空気からパンをつくる化学──ハーバー・ボッシュ法が支えた80億人とその請求書
私たちが食べる穀物や肉に含まれる窒素のかなりの部分は、いったん工場で合成されたアンモニアを経由しています。工場では、空気から取り入れた窒素と、天然ガスや水から製造した水素を、高温・高圧のもとで反応させます。
「空気からパンをつくる」は、化学的な省略を含む表現です。空気だけからパンができるわけではありません。大気中の窒素をアンモニアに変え、アンモニアから窒素肥料をつくり、作物が肥料中の窒素を吸収することで、食料中のタンパク質へ窒素が移ります。この流れを工業規模で可能にしたのが、ハーバー・ボッシュ法です。
同じアンモニアは、硝酸を経て肥料だけでなく爆薬の原料にもなります。また、製造時のエネルギー消費と、肥料として使った後に環境へ流出する窒素は、気候変動、水質汚染、生態系の変化に関係します。
この記事では、次の四つの観点からハーバー・ボッシュ法を説明します。
化学:高圧・高温・触媒が必要な理由
工場:水素の製造、ガスの精製、アンモニアの分離と再循環
歴史:ハーバー、ル・ロシニョール、ミッタッシュ、ボッシュの役割
社会:食料生産、戦争、エネルギー、環境への影響
高校化学では、化学平衡、ルシャトリエの原理、反応速度、触媒、熱化学を別々の単元として学びます。アンモニア合成は、各概念が一つの工業プロセスでどのように結びつくかを理解する題材になります。
0. まず一文で
ハーバー・ボッシュ法は、窒素と水素を高温・高圧下で触媒に接触させてアンモニアを合成し、生成したアンモニアを冷却・分離し、未反応の窒素と水素を反応器へ戻して連続生産する方法です。
この技術は、一つの反応式だけでは成立しません。実験室から工業化までの主な役割は、次のように整理できます。
フリッツ・ハーバー:アンモニアを連続合成できる反応条件を示した
ロベルト・ル・ロシニョール:高圧ポンプや循環装置を備えた実験装置を設計した
アルヴィン・ミッタッシュ:工業利用に適した鉄系触媒の開発を主導した
カール・ボッシュ:原料供給、触媒、高圧反応器、材料、熱管理を統合して工場を成立させた
ハーバーは1918年のノーベル化学賞、ボッシュはフリードリヒ・ベルギウスとともに1931年のノーベル化学賞を受賞しました[6][7]。さらに、鉄触媒表面で起こる反応の基礎研究は、ゲルハルト・エルトゥルの2007年のノーベル化学賞につながっています[9]。
第I部:化学──二つの制約と触媒
1. 基本の反応式
$$
\mathrm{N_2 + 3H_2 \rightleftharpoons 2NH_3}
$$
窒素分子1個と水素分子3個から、アンモニア分子2個ができます。矢印が両向きなのは、アンモニアが生成する反応と、アンモニアが窒素と水素へ分解する反応が同時に起こりうるためです。
25℃、1 barを基準とする標準状態では、反応式どおりにアンモニア2 molができると、約91.9 kJの熱が放出されます[1]。
$$
\Delta_{\mathrm r}H^{\circ} \approx -91.9\ \mathrm{kJ}
$$
mol(モル)は、原子や分子の個数をまとめて数える単位です。1 molには約 $${6.02\times10^{23} }$$ 個の粒子が含まれます。上の値をアンモニア1 molあたりで表すと、約 $${-45.9\ \mathrm{kJ/mol\ NH_3}}$$ です。負の符号は、反応によって熱が外へ出ることを示します。
質量で表すと、理論上は次の関係になります。
$$
28.0\ \mathrm{kg\ N_2} + 6.05\ \mathrm{kg\ H_2}
\rightarrow 34.1\ \mathrm{kg\ NH_3}
$$
したがって、アンモニア1トンをつくるために必要な原料の理論量は、およそ次のとおりです。
窒素:822 kg
水素:178 kg
アンモニアの質量の約82%は窒素です。ただし、窒素が空気中に豊富にあることと、工場で無料で使えることは同じではありません。窒素を必要な純度で供給し、圧縮するには設備とエネルギーが必要です。水素は自然界に単体でほとんど存在しないため、天然ガスや水などから製造しなければなりません。
2. なぜ高圧にするのか
反応前後の気体分子の数を比べます。
反応前:窒素1分子+水素3分子=4分子
反応後:アンモニア2分子=2分子
反応が右向きに進むと、気体分子の総数は4から2へ減ります。ルシャトリエの原理によれば、平衡状態にある系へ圧力を加えると、系はその変化を弱める方向へ移ります。この反応では、気体分子の少ないアンモニア側が高圧で有利になります。
平衡定数を分圧で表すと、厳密には次の式になります。
$$
K_p =
\frac{(p_{\mathrm{NH_3}}/p^{\circ})^{2}}
{(p_{\mathrm{N_2}}/p^{\circ})
(p_{\mathrm{H_2}}/p^{\circ})^{3}}
$$
分圧とは、混合気体の各成分が全圧のうちどれだけを担っているかを表す圧力です。$${p^{\circ}}$$ は基準となる標準圧力で、通常は1 barです。各分圧を標準圧力で割ることで、$${K_p}$$ は単位を持たない数になります。高校の教科書では、式を簡潔にするため $${p^{\circ}}$$ を省略することがあります。
平衡定数と同じ形の式へ、その時点の分圧を代入した値を反応商 $Q_p$ と呼びます。同じ温度では $${K_p}$$ は一定です。理想気体として近似し、組成を保ったまま全圧を上げると、$${Q_p}$$ は全圧の $${-2}$$ 乗に比例して小さくなります。$${Q_p < K_p}$$ となるため、$${Q_p}$$が $${K_p}$$ と等しくなるまでアンモニア生成方向へ反応が進みます。実際の100 barを超える気体では理想気体からのずれも考慮しますが、高圧がアンモニア生成に有利になる結論は変わりません。
工業的なアンモニア合成では、触媒や装置設計によって差がありますが、おおむね100〜300 bar程度の圧力が使われます[2]。1 barは約0.987気圧なので、100 barは約99気圧です。
高圧はアンモニア生成に有利ですが、圧力を上げるには大きな圧縮動力が必要です。反応器、配管、バルブも厚く重くなり、建設費と安全管理の負担が増えます。工場の運転圧力は、平衡上の利点と設備・エネルギー費用を比較して決められます。
3. なぜ低温ではなく400〜500℃なのか
アンモニア合成は発熱反応です。温度を下げると、平衡は熱を生むアンモニア生成側へ移ります。したがって、最終的な平衡組成だけを考えれば、低温ほど有利です。
しかし、低温では反応速度が極端に小さくなります。窒素分子には強い三重結合があります。
$$
\mathrm{N \equiv N}
$$
窒素の三重結合の解離エネルギーは約941 kJ/molです。結合解離エネルギーは、気体中の窒素分子を窒素原子へ完全に分けるのに必要なエネルギーの目安であり、アンモニア合成の活性化エネルギーそのものではありません。941 kJ/molという大きさは、窒素分子が非常に反応しにくい理由を示します。
