期的な圱響や他地域ぞの䞀般化、颚刺のような耇雑な圢匏ぞの適甚には慎重であるべきである。系統的レビュヌやメタアナリシス、事前登録された远詊、日本語圏での再珟研究が乏しいこずも、留保の理由である。

五 䞍快・䟮蟱・異議申し立おを区別する

「誰かが䞍快になったずいう事実だけで、冗談が盎ちに蚱されなくなるわけではない」ずいう䞻匵自䜓は間違っおいない。しかし、䞍快感を単なる䞻芳的反応ずしお切り捚おるこずも正しくない。この二぀の誀りを避けるには、「䞍快」ずいう䞀語のなかに混圚しおいる少なくずも四぀のものを分ける必芁がある。

第䞀に、感芚的・心理的な䞍快がある。嫌悪、うるささ、気分の悪さずいった状態である。第二に、瀟䌚的地䜍ぞの䟮蟱がある。ある行為が、自分を察等な者ずしお扱わなかった、あるいは自分の立堎を匕き䞋げた、ずいう刀断である。第䞉に、その䟮蟱に察する異議申し立おがある。刀断にずどたらず、それを衚明し、扱いの芏範を問い盎す行為である。第四に、䞍快を法的芏制の根拠にできる条件がある。これは前䞉者ず閟倀が異なる。

ゞョ゚ル・ファむンバヌグは、刑法の道埳的限界を論じた倧著の第二巻で、他者によっお䞍圓に匕き起こされたネガティブな心理状態を広く「䞍快offense」ず呌び、害ずは区別される独立の範疇ずしお扱った。そしお、䞍快を根拠ずする芏制には、害を根拠ずする芏制よりもはるかに厳しい条件が必芁であるず論じた[27]。ファむンバヌグの「䞍快」は、䞊の第䞀の意味を䞭心ずする広い抂念であり、法的芏制の限界を論じる文脈のものである。法的芏制ず日垞的な道埳的非難の基準は異なるが、圌の害ず䞍快の区別は、䞡者を混同しないための抂念資源になる。

゚ミリヌ・マクタヌナンの『䞍快を感じるこずに぀いお』二〇二䞉幎が扱っおいるのは、これずは異なり、䞊の第二ず第䞉の意味である。マクタヌナンによれば、䞍快を感じるこずtaking offenceは、単なる傷぀きやすさの衚れではなく、自分の瀟䌚的地䜍ぞの䟮蟱に察する応答であり、䞍平等な瀟䌚では、日垞的な小さな行為の積み重ねが瀟䌚的階局を再生産するため、䞍快を感じ、それを衚明するこずは、階局に抵抗し、䜕が敬意ある扱いかに぀いおの芏範を再亀枉する手段になりうる[28]。同曞は、悪趣味な冗談を冒頭の䟋の䞀぀ずしお挙げおいる。この芋方は決着枈みの立堎ではなく、冗談ず衚珟の自由をめぐる政治哲孊的な議論のなかで、なお怜蚎が続いおいる[29]。

マクタヌナンの議論を冗談に適甚するず、察象者の䞍快は、単なる感情ではなく、「この冗談は私の地䜍を匕き䞋げるものずしお機胜した」ずいう䞻匵ずしお読むこずができる。その䞻匵は、正しいこずもあれば、正しくないこずもある。しかし、それは怜蚎に倀する䞻匵であり、「冗談も通じない」ずいう反応で凊理されるべきものではない。

同時に、あらゆる䞍快が同じ重みを持぀わけではない。既埗の䞍圓な優䜍を批刀から守るために衚明される䞍快は、察等な地䜍を守るための異議申し立おず同じ道埳的重みを持たないこずがある。暩力者ぞの颚刺に察する暩力者の䞍快は、その兞型である。ただし、暩力者であっおも、虚停、差別、私生掻ぞの䟵害に察しおは正圓に異議を申し立おうる。問題は暩力の有無だけではなく、䜕に察する異議申し立おなのか、その地䜍が正圓に保護されるべきものかである。

こうしお敎理するず、次のように蚀える。䞍快は、それ自䜓で冗談の䞍蚱可を決定する刀決ではない。しかし、冗談が受け手の身䜓、評刀、瀟䌚的地䜍、所属関係に䜕をしたかを調べるための、最初の蚌蚀にはなる。

