査読の歴史――なぜ学問は相互吟味を必要とするのか
要旨
「査読は1665年の科学雑誌創刊とともに始まった」という通説は、歴史的に支持できない。アインシュタインの1905年論文もEPR論文も、ワトソン=クリックのDNA論文も外部査読を経ていない。外部査読が標準となるのは第二次世界大戦後、「peer review」という語の定着は1970年代である。本稿は、学問がなぜ相互吟味を要するのかを可謬性・依存・責任・稀少性・構成の五つの理由に分解し、査読を含む学術的相互吟味の歴史を巡り、中世の討論から生成AIまでを検討する。現代査読の形式は、主として責任と資源配分の観点からの要請だったにもかかわらず、認識論と「品質保証」の語彙で正統化されてきた——この乖離(査読神話)が今日の論争を噛み合わなくしている。学問が必要としてきたのは査読ではなく相互吟味であり、査読はその一実装にすぎない。
序論 二つの問い
1 通説とその解体
「査読(peer review)」は、今日の学術界においてほとんど自明の制度として扱われている。研究業績は「査読付き」か否かで区別され、大学の採用・昇進、研究費配分、政策文書における科学的根拠の重み付け、さらには一般社会に対する信頼性の表示に至るまで、この一語が広範な機能を担っている。
にもかかわらず、この制度がいつ、どのような理由で、誰の利害のもとに成立したのかについては、学界内部ですら通俗的な理解が流通している。最も広く共有されている物語は、次のようなものであろう――1665年に『フィロソフィカル・トランザクションズ』が創刊され、そのときから同僚研究者による相互審査が始まり、以後350年にわたって科学の自己修正機構として連続的に発展してきた、と。
本稿の第一の課題は、この物語が歴史的にほぼ支持できないことを示すことにある。過去二十数年の科学史・出版史研究は、次の三点をほぼ確立している[1][2]。
第一に、1665年に誕生したのは科学雑誌という媒体であって、査読制度ではない。第二に、複数の外部専門家に原稿を送り、書面報告を得て、修正を求め、掲載可否を決めるという現代的手続きが標準となるのは、主として第二次世界大戦後、分野によっては1970年代以降である。第三に、「peer review」という語そのものが学術評価の一般語として定着するのは1960〜70年代であり、しかも当初は雑誌論文よりも研究費審査と医療監査を指す語であった。
2 しかし、なぜ相互吟味なのか
だが、これらの事実確認は、それ自体としては消極的な作業にとどまる。制度としての査読が新しいことを示したところで、次の問いが直ちに立ち上がる――それでは、なぜ学問は、形式は変われども一貫して何らかの相互吟味を要求してきたのか。
この問いを避けることはできない。もし相互吟味が単に慣習であり、権力の産物にすぎないのであれば、査読史研究は制度の恣意性を暴露する作業に還元されてしまう。逆に、もし相互吟味が学問の本性から要請されるのであれば、なぜその形式は時代ごとにこれほど大きく異なったのか、そしてなぜ現在これほど深刻に機能不全を起こしているのかが説明されねばならない。
本稿の第二の、そして中心的な課題は、このwhyの水準を歴史記述に一貫して織り込むことである。各時代の制度は、それぞれ異なる問いに答えていた。討論は討論の問いに、検閲は検閲の問いに、戦後の外部査読は戦後の問いに答えていた。それらを「査読の発展段階」として一列に並べることは、まさにこの差異を消してしまう。
本稿の中心的な主張を先取りして述べれば、次のようになる。
現代査読の正統性は主として認識論的理由によって語られているが、その形式は主として責任論的・資源配分的理由によって作られた。この乖離(査読神話)こそが、査読をめぐる現在の論争が噛み合わない根本原因である。
以下、まずこの主張を支える分析枠組みを提示し(第0部)、その枠組みを用いて歴史を読み直す(第I部以下)。
3 凡例――肩書と分野名の扱いについて
本稿では、登場人物に現代的な職業名・分野名を安易に付さない方針をとる。これは細部の正確さの問題ではなく、本稿の主題そのものに関わる。
英語の scientist は、1833年の英国科学振興協会の会合でウィリアム・ヒューウェルが提案し、翌1834年に活字となった造語である。しかも当初は半ば冗談として扱われ、その受容には約一世紀を要した[61]。マイケル・ファラデーはこの語が「口にも耳にも据わりが悪い」と述べ、ケルヴィン卿は「博物学者(naturalist)」で通したという。それ以前の呼称は「自然哲学者(natural philosopher)」「科学の耕作者(cultivator of science)」「学識ある人々(men of science)」であった。
したがって、1831年のヒューウェルを「科学者」と呼ぶことは、二重の意味で時代錯誤である。第一に、その語はまだ存在しなかった。第二に、その語を作ったのは当のヒューウェル自身であり、しかもそれは二年後のことである。
同様に、1800年以前には今日の意味での「自然科学」と「人文学」の境界は存在しない。近世の philosophia は、自然、歴史、言語、古典、宗教、法、政治を広く含んでいた。文献学、歴史学、言語学、美術史、音楽学が独立した近代的人文学分野として制度化されるのは、おおむね18世紀末から19世紀にかけてである。17世紀以前の実践を「科学の査読」または「人文学の査読」と分類すること自体が、後世からの投影である。
この点は本稿の議論と直結している。第9章で論じるように、「peer」を「同じ専門分野の研究者」と定義できるようになったこと自体が、19〜20世紀の専門職化の産物である。専門分野という区画が存在しなければ、同分野の同輩という概念も成立しない。研究者に分野名を貼ることと、査読者に分野適合性を要求することは、同じ歴史的過程の表裏である。
以下では、各人物について当時の職務・地位(王立協会書記、教授職、編集者など)を優先して記し、現代的な分野名を用いる場合は、それが遡及的な記述であることを前提とする。20世紀以降の論者については、しばしばその出自の分野を併記した。理由は第24章で述べるが、科学の自己統治を理論化した論者の多くが自然科学の訓練を受けた者であったという事実は、それ自体が査読史の一部だからである。
なお本稿では、初期の実践を無条件に「査読」と呼ぶことを避け、近年の研究が提案する、より広い概念である研究者間評価(scholar-to-scholar evaluation)を分析単位として用いる[3]。書評、学位論文審査、公開口頭試問、ゼミでの相互批評、原稿への助言、出版者による原稿審査は、いずれもこの枠組みに含まれる。
第0部 理論的枠組み――相互吟味を要請する五つの理由
なぜ学問は相互吟味を必要とするのか。この問いに対する答えは一つではない。少なくとも五つの、性格を異にする理由が存在する。それらは相互に独立であり、しばしば異なる制度設計を要求し、ときに衝突する。
(A) 可謬性の理由――個人の理性は自らを点検できない
第一の理由は認識論的である。個人の観察と推論は誤りうる。しかもその誤りの多くは、当人には見えない。確証バイアス、動機づけられた推論、暗黙の背景仮定――これらは定義上、内省によっては捕捉されにくい。
決定的なのは、背景仮定の問題である。科学哲学者ヘレン・ロンジーノが定式化したように、観察はそれ自体では証拠にならない。ある観察が何の証拠であるかは、背景仮定によって決まる。少女の赤い斑点は、麻疹の証拠にもなれば胃疾患の証拠にもなる。どちらであるかを決めるのは、斑点と疾患の関係についての仮定である。そしてこの背景仮定には、それ以上遡れる正当化が存在しない場合がある[51]。
ここから、理論の過少決定(underdetermination)という古典的問題が帰結する。同一のデータを説明する競合理論は常に複数存在しうる。データだけでは選択できない。
この事態は、個人主義的な認識論を前提するかぎり相対主義に行き着く。ロンジーノの解決は、前提の側を疑うことであった。すなわち、客観性は個人の性質ではなく、共同体の過程の性質である。ある探究方法は、それが「変換的批判(transformative criticism)を許す度合いにおいて客観的である」[51]。
同じ主張は、より早く科学哲学者カール・ポパーによって述べられていた。科学の客観性は科学者個人の客観性ではない。それは批判的伝統という社会的制度に宿る[47]。科学社会学の創始者の一人ロバート・K・マートンが科学のエートスの一つとして挙げた「組織された懐疑主義(organized skepticism)」も同じ事態を指している[48]。
この理由から導かれる制度要求は明確である。批判が提出されうる公認の場が存在しなければならず、その批判は共同体の実践を実際に変えうるものでなければならず、批判の担い手は多様でなければならない。ロンジーノが挙げた四条件――(i)批判のための公認された経路、(ii)共有された評価基準、(iii)批判に対する共同体の応答、(iv)知的権威の平等な配分――は、そのまま相互吟味の制度設計の要件表として読める[51]。
注意すべきは、この理由が査読という特定の形式を要求しないことである。要求されているのは批判の場であって、出版前の匿名審査ではない。再現実験、事後批評、データ公開、論争、教育もまた同じ条件に寄与しうる。
(B) 依存の理由――我々は他者の言葉に依拠して知る
第二の理由は、知識の社会的流通様式に関わる。
学問的知識のほとんどを、我々は自ら検証していない。ある論文を読む研究者は、その実験を再現していないし、多くの場合、再現する能力も資源も持たない。哲学者ジョン・ハードウィグが「認識的依存(epistemic dependence)」と呼んだこの事態は、現代の共同研究において極限化している。数百人の著者を擁する高エネルギー物理学の論文において、全体を検証しうる個人は存在しない[52]。
したがって、知識の流通は信頼の連鎖に依存する。そして信頼は自動的には生じない。「誰の言葉を信じてよいか」という問いに答える仕組みが必要になる。
科学史家スティーヴン・シェイピンが17世紀イングランドについて示したのは、この問いに当時与えられていた答えが「紳士の言葉」だったということである。経済的に自立し、したがって嘘をつく動機を持たない人物の証言が信用された。真理の社会史とは、信頼の配分の歴史でもある[53]。
この理由から導かれる制度要求は、(A)可謬性 とは異なる。必要なのは批判の場ではなく、証言の信頼性を保証する仕組みである。それは人格的保証(推薦、序文、所属)でもよいし、手続き的保証(査読済みという標識)でもよい。歴史的には、前者から後者への移行が起きた。
そしてこの移行には代償がある。人格的保証は規模を拡大できないが、偽造しにくい。手続き的保証は規模を拡大できるが、手続きそのものが偽造の対象となる。第VI部で扱う論文工場の問題は、この代償が支払われる局面である。
(C) 責任の理由――公刊は取り消せない
第三の理由は、認識論的でも社会学的でもなく、責任論的である。
公刊された言明は回収できない。誤った主張、危険な主張、他者を傷つける主張が一度流通すれば、後の訂正は非対称的に無力である。撤回された論文が撤回後も引用され続けることは、繰り返し確認されている。
この不可逆性が、事前審査という形式を要請する。ここが決定的に重要である。(A)可謬性 の理由からは、事前審査は必ずしも導かれない。認識論的には、公開してから批判するほうが自然でさえある(批判者の数がはるかに多いから)。出版前の審査を要求するのは、認識ではなく責任である。
そして責任は誰かが負う。著者が負うのか、編集者が負うのか、学会が負うのか、出版社が負うのか。この問いへの答えが、審査の形式を決めてきた。組織が名前を貸すとき、組織は審査を要求する。マリオ・ビアジョーリが査読の手続き的起源を近世の出版認可に求めたのは、この論理を捉えていたからである[9]。
(D) 稀少性の理由――注意も誌面も資金も有限である
第四の理由は経済的である。
読者の注意は有限である。誌面は有限である。研究費と教授職はさらに有限である。有限な資源を配分するには判定が要り、判定には根拠が要り、根拠には専門知が要る。
この理由は、他の四つと決定的に異なる点を持つ。それは競争的であるということである。(A)可謬性、(B)依存、(C)責任、(E)構成 の下では、原理的にすべての良質な研究が通過しうる。(D)希少性 の下では、良質であっても落ちる。査読の「採択率」という概念は、もっぱらこの理由に由来する。
19世紀後半以降、そして特に戦後、この理由が査読の実務を支配していく。同時に、査読への不満の多くもここから生じる。研究者が「不当に却下された」と感じるとき、争点は真偽ではなく配分であることが多い。
(E) 構成の理由――基準そのものが相互吟味を通じてしか作れない
第五の理由は、最も見落とされやすく、おそらく最も根本的である。
何が良い研究であるかの基準は、あらかじめ存在してそこに適用されるのではない。基準は、具体的な事例をめぐる評価の応酬を通じて形成され、維持され、改訂される。ある論文が却下されるとき、そこで行われているのは既存基準の適用であると同時に、基準の再確認ないし微調整である。
物理学の訓練を受けたのち科学史・科学哲学へ転じたトマス・クーンが範例(exemplar)と呼んだものは、まさにこれである。研究者は規則を学ぶのではなく、良い研究の実例を通じて判断を学ぶ[55]。理論物理学者ジョン・ジーマンが科学の目標を「可能なかぎり広い範囲にわたる合理的意見の合意」と定義したのも同じ含意を持つ[50]。
この理由から導かれる制度要求は、他の四つとは質的に異なる。ここで必要なのは判定ではなく対話であり、その帰結は個々の論文の採否ではなく、共同体の存立そのものである。人文学において書評、ゼミ、口頭試問がこれほど重要であり続けたのは、この理由が支配的だからである。
そしてこの理由は、なぜ「peer」でなければならないかを説明する。上位者による審査では基準は作れない。基準は水平的な相互承認からしか生じない。物理化学者から科学の社会理論へ転じたマイケル・ポランニーが述べたように、科学的権威は「科学者たちの間に成立するのであって、彼らの上に立つのではない」[49]。
五つの理由の関係
これら五つを、性格によって整理しておく。

(A)可謬性 と (E)構成は学問の本性から要請される内在的理由であり、(C)責任 と (D)希少性 は制度と資源の条件から要請される外在的理由である。(B)依存 は両者を媒介する。
そして本稿の中心的仮説は、次のように定式化できる。
現代査読の形式――出版前・匿名・複数・専門家・採否判定――は、そのほとんどが (C)責任 と (D)希少性 から導かれる。しかし1970年代以降、その正統性は (A)可謬性 と (E)構成 の語彙で語られてきた。査読が「科学の自己修正機構」と呼ばれるとき、(C)(D) のために作られた装置に (A)(E) の役割が期待されている。
以下の歴史記述は、この乖離(査読神話)がいつ、どのように生じたかを追跡するものである。各章の末尾には、その時代の実践がどの理由に答えていたかを明示する。
第I部 前史――1665年以前
1.中世大学の討論――異論を人為的に調達する
学術的評価の最も古い層の一つは、13〜14世紀の大学における討論(disputatio)である。
その典型的構造は次のようなものであった。まず問題(quaestio)が提示される。次に賛成・反対双方の論拠が提出される。学生が応答者(respondens)として暫定的な回答を与える。最後に教師が論点を整理し、反論に答え、最終的な解答(determinatio)を示す。学生は反対者と応答者の双方の役割を経験し、相手の立場をできるだけ強く再構成したうえでそれに答える訓練を受けた。公開討論は大学規則によって定期的に義務づけられることもあった[4]。
ここで注目すべきは、討論が反対者の役割を人為的に割り当てる制度だったことである。自然に反対意見が出るのを待つのではない。誰かが反対者を務めなければならない。この人為性は、制度設計上の洞察を含んでいる。
すなわち、批判は自然発生しない。自然発生する批判は、既に対立する利害や立場を持つ者からしか出てこず、したがって偏る。学問的批判を確保するには、批判を義務として配分しなければならない。現代の査読が、当該論文に何の利害も持たない研究者に批判を依頼するのは、同じ論理の延長である。
さらに重要なのは、討論が扱う対象が主として前提だったことである。何が問題かを立て、どの権威が何を主張しているかを整理し、権威間の矛盾を処理する。個人が自らの背景仮定を内省によって点検できない以上、それを可視化する唯一の方法は、異なる背景仮定を持つ他者と衝突させることである。討論はこの衝突を制度化した装置であった。
ただし、この制度は同時に、異論を大学と教会の秩序の内部に収める装置でもあった。批判は自由化の技術であると同時に、危険な問いを管理可能な形式へ変換する統治技術でもあった[4]。determinatio の存在――最終的に教師が解答を与えること――は、この両義性を端的に示している。
〈なぜ〉—— この時代が答えていたのは主として (A) 可謬性 と (E) 構成 の理由である。個人は自らの前提を点検できないから、他者との衝突を人為的に調達する。同時に、何が正しい論証であるかの基準そのものが、この衝突の反復を通じて形成される。ただし determinatio という頂点の存在は、基準の最終決定権が水平的な相互承認にはなく、垂直的な権威にあったことを示す。この点で、ポランニーの言う「科学者たちの間に成立する権威」にはまだ達していない。
2.ルネサンス文献学――証言の連鎖を検査する
現代査読の技法的祖先として、討論以上に重要なのがルネサンス人文主義の文献学的校訂である。
人文主義者にとって、古典を解釈する前に、まず信頼できるテクストを確定しなければならなかった。写本には脱落、重複、誤写、語句の置換、後世の挿入、誤った著者帰属、翻訳上の歪みが含まれうる。そのため複数の写本・印刷本を比較し、異読を記録し、伝承関係を考慮しながら、より妥当な読みを選択する必要があった[5]。
人文主義は本を基盤とする運動であった。人文主義者は写本の収集者・書写者・著者・翻訳者・編集者であると同時に、印刷術の登場後は印刷所へ原稿を供給し、校正を担い、出版市場を形成する存在ともなった。エラスムスは印刷を活用してヨーロッパ規模の知的存在となった代表例である[6]。
この実践の認識論的意義は、しばしば過小評価されている。文献学が発見したのは、証言の連鎖は自動的には信頼できないという事実である。
古典テクストは、著者から現在の読者へ直接届くのではない。無数の書写者の手を経て届く。各段階で誤りが混入し、しかも誤りは蓄積する。すなわち、伝達それ自体が知識を劣化させる。この認識は、知識が他者の言葉に依拠して成立するという事態――理由 (B)依存 ――を、最も鋭い形で問題化したものである。
人文主義者の答えは、伝達過程そのものを検査対象にすることであった。異読を照合し、系統を推定し、より原型に近い読みを復元する。「原典に当たれ」という学問的規範は、道徳的訓戒ではなく、証言の劣化に対する技術的対抗策である。
この文献学的実践が現代査読に残したのは、制度ではなく批評の解像度である。今日の査読報告に典型的な作業――何ページのどの語句が問題かを特定する、一次資料の読みを検証する、引用が原文を正確に表しているか確認する、別資料や異なる解釈を提示する、誤りの指摘にとどまらず具体的修正案を示す――は、文献校訂の論理ときわめて近い。
ただしルネサンスの校訂は通常、匿名の外部評価ではない。著者、編集者、印刷者、校正者、友人が互いの身元を知った状態で共同作業を行った。したがって人文主義的校訂は、査読の判定装置の祖先ではなく、査読者が用いる読解と修正の技術の祖先と位置づけるべきである。
〈なぜ〉—— ここで答えられているのは (B) 依存 の理由である。学問的知識の大部分は他者の言葉に依拠するが、その言葉は伝達過程で劣化する。したがって、伝達を検査する技術が学問の前提条件となる。現代の査読者が引用の正確さを確認するとき、彼/彼女は500年前と同じ問題に取り組んでいる。なお、この理由は (A)可謬性 とは独立である。著者が完全に誠実で有能であっても、伝達は劣化するからである。
3.書簡共和国――信用をあらかじめ調達する
第三の系譜は、ルネサンスから啓蒙期にかけての書簡文化である。
1345年のペトラルカによるキケロ書簡の再発見を一つの契機として、人文主義者の書簡は単なる私信ではなく、学問的自己形成、知識交換、友人関係、論争、評判形成の媒体となった。エラスムスやユストゥス・リプシウスは書簡作法を体系化し、自らの書簡集を通じて人文主義的計画を普及させた。17世紀には、この書簡形式の一部が学術論文や書評へと変形していく[7]。
紙の普及と郵便制度の整備により、17世紀はしばしば「書簡の黄金時代」「討論の世紀」と呼ばれる。研究者は未完成の原稿、抜粋、翻訳、観察記録、異読、反論を知人へ送り、意見と訂正を求めた[8]。
この書簡ネットワークは、現代査読のいくつかの機能を先取りしていた。第一に適任者の選択――誰に原稿を見せるかは、その人物の知識、評判、言語能力、蔵書、交友関係によって決まった。第二に出版前の改善――友人からの訂正や反論を受けて著者は原稿を修正した。第三に信用の移転――著名な学者が原稿を評価した、序文を書いた、出版を推薦したという事実は著作の信用を高めた。第四に優先権と評判の管理――書簡の日付と受取人は、ある発見や解釈を誰が先に提示したかを示す証拠となりえた。
ここで問うべきは、なぜ著者は出版前に他者へ見せたのか、である。二つの理由が重なっている。