化学反応が進むには、原子の結びつきが変わる途中の不安定な状態を通過しなければなりません。そのために越える必要があるエネルギーの障壁を活性化エネルギーと呼びます。温度を上げると、障壁を越えられる分子の割合が増え、反応速度が上がります。
平衡と反応速度には、反対方向の温度依存性があります。
低温:平衡組成はアンモニア生成に有利だが、反応が遅い
高温:反応は速くなるが、平衡組成はアンモニア生成に不利になる
工業条件の400〜500℃は、平衡と反応速度を両立させるための範囲です[2]。触媒を使っても、工業的に十分な速度を得るには加熱が必要です。
4. 触媒は何を変えるのか
触媒は、反応の途中に別の経路を用意し、活性化エネルギーを下げます。アンモニア合成では、主に鉄系触媒が使われます。
触媒表面での反応は、概略として次のように進みます。
窒素分子と水素分子が鉄表面に吸着する
窒素分子と水素分子が表面で原子に分かれる
表面の窒素原子へ水素原子が順に結合する
生成したアンモニアが表面から離れる
触媒表面の空いている場所を $*$ で表すと、窒素の吸着と解離は次のように書けます。
$$
\mathrm{N_2(g) + 2* \rightleftharpoons 2N*}
$$
水素についても、同様に表面へ吸着して原子に分かれます。
$$
\mathrm{H_2(g) + 2* \rightleftharpoons 2H*}
$$
その後、表面上で窒素が段階的に水素化されます。
$$
\mathrm{N* \rightarrow NH* \rightarrow NH_2* \rightarrow NH_3(g)}
$$
鉄表面では窒素分子と鉄の間に相互作用が生じ、窒素―窒素結合が弱められます。そのため、気体中で直接反応させる場合より低い活性化エネルギーの経路で反応できます。促進剤を含む鉄触媒では、工業条件における窒素分子の解離が反応速度を強く支配することが多いとされていますが、律速段階は触媒組成や温度、圧力、ガス組成によって変わりえます[9]。
実用触媒は単純な鉄粉ではありません。鉄を多孔質にし、酸化カリウム、酸化アルミニウム、酸化カルシウムなどを加えます[2]。助触媒は、触媒の構造を保ち、表面の電子状態や吸着特性を調整します。
触媒について重要な点は、平衡の位置を変えないことです。触媒は正反応と逆反応の両方を速めるため、平衡へ到達するまでの時間は短くなりますが、同じ温度・圧力での平衡組成は変わりません。
第II部:工場──アンモニアができるまで
5. 合成反応より前に、多くの工程がある
狭い意味のハーバー・ボッシュ法は、窒素と水素からアンモニアをつくる合成工程を指します。ただし、実際のアンモニア工場には、原料の製造、精製、圧縮、冷却、熱回収も必要です。
現在も広く使われる天然ガス原料の工場では、主な流れは次のようになります。
天然ガスから硫黄化合物を除く
メタンと水蒸気から水素を含むガスをつくる
空気を加えて残ったメタンを反応させ、同時に窒素を導入する
一酸化炭素を二酸化炭素へ変えながら、追加の水素をつくる
二酸化炭素を除く
微量の一酸化炭素と二酸化炭素をメタンへ変える
窒素・水素混合ガスを圧縮する
合成塔でアンモニアをつくる
冷却してアンモニアを液体として分離する
未反応ガスを合成塔へ戻す
天然ガスを使わず、水の電気分解で水素をつくる工場では、前半の工程が大きく変わります。その場合、窒素は空気分離装置などから供給します。したがって、すべてのアンモニア工場が同じ構成ではありません。以下では、従来型の天然ガス原料プロセスを例に説明します。
6. 脱硫──触媒を守る前処理
天然ガスには、微量の硫黄化合物が含まれることがあります。硫黄化合物は、後工程で使うニッケル触媒や鉄触媒の表面に強く吸着し、反応に必要な場所をふさぎます。このように、少量でも触媒の働きを低下させる物質を触媒毒と呼びます。
触媒は表面の限られた場所で働きます。その場所を活性点または活性サイトといいます。濃度が数ppm程度の不純物でも、活性点へ蓄積すれば触媒性能を大きく下げることがあります。ppmは100万分の1を表す単位です。
工場では、天然ガス中の硫黄化合物を水素と反応させて硫化水素に変え、酸化亜鉛などの吸着剤で除去します。アンモニア合成の前処理では、目的の反応を進めることだけでなく、触媒を長期間保護することが重要です。
7. 水蒸気改質と二次改質──水素と窒素をそろえる
脱硫したメタンに水蒸気を混ぜ、高温のニッケル触媒へ通します。
$$
\mathrm{CH_4 + H_2O \rightleftharpoons CO + 3H_2}
$$
この反応を水蒸気改質と呼びます。反応は吸熱反応であり、進行させるには外部から熱を供給し続ける必要があります。一般に、改質炉の反応管は800〜900℃程度の高温で運転されます。
一次改質後のガスには、未反応のメタンが残ります。二次改質器では空気を加えます。空気中の酸素は、メタンや水素の一部を燃焼させて熱を生み、その熱で改質反応をさらに進めます。空気中の窒素は、最終的なアンモニアの原料になります。
アンモニア合成の反応式では、水素と窒素の物質量比は3対1です。
$$
\mathrm{H_2:N_2 = 3:1}
$$
この比を化学量論比と呼びます。化学量論比とは、反応式の係数に対応する原料の比です。天然ガス原料の典型的なプロセスでは、二次改質器へ入れる空気量を調整し、後工程の混合ガスがこの比に近づくようにします。
8. シフト反応、二酸化炭素除去、メタン化
改質後のガスには一酸化炭素が含まれます。一酸化炭素を水蒸気と反応させると、二酸化炭素と水素ができます。
$$
\mathrm{CO + H_2O \rightleftharpoons CO_2 + H_2}
$$
この反応を水性ガスシフト反応と呼びます。発熱反応なので、低温ほど平衡は生成物側に有利ですが、低温では反応速度が下がります。そのため、多くの工場では高温シフトと低温シフトを組み合わせます。高温段で速く反応させ、低温段で残った一酸化炭素をさらに減らします。
生成した二酸化炭素は、アミン溶液や炭酸カリウム溶液などへ吸収させて分離します。分離した二酸化炭素は、尿素製造に利用される場合もあります。ただし、尿素として固定された炭素の多くは、肥料の使用後に再び二酸化炭素として大気へ戻ります。
二酸化炭素除去後にも、一酸化炭素と二酸化炭素が微量に残ります。一酸化炭素と二酸化炭素はアンモニア合成触媒の働きを妨げるため、水素と反応させてメタンへ変えます[21]。
$$
\mathrm{CO + 3H_2 \rightarrow CH_4 + H_2O}
$$
$$
\mathrm{CO_2 + 4H_2 \rightarrow CH_4 + 2H_2O}
$$
この処理をメタン化と呼びます。メタン化では水素を一部消費しますが、合成触媒の寿命と安定運転を優先するために行われます。
9. 合成塔──反応と温度管理
精製した窒素・水素混合ガスを圧縮し、鉄系触媒を入れた合成塔へ送ります。
アンモニア合成は発熱反応なので、ガスが触媒層を通ると温度が上昇します。温度が上がりすぎると、平衡組成がアンモニアに不利になり、触媒や設備への熱的負担も増えます。