六 関係ず暩力――日本語圏で「いじり」ず呌ばれる圢匏

英語圏の議論は、䞻ずしお集団を察象ずする冗談、すなわち人皮や性別に぀いおの冗談を扱っおきた。日本語圏では、それに加えお、特定の個人を察象ずする「いじり」ずいう名称の圢匏が独自の問題を提起しおいる。もっずも、からかい、teasing、banter、roastingなど、近接する盞互行為は他の地域にも存圚する。「いじり」を日本独自の行為圢匏ずみなすこずはできず、比范する堎合には、それぞれの参加芏範、芪密さの衚瀺、拒吊可胜性、暩力関係を個別に怜蚎する必芁がある。

「いじり」の語源、普及の幎代、テレビから孊校ぞの䌝播経路は、いずれも実蚌的に確定されおいない。倧石由起子ず倧石英史は、限定的な文献探玢にもずづき、テレビのバラ゚ティ番組で甚いられた「いじり」の語法が子どもたちの察人関係にも流入した可胜性を仮説的に指摘し、子どもたちがそれを芪しみの衚珟ずしお認識しおいるこず、しかしそれが容易にいじめぞず゚スカレヌトし、芪しみの衚珟ずいう認識がいじめを芆い隠すこず、「いじられキャラ」ずいう圹割から抜け出せなくなる危険があるこずを論じおいる[30]。圌らはその背景に、察立を避ける「優しい関係」ずいう仲間関係の土壌を芋おおり、この抂念は土井隆矩の『友だち地獄』に由来する[31]。

柀海厇文らの研究は、倧孊生䞉䞀二名を察象に、「いじり」「からかい」「いじめ」のそれぞれが行為者ず受け手にもたらしうる感情経隓を、行為者、受け手、第䞉者のいずれかの立堎から評定させた。その結果、「いじり」は他の二぀ず比べお吊定的な感情経隓を匕き起こしにくいず認識されおいた。たた、感情経隓の評定は、回答者の圹割ず評定察象の圹割によっお異なっおいた[32]。

ここから読み取れるこずは限られおいる。参加者は「いじり」を、「からかい」や「いじめ」よりも吊定的感情の匱いものずしお認識しおいた。しかし、この研究は、同䞀の行為を提瀺しお名称だけを倉えたものではないため、「いじり」ずいう名称自䜓が評䟡を軜くするずは結論できない。名称の効果を論蚌するには、行為内容を固定し、名称だけを無䜜為に倉曎するノィネット実隓が必芁である。それでも、行為者ず受け手のどちらの感情を評定するかによっお評䟡が異なるずいう結果は、「みんな笑っおいた」ずいう行為者偎の認識だけでは根拠にならないずいう本皿の䞻匵ず敎合的である。

攟送の領域では、攟送倫理・番組向䞊機構BPOの青少幎委員䌚が、二〇二䞀幎八月に「痛みを䌎うこずを笑いの察象ずするバラ゚ティヌ」を審議察象ずし、二〇二二幎四月十五日に芋解を公衚した。委員䌚は、出挔者に痛みを䌎う行為を仕掛けおそれを皆で笑う番組に぀いお、青少幎の共感性の発達や人間芳に望たしくない圱響を䞎える可胜性があるずし、いじめの暡倣や、スタゞオで笑いながら芋るゲストの姿がいじめの傍芳を蚱容するモデルになりうるこずぞの懞念を衚明した[33]。BPOは攟送界の自䞻的な第䞉者機関であり、この芋解は制床的・芏範的な刀断である。痛みを笑う番組が共感性を䜎䞋させるずいう因果関係を確定した䞀次研究ではなく、その可胜性を根拠に懞念を衚明した文曞ずしお読むべきである。

この芋解は、公衚埌に批刀も受けた。埓来受け入れられおきた芞が封じられるのではないかずいう懞念に察し、委員䌚偎は加盟各瀟ずの意芋亀換䌚で、問題にしおいるのは文脈があり芖聎者が気持ちよく笑える芞のなかの痛みではなく、嫌がっお避けようずしおいる人を抌さえ぀けお痛みを䞎え、そのこずをさらに呚囲で嘲笑するこずだず説明しおいる[34]。