第一は (A)可謬性 である。自分の誤りは自分には見えない。他者の目を通すことは、誤りの検出率を上げる。
第二は (B)依存である。そしてこちらのほうが、当時においては支配的であった。読者は著作の内容を自ら検証できない。したがって著者は、あらかじめ信頼できる他者の保証を調達しておく必要がある。序文、献辞、推薦、書簡による言及は、いずれもこの保証の可視化装置であった。
シェイピンが示したように、17世紀において誰の証言が信じられるかを決めていたのは、専門的能力よりも社会的地位であった[53]。経済的に自立した紳士は、嘘をつく動機を持たないとされ、その観察報告は信用に値するとされた。これは現代の目から見れば偏見だが、認識論的機能としては合理的な代替物であった。他に判定手段がない以上、動機の構造から信頼性を推定するほかない。
しかしこれは公平でも匿名でもない。評価は友情、恩義、パトロネジ、宗派、身分、地域、評判に左右され、批判は相互扶助や贈与交換の一部でもあった。現代的に言えば、書簡共和国は「査読プラットフォーム」ではなく、信頼できる知人からなる招待制の研究ネットワークであった。ここでの「peer」は無名の同分野研究者ではなく、自分と関係を結ぶことのできる「学識ある人物」を意味した。
〈なぜ〉—— 支配的なのは (B) 依存 である。読者が検証できない以上、著者は信用を事前に調達しなければならない。重要なのは、この段階では信頼が人格的だったことである。誰が保証したかが分かることに意味があった。後述するように、匿名査読とは、この人格的信頼が規模の拡大によって機能しなくなった後に導入された代替物である。理想の実現ではなく、失われたものの補填として理解すべきである。
4.検閲と出版認可――取り消せないものを事前に止める
以上三つが「批評の文化」に属するとすれば、性格を異にする第四の系譜がある。検閲、出版認可、インプリマトゥールである。
科学史家マリオ・ビアジョーリは、現代査読の直接的な手続き上の起源を、自由な学問的討論ではなく、近世国家・教会の出版統制に求めた[9]。
出版には政治的・宗教的危険が伴うため、君主、教会、大学、都市、印刷業者組合は、学識ある人物に原稿を読ませ、異端的でないか、政治的に危険でないか、他者の特権を侵害していないか、著者や組織の評判を傷つけないか、公刊に値する内容かを判定させた。
ここで初めて、
原稿提出 → 指定された読者による審査 → 報告 → 修正 → 認可 → 出版
という一連の手続きが明確な形をとる。
この形式的相同性は無視できないが、より重要なのは、なぜ事前でなければならなかったかである。
答えは印刷術にある。写本文化においては、テクストの流通は遅く、局所的で、各写本は個別に管理されうる。印刷は流通を一挙に不可逆にした。数百部、数千部が同時に世に出れば、回収は事実上不可能である。誤りは訂正できるが、既に読まれたものは読まれなかったことにできない。
この不可逆性こそが、事前審査という形式の根拠である。そしてこの根拠は認識論的ではない。仮にすべての著者が誠実で有能であっても、危険な主張が流通してしまう可能性は残る。逆に、認識論的観点からのみ考えれば、公開してから批判するほうが合理的でさえある。批判者の数がはるかに多く、多様だからである。
査読が出版「前」に行われるという、現代においてほとんど自明視されている特徴は、「品質保証」のためでも認識論からでもなく、実際は責任と危険の管理から導かれた。この一点を見誤ると、査読史全体の理解が歪む。
4.1 イエズス会の censurae librorum
16世紀末以降、イエズス会の著者は、出版許可を得るために原稿を内部審査委員会へ提出することを求められた。この制度は censurae librorum と呼ばれる。審査者は神学的・哲学的正統性のみならず、著作の関連性、独創性、技術的水準も検討したとされる。内部審査を通過しても、教会・国家による通常の出版認可は別途必要であった。すなわちこれは、宗教的検閲と学術的品質評価が重なり合った制度であった[9]。
注目すべきは、この重なりが偶然ではないことである。組織が著者の代わりに責任を負うためには、組織は内容を知らねばならない。内容を知るためには読まねばならない。読めば、正統性だけでなく質も目に入る。責任の引き受けは、必然的に品質評価を伴う。
4.2 アッカデーミア・デイ・リンチェイ
ローマのアッカデーミア・デイ・リンチェイが1623年にガリレオ『偽金鑑識官』を刊行した際にも、原稿は印刷認可を求める前に複数の有力会員へ回覧され、読解と編集を受けたとされる。アカデミーの名を冠して出版することは、組織による内容保証を意味した[9]。
この種の制度が保護していたのは、抽象的な「真理」だけではない。むしろ教会の名誉、学会の名誉、君主の権威、出版特権、著者の所属資格であった。現代査読が「雑誌の評判」を守る機能をもつのと同様、初期の審査もまず組織の名前を危険な著作から守る制度だったのである。
〈なぜ〉—— ここで支配的なのは (C) 責任 である。印刷は流通を不可逆にした。不可逆なものは事前にしか止められない。そして止める権限を持つ者は、止めなかったことの責任を負う。現代査読が保持している最も特徴的な形式――出版前、指定された審査者、書面報告、修正要求、組織による最終承認、承認版の固定――は、ほぼすべてこの理由から導かれる。ビアジョーリの説が持つ説明力は、まさにここにある。
5.1635年、アカデミー・フランセーズ――基準がまだ存在しないとき
前史のなかで特筆すべきは、自然科学アカデミーより早く設立されたアカデミー・フランセーズの規約である。
1635年の規約は、フランス語を「純粋で、雄弁で、諸芸術と諸科学を扱えるもの」にすることを主要任務とし、さらに第29条から第42条にかけて、会員の著作を審査する詳細な手続きを定めていた[10]。その内容は現代の編集査読を強く想起させる。
審査者の指名:会合で発表された文章について、議長が通常二人の委員を指名し、委員が報告を作成する。長い著作の場合はより多くの委員を置くことができた。
著者への修正要求:委員の所見を学会が検討し、著者は指摘箇所を修正する。修正版が学会の意図に合致していると委員が判断した後に承認が発行された。
原稿管理:審査用原稿は書記が保管し、委員に写しを配布した。委員は原稿および自らの所見を外部へ漏らすことを禁じられた。
批評上の礼節:第34条は、著作の誤りについての所見を「節度と礼節をもって」述べ、著者も同様の態度で訂正を受け入れるべきことを定めた。
承認の記録:承認は記録簿に記載され、役員が署名し、学会の印章を付した文書として著者に交付された。
承認後の変更禁止:承認後に著者が独断で内容を変更することは禁じられた。
所属表示との連動:審査と承認を受けなかった著作では、著者はアカデミー会員であることを表示できなかった。
委員の指名、原稿の配布、報告、著者による修正、再確認、秘密保持、最終承認、承認版の固定、組織名による認証――現代査読の主要構成要素がほぼ出そろっている。
もっとも相違も重要である。審査者は外部の匿名専門家ではなく同じアカデミーの会員であり、審査対象は基本的に会員の著作であり、目的はフランス語の規範化とアカデミーの権威・品位の保護であった。またこれらの詳細な審査条項は比較的早く形骸化したと、現在のアカデミー自身が注記している[10]。
しかし、この事例が査読史において決定的に重要なのは、別の理由による。
アカデミー・フランセーズの任務は、フランス語の規範を作ることであった。すなわち、審査に先立って基準が存在しなかった。何が「純粋で雄弁なフランス語」であるかは、審査を通じて決まっていったのである。
これは理由 (E)構成 の純粋な事例である。基準が既に存在する領域では、審査は基準の適用にすぎない。しかし基準が形成途上にある領域では、審査そのものが基準の制作行為となる。個々の判定の積み重ねが、判定の物差しを作る。
この構造は、現代においても新興分野で反復されている。ある研究領域が立ち上がるとき、最初期の査読は既存基準を適用できない。査読者と著者の応酬を通じて、何が良い研究かが決まっていく。第34条が「節度と礼節をもって」を要求したのは単なる礼儀作法ではない。基準が共有されていない状態で相互批判を持続させるには、批判の様式そのものを規範化しなければならないからである。
〈なぜ〉—— (C) 責任 と (E) 構成 の結合である。組織名は共有資産であり、共有資産の使用には共有の管理が要る。同時に、この事例は、審査が基準の適用ではなく基準の制作でありうることを示す。自然科学ではなく言語・修辞・文学を担当する王立アカデミーにおいて、修正を伴う組織的出版前審査が最初に明文化されたことは、査読を自然科学固有の発明とみなす見方を根底から覆す。
第II部 1665年から19世紀へ
6.1665年に起きたこと――なぜ雑誌が必要だったのか
1665年1月5日、パリで Journal des sçavans が創刊された。週刊・12ページの学術情報誌であり、その目的は書簡共和国で生じた新しい出来事を迅速に知らせることにあった。内容には新刊書の紹介と批評、学者の訃報、芸術・学問上の発見、法学上重要な判決が含まれていた[11]。
その約二か月後の1665年3月、ロンドン王立協会の二人の書記(Secretary)の一人ヘンリー・オルデンバーグが Philosophical Transactions を創刊した。オルデンバーグはブレーメン出身で、神学を修め、外交使節としてイングランドに渡り、ロバート・ボイルの縁で協会に加わった人物である。多言語に通じた書簡の結節点であり、当時の呼称でいえば「自然哲学者」ですらなく、知識の仲介者であった。これがしばしば「査読制度の始まり」と説明される。
しかし現在の研究史は、この説明をほぼ退けている。当時の雑誌は王立協会が組織として編集していたのではなく、基本的にはオルデンバーグ個人の編集事業であった。彼は広範な書簡ネットワークを利用して研究者に意見を求めることはあったが、投稿原稿を定期的に複数の匿名専門家へ回付する制度は存在しなかった。掲載は主として編集者オルデンバーグ自身の判断で決まっていた[1][2]。
「1665年に査読が発明された」という通説の学術的な出所は、1971年に科学社会学者ハリエット・ザッカーマンとロバート・K・マートンが発表した論文であると考えられている[12]。同論文は、レフェリー制の起源を最初の学術雑誌に遡らせ、それを科学の規範構造の一部として理論化した。この枠組みは科学社会学において強い影響力をもったが、その後、オルデンバーグの書簡の日付や編集実務を再調査した歴史家たちによって、17世紀の実務を現代的査読と同一視できないことが示された[1][2]。
この経緯には、いくつかの層の皮肉がある。
第一に、自然科学の起源神話を供給したのは、自然科学者ではなく社会学者であった。査読を「科学が科学であるための条件」として語る言説は、しばしば自然科学を奉じる立場から好んで発せられるが、その理論的定式化は実際は科学社会学に由来する。そしてそれを訂正したのは、実験でも統計でもなく、書簡の日付を照合する史料批判――第2章で見た文献学の系譜に属する作業――であった。
第二に、誤りは理論から導かれていた。マートンは本稿が第0部で依拠した「組織された懐疑主義」の定式化者であり[48]、査読を科学の規範構造の表現として理解した。だが、もし査読が科学の規範構造の表現であるならば、それは科学そのものと同じだけ古いはずである。1665年起源説は、この演繹の帰結であった。すなわち、制度を規範の実現として理解する枠組みが、制度の歴史的偶然性を見えなくした。本稿が繰り返し述べる「理由 (A)可謬性 と (E)構成の言説と (C)責任 と (D)希少性の実態の乖離」は、その最初の犠牲者として査読史そのものを含んでいたことになる。
第三に、これらの論争がほぼすべて同一の雑誌で展開されたことも記録に値する。ポランニーの「科学の共和国」(1962年)、ザッカーマン=マートンの起源論(1971年)、そして人文学における査読史の特集(2025年)は、いずれも Minerva 誌に掲載されている[49][12][3]。
なお、1665年起源説は現在もなお広く流通している。2026年7月時点の英語版ウィキペディア「Henry Oldenburg」の項は、オルデンバーグが投稿原稿を専門家に送って公刊前に質を判定させる慣行を始め、それが近代科学雑誌と査読の双方の起源となった、と記している。学界内部では二十年前に否定された命題が、最も参照される公共的知識源には残り続けているわけである。
では、1665年に何が解決されたのか。書簡ネットワークの限界である。
書簡は一対一の媒体である。ある発見を50人に知らせるには50通書かねばならない。誰が何をいつ知ったかは不明瞭であり、優先権の紛争が絶えない。同じ実験が各地で重複して行われる。そして書簡は私的文書であるから、後から参照できない。
雑誌は、これらすべてに対する解決であった。刊行日付が公的な記録となり(登録)、一度の刊行で不特定多数に届き(周知)、図書館に蓄積されて後から参照できる(保存)。
すなわち、1665年に制度化されたのは登録・周知・保存の機能であって、認証の機能ではない。後述する四機能モデル(第19章)の用語を先取りすれば、査読が担う認証機能は、雑誌の四機能のうち最後に付け加えられたものである。この順序は、査読史全体を理解する鍵である。
なお、二つの1665年が担った機能は異なる。Journal des sçavans が制度化したのは出版後の公開書評であり、Philosophical Transactions が制度化したのは編集者による選別と迅速な公表であった。前者は理由 (A)可謬性と(E) 構成に、後者は理由 (B)依存、(D)希少性 に対応する。現代査読は制度としては後者、さらに正確には前章で見た認可の系譜を主に受け継いだ。
〈なぜ〉—— 学術雑誌の誕生が答えたのは、主として (B) 依存 の周知面と (D) 稀少性 の初歩的形態である。誰が何を最初に主張したかを公的に記録すること、そして限られた読者の注意を効率的に配分すること。認証は含まれていなかった。「査読は雑誌と同時に生まれた」という通説が誤りであるのは、単に年代の問題ではない。雑誌が解決しようとした問題が、そもそも認証の問題ではなかったからである。
7.17〜18世紀――なぜ個人から組織へ
現代的査読に先行して、科学アカデミーや学会では、組織名で発表する文書を内部で審査する仕組みが整備されていった。
パリ王立科学アカデミーには1699年までに出版委員会が設置され、会員の研究を同僚が検討していた。1731年にエディンバラで刊行された Medical Essays and Observations でも、送られた論文を主題に詳しい会員へ配布する仕組みが説明されている[13]。
ただしこれらの目的は、今日のように研究共同体全体の文献を体系的に選別することよりも、学会の名誉と信用を守ること、宗教的・政治的に危険な内容を避けること、明らかに不適切な主張を排除すること、学会として公表する価値があるかを判断することにあった。
7.1 1752年の王立協会改革
1752年、王立協会はそれまで個人事業に近かった Philosophical Transactions を正式に引き取り、「論文委員会(Committee of Papers)」が掲載を決定する体制を導入した。
委員会は、協会の会合で読み上げられた論文について、採択、却下、延期、専門会員への照会を決めた。専門家による評価も制度上は可能になったが、実際にはめったに利用されず、多くの判断は論文の要約と委員会の投票に基づいていた。
この改革の意味は、審査の精度が上がったことではない。実際、専門家照会は稀にしか使われなかった。変わったのは責任の所在である。
オルデンバーグは、掲載された内容について個人的に責任を負っていた。彼の判断が誤れば、彼の評判が傷つく。しかし個人は死ぬ。個人の判断は個人の能力に限界づけられ、個人の負いうるリスクには上限がある。
団体は個人より長生きし、より大きなリスクを負い、より多くの専門を包含できる。1752年の改革は、出版に伴う責任を個人から団体へ移す装置であった。そしてひとたび団体が責任を負うと決めた以上、団体はその責任を果たすための手続きを必要とする。委員会審議はその手続きである。
〈なぜ〉—— (C) 責任 の理由が、個人から組織へと担い手を移した。ここで重要なのは、審査の質が動機だったのではなく、責任の帰属が動機だったことである。委員会が論文の要約と投票で判断していたという事実は、この点を裏書きする。内容の精査は目的ではなかった。組織が「我々はこれを検討した」と言えることが目的だったのである。現代の査読が、しばしば実質的な検証よりも手続きの履行として機能してしまう傾向は、この出自と無関係ではない。
8.19世紀――なぜレフェリーが必要になったか
8.1 1831年、ウィリアム・ヒューウェルの提案と、その失敗が教えたこと
現代の査読に比較的近い制度が現れるのは19世紀である。
1831年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの学寮長にして鉱物学教授・道徳哲学教授を歴任した博学者ウィリアム・ヒューウェル(William Whewell, 1794–1866)は、王立協会に提出された論文を二人の会員に送り、書面報告を作成させることを提案した。当初の構想では、報告書は署名付きで公表され、科学的論争そのものを読み物として提供するはずであった[1]。
ヒューウェルの構想は、理由 (A)可謬性 と (E)構成 に忠実である。批判は公開されるべきであり、公開された批判の応酬こそが科学の内容を豊かにする。査読報告は排除の道具ではなく、科学的議論の一部となるはずであった。
ところが、最初の担当者たちが論文の評価をめぐって激しく対立し、連名の報告書を作成できなかったため、公開報告の構想は頓挫する。
この失敗が教えたことは、査読史全体を貫く。すなわち、専門家の判断は一致しない。しかもこの不一致は、専門家の能力不足に起因するのではない。理由 (A)可謬性 の分析が示すように、評価は背景仮定に依存し、背景仮定は研究者ごとに異なる。専門家が多様であればあるほど――そして理由 (A) は多様性を要求する――判断は一致しにくくなる。
つまり、査読者間の不一致は制度の欠陥ではなく、批判が実質的であることの証拠でもありうる。150年後にピーターズ=チェチやロスウェルらが実証する「査読の低い信頼性」は、1831年の最初の試みにおいて既に露呈していた。
一方、専門家に書面で意見を求める実務自体は残った。報告書はやがて、編集委員会だけが読み、著者には査読者の名前を知らせず、初期には報告内容そのものも著者に見せず、掲載判断の内部資料として使われる秘密文書となった。これが匿名レフェリー制度の重要な原型である[1]。
強調しておくべきは、匿名性は理念から生まれたのではないということである。それは、公開署名報告の失敗という偶発的経験から生じた実務的解決策であった。匿名査読を「本来の姿」とみなす通念は、この点で歴史的根拠を欠く。
8.2 同じ人物が「scientist」を造った――専門分化への二つの応答
ヒューウェルについては、査読史ではほとんど言及されない事実を記しておく必要がある。
レフェリー報告を提案したこの人物は、その二年後に「scientist」という語を造った人物でもある。
1833年、英国科学振興協会の会合において、サミュエル・テイラー・コールリッジが、物質世界を扱う者が自らを「哲学者」と称することに強く異議を唱えた。これを受けてヒューウェルは、artist(芸術家)との類比により scientist という語を提案する。翌1834年、彼はメアリ・サマヴィル『物理諸科学の連関について』の書評においてこの語を活字にした[61][62]。
この一件には、査読史にとって三重の意味がある。
第一に、動機が同じである。当該書評においてヒューウェルが論じたのは、科学が分裂しつつあるということであった。化学者と数学者と物理学者は、互いに関わりを失いつつある。彼が「物質世界の知識を学ぶ者を集合的に指す名称の欠如」を問題としたのは、この分裂への危機感からであった。
そして専門分化こそが、レフェリー制を要請した当のものである(第8.4章)。編集者一人ではもはや判断できないから、外部の専門家が要る。ヒューウェルは同じ診断から二つの処方を導いた――分裂した実践者たちに共通の名を与えること(scientist)と、分裂した専門知を評価に動員する手続きを作ること(レフェリー報告)。前者は集合的アイデンティティの発明であり、後者はその集合体が自らを統治する手続きの発明である。
第二に、造語の場が書評であった。しかも匿名の書評である。ヒューウェルは Quarterly Review に無署名で寄稿した。すなわち彼は、匿名の評価という形式のなかで、科学者という職業カテゴリーを命名した。第11章で論じた出版後の公開批評の伝統と、第8.1章で見た匿名評価の伝統が、この一つのテクストで交差している。
第三に、どちらも長く抵抗された。scientist という語は、artist との類比のみならず、sciolist(似非学者)、economist、atheist といった、当時いずれも否定的含意をもつ語と同じ構造を持つとされ、受容が遅れた。ヒューウェル自身、1834年の書評でこの語について「一般には受け入れられていない」と注記している。英国で定着したのはほぼ一世紀後であり、先に受け入れたのは米国であった[61]。