そのため、合成塔では触媒を複数の層に分け、層と層の間で温度を下げます。主な方法は二つあります。
熱交換器で反応ガスから熱を回収する
比較的低温の原料ガスを混ぜる(クエンチ冷却)
合成塔の設計では、触媒量を増やすだけでなく、各触媒層へどの温度でガスを入れ、発生した熱をどこで回収するかを決める必要があります。
10. 冷却、分離、再循環
合成塔を一度通過しただけでは、窒素と水素のすべてがアンモニアになるわけではありません。平衡に達すると正反応と逆反応の速度が等しくなり、アンモニアの割合は正味では増えなくなるためです。
この工程を理解するには、三つの用語を区別する必要があります。
濃度:出口ガスのうち、アンモニアが何%を占めるか
単通過転化率:反応器へ入った窒素または水素のうち、一回の通過で何%が反応したか
全体利用率:新たに工場へ入れた原料のうち、再循環も含めて最終的にどれだけが製品になったか
現代の代表的な設計では、合成塔出口のアンモニア濃度が19〜21 mol%程度になる例があります[2]。mol%は物質量の割合であり、20 mol%なら出口ガス100 mol中にアンモニアが20 mol含まれます。出口濃度20%は、原料の20%だけが反応したという意味ではありません。
不活性ガスを無視し、窒素1 molと水素3 molから出発する単純な例を考えます。窒素の反応量を $${x}$$ molとすると、出口の全物質量は $${4-2x}$$ mol、アンモニアは $${2x}$$ molです。アンモニア濃度が20 mol%なら、
$$
\frac{2x}{4-2x}=0.20
$$
となり、$${x=1/3}$$ です。この理想化した例では、窒素の単通過転化率は約33%です。実際の値は圧力、温度、入口組成、不活性ガス、触媒、塔内の冷却方法によって変わります。
合成塔を出たガスを高圧のまま冷却すると、アンモニアが凝縮して液体になります。アンモニアの標準沸点は1気圧で約−33℃ですが、圧力が高いほど高い温度でも液化できます。したがって、工場での分離温度は標準沸点だけでは決まりません。
液体アンモニアを分離した後、未反応の窒素と水素を合成塔へ戻します。未反応ガスを反応器へ戻す操作を、再循環またはリサイクルと呼びます。循環圧縮機は、ガスを毎回大気圧から圧縮するのではなく、配管、熱交換器、反応器で失われた圧力を主に補います。
空気由来のアルゴンや、前処理で残ったメタンは合成反応にほとんど参加しません。再循環を続けると循環ガス中に蓄積するため、ガスの一部を系外へ抜きます。この操作をパージと呼びます。パージ量を増やすと不活性ガスは減りますが、窒素と水素も失われます。工場では両者の損失が小さくなるように条件を決めます。
生成物の分離と未反応原料の再循環は、平衡による単通過転化率の限界を補う重要な設計です。ハーバーとル・ロシニョールの連続実験装置にも、ガス循環とアンモニア分離が組み込まれていました[10]。
11. 工場全体の熱を利用する
水蒸気改質には大量の熱が必要です。一方、シフト反応とアンモニア合成では熱が発生します。工場では、各工程の温度差を利用して熱を回収します。
代表的な利用先は次のとおりです。
原料ガスやボイラー給水の予熱
高圧蒸気の製造
蒸気タービンによる大型圧縮機の駆動
大型の天然ガス原料プラントでは、回収した熱からつくった蒸気で主要な圧縮機を動かす設計が一般的です。ただし、ポンプ、計装、照明などの補機には外部電力も使われます。
このように、工場の効率は合成触媒の性能だけでは決まりません。改質炉、反応器、熱交換器、蒸気系、圧縮機を一体として設計する熱統合が重要です。
第III部:生産規模、エネルギー、二酸化炭素
12. 生産規模とエネルギー消費
1913年に操業を始めたBASFオッパウ工場は、当初、日産約30トンのアンモニアを生産する規模でした[2][11]。現代の大型プラントには、単一系列で日産3,000トンを超える設計があります[2]。一つの系列で比較すると、およそ100倍の規模です。
国際肥料協会(IFA)は、2024年の世界のアンモニア生産量を約1億9,050万トンと推計しています[26]。この値は、年間の実績を確定した統計ではなく、2025年に公表された推計値です。
生産効率も改善してきました。IEAの2021年報告では、アンモニア1トンあたりのエネルギー投入は、世界平均で約41 GJ、天然ガスを使う最良利用可能技術で約28 GJとされています[3]。GJ(ギガジュール)はエネルギーの単位で、1 GJは10億Jです。
41 GJを電力量と同じ単位へ換算すると、約11.4 MWhに相当します。
$$
41\ \mathrm{GJ}\div3.6\ \mathrm{GJ/MWh}\approx11.4\ \mathrm{MWh}
$$
ただし、41 GJを11.4 MWhへ換算した値は、工場が11.4 MWhの電気を購入するという意味ではありません。天然ガスが原料として持つ化学エネルギーと、加熱や圧縮に使うエネルギーを合計した値を、電力量の単位へ換算しただけです。IEAによれば、投入エネルギーの約40%は水素の原料となる化石燃料に含まれ、残りは主に熱や動力として使われます[3]。
同報告は、世界のアンモニア生産が最終エネルギー消費の約2%、年間8.6 EJを占めると推計しています[3]。EJ(エクサジュール)は $10^{18}$ Jです。約2%と8.6 EJは2020年前後の生産構成に基づく値であり、将来も一定とは限りません。
13. 二酸化炭素はどこから出るのか
アンモニア合成の反応式には炭素がありません。
$$
\mathrm{N_2 + 3H_2 \rightarrow 2NH_3}
$$
したがって、合成反応そのものから二酸化炭素は発生しません。従来型の工場で二酸化炭素が出る主な理由は、天然ガスや石炭から水素をつくるためです。
天然ガスの主成分であるメタンを水蒸気改質し、シフト反応まで行った全体式は、次のようにまとめられます。
$$
\mathrm{CH_4 + 2H_2O \rightarrow CO_2 + 4H_2}
$$
アンモニア1トンに必要な水素の理論量を約178 kgとすると、水素は約88.3 kmolです。上の反応式では水素4 molにつき二酸化炭素1 molが生じるため、二酸化炭素は約22.1 kmol、質量では約0.97トンになります。
$$
22.1\ \mathrm{kmol}\times44.0\ \mathrm{kg/kmol}
\approx970\ \mathrm{kg}
$$
この0.97トンは、メタン中の炭素がすべて二酸化炭素になり、回収されないと仮定した化学量論上の値です。実際には、改質炉を加熱する燃料の燃焼でも二酸化炭素が出ます。石炭ガス化を使う工場は、一般に天然ガス原料より排出量が大きくなります。
IEAの2021年報告は、世界平均の直接排出量をアンモニア1トンあたり約2.4トン、年間約4.5億トンと推計しています[3]。直接排出とは、主に工場の敷地内で原料転換や燃料燃焼から生じる二酸化炭素です。発電所での電力製造、天然ガス採掘時のメタン漏出、輸送、肥料使用後の排出まで含むライフサイクル排出とは区別する必要があります。