この応答は、冗談の倫理の芳点から芋お興味深い。委員䌚が匕いた線は、痛みの有無ではなく、察象者の同意ず参加の有無、そしお呚囲の笑いが「共挔」なのか「嘲笑」なのかずいう点にある。これは、前述の䞉角圢が開いおいるか閉じおいるかずいう問いず、ほが同じ構造をも぀。

「䞊を叩く笑いず䞋を叩く笑い」ずいう目安は、この文脈でも有効だが、それだけでは足りない。テレビの「いじり」では、瀟䌚的属性による栌差に加え、番組内の圹割、出挔者の職業的地䜍、線集暩の所圚、退出の可胜性などが、その堎に固有の暩力差を圢成しうる。暩力差は固定的な属性ではなく、その堎の関係のなかで生じる。重芁なのは、反撃や退出が困難な偎ほど倧きな負担を受けるずいう構造であり、その構造は属性による暩力差にも、圹割による暩力差にも等しく圓おはたる。

䞃 誰が笑われおいるのか――颚刺ず腹話術

察象を持぀冗談では、衚面䞊の察象ず、本圓に笑われおいる察象が異なりうる。偏芋に満ちた人物を挔じ、その愚かさを笑わせる颚刺ず、偏芋に満ちた人物を挔じるずいう圢匏を借りお、実際には芳客ず偏芋を共有する腹話術ずは、倖芋は䌌おいるが、行っおいるこずが異なる。ここでいう「腹話術」は本皿の甚語であり、挔者が人栌の仮面を通しお、自分の名では蚀えないこずを芳客に届ける構造を指す。

この区別を、挔者の説明に頌らずに行う方法はあるだろうか。

ここで手がかりになるのが、ゞェシヌ・ラパポヌトずゞェむク・クィルティダンによるスタンドアップ・コメディの分析である。出発点は、䞻匵ずいう発話行為の性栌にある。日垞の䌚話で䜕かを䞻匵した人は、それが真であるこずに責任を負う。嘘を぀けば非難され、「本圓にそう思っおいるのか」「根拠は䜕か」ず問われれば、答える矩務がある。舞台䞊の俳優は、この責任を負わない。ハムレットを挔じる俳優が「デンマヌクは牢獄だ」ず語っおも、それは䞻匵ではなく、䞻匵ずいう発話行為のふりである。ラパポヌトらの結論は、スタンドアップのコメディアンも基本的にはこの俳優の偎にいる、ずいうものである。舞台で語られる話は、䞀぀䞀぀の文が真であるこずに責任を負う䞻匵ではない。ネタのなかの「劻」や「昚日の出来事」が実圚しなくおも、芳客は隙されたこずにならない。ただし、コメディアンは俳優ず違い、他人の圹ではなく本人ずしお舞台に立぀。スタンドアップには、挔者は自分自身の経隓ず芖点から語っおいるはずだ、ずいう固有の真正性の芏範があり、この芏範のおかげで、挔者は個々の文ぞの責任を負わないたた、䞖界に぀いおの真正な掞察を芳客に䌝えるこずができる[35]。本皿はこの結論を受け入れたうえで、次のように再構成する。コメディアンが䞻匵者ずしおの党責任を負わないずいう点で、「ネタだから」は正圓である。しかし、真正性の芏範が働く以䞊、挔者の発話は䜕の責任も䌎わない玔粋な挔技でもない。挔者が䜕を䌝えようずし、実際に䜕が䌝わったかは、なお評䟡の察象になる。

この評䟡は、䜜品の構造から刀断するほかない。挔者が構築する人栌、䜜品内の評䟡的な手掛かり、ツッコミや線集、想定された芳客ず実際の芳客、芳客が笑う箇所、反埩されるパタヌン、そしお切り抜きや二次拡散の文脈。これらすべおが材料になる。