レフェリー制もまた同様である。1831年に提案され、19世紀後半に部分的に実務化され、20世紀前半にもなお例外が多く、標準となったのは戦後である。職業名も評価手続きも、提案から定着まで約一世紀を要した。両者はともに、実在する共同体を記述する語ではなく、共同体を作り出そうとする企てであった。だから抵抗されたのである。
ここから、本稿の枠組みにおける重要な帰結が導かれる。理由 (E)構成 ――基準は相互吟味を通じてしか作れない――が働くためには、まず「誰が同輩か」が確定していなければならない。ヒューウェルの二つの発明は、この前提条件そのものを構築する試みであった。査読の歴史は、査読される共同体の境界がいかに引かれたかの歴史でもある。
8.3 なぜ助言者はゲートキーパーになったか
19世紀中頃のレフェリーは、現代のような最終判定者ではなく、編集者や学会委員会への助言者であった。その役割は、論文の主張が完全に真であるかを判定することよりも、協会が掲載して恥をかかないか、明白な誤りがないか、専門的に見て公表する価値があるか、編集者が却下を正当化できるか、を助言することにあった。
この一覧は示唆的である。四項目のうち三項目までが、真偽ではなく責任と体面に関わっている。レフェリーは真理の検定者ではなく、組織のリスク管理の助言者であった。
しかし専門分野が細分化し、論文数が増加すると、編集者一人ですべてを判断することは不可能になる。レフェリーは次第に単なる助言者から、学術文献への入口を管理するゲートキーパーへと変質していった[1]。
この変質の駆動因は明確である。誌面が有限であり、投稿数が誌面に載せられる限界を超えるようになったとき、審査は「掲載してもよいか」から「掲載すべきものを選ぶか」へ性質を変えた。前者は理由 (C)責任 に、後者は理由 (D)希少性 に属する。査読が競争的な選別装置になったのは19世紀後半であり、それは印刷コストと投稿量という物質的条件の帰結であった。
8.4 専門分化――なぜ「同分野の」研究者でなければならないか
1854年から王立協会書記を務めた数学者ジョージ・ガブリエル・ストークス(ケンブリッジ大学ルーカス教授職)は、投稿論文を通常二人のレフェリーへ送り、著者との修正交渉を行う実務を整えた。ストークスは編集者、書記、査読者を兼ね、現在の科学編集者に近い役割を担った人物と評価されている。
1897年には、数学、植物学、動物学、生理学、化学・物理学、地質学の分野別委員会が再設置された。委員会が査読者を選び、査読報告を著者へ伝え、最終判断を論文委員会に送るという、現在にかなり近い分業構造が形成される。
この変化の背景にあるのは科学の専門分化である。ある物理学者が植物学や医学の論文まで正しく判断することは困難になり、同じ専門領域の研究者による評価が不可欠となった。
ここに、査読の構造的ジレンマの起源がある。物理化学者マイケル・ポランニーが1962年に定式化したように、科学者は自分の専門分野に隣接する領域までは能力ある判断を下せるが、それ以上は下せない。しかし各研究者の能力領域は互いに重なり合っており、この重なり合う近傍(overlapping neighbourhoods)の連鎖によって、天文学から医学に至る科学全体に一様な評価基準が及ぶ。ポランニーの言う「科学的意見」とは、いかなる単一の頭脳にも宿らず、無数の断片に分かたれて多数の個人に保持され、重なり合う近傍の連鎖を通じて互いに承認されるものである[49]。
これは相互吟味の必然性についての、おそらく最も洗練された定式化である。誰も全体を判断できない。しかし局所的判断が連鎖すれば、全体の基準が成立する。
しかし同時に、この構造は不可避の代償を伴う。専門化が進むほど、ある論文を評価できる人の数は減る。極限においては、評価者は著者の直接の競争相手になる。利益相反は制度の不備ではなく、専門分化の論理的帰結である。
ただし、この時点でもすべての雑誌が査読を採用したわけではない。学会誌ではレフェリー制が発展した一方、商業雑誌の多くは有力な編集者が掲載を判断する方式を続けた。当時、「一流誌であること」と「外部査読を行うこと」は必ずしも同義ではなかった[1]。
〈なぜ〉—— 19世紀に起きたのは、(C) 責任から (D)希少性 への重心移動である。それまで審査は「公刊してよいか」(責任)を問うていた。投稿量が誌面を超えたとき、審査は「どれを載せるか」(配分)を問うようになった。同時に、専門分化によって外部の専門家が不可欠となり、ポランニー的な「重なり合う近傍」の構造が形成された。匿名性は、この過程で偶発的に採用された副産物である。
第III部 人文学の並行史――基準の形成という問題
9.「peer」の意味の変容――なぜ上位者ではなく同輩なのか
初期のアカデミーで「同僚」とされた人物は、現代の意味で単に同じ研究テーマを専門とする研究者ではなかった。17〜18世紀の「peer」はしばしば、同じアカデミーの会員、同じ君主の保護下にある学識者、同じ宗派・修道会の構成員、社会的に信用される紳士、既存の書簡ネットワークに参加できる人物を意味した。
すなわち、専門的能力と社会的資格が切り離されていなかった。ビアジョーリは、長期的に見れば「peer」の意味が、王権や団体に属する人物から、専門資格を持つ研究者へと変化したと論じている[9]。
ここで問うべきは、なぜ「peer」でなければならないのかである。上位者による審査ではなぜ不十分なのか。
答えは理由 (E)構成 にある。学問的評価の基準は、外部から与えられることができない。何が良い歴史研究であるかを、歴史学の外部にいる者は決められない。それは循環的に見えるが、循環ではない。基準は、具体的な研究をめぐる評価の応酬の内部でのみ形成され、改訂されうる。
ポランニーの定式が正確である。「科学的権威は科学者たちの間に成立するのであって、彼らの上に立つのではない」[49]。垂直的権威は基準を強制できるが、基準を生成できない。生成には水平的な相互承認が要る。
これは同時に、査読が持つ政治的含意を説明する。学問共同体が自らの基準を自ら決めるという主張は、国家・教会・市場からの自律の主張でもある。第16章で見る1975年のNSF公聴会は、まさにこの主張が公的に争われた場面であった。
「peer」概念の変容は、民主化と専門化の双方を意味する。一方では、アカデミーの正式会員でなくとも、狭い分野の専門知識をもつ研究者であれば査読者になれるようになった。他方では、博士号、所属機関、業績、専門分野という新しい資格が、誰を「同僚」とみなすかを決めるようになった。したがって現代査読は、身分的・団体的な閉鎖性を解消したというより、それを専門資格による境界へ置き換えたと言うべきである。
〈なぜ〉—— (E) 構成 が「peer」という語の必然性を説明する。基準は外部から与えられず、水平的相互承認からしか生じない。ただし、この論理には危うさもある。共同体が自ら基準を決めるということは、共同体の偏りが基準の偏りとして再生産されうるということでもある。ロンジーノが第四条件として「知的権威の平等な配分」を挙げたのは、この危険に対する処方であった[51]。
10.研究ゼミと学位審査――なぜ作品だけでなく人物を評価するのか
1800年前後に人文学諸分野が独立した学問領域として制度化されると、評価は出版だけでなく、研究者の養成と資格付与の場においても制度化された。
古典文献学者アウグスト・ベックは、1812年にベルリン大学で文献学ゼミを組織した。学生は研究論文を書き、それをゼミのメンバーに提示し、共同で評価した。論文は単なる授業課題ではなく、本文批判、著者帰属、年代、文学形式、歴史的問題などを扱う研究であり、討論を経て博士論文へ発展することもあった[14]。
これは中世の討論とは性格を異にする。中世の討論では役割と手順が厳格に定められ、最後に教師が解決を与えた。ベックのゼミでは、より開かれた討論と学生同士の参加が重視された。評価は単に合格・不合格を決めるものではなく、研究者になるための共同的訓練であった[3]。
19世紀にはまた、博士論文の評価が学問分野への参入を決める重要な制度となった。フランスでは学位論文の口頭試問報告が新しい評価文書として発達し、スウェーデンなどでは論文と公開討論が独自の尺度で評価された。ここで評価対象となったのは一つの論文であると同時に、その人物が自立した研究者として認められるかであった[3]。
現代の目から見ると、作品ではなく人物を評価することは、査読の理念に反するように思われる。しかし理由 (B)依存 の観点からは、これはむしろ首尾一貫している。
読者が個々の主張を検証できない以上、知識の流通は著者の信頼性に依存する。とすれば、著者の信頼性を認証する制度は、論文の内容を審査する制度と同じくらい必要である。学位とは「この人物の証言は信頼に値する」という共同体の保証にほかならない。
さらに、理由 (E)構成 の観点からは、ゼミと学位審査は基準の伝達装置である。何が良い研究かは、規則として書き下せない。クーンが言うように、それは範例を通じて習得される[55]。ポランニーの言葉を借りれば、それは暗黙知である。ゼミにおいて、学生は基準を教わるのではなく、基準が適用される場面に繰り返し立ち会うことで基準を身につける。
ここから、人文学における査読がしばしばテクストの品質評価、著者の学識評価、学派・分野への加入判定、大学職への資格評価を重ね合わせる傾向が生じる。現代においてしばしば批判される「所属機関バイアス」「著者威信バイアス」は、この構造の残滓である。それは単なる不正義ではなく、証言の信頼性を人格に帰属させてきた長い歴史の慣性でもある――もっとも、そのことは正当化にはならない。
〈なぜ〉—— (B) 依存 と (E) 構成 が重なる。読者が検証できない以上、著者の信頼性そのものが認証対象となる。同時に、基準は明文化できないため、共同的訓練を通じて伝達されるほかない。作品と人物を同時に評価するという人文学的伝統は、この二重の必要から生じている。
11.学術書評――なぜ出版後の公開批評が要るのか
現代の peer review という語を分解すると、初期の人文学文化は特に review の側に大きな影響を与えている。
前述の Journal des sçavans に始まる学術書評は、出版前に掲載を許可するための審査ではなく、すでに刊行された本を公に評価する出版後評価であった。にもかかわらず、書評は人文学においてきわめて大きな権力をもった。書評者は、何を読む価値があるか、どの方法が正統か、どの資料が信頼できるか、誰が専門家で誰が素人か、どの問題が重要かを読者に示した。
書評への反論、それに対する再反論が続くこともあった。これは秘密の査読報告ではなく、公開された「書評―応答」形式の討論である。近代の美術史や歴史学では、こうした公開書評が個々の著作の評価だけでなく、分野そのものの境界と方法を形成した[3]。
ここで重要なのは、出版前審査と出版後書評が異なる問いに答えていることである。
出版前審査が答えるのは「これを世に出してよいか」――責任と配分の問いである。出版後書評が答えるのは「これはどのような意味を持つか」――解釈と位置づけの問いである。後者は前者に還元できない。ある研究の重要性は、それが出版された時点では確定していない。他の研究との関係のなかで、事後的に決まる。
さらに、出版後批評には認識論的な優位がある。出版されなければ批判されない。匿名査読者二名の判断は、公開後の数百人の読者の判断より必然的に貧しい。理由 (A)可謬性 の観点からのみ考えれば、査読は事前ではなく事後に行われるべきである。
したがって査読の歴史には、二つの別々の流れがある。
出版前の秘密審査――認可、選別、組織の保護(理由 C・D)
出版後の公開書評――批評、応答、分野形成(理由 A・E)
現代の査読制度は主として前者を制度化した。後者は、20世紀を通じて制度的地位を失っていった。第19章で扱うオープン査読と出版後査読の運動は、この失われた第二の流れの意図的な復活である。
〈なぜ〉—— (A) 可謬性 と (E) 構成 を重視するならば、出版後の公開批評は事前審査より適合的である。批判者の数と多様性がはるかに大きく、応答の応酬が可能で、判断が修正されうるからである。にもかかわらず制度化されたのは事前審査のほうであった。この選択が理由 (C)依存と(D)希少性 によることは、既に見た通りである。査読が最も苦手な機能こそ、査読に最も期待されている機能であるという現代の逆説は、ここに起源を持つ。
12.人文学の単行本文化――なぜ査読票では足りないのか
自然科学では19〜20世紀に雑誌論文が主要な研究成果となった。これに対し人文学では長く単行本、校訂版、翻訳、注釈書、学位論文が中心であった。
そのため人文学の出版前評価では、学術雑誌の論文査読者よりも、学術出版社の編集者、単行本原稿の外部読者、シリーズ編集委員、学位論文審査員のほうが重要な役割を担うことがあった。20世紀を通じて、たとえば American Historical Review は誌面の25〜50%を書評に充てていた[3]。
この差異は、単なる出版形態の違いではなく、主張の構造の違いに由来する。
自然科学の論文における中心的主張は、しばしば局所的に検証可能である。ある測定値が正しいか、ある統計処理が適切か、ある対照群が妥当かは、部分的に点検できる。
人文学の著作における主張は、そうではないことが多い。ある歴史解釈の説得力は、数百の史料をどう配列したか、どの文脈に置いたか、どの対抗解釈をどう処理したかという全体の構成に依存する。部分を切り出して検証しても、主張は評価できない。
したがって評価の粒度が異なる。数ページの査読票では足りず、長い書評、編集者との往復、公開討論、口頭試問が必要になる。人文学が査読の標準化に抵抗し続けたのは、保守性のためだけではない。評価対象の構造が、標準化された短い判定に適合しなかったからである。
〈なぜ〉—— ここでは、理由 (A)可謬性 の実装形態が対象の性質によって規定されることが見えてくる。批判の場は必要だが、その場の形式は、何が批判されるかによって変わる。局所的に検証可能な主張には短い査読票が適合し、全体の構成に依存する主張には長い対話が要る。「査読」という単一の語が両者を覆っていることが、分野間の相互不理解の一因である。
13.なぜ匿名は後から来たのか
現代では、匿名性、とりわけ著者と査読者双方の名前を隠すダブルブラインド方式が、人文学の標準とみなされることがある。しかしこれは古い人文主義的伝統ではない。
中世討論、文献学的論争、書簡、学会審査、公開書評、学位口頭試問では、基本的に参加者の身元が判明していた。誰が批判したかは、その批判の重みを判断する重要な情報だったのである。
匿名の外部専門家による体系的な論文査読が学術界全体で標準化され始めたのは第二次世界大戦後であり、「peer review」という語自体が学術評価の一般語となったのも1970年代である[2][15]。
人文学系雑誌では、米英の主要な文学研究誌・美術史誌が1980年代初頭までにダブルブラインド方式を確立したが、歴史学の有力誌には1990年代末まで導入しなかったものもあった。多くの国・分野で匿名の出版前査読が規範化するのは2000年前後である[3]。
スウェーデンの人文学誌を対象とする近年の研究によれば、1990年代半ばまでは編集者による修正、編集委員の助言、必要に応じた非公式な外部意見が中心であった。厳格な外部査読やダブルブラインド方式が広がったのは、2000年前後に研究助成機関が明示的な品質保証を求めるようになったためである[16]。
なぜ匿名は後から来たのか。答えは規模にある。
小さな共同体では、人格的信頼が機能する。誰が誠実で、誰が党派的で、誰が特定の学派に忠実かを、参加者は知っている。この知識があれば、署名付きの批判を適切に割り引いて読むことができる。
共同体が拡大し、参加者が互いを知らなくなると、この割引が不可能になる。誰が批判したかを知っても、その情報を評価できない。むしろ有害でさえある――知らない相手の名前は、地位や国籍の代理指標として作用してしまうからである。
匿名は、人格的信頼が機能しなくなった後に導入された代替物である。それは理念の実現ではなく、失われたものの補填であった。
同じことは著者側の匿名(ダブルブラインド)についても言える。著者名を隠すのは、著者の評判を評価に使えなくするためである。しかし前章で見たように、著者の信頼性を評価に使うことは、理由 (B)依存 の観点からは合理的でさえあった。ダブルブラインドは、この合理性を意図的に放棄する。放棄する理由は、評判が能力の指標として不正確であり、かつ体系的に偏っているからである。マートンが「マタイ効果」と呼んだ、既に評価された者にさらに評価が集まる現象は、この偏りの一形態である[57]。
〈なぜ〉—— 匿名性は、(B) 依存 の理由が規模の拡大によって従来の仕方では満たせなくなったことへの対応である。人格的信頼が手続き的保証へ置き換えられた。この置換は規模の問題を解いたが、代償として、手続きそのものが偽造の対象となる可能性を生んだ。第20章で扱う論文工場の問題は、300年越しに支払われるこの代償である。
またこの節の知見は、より一般的な含意を持つ。現代査読の形式は、純粋に学問内部から自然発生したのではない。研究助成制度、大学評価、雑誌ランキング、公的説明責任、公平性の可視化、出版社による手続きの標準化によっても形成された[3][16]。
第IV部 20世紀――標準化と政治化
14.20世紀前半――なぜ査読なしで卓越しえたか
王立協会の公式記録では、20世紀初頭には掲載論文を二人のレフェリーに送ることが標準的手続きになったとされる。ところが実際の運用を調査した研究は、第一次世界大戦以前には査読報告なしで掲載された論文が多数存在し、1930年にも無査読掲載が残っていたことを示している[2]。規則上の制度化と日常的運用の間には相当なずれがあった。
フランスやドイツの有力誌でも、専門編集者の判断を重視し、体系的な外部査読を行わない例が一般的であった。
14.1 アインシュタインの事例
この文化差を象徴するのがアルベルト・アインシュタインである。
1905年の特殊相対性理論をはじめとする初期の重要論文は、現在の意味での匿名外部査読を受けていない。当時の Annalen der Physik は、編集者パウル・ドルーデと、1895年から理論部門の副編集者を務めたマックス・プランクの判断を中心に運営されていたからである。同誌の却下率は5〜10%程度にとどまり、既に誌上に登場した著者の原稿はほとんど審査を経ずに掲載された[13][58]。
ところが1936年、アインシュタインとネイサン・ローゼンが米国の Physical Review へ論文を投稿すると、編集者は匿名の専門家に査読を依頼した。アインシュタインは、出版前の原稿を第三者に見せることを自分たちは許可していないとして反発し、論文を取り下げた[1]。
この事件は、アインシュタインが査読を理解していなかったことを示すのではなく、編集者中心のヨーロッパ型出版文化と、外部レフェリーを積極的に用い始めた米国型出版文化の衝突を示している。付言すれば、当該論文(重力波の存在を否定する内容)は査読者の指摘が正しく、アインシュタインは後に結論を修正して別誌に発表した。
この後日談は、理由 (A)可謬性 の力を実証している。世界最高の物理学者であっても、自らの誤りは自らには見えなかった。
14.2 Nature ――1973年まで査読は必須ではなかった
より衝撃的な事例は Nature である。
1939年に共同編集者となったL・J・F・ブリンブルとA・J・V・ゲイルは、外部レフェリーを時に用いたものの、信頼する科学者が投稿ないし推薦した論文はしばしば外部審査に付さなかった。1966年に編集長となったジョン・マドックスも、自らが優れていると判断した論文を外部査読なしに掲載した。外部査読が Nature の掲載要件となったのは1973年、デイヴィッド・デイヴィーズが編集長となってからである[17][18]。
1953年のワトソンとクリックによるDNA二重らせん構造の論文もまた、外部査読を経ていない。所属機関であるキャヴェンディッシュ研究所の責任者(ローレンス・ブラッグ)による推薦が掲載を保証するに足るとされた[18]。
Nature の事例が示すのは、1960年代に至ってもなお、体系的外部査読を行わない雑誌が科学的に尊敬されうるということである[17]。
では、なぜそれで機能しえたのか。
理由 (B)依存 の観点から見れば、答えは明快である。編集者の人格的判断と、著者の人格的信頼が、まだ有効に機能する規模だったのである。ブラッグの推薦が査読の代替になりえたのは、ブラッグが誰であるかを関係者全員が知っていたからである。書簡共和国の論理が、20世紀半ばまで縮小しつつも生き延びていた。
1973年が転換点となったのは、この規模の限界が超えられたからである。投稿の量と分野的多様性が、編集者個人の判断能力と人的ネットワークの射程を超えた。外部査読の必須化は、認識論的な進歩というより、人格的信頼のネットワークが破綻したことの帰結であった。
14.3 査読を経なかった20世紀の研究
以上の二例は例外ではない。20世紀の科学史における画期的な研究のうち、現在の意味での外部査読を経ていないものは相当数にのぼる。以下、確証の得られるものを、なぜ査読されなかったのかによって分類して掲げる。
(i) 学会員という身分による免除
アインシュタイン『一般相対性理論の場の方程式』(1915年11月、プロイセン科学アカデミー紀要)
アインシュタインは1914年からプロイセン科学アカデミーの会員であり、会員として、その論文はアカデミー紀要に何の照会も修正要求もなく掲載された[58]。一般相対性理論の完成形は、この経路で世に出ている。