グリーンアンモニアでは、一般に水を電気分解して水素をつくり、その電力を再生可能エネルギーで供給します。窒素は空気分離装置などから得ます。その後のアンモニア合成には、ハーバー・ボッシュ型の高圧合成ループを使うことが多いため、変更の中心は水素と窒素の供給工程です。
再生可能電力の出力は天候で変動します。電解槽、合成ループ、水素貯蔵、蓄電、電力系統をどのように組み合わせるかが設計上の課題になります。高温・高圧の合成ループは定常運転で効率を上げやすいため、変動する水素供給へ対応する柔軟性も必要です[3]。
サウジアラビアのNEOM Green Hydrogen Companyは、設計上、最大で1日600トンの水素を製造し、年間最大120万トンのグリーンアンモニアとして出荷する計画を進めています。事業者が2026年3月26日に公表した時点で、建設進捗は全体の90%で、最初のアンモニア供給は2027年の予定です[25]。600トン/日、120万トン/年、2027年はいずれも設計能力または計画値であり、実際の生産量は稼働後に確認する必要があります。
第IV部:歴史──なぜ人工窒素固定が必要とされたのか
14. 19世紀末の窒素問題
植物は、アミノ酸、タンパク質、DNA、葉緑素などをつくるために窒素を必要とします。しかし、多くの植物は大気中の窒素分子を直接利用できません。根から主に吸収するのは、アンモニウムイオン $${\mathrm{NH_4^+}}$$ や硝酸イオン $${\mathrm{NO_3^-}}$$ など、水や土壌中で反応しやすい形の窒素です。アンモニウムイオンや硝酸イオンなどを、反応性窒素と呼びます。
マメ科植物は例外に見えますが、植物自身が窒素分子を分解しているわけではありません。根粒に共生する細菌が窒素分子をアンモニアへ変え、その窒素を植物が利用します。この反応を生物学的窒素固定と呼びます。
ハーバー・ボッシュ法以前の農業では、主に次の窒素源が使われていました。
家畜ふん尿、人間の排泄物、堆肥
マメ科植物と根粒菌による生物学的窒素固定
海鳥の排泄物が堆積したグアノ
チリの硝石鉱床
石炭乾留やコークス製造で副生する硫酸アンモニウム
各窒素源の性質は同じではありません。ふん尿、堆肥、生物学的窒素固定は再生可能ですが、土地、家畜数、労働、作付け面積に制約されます。グアノと硝石は採掘資源であり、埋蔵量が有限で、産地も限られていました。農業生産が拡大するにつれて、安定して大量供給できる窒素源が求められました。
1898年、イギリスの化学者ウィリアム・クルックスは英国学術協会の会長講演で、将来の小麦供給を懸念し、大気中の窒素を利用可能な形へ変える必要があると訴えました[5]。クルックスの人口・食料予測はそのまま実現しませんでしたが、農業用窒素の供給を拡大する必要性を早くから示した発言として知られています。
当時、人工窒素固定にはハーバー法以外の方式もありました。電気アークで空気中の窒素と酸素を反応させるビルケランド・アイデ法や、炭化カルシウムから石灰窒素をつくるフランク・カロ法です。ただし、電弧法と石灰窒素法は電力消費や工程上の制約が大きく、最終的にはハーバー・ボッシュ法が主流になりました。
硝石とアンモニアは、肥料の原料であると同時に硝酸・爆薬の原料でもあります。人工窒素固定は、食料供給と軍需の両方に関係する技術として発展しました。
15. フリッツ・ハーバーとロベルト・ル・ロシニョール
フリッツ・ハーバーは1868年、当時プロイセン領だったブレスラウ、現在のポーランド・ヴロツワフのユダヤ系家庭に生まれました。
20世紀初頭、窒素、水素、アンモニアの平衡組成については、測定値や工業化の見通しをめぐって議論がありました。低圧の実験ではアンモニアの生成量が小さく、高圧でどこまで増やせるかを正確に測る必要がありました。ハーバーはカールスルーエで平衡を測定し、高圧、適切な温度、触媒、生成物の分離、未反応ガスの循環を組み合わせれば、連続的にアンモニアを得られることを示しました。
実験装置の設計と製作で重要な役割を担ったのが、助手のロベルト・ル・ロシニョールです。彼は高圧バルブ、ポンプ、ガス循環装置を開発しました。BASFは1908年3月に研究支援を始め、1909年7月2日、ハーバーとル・ロシニョールはBASFの担当者に連続合成装置を実演しました[10]。
実演ではオスミウム触媒が使われ、液体アンモニアが毎時約125 mLの速度で得られたと報告されています[10]。量は小さくても、反応、冷却分離、再循環を連続して行えることが工業化の出発点になりました。
オスミウムは希少で高価なため、大規模工場の触媒には適しませんでした。実験室で反応を成立させることと、安価な原料で長期間運転できる工場をつくることの間には、別の課題が残っていました。
16. カール・ボッシュ──高圧反応を工業化する
カール・ボッシュは1874年にケルンで生まれ、冶金学と機械工学を学んだ後、化学へ進みました。この経歴は、高圧反応器の材料と構造を扱ううえで重要でした。
BASFで工業化を担当したボッシュのチームは、主に三つの問題に取り組みました[8]。
大量で安価な窒素と水素を供給する方法
希少なオスミウムに代わる実用触媒
高温・高圧の水素に耐える大型反応器
実験装置を単純に大きくすると、発熱量、熱の逃げ方、流速、圧力損失、材料の変質が変わります。相似形を保ったまま装置の縦・横・高さをそれぞれ同じ倍率で拡大すると、体積は倍率の3乗、表面積は2乗に比例して増えます。そのため、装置が大きいほど体積あたりの表面積が小さくなり、反応熱を外へ逃がしにくくなります。スケールアップを単純な拡大コピーとして扱えない理由の一つです。
ボッシュの仕事は、反応式を変更することではなく、原料製造、触媒、圧縮機、反応器、配管、計測、熱回収を一つの連続プロセスとして成立させることでした。
17. アルヴィン・ミッタッシュ──実用触媒の探索
BASFで触媒開発を率いたのがアルヴィン・ミッタッシュです。彼のチームは2,500種類を超える触媒組成を試験し、鉄を主成分とし、複数の助触媒を加えた材料へ到達しました[2]。試験回数は、配合変更や反復実験まで含めると2万回を超えたとする資料もありますが、集計方法によって数字が異なります。
工業触媒に必要なのは、反応速度だけではありません。少なくとも次の条件が求められます。
原料を大量かつ安価に入手できる
製造時の品質をそろえられる
高温・高圧下で構造を保つ
長期間の運転で性能が急激に低下しない
不純物の影響を管理できる
オスミウムは活性が高くても、希少性と価格が工業利用を妨げました。鉄はオスミウムより豊富で、適切な助触媒と製造法を組み合わせることで、工業的に十分な性能と耐久性を得られました。
促進鉄触媒は現在も広く使われています。一方、ルテニウム系触媒などを採用するプロセスもあり、すべての現代プラントが同じ触媒を使っているわけではありません。
18. 高温高圧の水素が鋼を弱くする