芳客がどこで笑い、誰ずの連垯を圢成しおいるかは、実質的な暙的を掚定する重芁な蚌拠の䞀぀である。挔者が転芆的な意図を持っおいおも、芳客が差別的な郚分を笑えば、転芆は倱敗しうる。フロむトの䞉角圢をここに圓おはめれば、颚刺においお笑われる第二の人物は、挔じられおいる偏芋の持ち䞻であるが、腹話術においお笑われる第二の人物は、偏芋を向けられる察象である。ただし、芳客の反応だけが決定芁因ではない。同じ䜜品が、ある芳客には颚刺ずしお、別の芳客には腹話術ずしお受け取られるこずがある。その曖昧さは䜜り手の責任を免陀するものではなく、䜜り手が匕き受けるべきリスクの䞀郚である。

ツッコミの機胜に぀いおは、本皿の仮説ずしお次のこずを提案したい。挫才の圢匏では、ボケが逞脱し、ツッコミがそれを蚂正する。この構造は、逞脱を笑いながら芏範を確認するずいう矯正の機胜を果たしうる。しかし同じ構造は、逞脱的な発蚀を提瀺しながら、挔者の責任を郚分的に回避たたは回収する装眮にもなりうる。たず過激な発蚀を行い、盎埌に圢匏的に蚂正するこずで、発蚀は発話されたずいう事実を残しながら、責任は蚂正によっお凊理されたこずになる。この堎合、芳客が笑っおいるのは蚂正ではなく、発蚀そのものである。

ツッコミには、誀りの蚂正のほかに、芳客の理解の誘導、笑う䜍眮の指定、テンポの圢成、ボケの発蚀の反埩ず匷調など、耇数の機胜がありうる。どの機胜がどの堎面で働いおいるかを確定するには、挫才の䌚話分析や、笑いのタむミングを扱う映像分析が必芁であり、ベルク゜ンやビリッグの䞀般理論だけでは足りない。

八 どのような感性を育おるのか――埳ずしおの機知

䞀回ごずの冗談の善悪を超えお、どのような笑いを習慣にしおいるかを問う芖点は、アリストテレスにたで遡る。『ニコマコス倫理孊』第四巻第八章は、瀟亀における機知゚りトラペリアを䞀぀の埳ずしお扱い、それを、䜕でも笑いにしようずする道化の過剰ず、䜕も笑わない無骚者の欠劂ずのあいだの䞭庞に眮いた。機知ある人は、䜕を蚀うべきか、䜕を蚀うべきでないかを、その堎の盞手に応じお刀断できる人である[36]。

この叀兞的枠組みを珟代的に読み替えるなら、埳ずしおの機知は、危険を党面的に避けるこずではなく、盞手、関係、文脈に応じお危険を扱う刀断力だずいえる。良いナヌモアずは、単に誰も傷぀けない無菌的な衚珟ではない。道化ず無骚者のどちらも、刀断の攟棄である。

埳倫理の芳点からは、どのような察象ぞの笑いを反埩するかが、他者ぞの感受性の圢成に関䞎しうる、ずいう問いが立぀。い぀も匱い者、倱敗した者、目立぀特城のある者を笑いの察象ずしお探す習慣は、そうした者たちを芏範の倖郚に眮き続ける習慣でもある。ビリッグの分析を揎甚するなら、笑いが芏範を匷化し、笑われるこずぞの恐れが人を芏範に埓わせるのだずすれば、䜕を笑い䜕を笑わないかの習慣は、どのような芏範を維持するかの遞択に関わる[37]。

BPOの芋解が青少幎の「共感性の発達」に蚀及したこずは、この文脈で理解できる[38]。芋解は、痛みを笑う挔出が芖聎者の共感性に圱響を䞎える可胜性を、神経科孊の知芋を参照し぀぀論じおいた。笑いの反埩が共感性を圢成するずいう呜題を心理孊的な因果呜題ずしお立おるなら、反埩曝露を扱う瞊断研究や実隓研究、共感性ず傍芳行動の枬定が必芁であり、芋解が参照した原論文を個別に確認しなければ評䟡できない。ここでは刀断を留保する。しかし、問題の立お方自䜓は、埳倫理の問いず重なっおいる。

再びベルク゜ンの「心の䞀時的な麻酔」に戻れば、問題は麻酔そのものではない。笑うために共感を䞀時停止するこずは笑いの条件であり、それを犁じるこずはナヌモアを犁じるこずに等しい。問題は、麻酔が䞀時的なものにずどたるか、それずも特定の察象に察する恒垞的な無感芚に倉わるかである。埳ずしおの機知は、麻酔から芚める胜力を含んでいる。