同時に彼は、1914年以降、アカデミーに投稿された他者の論文を審査する側にも立っていた。その短評には「無価値(wertlos)」という語がしばしば現れるという[58]。査読を拒んだことで知られる人物は、査読する側としては峻厳であった。
この事例は理由 (B)依存 の純粋形である。認証は原稿ではなく人物に対して与えられていた。アカデミー会員であることが、それ自体で証言の信頼性の保証だったのである。
(ii) 編集者の裁量――ドイツ語圏の雑誌文化
アインシュタインの1905年の五論文(Annalen der Physik)
既に述べたとおり。同誌の却下率は5〜10%にとどまり、編集者は確立した物理学者の論文を却下することに消極的であった。歴史家クリスタ・ユングニッケルとラッセル・マコーマックの表現を借りれば、「同誌は時おり、良い物理学者による悪い論文を掲載した」[58]。
プランクの編集哲学は明示的であった。彼は、評価が甘すぎたという非難よりも、風変わりな意見を封殺したという非難のほうをはるかに恐れると述べている[58]。同誌にはこののち、1926年のシュレーディンガーによる波動力学の一連の論文も掲載される。
アインシュタインの助手レオポルト・インフェルトは、当時のドイツ語圏の姿勢を「誤った論文でも、論文が無いよりはましだ」と要約した[58]。これは理由 (A)可謬性 を重視し (D)希少性 を軽視する立場であり、決して不合理ではない。誤りは事後に訂正されうるが、封殺された着想は回復されない。
(iii) 米国の雑誌でも――Physical Review の受付簿が示すもの
より意外なのは、外部レフェリーを用いていた米国の Physical Review においても、重要論文が審査を経ていなかったことである。
アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼン論文(EPR、1935年)
量子もつれの概念的出発点となり、後にベルの不等式と量子情報科学を生んだこの論文は、外部査読を受けていない。2005年に公開された同誌の受付簿では、EPR論文の査読者欄は空白であり、原稿は受理の翌日に印刷へ回されている[58]。
同年のアインシュタイン=ローゼン橋(ワームホール)の論文も同様に査読者欄が空白である。
編集者ジョン・テイトは、アインシュタインの最も論争的な二論文を外部の助言なしに掲載し、1936年の重力波論文(第14.1節)にのみ査読を付した。査読の有無を決めたのは、論文の重要性でも論争性でもなく、編集者が「これは怪しい」と直感したかどうかであった。
(iv) Nature、1973年以前
ワトソン=クリックのDNA二重らせん論文(1953年4月25日)
既述のとおり、キャヴェンディッシュ研究所のローレンス・ブラッグの推薦が掲載を保証した[17][18]。
同じ号に並んで掲載された、モーリス・ウィルキンズらの論文、およびロザリンド・フランクリンとレイモンド・ゴスリングの論文についても事情は同じである。分子生物学の出発点となった三本の論文は、いずれも外部査読を経ていない。
ブリンブル=ゲイル体制(1939年〜)は、信頼する科学者が投稿ないし推薦した論文を外部審査に付さなかった。マドックス体制(1966年〜)も、編集者が自ら優れていると判断した論文を査読なしに掲載する権限を保持した[17]。したがって、1973年以前の Nature 掲載論文はすべて、外部査読を経ていない可能性があるというのが正確な言い方である。
(v) 医学誌
『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』
掲載可能性のあるすべての論文を二名の外部査読者に送る体制を確立したのは、1960年代後半である[15]。
『ランセット』
1970年代に入っても編集者の判断に大きく依拠していた[15]。第17章で見たように、同誌は1989年になってなお、査読者は決定者ではなく助言者にすぎないと主張していた。
(vi) そして現代――ペレルマン
同じ現象は、世紀の反対の端にも現れる。
グリゴリー・ペレルマンによるポアンカレ予想の証明(2002〜2003年)
ペレルマンは三本の論文をarXivに投稿しただけで、いかなる学術誌にも投稿しなかった[59]。彼はその後も投稿せず、arXivが今日に至るまで唯一の掲載先である。
にもかかわらず、2006年にフィールズ賞が、2010年にクレイ数学研究所のミレニアム懸賞が授与された(いずれも本人が辞退)。クレイ研究所が授賞に時間を要したのは、規定が査読誌への掲載を前提としていたためである。
証明の検証は、三つの独立した研究チームがそれぞれ数百ページの詳細な解説を公刊するという形で行われた。すなわち査読ではなく、公開の追試と再構成によって認証がなされた。
これに対し数学者スティーヴン・クランツは、何も書き下されていないため「我々は自分たちが何について語っているのかを確信できない」と批判し、これが新しい規範となることへの懸念を表明した。
一覧が示すもの
これらを並べると、19世紀末から現在まで一貫した命題が浮かび上がる。
査読は、卓越した研究の必要条件でも十分条件でもなかった。
しかし、より重要なのは次の点である。査読を経なかった研究が、査読を経ていないことを理由に信頼されなかったわけではない。それらは別の仕組みによって認証されていた――アカデミー会員という身分、編集者の人格的判断、推薦者の権威、そして(ペレルマンの場合は)公開の追試である。
すなわち、これらは「認証なき科学」の事例ではない。認証の様式が異なる科学の事例である。理由 (B)依存 は常に満たされる必要があったし、実際に満たされた。ただ満たし方が変わったのである。
なお、この種の一覧には俗説が混入しやすい。「あの有名論文も査読を受けていなかった」という主張の多くは、出典を辿ると根拠が薄い。本節では、雑誌の受付簿、編集者の書簡、専門的な出版史研究によって裏づけられる事例に限定した。
14.4 逆の事例――却下された研究について
査読史を論じる際、しばしば対にして語られるのが「重要な論文が却下された」事例である。
エンリコ・フェルミのベータ崩壊理論(1933年) — Nature が「現実からあまりに遊離した思弁を含み、読者の関心を惹かない」として却下。その後、イタリア語とドイツ語の雑誌に掲載された。同誌はのちにこれを編集史上の大失策の一つと認めている。英語での本格的な公刊は1968年の英訳を待つことになった。
ハンス・クレブスのクエン酸回路論文(1937年) — Nature が五日で返送。その後Enzymologia に掲載。クレブスは1953年にノーベル賞を受賞した。
セオドア・メイマンによる世界初のレーザーの報告(1960年) — Physical Review Letters が却下。その後Nature に掲載。
キャリー・マリスによるPCRの原理(1980年代) — Nature と Science がいずれも却下。マリスは1993年にノーベル賞を受賞した。
ただし、これらを一括して「査読の失敗」と呼ぶことには注意が要る。
フェルミとクレブスを却下したのは、外部の匿名査読者ではない。1937年の Nature に外部査読制度は存在しない。却下したのは編集者である。したがってこれらは、査読の失敗事例ではなく、編集者中心の認証体制の失敗事例である。
同じ誤りが、査読擁護論と査読批判論の双方に見られる。「査読がなければフェルミは却下されなかった」と言うことも、「査読はフェルミを却下した」と言うことも、どちらも歴史的に正しくない。正しくは、フェルミを却下したのは、査読以前の体制であった。
この区別は、本稿の枠組みにとって重要である。第18章で見るように、査読の実証研究はしばしば「査読は重大な誤りを見逃す」「査読は優れた研究を却下する」ことを示してきた。だが比較対象が必要である。査読が無い場合と比べて悪いのか、良いのか。上記の四例は、少なくとも、編集者単独の判断も同じ種類の誤りを犯すことを示している。
〈なぜ〉—— 20世紀半ばまでの有力誌は、(B) 依存 を人格的信頼によって満たしていた。編集者が誰であるか、推薦者が誰であるかが、認証機能を果たしていた。1973年の Nature が示すのは、この方式の限界点である。規模が閾値を超えたとき、人格は手続きに置き換えられねばならなかった。
15.戦後――なぜ量が制度を変えたか
現代的査読が一般化する最大の転換点は第二次世界大戦後である。
戦後、大学、研究機関、政府研究費、研究者人口、投稿論文数が急増した。編集者や少数の編集委員だけでは、大量かつ高度に専門化した論文を処理できなくなり、外部の専門家に評価を分担させる必要が生じた。
米国の総合科学誌 Science は、20世紀前半には編集委員会内部で論文を評価していたが、1950年代になると仕事量の増加を理由に外部専門家へ原稿を送り始めた。1946年創刊の American Journal of Medicine も、当初は編集者がほぼ単独で判断していたが、投稿増に対応できず、1960年代には外部レフェリーを用いるようになった[1]。
普及の速度を示す数値として、1962年の調査では、13か国156誌の物理学・生物学系雑誌のうち71%がレフェリーを利用していたことが報告されている[12][19]。すなわち1960年代初頭には、少なくとも英語圏自然科学において多数派の実務となっていたが、まだ普遍的ではなかった。
医学史家ジョン・バーナムは、編集査読が一般的になったのは第二次世界大戦後であり、それ以前から一貫して発展してきた単線的な制度ではないと指摘した。またバーナムは、雑誌査読と研究費審査が単純に一方から他方へ派生したのではなく、別々の経路を通って制度化されたことを強調している[20]。
ここで注意すべきは、戦後の転換の動機が、査読史の文献に一貫して業務量として記録されていることである。Science も American Journal of Medicine も、「より正確な評価のため」ではなく「処理しきれないため」に外部査読を導入した。
これは理由 (D)希少性 の純粋な発現である。そしてこの起源は、現代の査読が抱える緊張を予告している。量の問題への対処として導入された仕組みに、質の保証が期待されるようになった。
15.1 研究費審査という並行系譜
雑誌査読と並行して、あるいはそれ以上に急速に制度化されたのが研究費審査である。
1944年の米国公衆衛生局法(Public Health Service Act)は、USPHS(NIH)の研究助成について外部専門家が審査すべきことを定めていた。1945年にNIHは研究助成局(Office of Research Grants、1946年にDivision of Research Grantsへ改組)を設置し、カシアス・ヴァン・スライクが初代局長となった。そして1946年、最初のスタディセクション(梅毒スタディセクション)が組織された[21][22]。
初期の運用は素朴なものであった。適任の審査者を見つけるために『American Men of Science』の名簿が用いられ、三、四人に書簡で意見を求め、その評価を国立健康諮問会議へ持ち込むという手順が採られた[21]。
このスタディセクション制度には、当初二つの機能が想定されていた。研究計画の審査という、今日まで残る機能と、当該分野の現状を評価し、新たな展望について助言するという、今日ほとんど忘却された機能である[22]。
研究費審査は、雑誌査読とは根本的に異なる問いに答えている。
第一に、対象が未実施の研究である。したがって結果の正しさは評価できない。評価できるのは計画の合理性と実行可能性のみである。第二に、資源が明白に有限であり、ゼロサムである。第三に、資源が公的である。
第三の点が決定的である。公金の配分には説明責任が伴う。しかし専門的判断の内容は、非専門家には説明できない。この矛盾の解として採用されたのが、「専門家共同体に判断を委ね、その手続きの適正さをもって説明責任に代える」という構成である。
査読が政治的に意味を持ちはじめたのは、この瞬間からである。
〈なぜ〉—— 戦後の転換は (D) 稀少性 によって駆動された。量が個人の処理能力を超えたこと、そして研究費という明白に有限な資源の配分が必要になったこと。ここで初めて、査読は「公的資源の配分を正当化する手続き」という機能を獲得した。この機能は、それまでの査読史のどの段階にも存在しなかった。
16.冷戦期――なぜ査読は「科学らしさ」の証明になったか
英語の peer review という語が学術界で一般化したのは、制度そのものよりかなり後である。それ以前は主として refereeing、referee system、external review などと呼ばれていた。
「peer review」は当初、学術雑誌よりも医療行為の同業者審査や、研究助成機関の審査委員会を指す語として用いられた。Science 誌がこの語を使用した初期例は、1965年のNIH研究費審査を扱った記事である。1970年代になると、研究費審査と雑誌論文審査の双方を指す一般語として定着していく[15]。
16.1 1975年、米国科学財団をめぐる公聴会
1970年代の米国議会では、「政府研究費が無駄な研究に使われているのではないか」という批判が高まった。1975年には、米国科学財団(NSF)の審査制度をめぐる議会公聴会が開かれる。
議員側は、匿名審査は秘密主義的であり、納税者への説明責任が不足していると批判した。これに対し科学者とNSFは、専門家が率直に評価するためには一定の匿名性が必要であり、科学の質は専門家に判断させるべきだと主張した[1][15]。
この対立の構造を、本稿の枠組みで整理してみよう。
議員側の要求は、透明性と外部監査である。これは理由 (C)責任の外部化――科学者共同体ではなく、納税者の代表が責任を負うべきだという主張――にあたる。
科学者側の応答は、理由 (E)構成 の主張であった。何が良い研究かは、その分野の内部でしか判定できない。外部が判定すれば基準そのものが歪む。この主張の理論的定式化を、13年前にポランニーが与えていた[49]。マートンの科学のエートス論も同じ方向を向いていた[48]。
そして科学者側が勝った。この勝利によって査読は、単なる編集上の便利な手続きから、科学者共同体の自律性、公的資金配分の公正さ、専門家による質保証、科学に対する社会的信頼を象徴する制度へと格上げされた。
すなわち、査読が「科学らしさ」の証明と考えられるようになったのは、17世紀ではなく冷戦期である[1][15]。
しかし、ここで何が起きたかを正確に見なければならない。
1970年代に確立したのは、(C)責任と(D)希少性の問題に対処するために作られた実務に、(A)可謬性、(E)構成 の正統性言説が接合されるという構造である。査読は業務量への対処として導入され((D))、責任の所在を明示する装置として形式を得た((C))。その査読が、公的場面では「科学の自己修正機構」「専門家共同体の自律的批判」として語られるようになった((A)(E))。
この接合は、当時としては合理的であった。実際、査読は (A)(E) の機能を部分的に果たしてはいる。しかし、果たしうる程度と、期待される程度の間には大きな開きがあった。
本稿の中心的主張は、現代の査読をめぐる混乱のほとんどが、この1970年代の接合に由来するということである。
査読を批判する者は、たいてい (A)可謬性 の基準で査読を測る――査読は誤りを見逃す、判断が一致しない、偏っている、と。査読を擁護する者は、たいてい (C)責任、(D)希少性、(E)構成 の機能を挙げる――責任の所在が明確になる、資源配分の根拠になる、共同体の基準が維持される、と。両者は別のものについて語っており、したがって議論は決着しない。
〈なぜ〉—— 冷戦期に起きたのは、理由の取り違えの制度化である。(C)責任 と (D)希少性のために作られた装置が、 (A)可謬性 と (E)構成 の語彙で正当化された。この乖離は当時は問題化しなかった。しかし1980年代以降、(A) の基準で査読を実証的に測定する研究が始まると、乖離は直ちに露呈することになる。
第V部 1980年代以降――実証、解体、再設計
17.普及の不均一と、抵抗の論理
米国型の外部査読は1970年代以降、ヨーロッパやその他の地域へ急速に広がった。人文科学でも1970年代末から1980年代にかけて、査読が学術的正統性を示す手続きとして重視されるようになる。1990年代には、多くの分野で「査読付き」であることが学術雑誌の標準的条件となった[1]。
もっとも普及は一様ではない。英国の医学誌 The Lancet は1989年になっても、査読者は決定者ではなく編集者への助言者にすぎないとして、米国式査読への過大な期待を批判していた[1]。Nature が1973年に外部査読を必須化した際にも、マックス・ペルーツのように、Nature に送られる論文は編集部で確認されているのだから査読は不要である、と反論する著名研究者が存在した。
これらの抵抗は、単なる保守性として片づけられてきた。しかし本稿の枠組みからは、別の読み方が可能である。
抵抗者たちが擁護していたのは、編集者の人格的判断による認証という、300年続いた (B)依存 の伝統である。彼らの主張は、外部査読が不要だというより、外部査読が (B) を十分に果たせるかは自明ではない、というものだった。実際、匿名の二名が人格的信頼のネットワークより優れた認証を与える保証は、どこにもない。
The Lancet の主張――査読者は決定者ではなく助言者である――は、19世紀の実務の正確な記述でもあった。彼らは古い理解を保持していたのであって、誤解していたのではない。
〈なぜ〉—— 抵抗の論理は (B)依存の擁護であった。手続き的保証が人格的保証より優れているという命題は、証明されたのではなく、規模の圧力によって選択されたにすぎない。
18.なぜ査読は研究対象になったのか
18.1 ピーターズ=チェチ実験(1982年)
査読への実証的懐疑の古典は、心理学者ダグラス・ピーターズとスティーヴン・チェチによる1982年の研究である[23]。
彼らは、高い評価を受ける米国心理学系12誌(いずれも採択率が低く、非ブラインド審査を採用)から、既刊論文を各誌一本ずつ選んだ。著者名と所属を架空の無名機関に差し替え、標題・要旨・冒頭数段落に軽微な変更を加えたうえで、同じ雑誌へ再投稿した。
結果は衝撃的であった。38名の編集者・査読者のうち再投稿に気づいたのはわずか3名(8%)であった。審査に進んだ9本のうち8本が却下され、18名の査読者のうち16名(89%)が掲載に反対し、編集者もこれに同意した。却下理由の多くは「重大な方法論的欠陥」であった。
この研究は方法上の倫理をめぐる論争も引き起こしたが、査読の再現性と著者威信バイアスの問題を学界の議題に載せた点で決定的であった。その後、ロスウェルとマーティンは臨床神経科学において査読者間の一致度が偶然とほとんど変わらないことを報告している[24]。
18.2 1989年、査読の国際会議
1989年5月、米国医師会は「生物医学出版における査読」をテーマとする最初の国際会議をシカゴで開催した。
主催者が問題としたのは、科学界が査読に大きく依存しているにもかかわらず、査読が実際に機能するかを検証した研究がほとんど存在しないという事実であった[25]。この会議以降、次のような問いが比較試験と統計分析の対象となった。
著者名を隠すと評価は変わるか
査読者名を公開すると報告の質は向上するか
査読者間の一致度はどの程度か
著名研究者、所属機関、性別、国籍による偏りがあるか
査読は意図的に埋め込まれた重大な誤りを発見できるか
査読は論文の質をどの程度改善するか
現在までの知見を大まかに要約すれば、査読は重大な誤りの検出率が高いとは言えず、査読者間の一致度は中程度以下であり、各種のバイアスが存在する一方で、論文の記述の完全性や明晰性の改善には一定の効果があり、また評価基準を共有し研究共同体を形成する社会的機能を果たしている――というものである[26]。
18.3 なぜこの時期だったのか
ここで問うべきは、なぜ1980年代に査読の実証研究が始まったのかである。査読は既に一世紀以上実践されていた。なぜそれまで検証されなかったのか。
答えは第16章にある。1970年代に査読が (A)可謬性 の語彙で正当化されたからこそ、(A) を実際に果たしているかが問われうるようになった。
言い換えれば、実証研究は、正当化言説の副産物である。査読が単なる編集上の便宜であったあいだは、それが誤りを検出するかどうかを測る動機はなかった。査読が「科学の自己修正機構」と呼ばれるようになった瞬間、その主張は検証可能な経験的命題となった。
そして検証結果は、おおむね否定的であった。査読は (A) をあまりうまく果たしていない。
しかし、この結論から「査読は無意味だ」という帰結を引き出すのは早計である。ロンジーノの枠組みに立ち返れば、客観性は程度概念であり、批判が変換的でありうる条件が満たされる度合いである[51]。査読が保証するのは誤りの検出ではなく、批判が提出されうる場が制度的に存在することである。それは (A)可謬性 の必要条件の一つを満たすにすぎず、十分条件ではない。
さらに、査読は (C)責任、(D)希少性、(E)構成の理由 を実際に果たしている。責任の所在は明確になっているし、資源は配分されているし、分野の基準は維持されている。実証研究が測定してきたのは、査読が果たすと言われている機能であって、査読が果たしている機能ではない。
〈なぜ〉—— 1980年代の実証的転回は、(A)可謬性 の言説と (C)責任、(D)希少性 の実態の乖離が測定可能になった瞬間である。ピーターズ=チェチ実験は査読の失敗を示したのではなく、査読が (A) の装置ではないことを示した。この区別を立てないかぎり、査読擁護論と査読批判論はすれ違い続ける。