初期の大型反応器では、運転開始後およそ80時間で鋼製容器が損傷した例が報告されています[2]。高温・高圧の水素は鋼中へ入り込み、鋼中の炭素と反応してメタンをつくります。炭素が失われると鋼の強度が低下し、内部に亀裂や空隙が生じます。この現象は高温水素侵食と呼ばれ、脱炭を伴います。
ボッシュのチームは、内側と外側へ異なる役割を持たせる構造を開発しました[11]。
内側:炭素の少ない軟鉄ライナーを置き、高温反応ガスに接触させる
外側:強度の高い鋼製容器で圧力を支える
両者の間:ライナーを透過した水素を逃がす通路を設ける
内側の材料は水素に接しても脱炭の影響を受けにくく、外側の鋼は高濃度の水素から隔てられます。材料の機能を分けることで、大型の高圧反応器を長期間運転できるようになりました。
1913年9月9日、BASFのオッパウ工場で、世界初の工業規模の合成アンモニア工場が操業を始めました[11]。
ハーバーが反応条件と連続実験を示し、ル・ロシニョールが装置を設計し、ミッタッシュのチームが触媒を開発し、ボッシュを中心とするBASFの技術者・職人が工場へ拡大した、と整理するのが適切です。
第V部:戦争、事故、人物の選択
19. 第一次世界大戦と合成窒素
アンモニアは、オストワルト法で酸化すると硝酸になります。硝酸は、硝酸アンモニウム、ニトログリセリン、TNTなどの爆薬製造に使われます。肥料と爆薬は同じ物質ではありませんが、どちらの製造にも反応性窒素が必要です。
第一次世界大戦が始まると、連合国側の海上封鎖によって、ドイツはチリ硝石を輸入しにくくなりました。国内で合成されたアンモニアは、肥料に加えて、硝酸と弾薬の窒素源になりました[4]。
合成アンモニアがドイツの弾薬生産継続を支えたことは広く認められています。ただし、戦争の期間や勝敗を一つの技術だけで説明することはできません。軍事戦略、資源配分、兵站、政治判断、他の工業力も戦争の推移を左右しました。
ハーバー・ボッシュ法は、食料生産と兵器生産のどちらにも使えるデュアルユース技術です。デュアルユースとは、同じ知識や設備が民生目的と軍事目的の両方に利用できることを指します。
20. ハーバーと化学兵器
ハーバーは第一次世界大戦中、ドイツの化学兵器研究を主導しました。彼が所長を務めたカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所は、化学兵器と防護技術の研究拠点になりました[14]。
1915年4月22日、ドイツ軍はベルギーのイーペル付近で約167トンの塩素を放出しました。マックス・プランク科学史研究所の資料は、少なくとも約1,000人が死亡し、約4,000人が負傷したとしています[16]。死傷者数には史料による幅があります。この攻撃の準備と実施にはハーバーが中心的に関わりました。
化学剤は第一次世界大戦以前にも使用例がありますが、イーペルの攻撃は、近代戦における大規模な致死性化学剤使用の転換点と位置づけられます。「大量破壊兵器の最初の使用」と表現する資料もありますが、大量破壊兵器という概念は後世の分類であり、本文では、大規模化学攻撃と記述する方が誤解を避けられます。
ハーバーは、化学兵器によって戦争を早く終わらせられると考えていました。この主張は、結果を予測できない兵器研究を目的によって正当化できるか、科学者が使用結果にどこまで責任を負うか、という問題を提起します。
妻のクララ・イマーヴァールも化学者で、1900年にブレスラウ大学で博士号を取得しました。彼女は1915年5月に自死しました。化学戦への抗議が直接の動機だったという説明は広く流布していますが、残された同時代資料だけでは断定できません。夫婦関係、研究者としての活動の制約、戦争、身近な人々の死など、複数の要因が指摘されています[15]。
21. 1921年のオッパウ爆発
1921年9月21日、BASFオッパウ工場で、約4,500トンの硫硝酸アンモニウムが保管されていたサイロが爆発しました[12]。4,500トンは保管量であり、全量が爆発したわけではありません。爆発に関与した量は資料によって幅がありますが、数百トン規模と推定されています[12][13]。公式記録では561人が死亡し、1,952人が負傷し、7,500人以上が住居を失いました[13]。
硫硝酸アンモニウムは、硝酸アンモニウムと硫酸アンモニウムからなる肥料です。貯蔵中に固まりやすいため、当時は少量の爆薬で固化した塊を崩していました。事故までに2万回を超える発破作業が大きな事故なく行われていました[12]。
1921年初め、製造工程へ噴霧乾燥法が導入されました。BASFが公表する現在の再検討では、この変更によって粒子の大きさ、密度、含水率、結晶状態が変わり、従来は安全と考えられていた混合比でも爆発可能な状態が生じたとされています。また、サイロ内に硝酸アンモニウム濃度の高い粉末が局所的に形成された可能性もあります[12]。ただし、各要因がどのように連鎖したかを完全に再現することはできていません。
事故ではオッパウの約2,000棟が損傷し、そのうち1,036棟が全壊しました[12]。「建物の約8割」という説明は町の被害を指す資料に由来し、工場建物だけの被害率ではありません。
この事故は、化学組成だけで危険性を判断できないことを示します。粒径、密度、含水率、結晶構造、混合の均一性、閉じ込め条件が変わると、同じ組成の物質でも挙動が変わります。また、過去の無事故実績は、工程や材料の条件が変わった後の安全を保証しません。
22. ノーベル賞、亡命、ナチ体制下のボッシュ
ハーバーは「元素からのアンモニア合成」により、1918年のノーベル化学賞を受賞しました[6]。受賞決定は第一次世界大戦後に公表され、化学兵器開発への関与を理由に批判も受けました。
ボッシュは1931年、フリードリヒ・ベルギウスとともに「化学的高圧法の発明と開発への貢献」でノーベル化学賞を受賞しました[7]。受賞理由が特定の化合物ではなく高圧法であることは、ボッシュの貢献がアンモニア以外の高圧化学工業にも広がったことを示します。
ハーバーはドイツへの強い帰属意識を持ち、第一次世界大戦では国家の戦争遂行に協力しました。しかし、ユダヤ系の家庭に生まれていたため、ナチ政権成立後の人種政策の対象になりました。1933年、研究所のユダヤ系職員を解雇するよう迫られると、ハーバーは所長を辞任してドイツを離れました[6]。1934年、移動中にスイスのバーゼルで死去しました。
ボッシュはユダヤ系科学者の排除に反対し、迫害を止めるよう働きかけました。一方で、IG Farbenの最高経営層としてナチ政権下の経済政策から利益を得た面もあり、1937年にはカイザー・ヴィルヘルム協会会長に就任しました[11][27]。同協会には同年、指導者原理が導入されました。ボッシュの行動には、迫害への反対と体制下の組織指導者としての関与が併存しています。
歴史上の人物を一つの評価語で整理すると、科学的貢献、政治的選択、組織上の責任の違いが見えにくくなります。ハーバーとボッシュの行為は、時期と役割ごとに検討する必要があります。
第VI部:食料生産と環境負荷
23. 「世界人口の約半分を養う」という推計
ハーバー・ボッシュ法の社会的影響を示す数字として、合成窒素肥料が世界人口の約半分を支えている、という推計がよく引用されます。