九 評䟡の氎準を分ける――蚘述から芏範ぞ

ここたでの議論で、垰結、尊厳、同意、暩力差、埳、衚珟の䟡倀が次々に登堎した。実蚌研究によっお、ある冗談が䞍快を生む、偏芋の衚出を促すこずがある、察象者に退出の䜙地がない、芳客が差別的な郚分を笑う、ず刀明しおも、それだけで「その冗談は道埳的に蚱されない」ずいう結論は自動的には出ない。蚘述的な事実から芏範的な結論ぞ移るには、どの氎準の評䟡を行っおいるかを明瀺しなければならない。少なくずも次の六぀は区別される。

第䞀は、意味の問題である。䜕が字矩的に䞻匵され、䜕が挔じられ、䜕が含意されたか。ベむト゜ンの枠組み、ラパポヌトずクィルティダンの䞻匵の分析、颚刺ず腹話術の区別は、この氎準に属する。

第二は、道埳的蚱容性である。その堎でその冗談を蚀うこずが蚱されるか。フロむトの䞉角圢が開いおいるか、察象者に参加・拒吊・応答・退出の䜙地があるか、予芋可胜な害はどの皋床か、その負担は衚珟の批評的・芞術的・瀟䌚的な䟡倀によっお正圓化されるか。

第䞉は、行為者ぞの非難可胜性である。悪意、差別的信念、予芋可胜性、無関心、蚂正の胜力ず意思。蚱容されない冗談を蚀った人が、どの皋床非難されるべきかは、これらによっお倉わる。冷淡さは、悪意がなくおも成り立぀非難の類型である。

第四は、矎的評䟡である。倫理的欠陥が面癜さや䜜品䟡倀を損なうか。ゎヌト、ゞェむコブ゜ン、キャロル、そしお喜劇的反道埳䞻矩の論争はこの氎準のものであり、道埳的蚱容性の刀断ずは独立に立おられる。倫理的に蚱されない冗談が、それでも技巧的にすぐれおいるこずはありうる。そのこずは、道埳的評䟡を倉えない。

第五は、公開・線集・拡散の責任である。その堎での発話ず、線集され、反埩され、切り抜かれお拡散するコンテンツは同じではない。「その堎では冗談だず䌝わった」こずは、䞍特定倚数に届く衚珟の免責にならない。この氎準では、発話者だけでなく、線集者、配信者、拡散者にも責任が分配される。

第六は、制床的・法的芏制である。道埳的に悪いこずず、犁止すべきこずずは別である。ファむンバヌグの䞍快原理が瀺すように、䞍快を根拠ずする法的芏制には厳しい条件が必芁であり、非難、蚂正、公開停止、法的犁止は、それぞれ異なる閟倀を持぀察応である。

これらの氎準は、順に通過すべき手続きではなく、混同を避けるための区別である。「ネタだから」ずいう匁明は、第䞀の氎準では正圓な䞻匵であるが、第二の氎準では怜蚎を芁する䞻匵であり、第䞉の氎準では非難の皋床に関わる事情であり、第四の氎準では論争的な問題であり、第五の氎準ではほずんど効力を持たず、第六の氎準では芏制の芁件ずは別の問題である。同じ蚀葉が、氎準によっおこれだけ異なる重みを持぀。それを䞀぀の「免眪笊」ずしお䜿うこずも、䞀぀の「有眪刀決」で応じるこずも、氎準の混同である。

おわりに 六぀の問い

「ネタなら䜕をやっおも良いのか」ずいう問いに察する答えは、二぀の極端を退けるこずによっお埗られる。

避けるべき䞀方の極端は、「ネタなのだから䜕を蚀っおもよい」ずいう考えである。この考えは、冗談が意味の枠組みであるず同時に瀟䌚的な行為であるこずをしばしば故意に芋萜ずしおいる。フロむトの䞉角圢が瀺すように、察象を持぀冗談は利益ず負担を別の者に配分する結蚗しお笑いの利益を埗るものず、負担だけを抌し付けられる者。たた偏芋芏範理論が瀺唆するように、䞀定の条件のもずでは「ただの冗談」ずいう枠組み自䜓が悪しき芏範を広げる感染経路になりうる。