19.デジタル化――四機能の分離と再結合
19.1 学術コミュニケーションの四機能
1990年代以降の変化を理解するうえで有用なのが、ロースンダールとゲールツによる学術コミュニケーションの四機能モデルである[27]。すなわち、
登録(registration)――誰がいつ何を主張したかを記録し、優先権を確保する
認証(certification)――主張の妥当性を保証する
周知(awareness)――研究者が新しい主張を知ることを可能にする
保存(archiving)――記録を長期的に保持する
伝統的な学術雑誌は、この四機能を一つのパッケージとして提供してきた。査読は主として第二の機能を担う。デジタル化がもたらした最大の変化は、この四機能が技術的に分離可能になったことである。(なお後年、この四機能に「報酬(reward)」や「探索支援(navigation)」を加える議論も提出されている。)
この分離は、本稿の枠組みと直接に対応する。四機能を束ねていたのは物理的必然――印刷と流通のコスト――であって、認識論的必然ではなかった。束が解けたとき、各機能に固有の理由がむき出しになった。
以下に見る諸実験は、いずれも「どの理由に、どの制度で応えるか」の再設計として読むことができる。
19.2 1991年:arXiv――登録と認証の分離
1991年に開始されたarXivは、査読前の研究論文をインターネット上で迅速に公開する基盤となった。arXiv自体は投稿物の分野適合性などを確認するが、掲載論文を査読済みとは認定していない[28]。
これによって、公開・流通、優先権の確保、専門家による査読、学術誌による認証が、必ずしも同時でなくてよいことが明確になった。すなわち登録・周知・保存をarXivが担い、認証のみを雑誌が担うという分業である。高エネルギー物理学や数学では、この分業が事実上の標準となった。
生命科学では2013年のbioRxiv、医学では2019年のmedRxivがこれに続く。
注目すべきは、プレプリントが理由 (A)可謬性の問題に関して改善するよう機能することである。公開された論文は、査読者二名ではなく分野全体に読まれる。批判の場は劇的に拡大する。実際、高エネルギー物理学では、arXivへの投稿後、正式な査読を経る前に誤りが指摘されることが日常的である。
同時に、プレプリントは理由 (B)依存、(C)責任 にとって後退である。読者は認証を欠いた主張に直面する。誤りが流通した場合の責任の所在は曖昧になる。COVID-19期に顕在化した問題は、まさにここにあった。
19.3 1999年以降:オープン査読――19世紀の構想の復活
従来の査読では、著者名は査読者に見えるが査読者名は著者に隠される「シングルブラインド」が広く用いられてきた。
これに対し The BMJ は1999年から、査読者名を著者に知らせるオープン査読を段階的に導入した。2011年創刊の BMJ Open は全面的な公開査読を採用し、The BMJ も2014年から査読報告や改訂履歴を論文とともに公開している[29]。
公開査読の狙いは、匿名性による無責任な批評を抑え、査読者の貢献を可視化し、編集判断の透明性を高めることにある。
ここで想起すべきは、1831年のヒューウェルの当初構想が、まさに署名付きの査読報告を公表するものであったことである。オープン査読は新しい発明であるより、19世紀に一度断念された構想の再登場という側面をもつ。
そして、なぜ再登場が可能になったのかも説明できる。ヒューウェルの構想が挫折したのは、公開の場で対立を維持する社会的コストが高すぎたためであった。現在それが可能になりつつあるのは、査読報告が論文と並置され、読者がその質を評価できるようになったからである。すなわち、査読者もまた評価されるという相互性が回復されつつある。
なお2025年には Nature が、以後掲載するすべての研究論文について査読報告と著者応答を公開する方針を発表した[30]。1973年にようやく外部査読を必須化した雑誌が、半世紀後にその過程を全面公開するに至ったことは、査読の位置づけの変化を端的に示している。
19.4 2010年代:出版後査読――書評文化の復活
F1000Researchなどのプラットフォームでは、一定の基本審査を経た論文をまず公開し、その後で招待された専門家が署名付き査読を行う方式が採用された[31]。これは、従来の「査読を通過しなければ読者に届かない」という順序を、公開してから評価する順序へ反転させるものである。
第11章で論じたように、これは17世紀以来の書評文化――出版後の公開評価――の、デジタル環境における復活である。そして理由 (A)可謬性 の観点からは、事前審査より原理的に優れている。批判者の数と多様性がはるかに大きく、応答が可能で、判断が修正されうるからである。
問題は理由 (C)責任 と (D) 希少性である。出版後査読は、公刊の不可逆性という問題を解かない。また、資源配分の根拠として使うには判定が遅すぎ、曖昧すぎる。
19.5 2013年:Registered Reports――(A)可謬性 への純化
2013年、心理学・認知神経科学誌 Cortex はRegistered Reports(登録報告)という新方式を導入した[32]。
この方式では、データ収集前に、研究課題、仮説、実験方法、標本数設計、分析計画を査読する。計画が妥当と判断されれば「原則掲載承認(in-principle acceptance)」が与えられ、最終結果が統計的に有意であったか、目新しかったかに左右されず、計画どおり研究が実施されていれば掲載される。
これは、従来の査読が結果の新奇性や「成功」に引きずられやすいという問題――出版バイアス、p-hacking、HARKing――に対する構造的改革である。心理学の再現性危機を直接の背景としており、その後、数百誌が採用するに至った。
査読史の観点から言えば、Registered Reportsは査読の対象を「完成した主張」から「これから行われる探究」へ移した点で、17世紀以来最も根本的な変更の一つである。
そして本稿の枠組みでは、これは理由 (A)可謬性 への純化として理解できる。結果を見てから評価すれば、評価者は結果に引きずられる。これは典型的な認知バイアスであり、個人の努力では制御できない。バイアスを制度的に排除するには、バイアスの原因となる情報を評価者から遮断するしかない。
同時にこれは、理由 (D)希少性 からの部分的撤退でもある。「面白い結果」を選別するという機能を、Registered Reports は意図的に放棄する。査読が (A)可謬性の問題を改善するよう追求すると (D)希少性の問題 と衝突することを、この方式は明示している。
なお、Registered Reports の論理は研究費審査(第15.1章)と同型である。両者はともに未実施の研究を評価する。1946年のスタディセクションが持っていた論理が、67年後に雑誌査読へ逆流したと見ることもできる。
19.6 2020年:COVID-19という圧力試験
2020年のCOVID-19パンデミックは、査読制度に対する大規模な自然実験となった。
medRxivは2020年1月に全分野で約200本のプレプリントを掲載していたが、5月には月間2000本を超え、その約4分の3が新型コロナウイルス関連であった[33]。査読を経ない研究成果が、政策決定と報道に直接影響を与える状況が現出した。
同時に、査読誌側も劇的に加速した。ある調査によれば、一般医学誌における投稿から掲載までの中央値はパンデミック前の194日に対しCOVID-19論文では30日、プレプリント公開から雑誌掲載までは同160日に対し32日であった[34]。
しかしパンデミックがもたらしたのは全面的な革命ではなかった。査読誌に掲載されたCOVID-19論文のうちプレプリントを経たものは約5%にとどまるという推計もあり、プレプリントは学術情報流通の中心を占めるには至らなかった[33]。加速の代償として撤回が増加したことも指摘されている。
パンデミックが露呈させたのは、理由間の優先順位が状況依存的であるという事実である。平時には (C)責任 の要求――公刊は取り消せないから慎重であれ――が優先される。しかし緊急時には、情報が届かないことのコストが、誤情報が流通するコストを上回りうる。194日の遅延は、平時には安全性の代価だが、パンデミック下では人命の代価である。
査読の速度をめぐる議論が、実は理由の優先順位をめぐる議論であることが、ここで初めて可視化された。
19.7 2023年:eLife――認証を二値から連続へ
2023年1月31日、生命科学誌 eLife は、査読後の採択・却下の判定そのものを廃止する新モデルを開始した[35]。
新方式では、すべての投稿はプレプリントとして公開されていることが前提であり、編集部が査読に付すと判断した論文はすべて「Reviewed Preprint」として公開される。公開される内容には、査読報告(public reviews)と、知見の重要性および証拠の強度を要約した「eLife assessment」が付される。著者は任意の段階でVersion of Recordの発行を求めることができる[36]。
導入初年度には6,200を超える研究チームが投稿し、掲載までの時間は約2.5倍に短縮された一方、質の変化は明確には認められなかったと報告されている[37]。
このモデルの理論的意義は大きい。二値判定(採択/却下)は、理由 (D)希少性 の産物である。誌面が有限だから、載せるか載せないかを決めねばならない。誌面が有限でなくなったとき、二値判定を維持する理由は原理的に消滅する。
そして二値判定を捨てれば、査読は評価の記述になりうる。「この論文は正しい」ではなく「この主張はこの程度の証拠に支えられており、この点は未解決である」と述べること。これは理由 (A)可謬性 と (E)構成 に、はるかに適合的である。実際の研究の信頼度は連続的であり、二値ではない。
ただしこのモデルは、査読の「篩」としての機能を求める研究評価制度――採用・昇進・研究費審査――との緊張を残す。査読が二値であったのは、査読の外部にある制度が二値の入力を要求してきたからでもある。査読だけを連続化しても、その出力を受け取る側が二値化してしまえば、効果は限定的である。
〈なぜ〉—— デジタル時代の諸実験は、いずれも理由の分離と再割当てとして理解できる。arXiv は登録と認証を分けた。オープン査読と出版後査読は (A)可謬性、(E)構成 を事前審査から解放した。Registered Reports は (A) を (D)希少性 から切り離した。eLife は (D)希少性 の制約が消えた環境で認証を再定義した。共通しているのは、「一つの手続きですべての理由に応える」という20世紀のモデルの解体である。
第VI部 現在――信頼の危機
20.論文工場――なぜ手続きは偽造されうるのか
2020年代に入り、査読制度は別種の危機に直面した。論文工場(paper mills)である。
論文工場は、捏造ないし盗用に基づく論文を量産し、著者としての地位を販売する事業体である。さらに深刻なのは、これらの組織が査読プロセスそのものを操作する手口――偽の査読者アカウントの登録、ゲスト編集者の買収、特集号の乗っ取り――を確立したことである。
その最も可視的な帰結が、Wiley傘下のHindawiをめぐる事件であった。2022年から2023年にかけて、同社は特集号を中心に「査読の毀損(compromised peer review)」を理由として8,000本を超える論文を撤回した。これは単一の出版社が一年間に行った撤回としては前例のない規模であり、2023年の全世界の撤回総数は初めて1万件を超えた。2023年3月にはClarivateがHindawiの約19誌をWeb of Scienceから削除し、2024年にはHindawiのブランド名自体が廃止された[38][39]。
この事件が査読史において決定的に重要なのは、査読が制度として存在していたにもかかわらず機能しなかったという点である。手続きは形式的に履行されていた。査読者は指名され、報告は提出され、編集判断は下された。乗っ取られていたのは、その手続きを構成する人的ネットワーク――誰が査読者であり、誰が編集者であるかを保証する仕組み――であった。
第13章で述べた代償が、ここで支払われている。
書簡共和国において、「peer」とは身元と評判を互いに知る具体的な人物であった。誰が保証したかが分かり、その保証の重みを評価できた。この方式は規模を拡大できないが、偽造しにくい。偽造するには、実在の人物として長期間ふるまわねばならないからである。
専門資格による匿名の同僚へと「peer」が抽象化されたことで、査読は規模の拡大を可能にした。しかし同時に、査読者の実在性そのものが検証を要する問題となった。手続き的保証は、手続きの入力が真正であることを前提する。入力が偽造されれば、手続きは偽造を認証する装置に変わる。
理由 (B)依存 の観点から言えば、これは信頼の連鎖が根元で切断された事態である。読者は論文を信頼し、論文は査読を信頼し、査読は査読者を信頼する。最後の項が偽物であれば、連鎖全体が無効になる。
現在、出版社が投じている対抗策――STM Integrity Hub のような統合的な不正検出基盤、ネットワーク分析、著者資格の確認、参考文献の検証、AI生成テキストの検出――は、いずれも査読者と著者の実在性と誠実性を機械的に推定する試みである[39]。これは、17世紀の紳士の名誉が果たしていた機能の、技術的代替物にほかならない。
〈なぜ〉—— 論文工場は (B) 依存 の危機である。人格的信頼を手続き的保証で代替した300年の帰結として、手続きそのものが攻撃対象となった。注目すべきは、対抗策が「誰が本当にその人物か」を確認する方向へ向かっていることである。すなわち、抽象化された「peer」から、再び具体的な人格の同定へ、部分的な揺り戻しが起きている。
21.レビュアー不足――なぜ贈与経済は持続しないのか
論文数の増加は査読者の供給を上回り続けている。査読は原則として無償の労働であり、その配分は不均等である。主要AI学術会議では投稿数が2万本を超え、投稿者全員に査読を義務づける、査読を怠った著者の論文を却下するといった強制的措置が導入されるに至った。
査読を無償労働として維持すべきかという議論も活発化している[40]。
この問題の根は深い。査読が無償であるのは、単に慣習だからではない。理由 (E)構成 からすれば、査読は共同体の成員としての義務であり、義務に対価を支払うことは義務の性質を変えてしまう。基準の形成に参加することは権利であり責務であって、役務ではない。
同時に、理由 (D)希少性 からすれば、査読は明白に労働である。年間数百万件規模の審査を無償で調達しつづけることは、いかなる産業においても持続しない。
歴史的に見れば、査読が贈与経済として成立していたのは、査読が学会員の相互義務であった時期である。学会は互酬的な共同体であり、他人の論文を読むことは自分の論文を読んでもらうことと対になっていた。互酬性が成立するには、共同体の境界が明確でなければならない。
現在、この境界は失われている。商業出版社が査読を調達し、その成果は購読料または論文処理料として収益化される。査読者にとって、自分の労働がどの共同体に還元されるかは不透明である。
査読者不足は労働力の問題ではなく、互酬性の基盤が失われたことの問題である。AI会議が強制的措置を導入したのは、失われた互酬性を規則によって復元しようとする試みにほかならない。
〈なぜ〉—— (E) 構成 と (D) 稀少性 の衝突である。査読は共同体の義務としては無償でありうるが、産業的労働としては無償でありえない。査読危機の一側面は、学問共同体という単位が、出版産業と評価産業の規模に対して小さくなりすぎたことにある。
22.生成AI――「相互」性は機械に成立するか
2022年末以降の大規模言語モデルの普及は、査読史における新たな断層を形成しつつある。
現状は次のように要約できる。
普及の実態――2025年にFrontiersが111か国の約1,600名を対象に行った調査では、回答者の50%以上が査読に何らかの形でAIを用いた経験があると回答した。多くの場合、それは所属出版社の指針に反していた[41]。検出手法に基づく推計では、ICLR 2024の査読の少なくとも15.8%がAIの支援を受けて書かれたとされ[42]、ある国際AI会議では査読の21%が全面的にAI生成であったと報告されている[43]。
出版社の方針――主要出版社の多くは、査読者が原稿を生成AIツールへアップロードすることを禁止している。理由は主として著者の機密性と権利の保護、および外部サーバへのデータ流出の危険である。ただし方針は分野・出版社により大きく異なり、人文学、数学、計算機科学の雑誌ではAI方針の整備率が相対的に低いことが指摘されている[44]。
規範意識の乖離――2025年の調査では、AIの出力を開示なしに査読報告の基礎とすることを「適切」とした回答者はわずか5%であり、「いかなる状況でも不適切」とした回答者が52%にのぼった[45]。すなわち、実践上の普及と規範上の拒否が同時に進行している。
支援としての可能性――他方、ICLR 2025では、2万件超の査読報告に対しAIが曖昧な指摘や非専門的な表現についてフィードバックを提供する大規模無作為化実験が行われ、フィードバックを受けた査読者の27%が報告を修正した[46]。査読者の代替ではなく、査読の品質管理としてAIを用いる道筋である。
本稿の枠組みは、この状況を整理する道具を与える。AIが各理由に対して何をなしうるかは、理由ごとに大きく異なる。
(A) 可謬性――AIは原理的に貢献しうる。統計手法の誤り、引用の不整合、論理の飛躍、先行研究の見落としの検出は、機械の得意分野である。ここでAIは、人間の査読者が果たせていない機能を補完する可能性がある。ただし条件がある。ロンジーノの言う変換的批判が成立するには、批判者の背景仮定が多様でなければならない[51]。同一の基盤モデルに由来する査読は、規模は大きくとも多様ではない。1万件のAI査読は、1万人の査読者ではなく、一人の査読者の1万回の反復に近い。これは (A) にとって致命的な限界である。
(B) 依存――ここでAIは危機的である。認証とは「誰の言葉を信じてよいか」の指定であった。AIが書いた査読報告は、誰の言葉でもない。読者が査読済みという標識を信頼できるのは、その背後に責任を負う人間がいるからである。
(C) 責任――AIは責任を負えない。これは技術的限界ではなく、概念的限界である。責任とは、誤ったときに何かを失う者が引き受けるものである。失うものを持たない存在は、責任を負えない。したがって、公刊の認可という機能をAIが担うことは原理的にできない。
(D) 稀少性――AIは配分の効率化に貢献しうる。ただし、配分の正当性は効率とは別の問題である。誰が落とされたかを説明できないシステムは、たとえ精確でも受け入れられない。
(E) 構成――ここでの問題が最も深い。基準は共同体の内部で、相互承認を通じて形成される。「相互」であることが本質的である。評価されることが評価する義務を伴い、その循環のなかで基準が維持される。ポランニーの言う「重なり合う近傍」の連鎖は、各成員が他の成員の判断を二次的に承認することで成り立っていた[49]。
AIはこの循環に参加できない。AIは評価するが、評価されない。義務を負わず、評判を蓄積せず、共同体の成員ではない。AIによる査読は、定義上「peer」review ではない。
これは技術的な問題ではないため、モデルの性能向上によって解決されない。
歴史的視点からこの局面を眺めると、興味深い反復が見出される。19世紀のレフェリー制が編集者の情報処理能力の限界から生まれたように、AI査読の議論もまた査読者の処理能力の限界から生じている。しかし、1970年代に確立された査読の正統性が「専門家共同体の自律性」に依拠していたことを想起するなら、機械による評価はその正統性の基礎そのものを掘り崩しうる。
〈なぜ〉—— AIは (A)可謬性 と (D)希少性 の問題解決 に部分的に貢献しうるが、(B)依存、(C)責任、(E)構成の問題 には原理的に貢献できない。査読におけるAIの位置づけをめぐる混乱は、この区別が立てられていないことに由来する。「AIは査読者より正確か」という問いは、査読が (A) の装置であることを前提しているが、その前提こそが1970年代以来に生まれた誤解に基づくものである。
第VII部 総括
23.なぜ学問は相互吟味を必要とするのか――歴史からの答え
序論で立てた問いに戻ろう。
歴史が示すのは、この問いに単一の答えがないということである。相互吟味は、少なくとも五つの異なる必要から要請されてきた。そして各時代は、そのうち特定の必要に応えるために、特定の制度を作った。

この表から読み取れることは三つある。
第一に、内在的理由 (A)可謬性、(E)構成の問題 に応える制度は、歴史上、事後的・公開的・対話的な形式をとる傾向がある。討論、書評、ゼミ、公開応答、そして現在のオープン査読と出版後査読。批判が実質的であるためには、批判者が多く、多様で、応酬が可能でなければならない。
第二に、外在的理由 (C)責任、(D)希少性の問題 に応える制度は、事前的・秘密的・判定的な形式をとる。検閲、認可、委員会審議、匿名レフェリー、採否判定。責任と配分は、事前に、確定的に決着しなければならないからである。