エリスマンらが2008年に『Nature Geoscience』へ発表した論文では、合成窒素肥料によって支えられている人口の割合を次のように推計しています[4]。
2000年:約44%
2008年:約48%
同じ論文は、耕地1ヘクタールあたりで支えられる人数が、1908年の約1.9人から2008年の約4.3人へ増え、その増加には合成窒素肥料が大きく寄与したと推定しています。また、1908年から2008年までに生まれた人の約42%、累計で約40億人分の出生が合成窒素に支えられたと試算しました[4]。
44%と48%は2008年時点で公表された推計です。現在の人口に48%をそのまま掛ければ約40億人規模になります[17]。ただし、肥料使用量、農業技術、食生活、貿易構造は変化しています。そのため、「現在、正確に何人が依存しているか」を直接示す測定値ではありません。
タイトルの「80億人の時代を支える」は、80億人全員が合成肥料だけで養われているという意味ではありません。合成窒素が、人口80億人を超える世界の食料システムを構成する主要技術の一つである、という意味です。
24. 48%はどのように計算されたのか
「合成肥料がなければ、世界人口はどの程度まで養えたか」は、現実には観察できません。そこで、合成窒素が存在しない世界を仮定し、実際の世界と比較します。このような、実際には起きなかった条件を仮定する分析を反実仮想分析と呼びます。
推計には、少なくとも次の要因を分けて考える必要があります。
品種改良と高収量品種の普及
灌漑
農業機械
農薬
リン・カリウム肥料
作付け方法の改善
農地面積の拡大
国際貿易と食料配分
食肉・乳製品など、窒素を多く必要とする食品の消費量
エリスマンらは、合成窒素がなかった場合でも、1950〜2000年には他の技術改良によって農業生産性が20%向上したと仮定しています[4]。この仮定を変えれば、合成窒素の寄与率も変わります。著者自身も、機械化、品種改良、作付け方法などを完全に分離するのは難しいと述べています。
別の検討として、スチュワートらは362作期分の長期試験などを検討し、窒素・リン・カリウムを含む市販肥料が作物収量の少なくとも30〜50%に寄与するという一般化は、妥当で保守的な推定だと結論づけました[19]。この研究は窒素肥料だけの寄与を推定したものではないため、ハーバー・ボッシュ法の効果を独立に証明する資料としては扱えません。ヴァーツラフ・シュミルは、合成窒素肥料がなければ世界の作物収穫量は大幅に小さくなると論じています[18]。
したがって、「およそ半分」は影響の規模を示す表現としては有用です。一方、「48%」を誤差のない現在値として扱うことはできません。
合成窒素が人口増加を単独で引き起こした、と考えるのも適切ではありません。人口は出生率、死亡率、医療、衛生、所得、教育、社会制度など多くの要因で変化します。合成窒素肥料は、人口を制約していた食料生産上の要因の一つを緩和しました。
25. 投入した窒素はどこまで食料になるのか
エリスマンらの整理では、2005年に農業へ投入されたハーバー・ボッシュ由来の窒素は約100 Tg Nでした。人間が作物、乳製品、肉として摂取した窒素は約17 Tg Nでした[4]。
Tgはテラグラムの略で、$${10^{12}}$$ g、すなわち100万トンです。
農業への投入:約1億トンの窒素
人間による食料としての摂取:約1,700万トンの窒素
17%という比率は、畑で作物が吸収した割合だけを示すものではありません。飼料生産、家畜の代謝、食品加工、流通、家庭での廃棄まで含む、食料システム全体の回収率に近い値です。残りのすべてが直ちに環境汚染になるわけでもありません。土壌有機物、作物残さ、家畜ふん尿、貯蔵中の食品などへ移る窒素もあります。
窒素利用効率は、投入した窒素のうち、目的の生産物として回収された割合を表します。ただし、研究によって対象範囲と計算方法が異なります。畑だけを対象にする場合と、食料システム全体を対象にする場合では、同じ「窒素利用効率」でも値は一致しません。
エリスマンらは、世界の穀物生産における窒素利用効率が、1960年ごろの約80%から2000年ごろには約30%へ低下したとまとめています[4]。肥料投入量の増加に対して、追加の収量増加が小さくなる地域が増えたためです。肥料が不足している地域と、過剰投入されている地域が同時に存在することも、世界平均だけでは見えにくい点です。
26. 窒素カスケード
作物に吸収されなかった反応性窒素は、化学形を変えながら大気、土壌、河川、地下水、海を移動します。一つの窒素原子が複数の環境影響を順に引き起こす現象を、窒素カスケードと呼びます[4]。
主な移動経路は次のとおりです。
肥料や家畜ふん尿からアンモニア $${\mathrm{NH_3}}$$ が揮発する
土壌中でアンモニウムが硝酸へ変わり、硝酸イオンが地下水や河川へ流出する
土壌微生物の働きで一酸化窒素 $${\mathrm{NO}}$$ や亜酸化窒素 $${\mathrm{N_2O}}$$ が生じる
大気中の窒素化合物が別の土地や水面へ沈着する
河川から沿岸域へ窒素が運ばれる
硝酸イオンが湖や沿岸海域へ大量に入ると、藻類や植物プランクトンの増殖が促されます。栄養塩の過剰供給によって水域の生物生産が高まる現象を、富栄養化と呼びます。藻類が死んだ後、微生物が分解するときに水中の酸素を消費します。酸素濃度が低下し、魚や底生生物が生きにくくなった水域が貧酸素水域、通称デッドゾーンです。
アンモニアと窒素酸化物は、大気中で反応して粒子状物質をつくり、大気汚染に関係します。亜酸化窒素は温室効果ガスであり、成層圏オゾンの減少にも関係します。
余剰窒素の一部は、脱窒によって大気中の窒素分子 $${\mathrm{N_2}}$$ に戻ります。エリスマンらは、環境へ失われた肥料窒素の約40%が最終的に脱窒されるという推計を紹介しています[4]。窒素分子まで完全に戻れば反応性は低くなりますが、脱窒の途中で亜酸化窒素が生じる場合があります。また、いったん大きなエネルギーを使って固定した窒素を、利用せずに大気へ戻すことはエネルギー損失でもあります。
同論文は、20世紀末までに人為起源の一酸化窒素とアンモニアの排出が産業化以前の約5倍になり、陸域から沿岸域へ移動する反応性窒素が約2倍になったと整理しています[4]。約5倍と約2倍は当時の世界推計であり、地域や年代による差があります。
27. プラネタリー・バウンダリーの数字
プラネタリー・バウンダリーは、地球システムが比較的安定した状態を保つための「安全な活動領域」を、複数の指標で評価する研究枠組みです。境界値を一度超えた瞬間に急変が必ず起こる、という物理的な崖を示すものではありません。境界を超えるほど、大規模で回復しにくい変化のリスクが高まる、という考え方です。
2023年のリチャードソンらの更新では、九つの境界のうち六つが超過していると評価されました[20]。窒素については、農業システムへ意図的に投入される固定窒素の境界値を年間62 Tg Nとしています。
同論文に示された値は、次のとおりです[20]。
工業的に固定された窒素肥料の投入:約112 Tg N/年