もう䞀方の極端は、「誰かが䞍快になったなら、その冗談は蚱されない」ずいう考えである。この考えは、笑いの挑発性ず批評性を倱わせ、感芚的な䞍快ず地䜍ぞの䟮蟱ず異議申し立おを区別できず、暩力者の䞍快ず被支配者の䞍快を同列に扱っおしたう。

二぀の極端のあいだに残るのは、耇数の倫理理論を接続する評䟡枠組みである。それを、次の六぀の問いずしお定匏化する。これらは、答えれば自動的に結論が出るアルゎリズムではないが、刀断を敎理するための蚺断項目ずしお掻甚できる。

  1. 誰を笑う䞻䜓ずしお招き、誰を笑いの材料にしおいるのか。

  2. 察象者には参加、拒吊、応答、退出の䜙地があるのか。

  3. 生じる負担は、衚珟の批評的、芞術的、瀟䌚的な䟡倀によっお正圓化できるのか。

  4. その笑いは、どのような関係ず感性を育おるのか。

  5. その冗談には、どのような衚珟的・批評的䟡倀があるのか。

  6. 問題があるずしお、非難、蚂正、公開停止、法的犁止のどの氎準で察応すべきか。

これらの問いに䞀埋の答えはない。同じ蚀葉が、関係ず文脈によっお、芪密さの確認にも、屈蟱の匷制にもなる。しかし、答えがないこずず、問いが無意味であるこずずは違う。

冗談の倫理ずは、笑っおよいネタの䞀芧を䜜るこずではなく、その笑いによっお䜜られる人間瀟䌚関係を評䟡するこずである。冗談は免眪笊ではない。䞍快は刀決ではない。この二぀を同時に認めたうえで、その笑いが誰ず誰のあいだに䜕を䜜っおいるのかを芋るこず。それが、倫理的に考えるずいうこずの内実である。

泚

[1] Gregory Bateson, "A Theory of Play and Fantasy" (1955), in Steps to an Ecology of Mind (New York: Ballantine, 1972). 邊蚳はグレゎリヌ・ベむト゜ン『粟神の生態孊』䜐藀良明蚳、新思玢瀟、二〇〇〇幎、改蚂第二版所収。ベむト゜ンの分析は動物の遊びず粟神療法を䞻な察象ずしおおり、冗談ぞの適甚は類比によるものである。

[2] Berys Gaut は、泚[17]の論文で、倫理的問題を䌎わない蚀葉遊びや期埅の転芆による面癜さを明瀺的に認めおいる。人栌的な察象を持たないナヌモアが存圚するこず自䜓は、ナヌモア研究の共通了解である。

[3] 䞉分類の暙準的な敎理ずしお、John Morreall, Comic Relief: A Comprehensive Philosophy of Humor (Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2009); Noël Carroll, Humour: A Very Short Introduction (Oxford: Oxford University Press, 2014). 䞉分類が真正な競合理論ではなく、説明察象も異なるずいう泚意は、これらの抂説曞にも芋られる。

[4] Thomas Hobbes, Leviathan (1651), Part I, Chapter 6. 邊蚳はホッブズ『リノァむアサン』氎田掋蚳、岩波文庫。「突然の栄光sudden glory」の語はこの章にある。

[5] プラトン『ピレボス』48–50における笑いず嫉劬の分析、アリストテレス『詩孊』第五章の喜劇の定矩が、しばしば優越理論の先駆ずしお匕かれる。

[6] Sigmund Freud, Der Witz und seine Beziehung zum Unbewußten (1905). 邊蚳は『機知――その無意識ずの関係』ずしお『フロむト党集』第八巻岩波曞店、二〇〇八幎に収録。解攟理論の系譜に぀いおは、泚[8]のビリッグが第䞉章で論じおいる。

[7] Immanuel Kant, Kritik der Urteilskraft (1790), §54. 邊蚳は『刀断力批刀』篠田英雄蚳、岩波文庫、ほか耇数。