第三に、現代の「査読」は、後者の形式を持ちながら前者の役割を期待されている。この不整合が、査読をめぐるほぼすべての論争の根にある。
24.なぜ相互吟味は必須でありながら十分ではないのか
ここで、より原理的な水準の問いに答えておかねばならない。
相互吟味は学問にとって必須である。それは (A)可謬性 の理由による――個人は自らの背景仮定を点検できず、客観性は共同体の過程の性質だからである。この点においてポパー、ポランニー、マートン、ジーマン、ロンジーノは一致している[47][48][49][50][51]。
しかし、相互吟味は誤りの排除を保証しない。この点も同じ論者たちが一致して認めている。
区別すべきは、保証と条件である。ロンジーノの定式が正確である。ある探究方法は、それが変換的批判を許す度合いにおいて客観的である[51]。ここで客観性は達成された状態ではなく、程度概念であり、条件の充足度である。
したがって、相互吟味が与えるのは「この主張は正しい」という保証ではない。それが与えるのは、「この主張は、批判が提出されうる場を通過した」という条件の充足である。そしてこの条件は、四つの下位条件に分解される――批判の経路が公認されていること、基準が共有されていること、批判に共同体が応答すること、知的権威が偏っていないこと。
この観点から見れば、査読は条件の一つの実装にすぎない。しかも不完全な実装である。査読者は二、三名にすぎず(批判者の数が少ない)、しばしば同じ学派に属し(多様性が低い)、応答は一往復で終わり(応酬がない)、その判断は公開されない(共同体が応答できない)。
同じ条件に寄与する他の実装が存在する。再現実験、事後批評、データとコードの公開、学会での討論、教科書における取捨選択、後続研究による引用と批判、そして教育。これらはすべて相互吟味である。
査読の歴史的な問題は、それが唯一の実装であるかのように扱われるようになったことである。1970年代以降、「査読付き」であることが学術的正統性の標識となり、他の実装は制度的地位を失った。書評は業績として数えられなくなり、再現実験は雑誌に載らなくなり、公開討論は評価対象から外れた。
相互吟味の一形態が肥大化し、他の形態を駆逐した。これが、査読が過大な期待を負い、かつその期待に応えられない構造の正体である。
24.1 誰が科学の自己統治を理論化したのか
ここで、序論の凡例で予告した論点に立ち返っておきたい。
本章および第0部が依拠した論者たちの経歴には、注目すべき共通点がある。マイケル・ポランニーは物理化学者――化学反応速度論、X線回折、気体吸着の研究者――として名を成したのち、科学の社会理論へ転じた。ジョン・ジーマンは理論物理学者であった。トマス・クーンは物理学で博士号を取得している。ナオミ・オレスケスは地質学の訓練を受けた。
すなわち、科学の自己統治を最も強く擁護した理論家たちの多くは、自然科学の内部から外部へ移動した者であった。
これは偶然ではない。理由 (E)構成 が正しいならば、ある実践の基準はその実践の内部からしか記述できない。科学がいかにして自らを統治するかを論じるには、統治される側の経験が要る。ポランニーが「暗黙知」と呼んだもの――規則として明示できないが判断を導く熟練――は、まさに外部からは見えない層である。
しかし同時に、彼らは外部へ移動しなければ、それを論じることができなかった。実践の内部にいるかぎり、実践の基準は自明であって主題化されない。基準が見えるのは、基準の外に出たときである。
この二重性は、査読が抱える問題の縮図でもある。評価には内部の知識が要り、しかし内部の知識だけでは評価の偏りが見えない。ロンジーノが「知的権威の平等な配分」と「共同体の多様性」を条件として挙げたのは、この緊張への処方であった[51]。
そして第16章で見た構図――1971年の起源説を提出したのが社会学者であり、それを訂正したのが歴史家であった――も、同じ構造を示している。ある共同体について、その共同体自身が語る物語は、しばしば外部からの検証を必要とする。査読が科学者共同体の自己記述である以上、査読についての正しい記述は、科学者共同体の内部からだけでは得られない。
「peer」による評価の限界は、「peer」という概念に内在している。共同体の外部を必要としない自己吟味は、原理的に存在しない。査読はその限界を、他の実装によって補われるべきものである。
したがって、現在必要なのは査読の改良であると同時に、相互吟味の他の実装の再建である。地質学から科学史へ転じたナオミ・オレスケスが「なぜ科学を信頼するのか」という問いに対して与えた答え――科学が信頼に値するのは、それが多様な共同体による批判的吟味の過程を経ているからであり、その共同体の多様性が確保されているかぎりにおいてである――は、この方向を指している[56]。
25.二つの系譜――批評と認可
各系譜が現代査読に残したものを整理すると次のようになる。

人文学的伝統が育てたのは、丁寧に読み、異論を構成し、証拠を照合し、語句や論証を修正し、応答を通じて理解を深めるという批評の文化である。これは理由 (A) 可謬性と (E)構成 に対応する。
国家、教会、大学、アカデミーが育てたのは、誰が審査するかを決め、原稿を管理し、報告を記録し、承認または拒否を決定し、組織名を品質保証として与えるという認可の制度である。これは理由 (C)責任 に対応する。
19〜20世紀の大学と専門職制度が加えたのは、博士号、教員資格、学会員資格、専門分野への所属、研究費と職位の配分を決める資格付与と資源配分の機能であった。これは理由 (B)依存 と (D)希少性 に対応する。
したがって現代査読は、
人文学的批評 + 近世的出版認可 + 近代大学の資格審査 + 20世紀の編集・研究行政
からなる複合制度である。言い換えれば、現代査読は精神においては人文学的批評の継承者であり、手続きにおいては出版認可と近代官僚制の継承者である。この二重性こそが、査読が一方では研究を改善する共同作業でありながら、他方では掲載・資格・資金・威信を配分するゲートキーピング制度でもある理由である。
26.歴史家の間で争われていること
26.1 ビアジョーリの「検閲起源説」
マリオ・ビアジョーリは、査読を近世の検閲と出版認可から分化した制度として捉える[9]。
この見方の強みは、なぜ査読が出版前に行われるのか、なぜ指定された審査者が読むのか、なぜ報告書が作成されるのか、なぜ組織が最終許可を与えるのか、なぜ承認後の版が固定されるのかを説明できる点にある。
本稿の枠組みで言えば、ビアジョーリは理由 (C)責任 の説明力を最大限に評価している。そして彼の議論が説得的なのは、現代査読の形式的特徴のほぼすべてが (C)責任 から導かれるという事実による。自由な討論や学者間の助言――すなわち (A)可謬性、(E)構成 ――だけでは、「出版を許可する権力」の起源を説明できない。
26.2 モクサム=ファイフの「非連続性」
これに対し歴史家ノア・モクサムとアイリーン・ファイフは、初期の認可や学会審査を現代査読の直接の始まりとみなすことに慎重である[2]。
17〜19世紀の審査は、現在のように研究の正確性を保証するためだけに行われたのではなく、学会の集団的責任を形成し、出版費用を管理し、学会の名誉を守り、誰に威信を与えるかを決めるための制度であった。同じような手続きがあっても、社会的意味と目的は大きく異なる。したがって彼らはこれを完成した査読の「起源」というより前史(prehistory)と呼ぶ。
この立場は方法論的にも重要である。制度の同定を形式的相同性で行うのか、機能と意味で行うのかという問題は、査読史に限らず制度史一般の中心問題だからである。
本稿の立場は、この対立を部分的に解消しうる。形式は (C)責任 から連続的に継承され、意味は時代ごとに (A)可謬性、(B)依存、(D)希少性、(E)構成 の間を移動した、と整理できるからである。ビアジョーリは形式の連続性を、モクサム=ファイフは意味の非連続性を、それぞれ正しく捉えている。
26.3 複数系譜説
2025年に刊行された人文学査読史の特集は、どちらか一方に還元するのではなく、書評、ゼミ、学位審査、単行本審査、雑誌論文査読を含む多様な「研究者間評価」の歴史を描くべきだと提案している[3]。
この立場では、査読に単一の原型はない。品質保証、研究改善、資格付与、共同体形成、資源配分、社会への信頼表示という異なる機能が、時代ごとに別々の制度を通じて担われてきたと考える。本稿もおおむねこの立場を採り、その「異なる機能」を五つの理由として体系化することを試みた。
27.よくある誤解の整理
「査読は1665年から続く不変の制度である」
誤りである。1665年に誕生したのは科学雑誌であり、しかもそれが解決したのは登録・周知・保存の問題であって認証の問題ではなかった。体系的な匿名レフェリー制は主として19世紀、現在に近い標準的外部査読は主として第二次世界大戦後に広がった[1][2]。
「科学上の重要論文は昔から査読されてきた」
誤りである。アインシュタインの1905年の諸論文、ワトソン=クリックの1953年のDNA論文をはじめ、20世紀の著名な研究にも現在の意味での外部査読を経ていないものが多数ある。当時は編集者と推薦者の人格的信頼が認証機能を果たしていた[13][18]。
「査読済みなら内容は正しい」
査読は真理の証明ではない。歴史的にも査読報告は編集者への助言として始まり、最終判断の責任は編集側にあった。原理的にも、相互吟味が与えるのは正しさの保証ではなく、批判が提出されうる場を通過したという条件の充足にすぎない[51]。
「匿名査読が本来の姿である」
匿名性も歴史的に変化してきた。ヒューウェルは当初、署名付きで査読報告を公表しようとしていた。匿名化は公開報告の失敗という偶発事から生じ、規模の拡大によって定着した。それは人格的信頼が機能しなくなった後の代替物であって、理想の実現ではない[1][29][30]。
「査読は科学者共同体が自発的に作った自律的制度である」
部分的にのみ正しい。20世紀後半以降の査読の形式は、研究助成制度、大学評価、雑誌ランキング、公的説明責任、出版社による手続き標準化によっても強く形成された[3][15][16]。1975年のNSF公聴会が示すように、査読の正統性は科学と政治の交渉の産物である。
「査読が機能していないなら、相互吟味は不要である」
誤りである。相互吟味の必要は査読という特定の形式に依存しない。それは個人が自らの背景仮定を点検できないという認識論的事実から導かれる。査読が不十分であるという診断から導かれるのは相互吟味の放棄ではなく、他の実装の再建である[51][56]。
28.日本および非欧米圏という空白
査読史の研究は、英国王立協会、米国の学術誌、医学雑誌、研究助成機関を中心に進んできた。日本を含む非欧米圏については、学術雑誌の創刊史自体はある程度知られていても、各雑誌がいつ、どのような査読制度を導入したかについての十分な比較研究がなお存在しない[13]。
日本の学術雑誌は非欧米圏のなかでは比較的早く発達した。1877年(明治10年)の東京大学創設前後から欧文の紀要類が刊行され、1889年(明治22年)には『史学雑誌』が創刊されている。しかし査読の導入時期は、学会誌、大学紀要、自然科学、人文社会科学、医学によって大きく異なったと考えるべきである。大学紀要については、そもそも査読を伴わない発表媒体として長く機能し、査読制度を採用する紀要が増えたのは比較的近年のことである。
この空白は、単に事実が不明であるという以上の問題を含む。本稿が提示した五つの理由のうち、どれがどの程度支配的であったかは、社会ごとに異なりうるからである。学問共同体が国家によって設立された社会と、自発的結社として発達した社会とでは、理由 (C)責任 と (E)構成 の重みが異なるはずである。近代日本の学会の多くが官立大学を核として組織されたことは、査読の意味に固有の影響を与えた可能性がある。
したがって「日本では何年から査読が始まった」と単一の日付で示すことは、現状の研究では困難であり、また問い自体が十分に精密ではない。問うべきは、それぞれの学問共同体が、五つの理由のうちどれを、どの制度によって満たしてきたかである。
結論
査読の歴史は、次のように要約できる。
中世大学の討論とルネサンス文献学が批評の技法を、近世の検閲と出版認可が許可の手続きを、書簡共和国が信用を事前に調達する慣行を用意した。17世紀に科学雑誌という媒体が生まれたが、それが解決したのは登録と周知の問題であって認証の問題ではなかった。18世紀に学会内部の集団審査が制度化され、責任が個人から組織へ移った。19世紀に匿名レフェリーが編集者へ秘密報告を行う仕組みが成立したが、その駆動因は誌面の稀少性と編集者の能力の限界であった。20世紀前半にはなお多くの有力誌が編集者の人格的判断で運営されており、外部査読が標準となったのは第二次世界大戦後、投稿量の爆発への対処としてであった。1960〜70年代、公的研究費の説明責任をめぐる政治的闘争のなかで、査読は科学の自律性と社会的信頼を象徴する制度へと格上げされた。この格上げにおいて、責任と配分のために作られた装置に、認識論的な自己修正機構としての役割が期待されるようになった。1980年代以降、その期待は実証的に検証され、おおむね裏切られた。デジタル時代には、プレプリント、公開査読、出版後査読、登録報告、採否判定の放棄によって、機能の分離と再設計が進行している。
したがって査読は、科学的方法そのものと同じくらい古い不変の慣行ではない。その時代の論文量、専門分化、出版技術、研究資金、社会からの説明責任要求に応じて、形と役割を変え続けてきた統治・編集制度である。
しかし、この結論から相互吟味そのものの必然性を否定することはできない。相互吟味は学問にとって必須である。それは、個人が自らの背景仮定を点検できず、他者の言葉に依拠して知り、公刊の結果に責任を負い、有限な資源を配分し、そして何より、良い研究の基準そのものを相互承認を通じてしか作れないからである。
問題は、これら五つの必要が、20世紀後半に一つの手続きへ束ねられたことにある。一つの手続きは、五つの必要すべてに最適でありえない。事前・匿名・二値の判定は、責任と配分には適合的だが、批判と基準形成には適合的でない。
したがって、現在進行中の変化を「査読の危機」として悲観する必要はない。それはむしろ、不当に束ねられていたものが解けつつある過程である。arXiv は登録を認証から解放し、オープン査読は批判に責任を戻し、Registered Reports は評価を結果から切り離し、eLife 型のモデルは認証を二値から連続へ戻しつつある。
査読の歴史が最終的に教えるのは、次のことである。
学問が必要としてきたのは査読ではなく、相互吟味である。査読はその一つの実装にすぎない。実装は時代とともに変わってきたし、これからも変わる。変わってはならないのは、批判が提出されうる場が制度的に確保されていること、その批判が実際に共同体の実践を変えうること、そして批判の担い手が十分に多様であることである。
この三つの条件が満たされるかぎり、査読がどのような形をとるかは二次的な問題である。逆に、この三つが失われるなら、査読という名の手続きがいかに厳格に履行されようとも、学問は自らを吟味する能力を失う。論文工場が示したのは、まさにこの事態であった。
制度の形式を守ることと、制度が守ろうとしたものを守ることは、同じではない。査読史が繰り返し示してきたのは、この区別である。
年表

付録 「文系には査読がない」というデマについて
日本語のインターネット空間には、「文系には査読がない」という言説が繰り返し現れる。本稿の主題と直接に関わるため、この言説の発生過程と、それに対する本稿の枠組みからの評価を付録として記す。
A.1 言説の形成過程
公開記録をたどれる範囲では、この言説は単一の主張として提出されたのではなく、四段階の拡張を経て成立している。
第一段階(2017年) — ある社会学者が自身の業績について、査読論文より招待論文のほうが格上である、査読論文を出したのは大学院生時代までである、という趣旨の投稿を行った。ここで語られているのは本人の考える業績の評価順序と自身の経歴であり、「社会学には査読誌が存在しない」とは述べていない。
第二段階(2018年10月7〜8日) — 別の論争を契機にこの投稿が再発見され、「ある研究者に査読付き英語論文が見当たらない」から「社会学では査読なしの論文が通用する」への飛躍が起きた。ここで、①英語の査読論文から査読論文一般へのすり替えと、②一人の業績から分野全体への一般化が、同時に生じている。
第三段階(2018年10月8日) — まとめサイトの記事が公開され、約41万閲覧、6,300件超の反応を集めた。元発言の「招待論文も業績として評価される」という話が、「社会学には相互検証システムがない」「学問的妥当性が担保されない」へと変換された。
第四段階(2018年10月8〜9日) — 対象が法学へ、次いで文系全体へ拡張される。10月9日には「査読文化のないという文系の分野」「査読なしでも評価される特殊な文化があるのは日本の文系村だけ」といった定式が現れ、現在流通している形が完成した。
拡張の各段階は、次の四つの取り違えとして整理できる。
査読付き英語論文がない → 査読論文がない
ある研究者の業績構成 → 分野全体の制度
著書や依頼論文も評価される → 査読が存在しない
匿名・出版前・雑誌論文型査読の比重が分野により異なる → 相互吟味の仕組みがない
A.2 本稿の知見からの評価
(a) 核心にあるのは、実装と機能の取り違えである
第24章で論じたとおり、学問が必要としてきたのは査読ではなく相互吟味であり、査読はその一つの実装にすぎない。相互吟味の他の実装には、再現実験、事後批評、データ公開、学会での討論、後続研究による批判、そして教育がある。
上記の取り違え4は、まさにこの区別の消失である。「匿名・出版前・雑誌論文型の査読が相対的に少ない」と「相互吟味の仕組みがない」は、まったく別の命題である。前者は程度の問題であり、実際にある程度は正しい。後者は分野の存立そのものを否定する命題であり、明白に誤りである。
(b) 歴史的には、ほぼ逆である
これが最も重要な点である。本稿が示したとおり、現代査読の主要構成要素は、その多くが人文学的実践に由来する。
査読報告の技法――原文照合、引用の検証、細部の指摘、具体的修正案の提示――は、ルネサンス人文主義の文献学的校訂の直系である(第2章)。
修正を伴う組織的出版前審査を最初に明文化したのは、自然科学アカデミーではない。1635年のアカデミー・フランセーズ規約である。委員の指名、原稿の配布と秘密保持、報告、著者による修正、再確認、最終承認、承認版の固定、組織名による認証――現代査読の主要部分がここでほぼ出そろっている。同アカデミーの担当領域は言語、修辞、文学であった(第5章)。
「review」という語の系譜は、1665年の Journal des sçavans に始まる学術書評、すなわち人文学的な出版後公開批評に由来する(第11章)。
草稿発表→相互批評→改稿という現代の研究会形式は、1812年のベルリン大学文献学ゼミの系譜に属する(第10章)。
すなわち、人文学は査読を持たなかったどころか、査読の技法と手続きの双方に起源を与えた側である。「文系には査読がない」という命題は、事実として誤っているだけでなく、歴史的な因果をほぼ反転させている。
(c) 自然科学の側の歴史も誤認されている
この言説は暗黙に「理系には昔から査読がある」を前提とする。第14章が示したとおり、これも誤りである。
アインシュタインの1905年の諸論文も、1915年の一般相対性理論も、1935年のEPR論文も、1953年のワトソン=クリックのDNA論文も、外部査読を経ていない。Nature が外部査読を掲載要件としたのは1973年、『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』が全掲載候補論文を二名の外部査読者に送る体制を確立したのは1960年代後半である。
したがって、この言説は自然科学自身がごく最近まで満たしていなかった基準を、他分野に対する分野適格性の要件として適用している。
(d) 全称命題としては、事実に反する
現在の制度を見れば、命題は明白に誤りである。
日本社会学会の『社会学評論』は、1980年から査読制度を運用している。投稿原稿ごとに専門委員のなかから二名の審査委員を選び、投稿者と審査委員の氏名を相互に匿名とし、掲載可から掲載不可まで五段階の評価区分を設けている[63]。
ここで本稿の第13章と照合すると、興味深い事実が現れる。英米の主要な文学研究誌・美術史誌がダブルブラインド方式を確立したのは1980年代初頭、歴史学の有力誌には1990年代末まで導入しなかったものもあり、スウェーデンの人文学誌で厳格な外部査読が広がったのは2000年前後である[3][16]。『社会学評論』の1980年という導入時期は、国際的に見て遅くない。むしろ英語圏人文学の一部より早い。
法学についても、『法律時報』は投稿一件につき二名に査読を委嘱し、法学研究への新たな貢献、論旨の明晰さ、研究方法の妥当性などを審査基準として明示している[64]。
もちろん、逆の全称命題――文系の媒体はすべて査読付きである――も誤りである。しかしそれは自然科学でも同じであり、分野を区別する基準にはならない。
(e) それでも、真実の核はある
本稿の立場からは、この言説を単なる無知として片づけることもできない。それが流通したのは、歪められた事実の核があったからである。
第一に、制度化の時期に実際の差がある。匿名の外部査読が自然科学で標準化したのは戦後から1960年代、人文学で規範化したのは分野により1980年代から2000年前後である(第13章、第17章)。一世代分ほどの遅れは実在した。
