太宰治『斜陽』を、読んでいます。
ページをめくる指先の動きが、止まらないっ!
文豪、やっぱすげえぇ~。(唖然)
これらは、太宰治の『斜陽』を読んでいる今の私の心情を、たった2行に凝縮したものであります。
以前の記事にて、ある作戦を繰り出したことを書きました。
「近代文学に手が出せないなら、まずは文豪たちの生態を知ることから始めよう」というものです。
(以下の、怪しげなタイトルのリンクを参照)
これが、自身にとって驚くほどに効果的であったようで。
彼らの、少々(というか相当?)奇想天外な性質を目の当たりにし、好奇心に火がついたわけです。
結果『斜陽』を読む、という行動を起こすことが叶いました。
そして、読んでいると、感慨深いなと思うことが多々あります。
まず、太宰さんの性質について。
「孤独感が強く、厭世観を抱えていた」とされる彼。
確かにそれは、文章からも見て取ることができました。
あまりに自然で素直な文体からは、言葉を愛し言葉に愛されたのだろう、と感じさせられます。
それはもはや、「彼の味方は、言葉だけだったのでは」と思うほど。
そして、人間の機微を余すことなく監察する目からは、厭世観とは対照をなすような「生へのまなざし」が感じられると思うのです。
「生に執着しないどころか、生きることに真面目になりすぎたのではないか」
なんてことを、まだまだ無知ながら感じました。
そして、何十年も前に出版された作品ならではの、読者の数。
今に至るまで、一体何人の人々が、この『斜陽』に触れたのでしょうか。
作品は一つでも、それを読んだ人の感想・思いはそれぞれです。
自分の人生で培った自分だけの感覚で読む、物語。
同じ文章を読んで想像する景色は、十人十色。
こうして、読んだ人の数だけ『斜陽』の物語があるとするならば、
それは本当に本当に、尊いことだと感じます。
自らの手を離れたあとにも、自らの意思を乗せた作品が人々の心に残り、時にはその人生の糧となる。
そんな所業を成し遂げた彼ら文豪は、きわめて、ひたすらに、どうしようもなく、かっこいい。
そう、思います。
ああ、私の文章といったら。
「かっこいい」などと、なんて稚拙な表現なのでしょうか。
彼らの生きざまを見、どこかからじんわりと涙があふれてきそうなほどに感動しているのに、それを伝える術がまだ、ない。
もどかしい。本当に、もどかしいです。
続けていればいつか、「人に伝えられる文章」を書けるようになる日が来るのでしょうか。
これから数々の近代文学を読むにあたり、
文章力という面ではもちろん、書くことに命を注ぐ姿勢等、
少しでも我が身に吸収させることができたらと、願います。