[8] Michael Billig, Laughter and Ridicule: Towards a Social Critique of Humour (London: Sage, 2005). 邊蚳はマむケル・ビリッグ『笑いず嘲り――ナヌモアのダヌクサむド』鈎朚聡志蚳、新曜瀟、二〇䞀䞀幎。「ポゞティブ・ナヌモア批刀」は序章の題であり、笑いが芏範を匷化し、笑われるこずぞの恐れが瀟䌚的懲眰ずしお働くずいう䞻匵は、日本語版ぞの序文および第二郚に芋られる。

[9] Henri Bergson, Le Rire: Essai sur la signification du comique (1900). 邊蚳はベルク゜ン『笑い』林達倫蚳、岩波文庫。笑いが共感の䞀時的な停止を芁するずいう議論は第䞀章、笑いが瀟䌚的矯正であるずいう議論は第䞉章にある。

[10] Freud, 前掲曞、第䞉章。傟向性のある機知tendenziöser Witzにおける第䞀・第二・第䞉の人物の区別は、フロむト自身の甚語である。

[11] Ted Cohen, Jokes: Philosophical Thoughts on Joking Matters (Chicago: University of Chicago Press, 1999). 「条件぀き冗談conditional jokes」ず芪密さintimacyの議論は同曞の䞭心的䞻題である。

[12] Aaron Smuts, "The Ethics of Humor: Can Your Sense of Humor Be Wrong?" Ethical Theory and Moral Practice 13, no. 3 (2010): 333–347. 䞉分類attitude-based theories, merited-response theories, emotional responsibility theoriesは同論文の冒頭で提瀺される。近幎の包括的な展望ずしお、Paul Butterfield, "Humor Ethics," in James Harold (ed.), The Oxford Handbook of Ethics and Art (Oxford: Oxford University Press, 2023), 504–520.

[13] Ronald de Sousa, "When Is It Wrong to Laugh?" in The Rationality of Emotion (Cambridge, MA: MIT Press, 1987). 同論文は John Morreall (ed.), The Philosophy of Laughter and Humor (Albany: SUNY Press, 1987) にも収録されおいる。

[14] Merrie Bergmann, "How Many Feminists Does It Take to Make a Joke? Sexist Humor and What's Wrong with It," Hypatia 1, no. 1 (1986): 63–82.

[15] David Benatar, "Prejudice in Jest: When Racial and Gender Humor Harms," Public Affairs Quarterly 13, no. 2 (1999): 191–203. ベネタヌはその埌、"Taking Humour (Ethics) Seriously, But Not Too Seriously," Journal of Practical Ethics 2, no. 1 (2014): 24–43 で、ナヌモアの倫理を過剰に深刻に扱うこずぞの譊戒も衚明しおいる。

[16] Smuts, 前掲論文。

[17] Berys Gaut, "Just Joking: The Ethics and Aesthetics of Humor," Philosophy and Literature 22, no. 1 (1998): 51–68.

[18] Daniel Jacobson, "In Praise of Immoral Art," Philosophical Topics 25, no. 1 (1997): 155–199; Daniel Jacobson, "Ethical Criticism and the Vice of Moderation," in Matthew Kieran (ed.), Contemporary Debates in Aesthetics and the Philosophy of Art (Oxford: Blackwell, 2006), 342–355. 䞀九九䞃幎の論文は泚[17]のゎヌト論文より早く、埌者ぞの盎接の応答ではない。

[19] Berys Gaut, Art, Emotion and Ethics (Oxford: Oxford University Press, 2007).

[20] Connor K. Kianpour, "Strong Comic Immoralism," The Journal of Aesthetics and Art Criticism 81, no. 3 (2023): 363–377.

[21] Noël Carroll, "Moderate Moralism," The British Journal of Aesthetics 36, no. 3 (1996): 223–238. 冗談に即した議論ずしお、Noël Carroll, "On Jokes," Midwest Studies in Philosophy 16 (1991): 280–301.

[22] Paul Butterfield, "Callousness as a Kind of Moral Wrongdoing in Humor," The Southern Journal of Philosophy, published online September 2025, https://doi.org/10.1111/sjp.70021. 巻号・頁は本皿執筆時点で未確定。

[23] Thomas E. Ford and Mark A. Ferguson, "Social Consequences of Disparagement Humor: A Prejudiced Norm Theory," Personality and Social Psychology Review 8, no. 1 (2004): 79–94, https://doi.org/10.1207/S15327957PSPR0801_4.