第二に、評価媒体の重心が実際に異なる。人文学では長く単行本、校訂版、翻訳、注釈書が中心であり、学術出版社の編集者、単行本原稿の外部読者、シリーズ編集委員、学位論文審査員が、雑誌論文の査読者より大きな役割を担うことがあった(第12章)。これは怠慢ではなく、評価対象の構造に由来する。ある歴史解釈の説得力は、数百の史料の配列、文脈の設定、対抗解釈の処理という著作全体の構成に依存し、部分を切り出した局所的検証になじまない。
第三に、制度化が外圧によって進んだという事情も共通する。スウェーデンの人文学誌の事例が示すように、厳格な外部査読が広がったのは、2000年前後に研究助成機関が明示的な品質保証を求めたためであった[16]。日本の紀要文化の変容も、同種の外的要求と無関係ではない。
したがって正確な命題は次のようになる。
人文・社会科学では、分野・時代・媒体によって匿名外部査読の比重が異なり、著書、書評、学位審査、編集者・出版社による審査など、複数の評価形式が併存してきた。
(f) なぜ単なる誤りではなく「攻撃」たりえたのか
本稿の枠組みが最も明確に説明できるのは、この点である。
第16章で論じたとおり、査読が「科学らしさ」の証明とみなされるようになったのは1970年代であり、それは冷戦期アメリカにおける公的研究費の説明責任をめぐる政治的闘争の産物であった。この過程で査読は、単なる編集上の手続きから、科学者共同体の自律性、公的資金配分の公正さ、専門家による質保証、科学への社会的信頼を象徴する制度へと格上げされた。
この格上げがあって初めて、「査読がない」は事実の記述ではなく告発になる。それは「学問ではない」と同時に「公費を受け取る資格がない」を含意しうるからである。
1973年以前の Nature に「あなたの雑誌は外部査読を行っていない」と告げても、それは非難として成立しなかったであろう。編集者は「そうだが、それが何か」と答えたはずである。「文系には査読がない」という言説は、その攻撃力を、1970年代に査読が獲得した政治的機能から借りている。言説の内容が誤っているだけでなく、その修辞的形式そのものが、20世紀後半に作られた歴史的産物なのである。
(g) 訂正が届かなかったこと自体が、本稿の主題の実演である
調査メモが記録するとおり、この一般化は拡散した直後から批判され、2018年10月9日および11日には、査読付き雑誌は存在する、日本社会学では一般に査読論文が重視される、問題は査読の有無ではなく雑誌間の序列や評価対象の広さである、という訂正が提示されていた。にもかかわらず、訂正よりも見出しのほうが生き残った。
これは第4章で論じた公刊の不可逆性の、教科書的な実例である。公刊された言明は回収できず、事後の訂正は非対称的に無力である。撤回された論文が撤回後も引用され続けるのと同じ構造が、ここでも働いている。
すなわち、「文系には査読がない」というデマの流通過程そのものが、なぜ事前審査という形式が要求されるようになったのかを実演している。理由 (C) 責任は、この事例において最も雄弁に自らを証明した。
(h) 見出しが認証を代行した
もう一点、構造的な皮肉を指摘しておきたい。
調査メモが正しく捉えているとおり、決定的な働きをしたのは個々の発言ではなく、まとめ記事の見出しであった。まとめ作成者は、素材を選択し、順序を与え、標題を付ける。これは編集行為そのものである。
第14章で述べたとおり、1973年以前の Nature は、外部査読を用いず、編集者の選択と判断によって認証を与えていた。査読の不在を非難する言説それ自体が、査読なき編集的認証によって生産され、41万の閲覧という規模で流通した。認証を欠いた主張が、見出しという形式によって認証されたかのように振る舞ったのである。
A.3 調査方法についてのコメント
調査の方法論について、本稿の立場から二点を述べておきたい。
第一に、言説の起源探索には構造的な偏りがある。調査は「一人のデマ発信者を特定するより、2018年10月の引用・要約・見出しの連鎖がデマを作ったと考えるのが最も正確」とし、削除済み投稿や検索対象外の掲示板があるため史上最初の一文までは断定できないと明記している。これは正しい留保である。
アーカイブされ、検索可能で、反応数の多いノードが過剰に代表される。メモ自身が挙げる2008年の情報工学系ブログの例が示すとおり、「文系の研究成果は非ジャーナル中心であり査読がない」という先入観の土壌は、2018年よりはるかに前から存在した。したがってメモが特定したのは起源ではなく、大規模な増幅点である。
第二に、この留保は本稿の主題と同型である。本稿第6章で論じたとおり、査読の「1665年起源説」は、拡散した制度形成過程に清潔な起点を投影した誤りであった。モクサムとファイフがこれを「起源」ではなく「前史」と呼び直したのは、まさに同じ方法論的操作である[2]。
なお本付録では、2017年の発言者の氏名を記していない。当該発言は「文系には査読がない」という命題を述べておらず、それをデマの原文とするのは正確でない、というものだからである。氏名とデマの連想を反復すること自体が、(g) で述べた不可逆性の一例となる。事実関係の確認が必要な場合は、調査メモが挙げる一次資料を参照されたい。
A.4 調査メモ
以下は、本付録の基礎となった調査メモの内容である。A.1はこれを圧縮したものであり、A.2およびA.3はこれに対する本稿の枠組みからの評価である。
結論
公開記録をたどれる範囲では、現在流通している「文系には査読がない」説の直接の発生源は、2018年10月7〜9日に起きたSNS上の一般化と、Togetter・Posfie・はてなブログによる見出し化である。
最初から誰かが「文系には査読がない」と主張したのではない。次のように、対象が段階的に拡張されている。
一研究者の業績評価 → 日本の社会学全体 → 法学 → 文系全体
したがって、一人の「デマ発信者」を特定するより、2018年10月の引用・要約・見出しの連鎖がデマを作ったと考えるのが最も正確である。削除済み投稿や検索対象外の掲示板があるため、史上最初の一文までは断定できないが、現在まで続くミームの大規模な生成点はかなり高い確度で特定できる。
発生の経路
1.2017年5月16日――火種となった個人発言
発端は、ある社会学者による2017年の投稿である。そこでは、おおむね次の三点が述べられていた。
査読論文より招待論文のほうが格上である
自分が査読論文を出したのは大学院生時代までである
その後は学会誌から依頼された招待論文が多数ある
別の投稿では「理系とは違う」とも述べている。しかし、ここで語られているのは、本人が考える業績の評価順序と自分の経歴である。「社会学には査読誌が存在しない」「文系には査読制度がない」とは述べていない。発言自体はかなり不用意な一般化であるが、後のデマと同じ命題ではない。
(出典)
2.2018年10月7日――一人の経歴が「社会学全体」へ拡張される
この2017年の投稿が、別の論争を契機として2018年10月に再発見された。
この段階で既に、「社会学ってそういう分野なのか」「査読なしで論文として通用してしまうのか」「査読付き英語論文ゼロで教授になれるのか」「社会学分野では論文の価値が低いのか」といった反応が現れている。
ここで最初の重大な変形が起きている。すなわち、「ある研究者に査読付き英語論文が見当たらない」から「社会学では査読なしの論文が通用する」への飛躍である。
特に重要なのは、「英語の査読論文」から「査読論文一般」へのすり替えと、一人の業績から分野全体への一般化が同時に起きたことである。
(出典)
キズナアイ関連で流れてきたのでふむふむと眺めていたら…えええ!?査読論文は院生の時だけって…ほんとに?驚いた。社会学ってそういう分野なの?査読なしで論文として通用してしまうのか…まったく俄には信じ難い。 https://t.co/7GUYEn7Xl3
— るし (@luci7302) October 7, 2018
3.2018年10月8日――Togetterが最大の増幅装置となる
翌10月8日、ユーザー作成の上記Togetterまとめが、「社会学者、査読論文出してなくても教授になれるし、招待論文があれば査読論文無しでも良いらしい問題」という見出しで公開された。
保存ページに表示される累計では約41万閲覧、6,323件のX上の反応、916件のはてなブックマークが記録されている。ここが、現行の俗説を大量拡散した最大の結節点である。
まとめの中では、元発言の「招待論文も業績として評価される」という話が、「社会学には相互検証システムがない」「社会学では学問的妥当性が担保されない」「査読なしで論文として通用する」という主張へ変換されていった。まとめ作成者自身は途中で社会学者からの説明も追記しているが、最初の見出しと冒頭部分が作った印象のほうがはるかに強く残ったと考えられる。
4.2018年10月8〜9日――「社会学」から「法学」「文系」へ
同じ論争の中で、今度は「法学には査読がない」という表現が現れる。ある投稿は、「法学には査読がないということよりも……」と、法学に査読がないことを前提に議論していた。
法学には査読がないということよりもそれこそ実験科学で一般に想定されるような意味での「発見」とか「研究業績」というようなもの自体がないのだと思うラジよ。
— PsycheRadio (@marxindo) October 8, 2018
さらに別のまとめが、「法学者『法学も査読がないのは当たり前!文系を理系と一緒にしないで』」という見出しで作られ、490件のはてなブックマークを集めた。
ところが、現在保存されている代表的な投稿の内容は、「査読付き英語論文がないことが批判されているが、言語を研究対象とする人文系では英語発表が難しい」というものである。「文系には査読がない」という見出しほど広い主張ではない。つまりこの段階では、個々の発言だけでなく、まとめの見出しそのものが意味を拡張する装置になっている。
5.2018年10月9日――「文系には査読がない」が定型化する
10月9日15時49分に投稿されたはてな匿名ダイアリーでは、はっきりと、「査読文化のないという文系の分野」「査読なしでも評価される特殊な文化があるのは日本の文系村だけ」という表現が登場した。これは、社会学の一研究者をめぐる話を、日本の文系全体の制度的特徴として断定したものである。
同じ日には、さらに露骨な「ピア・レビューのない文系は滅びろ!」という題名のブログ記事も公開された。記事本文も「社会学には査読がない」と断定している。ここで、現在見かけるデマとほぼ同じ形が完成している。
デマ化の構造
流れを圧縮すると、次の四つの取り違えである。
査読付き英語論文がない → 査読論文がない
ある研究者の業績構成 → 社会学全体の制度
著書や依頼論文も評価される → 査読が存在しない
匿名・出版前・雑誌論文型査読の比重が分野によって異なる → 文系には相互吟味の仕組みがない
特に3と4の混同が決定的である。人文学では、単行本、校訂版、書評、学位論文審査、口頭試問、ゼミでの草稿批評、出版社の外部読者なども評価の重要な媒体であった。本稿第III部が示すとおり、これらはすべて広義の「研究者間評価」に含まれる。
また、人文学の研究は、個別の測定値だけでなく、史料の配置、文脈、対抗解釈の処理など、著作全体の構成によって評価される場合が多い。そのため、短い査読票だけでなく、長い書評や編集者との往復、公開討論、口頭試問が大きな役割を果たしてきた(第12章)。
一方で、現在標準とされる匿名の外部査読が人文学全体に一様に普及した時期は比較的新しく、分野によって1980年代から2000年前後まで大きな差があった(第13章)。この制度化の遅さと不均一さが、「査読の比重が異なる」を「査読がない」と読み替える余地を与えた。
既に当時から訂正されていた
この一般化は、拡散した直後から批判されている。
2018年10月9日の反論には、査読付き雑誌は存在する、査読付き業績は重要である、ただし査読が付いていないから直ちに無価値とは限らない、という整理があり、さらに「それを『査読文化がない』と要約されても困る」と明言されている。
10月11日に投稿された日本社会学の研究者評価に関する説明でも、日本社会学では一般に査読論文が重視され、特に若手研究者にとって重要だとされている。問題は査読の有無ではなく、雑誌間の序列が自然科学系ほど固定されていないことや、著書・依頼論文なども評価対象になることであった。
つまり、デマは当時既に訂正されていたにもかかわらず、訂正よりも刺激的な見出しのほうが生き残ったわけである。
「文系には査読がない」が事実でないこと
現在の制度を見ても、全称命題としては明白に誤りである。
日本社会学会の『社会学評論』は、投稿原稿ごとに原則二名の審査委員を選び、投稿者と審査者を相互匿名とし、掲載可から掲載不可までの評価区分を設けている[63]。
京都大学人文科学研究所は、『人文學報』『東方學報』『ZINBUN』の三誌すべてについて、査読制度を採用した査読付き学術誌だと明記している[65]。
法学系でも、ジェンダー法学会の機関誌『ジェンダーと法』は、受理原稿を正式な査読手続に付し、独創性、方法の妥当性、資料の信頼性などを審査している[66]。
もちろん、文系のすべての媒体が査読付きだという逆の断定も誤りである。しかしそれは自然科学でも同じである。正確な命題は、「人文・社会科学では、分野・時代・媒体によって匿名外部査読の比重が異なり、著書、書評、学位審査、編集者・出版社による審査など、複数の評価形式が併存してきた」となる。
本稿の整理に即して言えば、現代査読は、人文学的批評、近世的出版認可、近代大学の資格審査、20世紀の編集・研究行政を複合した制度である(第25章)。
さらに遡った「土壌」
直接の引用連鎖は2018年であるが、それ以前から、理工系の出版慣行を全分野の標準とみなす言説は存在した。
たとえば2008年の情報工学系ブログには、「文系は学術雑誌自体が少ない、あるいはない」とする記述がある。ただし筆者自身は「分野によって全く違う」「自分の理解が間違っている可能性も高い」と断っている。これは2018年のデマの直接の背景とは確認できないが、文系の研究成果は非ジャーナル中心であり査読がない、という先入観が以前から存在した証拠にはなる。
最終判定
火種は、2017年の「招待論文のほうが格上」「査読論文は院生時代まで」という個人発言である。
社会学全体への一般化は、2018年10月7〜8日の批判投稿とTogetterまとめによって起きた。
法学・文系全体への一般化は、2018年10月8〜9日の別のまとめ、匿名ダイアリー、ブログ見出しによって完成した。
したがって、「文系には査読がない」というデマの直接の出所を一つ挙げるなら、2018年10月8〜9日のTogetter/Posfieの見出し群と、それを受けて公開された「査読文化のない文系」「ピア・レビューのない文系」という記事群である。
2017年の発言をそのままデマの原文とするのは正確ではない。発言は火種を提供したが、「文系には査読がない」という命題を作ったのは、その後の分野横断的な一般化と見出し編集である。
A.5 結び――正しい問いの立て方
「文系には査読があるか」は、問いとして粗雑である。本稿の枠組みに即せば、問うべきは次である。
それぞれの学問共同体は、可謬性・依存・責任・稀少性・構成という五つの必要を、どの制度によって、どの配分で満たしてきたか。
人文学は (A) 可謬性と (E) 構成を、書評、ゼミ、口頭試問、単行本審査、公開の応酬によって厚く実装してきた。自然科学は (C) 責任と (D) 稀少性を、雑誌の匿名外部査読によって厚く実装してきた。どちらも相互吟味である。どちらも不完全である。
そして第28章で述べたとおり、日本を含む非欧米圏の査読史は、まだほとんど書かれていない。「文系には査読がない」という言説が繰り返し復活するのは、それを検証するための歴史的記述が不足しているからでもある。本稿の空白は、そのまま今後の課題である。
註
歴史・制度史
[1] Melinda Baldwin, "Peer Review," in Encyclopedia of the History of Science (Pittsburgh: ETHOS, Carnegie Mellon University Libraries, 2018). https://ethos.lps.library.cmu.edu/article/id/29/
[2] Aileen Fyfe and Noah Moxham, "The Royal Society and the Prehistory of Peer Review, 1665–1965," The Historical Journal 61, no. 4 (2018): 863–889. https://www.cambridge.org/core/journals/historical-journal/article/royal-society-and-the-prehistory-of-peer-review-16651965/93B903FD4D6561AA7224C62EE57B0C18
[3] "The Past and Present of Peer Review in the Humanities: An Introduction," Minerva (2025). https://link.springer.com/article/10.1007/s11024-025-09615-w
[4] "Literary Forms of Medieval Philosophy," Stanford Encyclopedia of Philosophy. https://plato.stanford.edu/archives/fall2014/entries/medieval-literary/
[5] "Textual Criticism and Editing," in The Oxford Handbook of Renaissance Philology 系論考。https://academic.oup.com/edited-volume/61883/chapter/547815327
[6] "Humanism in Script and Print in the Fifteenth Century," in The Cambridge Companion to Renaissance Humanism (Cambridge University Press). https://www.cambridge.org/core/books/cambridge-companion-to-renaissance-humanism/humanism-in-script-and-print-in-the-fifteenth-century/F06447FFFE1112B9FBB9D7168DCA254E
[7] "Letters and Letter-Writing," in The Oxford Handbook of Neo-Latin 系論考。https://academic.oup.com/edited-volume/28135/chapter/212332882
[8] "Writing Others and the Self," chap. 7 in The Information Revolution in Early Modern Europe (Cambridge University Press). https://www.cambridge.org/core/books/information-revolution-in-early-modern-europe/writing-others-and-the-self/B1E3EDC99D0E07E889642FB94F2BA8ED
[9] Mario Biagioli, "From Book Censorship to Academic Peer Review," Emergences 12, no. 1 (2002): 11–45. https://syllabus.pirate.care/library/Mario Biagioli/From book censorship to academic peer review (293)/
[10] Académie française, Statuts et règlements (1635), 特に第29〜42条。https://www.academie-francaise.fr/sites/academie-francaise.fr/files/statuts_af_0.pdf ならびに https://www.academie-francaise.fr/linstitution/statuts-et-reglements
[11] Bibliothèque nationale de France, "Le Journal des savants," Tous les savoirs du monde. https://classes.bnf.fr/dossitsm/gc189-35.htm
[12] Harriet Zuckerman and Robert K. Merton, "Patterns of Evaluation in Science: Institutionalisation, Structure and Functions of the Referee System," Minerva 9, no. 1 (1971): 66–100.