農業に関係する生物学的窒素固定:約30〜70 Tg N/年
人為的に固定され農業へ入る窒素の合計:約190 Tg N/年
約190 Tg N/年は、同論文がFAOの集計として示した総量です。112 Tg N/年と30〜70 Tg N/年を単純に足して得た一点の値ではありません。推計年や集計範囲が完全には同じでなく、生物学的窒素固定量にも幅があるためです。
工業肥料112 Tg Nだけを境界値62 Tg Nと比べると約1.8倍です。生物学的固定を含む合計190 Tg Nを比べると約3.1倍になります。どちらを分子に置くかで倍率が変わるため、「1.8倍」とだけ書くと、評価対象の全量を示しているように誤解されます。
この枠組みには、境界値の設定、地域差の扱い、生物学的固定量の不確実性などをめぐる議論があります。数値は政策上の法的上限ではなく、地球システム科学に基づくリスク指標として読む必要があります。
28. 肥料をなくせば解決するわけではない
窒素肥料は環境負荷を生む一方、単位面積あたりの収量を増やします。同じ量の食料を少ない農地で生産できれば、森林や草原を農地へ転換する圧力を弱められます。IEAも、肥料による収量増加には自然生態系の農地転換を抑える側面があると指摘しています[3]。
合成窒素肥料を急に全廃すれば、食料生産量の低下、価格上昇、農地拡大が起こる可能性があります。問題は、肥料を使うか使わないかの二択ではなく、必要量を超えて環境へ失われる窒素を減らすことです。
主な対策には次のものがあります。
土壌診断と収量予測に基づいて施肥量を決める
作物が必要とする時期に分けて施肥する
根の近くへ施肥し、流出と揮発を減らす
緩効性肥料や硝化抑制剤を適切に使う
マメ科作物を輪作へ組み込む
家畜ふん尿と下水中の窒素を回収・再利用する
食品廃棄を減らす
飼料から畜産物への変換損失が大きい食品の消費量を検討する
施肥管理では「適切な肥料源、適切な量、適切な時期、適切な場所」という四つの観点がよく使われます。地域によっては肥料不足を解消する必要があり、別の地域では過剰施肥を減らす必要があります。世界平均の削減目標だけでなく、地域ごとの土壌、作物、所得、食料需要に合わせた対策が必要です。
第VII部:戦争の死者数をどう読むか
29. 「1億〜1億5,000万人」という数字
エリスマンらの2008年論文は、ハーバー・ボッシュ法でつくられた反応性窒素が世界の弾薬供給の基盤になり、その使用を20世紀の武力紛争による1億〜1億5,000万人の死と直接結びつけられる、と記しています[4]。
ただし、この数字は「ハーバー・ボッシュ法が原因で死亡した人数」を統計的に推定したものではありません。引用元は20世紀の戦争による総死者数の集計です。
論理を分けると、次の三点になります。
近代戦では大量の弾薬が消費された
多くの爆薬には反応性窒素が必要だった
20世紀にはハーバー・ボッシュ法が反応性窒素の主要供給源になった
この構造的な依存関係は重要です。しかし、ハーバー・ボッシュ法が存在しなければ、その死者がすべて生じなかったとは言えません。チリ硝石、石灰窒素法、電弧法などの代替窒素源もありました。戦争の発生と死者数には、政治、国家体制、軍事戦略、兵站、医療、他の兵器技術が関係します。
したがって、1億〜1億5,000万人という値を「この技術の犠牲者数」として見出しに使うのは適切ではありません。より確実に言えるのは、ハーバー・ボッシュ法が20世紀の大規模な食料生産と弾薬生産の両方を支える基盤技術になった、ということです。
第VIII部:アンモニアを燃料に使う議論
30. 碧南火力発電所の20%転換実証
アンモニアには炭素原子がないため、燃焼場所では二酸化炭素を生成しません。その性質を利用し、石炭火力で使う燃料の一部をアンモニアへ置き換える実証が進められています。
2024年4〜6月、NEDO、JERA、IHIは、愛知県の碧南火力発電所4号機で実証試験を行いました[22][23]。4号機の定格出力は100万kWです。事業者は、大型商用石炭火力で熱量比20%をアンモニアへ置き換える実証として世界初と説明しています。
熱量比20%とは、投入燃料が持つエネルギーの20%をアンモニアで供給するという意味です。燃料の質量の20%がアンモニアという意味ではありません。アンモニアは石炭と発熱量が異なるため、質量比と熱量比は一致しません。
事業者の公表結果は次のとおりです[22]。
定格出力100万kWで熱量比20%のアンモニア転換を達成
窒素酸化物は石炭専焼時と同等以下
硫黄酸化物は約20%減少
亜酸化窒素は検出限界未満
発電設備の運用性は石炭専焼時と同程度
公表された数値は、燃焼設備での試験結果です。アンモニア燃料の気候効果を評価するには、製造から輸送、燃焼までのライフサイクル排出を調べる必要があります。
天然ガス由来アンモニアを使う場合、製造工程で二酸化炭素が発生します。CCS(Carbon Capture and Storage、二酸化炭素回収・貯留)を使う場合も、回収率、天然ガス採掘時のメタン漏出、圧縮・輸送・貯留のエネルギーが結果に影響します。再生可能電力と水電解でつくるアンモニアも、設備製造、電力構成、輸送を含めれば排出が完全にゼロとは限りません。
したがって、「燃焼時に二酸化炭素を出さない」ことと、「ライフサイクルで温室効果ガスを大幅に減らす」ことは別の主張です。石炭火力のアンモニア転換を評価するには、少なくとも次の点を確認する必要があります。
アンモニアの製造方法
製造時の二酸化炭素回収率
天然ガス供給網のメタン漏出
輸送距離と燃料
発電効率
NOx、N2O、未燃アンモニアの排出
同じ資金で導入できる他の発電・蓄電手段との比較
環境団体からは、化石燃料由来アンモニアの利用が石炭火力の運転期間を延ばし、排出場所を発電所からアンモニア工場へ移すだけになる可能性がある、という批判があります[24]。一方、事業者は、火力設備を維持しながら燃料を段階的に低炭素化し、電力需給の調整力を確保する手段と位置づけています。評価には、個別プロジェクトのライフサイクル排出量と費用を比較する必要があります。
31. 低排出アンモニアの技術選択肢
アンモニア製造の排出を減らす方法として、主に次の方式が検討されています。
グリーンアンモニア:再生可能電力による水電解水素を使う
ブルーアンモニア:化石燃料から水素をつくり、二酸化炭素を回収・貯留する
メタン熱分解:メタンを水素と固体炭素に分ける
低温・低圧合成:新しい触媒や吸収・分離法で合成条件を緩和する
電気化学的窒素還元:電気を使って窒素から直接アンモニアをつくる
名称だけでは排出量は決まりません。ブルーアンモニアでは二酸化炭素回収率とメタン漏出、グリーンアンモニアでは電力の由来と設備利用率、メタン熱分解では熱源と固体炭素の保管・利用方法が重要です。
低温・低圧触媒と電気化学的合成は活発な研究分野ですが、従来法と同じ規模、効率、耐久性、価格で商業生産できる段階には達していない方式が多くあります。実験室でアンモニアが検出できることと、年間数十万トンを安定生産できることは別の課題です。