[24] Thomas E. Ford, Christie F. Boxer, Jacob Armstrong, and Jessica R. Edel, "More Than 'Just a Joke': The Prejudice-Releasing Function of Sexist Humor," Personality and Social Psychology Bulletin 34, no. 2 (2008): 159–170.

[25] Andrés Mendiburo-Seguel and Thomas E. Ford, "The Effect of Disparagement Humor on the Acceptability of Prejudice," Current Psychology, published online July 2019, https://doi.org/10.1007/s12144-019-00354-2. 最終巻号・頁は本皿執筆時点で確認しおいない。

[26] Gordon Hodson, Jonathan Rush, and Cara C. MacInnis, "A Joke Is Just a Joke (Except When It Isn't): Cavalier Humor Beliefs Facilitate the Expression of Group Dominance Motives," Journal of Personality and Social Psychology 99, no. 4 (2010): 660–682, https://doi.org/10.1037/a0019627.

[27] Joel Feinberg, Offense to Others (New York: Oxford University Press, 1985). The Moral Limits of the Criminal Law 党四巻の第二巻。

[28] Emily McTernan, On Taking Offence (New York: Oxford University Press, 2023), https://doi.org/10.1093/oso/9780197613092.001.0001. 冗談の䟋は同曞冒頭および出版瀟の玹介文に芋られる。

[29] Simeon Goldstraw, "'It Was Just a Joke!' Comedy and Freedom of Speech," European Journal of Political Theory 24, no. 3 (2025): 313–334, https://doi.org/10.1177/14748851231205375. 同論文はファむンバヌグずマクタヌナンの双方を参照し぀぀、論争的なコメディず衚珟の自由の関係を政治哲孊の偎から扱っおいる。その結論の詳现は本皿では扱わない。

[30] 倧石由起子・倧石英史「いじめ問題における『いじり』抂念に関する考察――いじめ未然防止教育の芖点から」『山口県立倧孊孊術情報』第䞀二号二〇䞀九幎、䞉九–四九頁。テレビから孊校ぞの流入は、同論文においお仮説ずしお述べられおいる。

[31] 土井隆矩『友だち地獄――「空気を読む」䞖代のサバむバル』ちくた新曞、二〇〇八幎。

[32] 柀海厇文・望月正哉・瀧柀玔・吉柀英里「『いじり』行為のもたらす感情経隓――『からかい』および『いじめ』ずの比范による怜蚎」『感情心理孊研究』第䞉〇巻第䞀号二〇二䞉幎、䞀–䞀〇頁、https://doi.org/10.4092/jsre.30.1_1。本文の蚘述は芁旚で確認できる範囲にずどめた。名称のみを操䜜した蚭蚈ではないずいう点は、芁旚に蚘された手続きからの掚定であり、本文の詳现な手続きず限界の蚘述にあたっお確認する必芁がある。

[33] 攟送倫理・番組向䞊機構 攟送ず青少幎に関する委員䌚「『痛みを䌎うこずを笑いの察象ずするバラ゚ティヌ』に関する芋解」二〇二二幎四月十五日。党文はBPOのりェブサむトで公開されおいる。審議入りの発衚は二〇二䞀幎八月二十四日。

[34] 二〇二二幎六月二十八日に開催された加盟各瀟ずの意芋亀換䌚の議事抂芁BPOりェブサむト掲茉。

[35] Jesse Rappaport and Jake Quilty-Dunn, "Stand-Up Comedy, Authenticity, and Assertion," The Journal of Aesthetics and Art Criticism 78, no. 4 (2020): 477–490, https://doi.org/10.1111/jaac.12766.

[36] Aristotle, Nicomachean Ethics, IV.8 (1127b33–1128b9). 邊蚳は『ニコマコス倫理孊』高田䞉郎蚳、岩波文庫、ほか耇数。゚りトラペリアεᜐτραπελίαを道化βωΌολοχίαず無骚ጀγροικίαの䞭庞ずする議論はこの章にある。

[37] Billig, 前掲曞、第二郚。

[38] BPO、前掲芋解。芋解が参照する神経科孊的知芋の内容ず評䟡に぀いおは、芋解本文および原論文にあたる必芁がある。


いいなず思ったら応揎しよう