[13] 佐藤翔「学術情報流通の多様化:査読誌の『4機能』の変化」『情報の科学と技術』73巻1号(2023年)2–8頁。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jkg/73/1/73_9/_pdf/-char/ja
[14] "From Student to Scholar: Peer Evaluation in the Berlin Philological Seminar," Minerva (2025). https://link.springer.com/article/10.1007/s11024-025-09614-x
[15] Melinda Baldwin, "Scientific Autonomy, Public Accountability, and the Rise of 'Peer Review' in the Cold War United States," Isis 109, no. 3 (2018): 538–558. https://melinda-baldwin.com/wp-content/uploads/2019/09/baldwin-isis-article.pdf
[16] "The Peer Review Transition: Editorial Responses to the Formalization of Quality Cultures in Humanities Journals," Minerva (2025). https://link.springer.com/article/10.1007/s11024-025-09605-y
[17] Melinda Baldwin, "Credibility, Peer Review, and Nature, 1945–1990," Notes and Records of the Royal Society 69, no. 3 (2015): 337–352. https://royalsocietypublishing.org/rsnr/article/69/3/337/48561/
[18] "In Praise of Peer Review," Nature Materials 22 (2023). https://www.nature.com/articles/s41563-023-01661-7
[19] Frank T. Manheim, "Referees and the Publications Crisis," Eos 54, no. 5 (1973): 532. https://www.usgs.gov/publications/referees-and-publications-crisis
[20] John C. Burnham, "The Evolution of Editorial Peer Review," JAMA 263, no. 10 (1990): 1323–1329. https://jamanetwork.com/journals/jama/fullarticle/380937
[21] "The Origins of NIH Medical Research Grants," Hektoen International (2022). https://hekint.org/2022/10/18/the-origins-of-nih-medical-research-grants/
[22] "The 'Study' Role of Past National Institutes of Health Study Sections," Molecular Biology of the Cell (2012). https://www.molbiolcell.org/doi/10.1091/mbc.e12-06-0448 なお制度史の基本文献として Richard Mandel, A Half Century of Peer Review, 1946–1996 (Bethesda: NIH Division of Research Grants, 1996)。
査読の実証研究
[23] Douglas P. Peters and Stephen J. Ceci, "Peer-Review Practices of Psychological Journals: The Fate of Published Articles, Submitted Again," Behavioral and Brain Sciences 5, no. 2 (1982): 187–255.
[24] Peter M. Rothwell and Christopher N. Martyn, "Reproducibility of Peer Review in Clinical Neuroscience," Brain 123, no. 9 (2000): 1964–1969.
[25] Drummond Rennie, "Editorial Peer Review in Biomedical Publication: The First International Congress," JAMA 263, no. 10 (1990). https://jamanetwork.com/journals/jama/fullarticle/380932
[26] "The Present and Future of Peer Review: Ideas, Interventions, and Evidence," PNAS (2025). https://jlakes.alljournals.cn/uploadfile/news_images/hpkx/2025-02-21/peer-review-ideas-interventions-and-evidence-PNAS-2.pdf
学術コミュニケーションと制度改革
[27] Hans E. Roosendaal and Petrus A. T. M. Geurts, "Forces and Functions in Scientific Communication: An Analysis of Their Interplay," paper presented at the Conference on Co-operative Research in Information Systems in Physics, Oldenburg, 1997. https://research.utwente.nl/en/publications/forces-and-functions-in-scientific-communication-an-analysis-of-t
[28] arXiv, "About arXiv." https://info.arxiv.org/about/index.html
[29] "Why We Embrace Open Peer Review at BMJ Open," BMJ Open Blog (2021). https://blogs.bmj.com/bmjopen/2021/09/21/bmj-open-peer-review/
[30] "Transparent Peer Review to Be Extended to All of Nature's Research Papers," Nature (2025). https://www.nature.com/articles/d41586-025-01880-9
[31] F1000Research, "Peer Review." https://f1000research.com/for-authors/peer-review
[32] Christopher D. Chambers, "Registered Reports: A New Publishing Initiative at Cortex," Cortex 49, no. 3 (2013): 609–610. https://orca.cardiff.ac.uk/id/eprint/45177/1/Chambers_Cortex_2013b_GreenOA.pdf
[33] Jeffrey Brainard, "No Revolution: COVID-19 Boosted Open Access, but Preprints Are Only a Fraction of Pandemic Papers," Science (2021). https://www.science.org/content/article/no-revolution-covid-19-boosted-open-access-preprints-are-only-fraction-pandemic-papers
[34] "A Review of COVID-19-Related Publications and Lag Times During the First Six Months of the Year 2020," Western Journal of Emergency Medicine (2021). https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC8328170/
[35] eLife, "eLife's New Model: Changing the Way You Share Your Research" (2022). https://elifesciences.org/inside-elife/54d63486/
[36] eLife, "eLife's New Model: Introducing Reviewed Preprints" (2024). https://elifesciences.org/inside-elife/14e77604/
[37] eLife, "eLife's New Model: One Year On" (2024). https://elifesciences.org/inside-elife/66d43597/elife-s-new-model-one-year-on あわせて "Scientific Publishing Without Gatekeeping: An Empirical Investigation of eLife's New Peer Review Process," Scientometrics (2025). https://link.springer.com/article/10.1007/s11192-025-05422-y
研究公正と生成AI
[38] Retraction Watch, "Hindawi Reveals Process for Retracting More Than 8,000 Paper Mill Articles" (2023). https://retractionwatch.com/category/mass-retractions/
[39] "AI Tools Combat Paper Mill Fraud in Scientific Publishing as Peer Review System Struggles," Chemistry World (2025). https://www.chemistryworld.com/features/ai-tools-tackle-paper-mill-fraud-overwhelming-peer-review/4022253.article
[40] 佐藤翔「動向レビュー:査読は無償であるべきか?」『カレントアウェアネス』357号(2023年)14–18頁。https://current.ndl.go.jp/ca2048
[41] Miryam Naddaf, "More Than Half of Researchers Now Use AI for Peer Review — Often Against Guidance," Nature (15 December 2025). https://www.nature.com/articles/d41586-025-04066-5
[42] Giuseppe Russo Latona et al., "The AI Review Lottery: Widespread AI-Assisted Peer Reviews Boost Paper Scores and Acceptance Rates," Proceedings of the ACM on Human-Computer Interaction (2025). https://arxiv.org/abs/2405.02150
[43] Miryam Naddaf, "Major AI Conference Flooded with Peer Reviews Written Fully by AI," Nature (27 November 2025). https://www.nature.com/articles/d41586-025-03506-6
[44] Wang et al., "A Cross-Disciplinary Analysis of AI Policies in Academic Peer Review," Learned Publishing (2026). https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/leap.2035
[45] "AI and the Future of Academic Peer Review" (2025). https://arxiv.org/abs/2509.14189 (Nature による2025年の5,229名調査の分析を含む)
[46] "Can LLM Feedback Enhance Review Quality? A Randomized Study of 20K Reviews at ICLR 2025." https://arxiv.org/abs/2504.09737
認識論・科学哲学(本稿の「なぜ」の水準を支える文献)
[47] Karl R. Popper, The Open Society and Its Enemies, vol. 2 (London: Routledge, 1945), 特に第23章「知識社会学」。科学の客観性は科学者個人の性質ではなく、批判的伝統という社会的制度に宿るという主張。
[48] Robert K. Merton, "The Normative Structure of Science" (1942), in The Sociology of Science: Theoretical and Empirical Investigations, ed. Norman W. Storer (Chicago: University of Chicago Press, 1973), 267–278. 「組織された懐疑主義(organized skepticism)」を科学のエートスの一つとして定式化。
[49] Michael Polanyi, "The Republic of Science: Its Political and Economic Theory," Minerva 1 (1962): 54–73. https://inters.org/polanyi-republic-science 科学的権威は科学者たちの「間に」成立し「上に」立たないこと、および「重なり合う近傍(overlapping neighbourhoods)」の連鎖によって全体の基準が成立することを論じる。
[50] John Ziman, Public Knowledge: The Social Dimension of Science (Cambridge: Cambridge University Press, 1968); Reliable Knowledge: An Exploration of the Grounds for Belief in Science (Cambridge University Press, 1978). 科学の目標を「可能なかぎり広い範囲にわたる合理的意見の合意」と規定。
[51] Helen E. Longino, Science as Social Knowledge: Values and Objectivity in Scientific Inquiry (Princeton: Princeton University Press, 1990). 背景仮定と過少決定の議論、および「変換的批判」の四条件(批判のための公認された経路/共有された基準/批判に対する共同体の応答/知的権威の平等な配分)。あわせて同 The Fate of Knowledge (Princeton University Press, 2002)。
[52] John Hardwig, "The Role of Trust in Knowledge," The Journal of Philosophy 88, no. 12 (1991): 693–708. 「認識的依存」の概念。あわせて同 "Epistemic Dependence," The Journal of Philosophy 82, no. 7 (1985): 335–349。
[53] Steven Shapin, A Social History of Truth: Civility and Science in Seventeenth-Century England (Chicago: University of Chicago Press, 1994). 17世紀イングランドにおける紳士の名誉と証言の信頼性。
[54] Bruno Latour and Steve Woolgar, Laboratory Life: The Social Construction of Scientific Facts (Beverly Hills: Sage, 1979). 「信用の循環(credibility cycle)」の概念。
[55] Thomas S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions (Chicago: University of Chicago Press, 1962; 2nd ed. 1970). 範例(exemplar)を通じた判断の習得。
[56] Naomi Oreskes, Why Trust Science? (Princeton: Princeton University Press, 2019). 科学が信頼に値する根拠を、方法ではなく多様な共同体による批判的吟味の過程に求める議論。
[57] Robert K. Merton, "The Matthew Effect in Science," Science 159, no. 3810 (1968): 56–63. 既に評価された者にさらに評価が集中する現象。
20世紀の未査読研究と却下事例
[58] Daniel Kennefick, "Einstein Versus the Physical Review," Physics Today 58, no. 9 (2005): 43–48. https://physicstoday.aip.org/features/einstein-versus-the-physical-review 2005年に公開された Physical Review 受付簿にもとづき、EPR論文およびアインシュタイン=ローゼン橋論文が査読に付されていなかったこと、1936年重力波論文の査読者がハワード・P・ロバートソンであったこと、アインシュタインがプロイセン科学アカデミー会員として無審査で発表しつつ他者の論文を審査していたことを明らかにしている。Annalen der Physik の却下率と編集方針については、同論文が引用する Christa Jungnickel and Russell McCormmach, Intellectual Mastery of Nature: Theoretical Physics from Ohm to Einstein, vol. 2 (Chicago: University of Chicago Press, 1986), 309 による。インフェルトの証言は Leopold Infeld, Quest: An Autobiography (New York: Chelsea, 1980)。
[59] Grisha Perelman, "The Entropy Formula for the Ricci Flow and Its Geometric Applications," arXiv:math/0211159 (2002); "Ricci Flow with Surgery on Three-Manifolds," arXiv:math/0303109 (2003); "Finite Extinction Time for the Solutions to the Ricci Flow on Certain Three-Manifolds," arXiv:math/0307245 (2003). 学術誌への投稿は行われていない。経緯については Cornell Chronicle, "Reclusive Mathematician Rejected Honors..." (2006). https://news.cornell.edu/stories/2006/09/proof-100-year-old-math-problem-posted-exclusively-arxiv およびクランツの批判は WashU, "The Poincaré Conjecture: Proved or Not?" (2006). https://source.washu.edu/2006/02/the-poincare-conjecture-proved-or-not/
[60] 却下事例について。フェルミのベータ崩壊理論(E. Fermi, "Versuch einer Theorie der β-Strahlen," Zeitschrift für Physik 88 (1934): 161–177)の Nature による却下、クレブスのクエン酸回路論文(H. A. Krebs and W. A. Johnson, "The Role of Citric Acid in Intermediate Metabolism in Animal Tissues," Enzymologia 4 (1937): 148–156)の返送、メイマンのレーザー報告(T. H. Maiman, "Stimulated Optical Radiation in Ruby," Nature 187 (1960): 493–494)の Physical Review Letters による却下。クレブス自身の回想は Hans Krebs, Reminiscences and Reflections (Oxford: Clarendon Press, 1981)、マリスの回想は Kary Mullis, Dancing Naked in the Mind Field (New York: Vintage, 1998)。
「scientist」という語の歴史
[61] Sydney Ross, "Scientist: The Story of a Word," Annals of Science 18, no. 2 (1962): 65–85. https://doi.org/10.1080/00033796200202722 同語の造語と受容の遅れを扱った古典的研究。あわせて David Philip Miller, "The Story of 'Scientist: The Story of a Word'," Annals of Science 74, no. 4 (2017): 255–261、および Melinda Baldwin, "The History of 'Scientist'," guest post, The Renaissance Mathematicus (10 July 2014). https://thonyc.wordpress.com/2014/07/10/the-history-of-scientist/ ――査読史の主要な研究者であるボールドウィンが、同語の受容史についても書いていることは偶然ではない。どちらも「科学者とは誰か」という同一の問いに属する。
[62] [William Whewell], "On the Connexion of the Physical Sciences. By Mrs. Somerville," Quarterly Review 51, no. 101 (March 1834): 54–68(無署名)。scientist の初出。1833年の英国科学振興協会会合におけるコールリッジとの応酬を承けたもの。ヒューウェルは1840年『帰納的諸科学の哲学』で改めてこの語を提唱した。
付録関係
[63] 日本社会学会「機関誌『社会学評論』について」(編集委員会規程施行細則). https://jss-sociology.org/bulletin/sociological_review/ 各投稿原稿につき専門委員から二名の審査委員を選任、投稿者と審査委員の氏名は相互に匿名、評価区分はA(掲載可)からE(題材・内容が不適切)までの五段階。査読制度の運用開始は1980年。
[64] 『法律時報』論文投稿・審査規程. https://www.nippyo.co.jp/blogjihou/2017/03/01/toukou-shinsa/ 投稿一件につき二名に査読を委嘱し、編集委員会が採否を決定する旨を定める。
[65] 京都大学人文科学研究所「研究紀要」. https://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/publications/research-bulletins.html 『人文學報』『東方學報』『ZINBUN』の三誌すべてが査読制度を採用しており、査読付き学術誌として位置づけられる旨を明記する。『人文学報』投稿規定も「本誌の論文等は原則査読の対象となる」と定める。https://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/hub/zinbun/publications/publication.htm
[66] ジェンダー法学会機関誌『ジェンダーと法』投稿規程 https://jagl.jp/?page_id=135
[67] 日本学術会議「回答 論文の査読に関する審議について」(2023年9月25日). https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-25-k353.pdf 査読者の枯渇、判断の分散、プレプリントサーバー、顕名の公開査読、査読結果の共有、投稿者主導の制度など、本稿第V部で扱った論点を日本の文脈で整理している。日本の学術行政の側でも、本稿第V部・第VI部の論点が既に議題となっていることを示す資料である。
[68] 自然科学にも査読のない学術誌は存在する。よく知られた例では、米国天文学会の天文学・天体物理学誌Research Notes of the AAS(RNAAS)が公式に non-peer reviewed と明記している。外部研究者による査読はないが、編集者が分野との適合性や形式を確認する。掲載物にはDOIが付与され、天文学データベースADSに収録され、引用可能な記録として保存される(https://journals.aas.org/research-note-preparation-guidelines/)。また、査読誌の中にも未査読の記事種別がある。Nature系列の各誌では、News & Views、Viewpoint、Books & Arts、Correspondenceなどは、未査読または編集者の判断で査読の有無が決まる場合がある。自然科学の原著研究論文では掲載前の外部査読が現在の標準だが、本論で論じたように、それは自然科学であるための必要条件でも、歴史を通じた普遍的慣行でもない。
付記――本稿の限界
本稿の歴史記述は、英国王立協会、米国の学術誌・研究助成機関、および近年の人文学査読史研究に大きく依拠している。ドイツ語圏・フランス語圏の雑誌史、ソ連・東欧圏の学術評価制度、中国・インド・ラテンアメリカにおける査読の導入過程については、参照した二次文献の制約により十分に扱えていない。
また、第0部で提示した五つの理由による分析枠組みは、本稿における整理のための構成物であって、既存の研究文献に由来する確立した分類ではない。個々の構成要素――ロンジーノの変換的批判、ハードウィグの認識的依存、ポランニーの重なり合う近傍、ビアジョーリの検閲起源説――はいずれも文献に基づくが、それらを五分類として統合したのは本稿の責任である。
人物に付した肩書・分野名については、序論の凡例に述べた方針をとった。ただし完全な徹底は困難であり、「歴史家」「哲学者」といった語もまた近代的な職業区分に属する以上、遡及的記述であることに変わりはない。本稿が避けようとしたのは、当該人物の生前に存在しなかった職業カテゴリー(とりわけ1834年以前の「科学者」)を用いることと、後年に確立した分野区分を前提として過去の実践を分類することの二点である。
第VI部で扱った生成AIをめぐる状況は急速に変化しており、記述は2026年前半時点のものである。