IEAの2021年の持続可能な発展シナリオでは、2050年までに低排出に近い製造法を生産量の約70%へ拡大し、110 GWを超える電解槽をアンモニア向けに導入する必要があると試算しました[3]。1 GWは100万kWです。110 GW超という値は将来予測ではなく、一定の気候目標を満たすために必要とされたシナリオ上の導入量です。
20世紀初頭の課題は、高温・高圧反応を安全かつ連続的に運転することでした。21世紀の課題は、食料生産を維持しながら、水素製造と肥料使用に伴う温室効果ガス・反応性窒素の排出を減らすことです。
まとめ
化学
$$
\mathrm{N_2 + 3H_2 \rightleftharpoons 2NH_3}
$$
アンモニア合成を工業的に成立させる要素は、次の六つに整理できます。
高圧:平衡をアンモニア側へ移す
高温:反応速度を上げる。ただし平衡には不利になる
触媒:活性化エネルギーの低い反応経路を与える
冷却・分離:アンモニアを循環ガスから取り除く
再循環:未反応の窒素と水素を再利用する
熱統合:反応熱と高温ガスの熱を工場内で利用する
人物と工業化
ハーバー:反応条件と連続合成を示した
ル・ロシニョール:高圧・循環実験装置を設計した
ミッタッシュとBASFの研究チーム:実用鉄触媒を開発した
ボッシュとBASFの技術チーム:原料供給、高圧装置、材料、熱管理を統合した
ハーバー・ボッシュ法は、個人一人の発見ではなく、基礎化学、触媒研究、機械工学、材料工学、化学工学を組み合わせた成果です。
社会への影響
合成アンモニアは、天然の硝石やグアノに制約されていた窒素供給を工業化し、作物収量の増加に大きく寄与しました。2008年の研究では、合成窒素肥料が世界人口の約48%を支えていたと推計されています[4]。この数字は反実仮想モデルによる推計であり、正確な現在値ではありません。
同じ技術は爆薬の窒素源にもなりました。製造には大量のエネルギーが必要で、化石燃料由来の水素は二酸化炭素を排出します。肥料として利用された後の窒素は、富栄養化、大気汚染、亜酸化窒素排出、生態系変化に関係します。
ハーバー・ボッシュ法は、便益と負担のどちらも大きい基盤技術です。今後の課題は、アンモニアを単に増産することではなく、低排出で製造し、肥料としての利用効率を上げ、環境へ失われる窒素を減らすことです。
高校化学とのつながり
化学平衡:平衡定数、正反応と逆反応
ルシャトリエの原理:圧力と温度の影響
反応速度:活性化エネルギー、温度依存性、律速段階
触媒:別の反応経路、吸着、活性点、触媒毒
熱化学:反応エンタルピー、発熱反応と吸熱反応
モル計算:反応式、物質量、質量、化学量論比
気体:分圧、モル分率、圧縮
相平衡:圧力による沸点・凝縮条件の変化
化学工学:転化率、濃度、分離、再循環、パージ、熱交換
確認問題
アンモニア合成の平衡定数 $${K_p}$$ は、温度が上がるとどのように変わるか。発熱反応であることから説明せよ。
低温ほど平衡上は有利なのに、工場が400〜500℃で運転されるのはなぜか。
触媒を加えると、同じ温度・圧力での平衡組成は変化するか。
出口ガスのアンモニア濃度20 mol%と、窒素の単通過転化率20%は、なぜ同じ意味ではないのか。
アンモニア1トンの製造で、メタン中の炭素から化学量論上約0.97トンの二酸化炭素が生じる。世界平均の直接排出量が0.97トンより大きい理由を説明せよ。
「合成窒素肥料が世界人口の約半分を支える」という推計には、どのような仮定が必要か。
石炭火力でアンモニアを燃やす場合、発電所での排出だけでなく、どの工程を調べる必要があるか。
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[20] Richardson, K. et al., “Earth beyond six of nine planetary boundaries,” Science Advances 9, eadh2458 (2023) — https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10499318/
[21] US EPA, Agricultural Chemical Industry Sector Notebook Project — https://archive.epa.gov/compliance/resources/publications/assistance/sectors/web/pdf/agchem.pdf
[22] JERA「碧南火力発電所における燃料アンモニア転換実証試験の終了について」2024年6月26日 — https://www.jera.co.jp/news/notice/20240626_1954
[23] NEDO・JERA・IHI「JERA碧南火力発電所における燃料アンモニア転換実証試験を開始」2024年4月1日 — https://www.nedo.go.jp/news/press/AA5_101733.html
[24] FoE Japan「JERA碧南火力でのアンモニア混焼実証試験に対し抗議」2024年3月26日 — https://foejapan.org/issue/20240326/16707/
[25] NEOM Green Hydrogen Company, “World’s Largest Green Hydrogen Plant Achieves 90% Overall Construction Completion Across All Sites,” 26 March 2026; “The Plant” — https://nghc.com/news/worlds-largest-green-hydrogen-plant-achieves-90-overall-construction-completion-across-all-sites/ ; https://nghc.com/the-plant/
[26] International Fertilizer Association, Public Summary: Medium-Term Fertilizer Outlook 2025 — https://www.fertilizer.org/wp-content/uploads/2025/07/2025_IFA_Medium_Term_Outlook_Report.pdf
[27] Max Planck Society, “Carl Bosch” and “The KWS introduces the ‘Führerprinzip’ (1937)” — https://www.mpg.de/8241495/carl-bosch ; https://www.mpg.de/946951/1937-the-kws-introduces-fuehrerprinzip
プロジェクト進捗と生産統計は、2026年8月7日時点で確認しました。数値には、測定値、推計値、計画値が含まれます。本文では可能な限り、値が示す年、対象範囲、推計上の前提を併記しました。とくに「世界人口の何%を支えるか」「戦争死者との関係」「燃料アンモニアの排出削減効果」は、単一の数字だけで結論を出せない論点です。
