明治OS解体新書 第2回:伊藤博文――なぜ「民意のペダル」は車輪に直結されなかったのか
大久保の配線図を、次の段階へ引き継いだ男
大久保利通は、「民意を国家の駆動系へ直結させない、中央集権のマシン」を組み上げた。
その配線図を引き継ぎ、次の段階――民意を受け取る端子そのものを、正式な制度として作り込むという仕事を担当したのが、伊藤博文だった。
伊藤の役割を、あえて機械の構造にたとえるなら、こう表現できる。
民意という入力を、正式に国家というOSへ接続する。
ただし、その信号がどの回路まで届くのかは、精密に制御する――そういう設計者だった。
二つの圧力に挟まれた1880年代
1880年代の日本は、外と内、二つの方向から同時に圧力を受けていた。
外からの圧力は、近代国家としての制度的な信用を示さなければならない、という要求だ。
欧米列強との条約改正には、近代的な法典や司法制度の整備が強く求められていた。
さらに、憲法を制定し、立憲制を確立することは、日本が「近代国家として通用する制度の規格」を備えていることを示すための、重要な材料になっていた。
つまり外からの圧力は、単に「議会をつけろ」という話ではなく、「近代国家としての規格を実装しろ」という要求だったのだ。
内からの圧力は、自由民権運動の巨大なうねりだ。
「国会を開け」「選挙を行え」という民意の要求が、全国各地で噴き上がり、1881年には、政府自身が「国会開設の勅諭」を出すに至る。
伊藤は、この内外から突きつけられた「民意を受け取る端子を作れ」という要求を、実際に処理しなければならなかった。
大久保の「帯域思想」を、骨の髄まで受け継ぐ
伊藤の頭の中には、はっきりとした危機認識があった。
民意を制度化することは必要だ。
しかし、それを国家の駆動系に直結させるわけにはいかない。
これは、第1回で見た、大久保が定めた原則――「民意の有無ではなく、民意の帯域幅を決める」――を、そのまま受け継いだ考え方だ。
伊藤は、この原則を、はるかに精密な制度として実装していく。
伊藤が出した答えは、こうだった。
ペダルは、本物として作る。
ただし、伝達する経路は、厳しく限定する。
1889年、伊藤を中心に設計された大日本帝国憲法は、民意という入力を、「本物の制度」として国家というOSに接続した。
しかし、その信号がどこまで実際に届くのかは、クラッチや変速機、リミッターを何段も挟んで、慎重にコントロールされていた。
ここが重要なポイントだ。
伊藤が作った議会は、単なる空回りのペダルではない。
民意という力は、確かに国家の一部へと届いていた。
ただし、その届く範囲が、非常に厳しく制限されていたのだ。
民意の信号は、どこまで届いたのか
伊藤が設計したこの回路を、実際に一本ずつ確かめてみよう。
法律については、民意は確かに通っていた。
帝国議会には、法律案に協賛する権限があり、政府は議会を完全に無視して自由に立法することはできなかった。
予算についても、民意は通っていた。
ただし、そこには強力なリミッターがかけられていた。
明治憲法の64条では、予算は議会の協賛を必要とすると定められていた。
しかし67条では、すでに定まっている歳出などについては、政府の同意なしに議会が削減することはできないとされ、71条では、もし新しい予算が成立しなかった場合、前年度の予算をそのまま施行できるとされていた。
つまり議会は、確かに国家の財布に触れることができた。
しかし、その財布を握って、政府というエンジンを完全に
止めてしまえるほどの権限は、与えられていなかったのだ。
政府への政治的な圧力についても、民意は通っていた。
議会で多数を占める勢力は、
政府に対して、現実にかなり強い圧力をかけることができた。
一方で、首相の指名には、制度上の直接的な回路が存在しなかった。
内閣の存続についても、議会が多数を占めているというだけでは、法的に内閣を倒すことはできなかった。
ただし、政治的にはかなり強い影響を及ぼしていた。
軍の行政面(軍政)については、
予算や行政を通じて政治とつながっていたが、
実際の作戦指揮(軍令)については、
議会からの直接の回路は存在しなかった。
こうして並べてみると、
伊藤の設計がどういうものだったのかが、はっきり見えてくる。
民意という力は、「法律」と「予算」という、限定された系統にだけ伝わる仕組みになっていたのだ。
いわば、部分的にしかつながっていない変速機のようなものである。
これは、第1回で見た「帯域モデル」と、そのまま接続する話だ。
伝達経路を制御する、二つの装置
伊藤は、民意を制度化する一方で、
その伝達経路を精密に制御するために、いくつかの装置を組み込んでいた。
中でも重要なのが、貴族院と枢密院だ。
貴族院は、衆議院からの入力を抑え込む、
巨大なヒューズのような存在だった。
貴族院は、皇族議員、公爵・侯爵にあたる終身の議員、伯爵・子爵・男爵の中から互選される議員、勅任される議員、そして多額の納税者による互選を基礎とする議員などから構成されていた。
衆議院が、民意を背景にどれだけ強い入力を送り込んでも、貴族院が同等の立法権をもってそれを抑えられる、という構造になっていたのだ。
枢密院(すうみついん)は、議会とは別の系統に置かれた、最高位の諮問・審査機関だった。
枢密院は、天皇の諮詢に応じて重要な国務を審議する機関であり、憲法に関わる法律や勅令、皇室に関する事項、条約などを扱った。
帝国議会とは異なる系統の国家機関であり、
衆議院の多数派が直接コントロールできる回路ではなかった。
ここで正確に言うべきなのは、「民意がまったく届かなかった」ではなく、「民意から直接つながる回路が存在しなかった」ということだ。
軍事という回路は、二つに分かれていた
軍事に関する回路は、「政治から完全に切り離されていた」わけではない。
ここは、必ず二つの系統に分けて理解する必要がある。
軍事には、陸軍省や海軍省が担当し、予算や行政を通じて内閣とつながっている軍政という側面と、参謀本部などが担当し、天皇に直接つながる別系統である軍令という側面があった。
1878年、参謀本部が陸軍省から軍令にあたる機能を切り離し、天皇に直属する軍令機関として独立した。
この時の初代参謀本部長は山県有朋であり、この構造の形成には、ドイツの軍制を参考にした桂太郎による献策も影響していたとされる。
明治憲法11条が定める「統帥大権」は、この、すでに出来上がっていた軍令の独立構造を、そのまま憲法体制の中に取り込んだものだ。
つまり、軍令の独立という仕組みは、伊藤が民意を遮断するために、一人で発明した回路ではない。
むしろ、軍令という回路の独立を強く推し進め、その中心に立っていたのは、山県有朋だった、というのが正確な理解になる。
伊藤の死後、民意はむしろ強くなっていった
1909年、伊藤が凶弾に倒れたあとも、国家がただちに暴走したわけではない。
むしろその後、政党政治は着実に成長し、1918年には原敬による本格的な政党内閣が成立するなど、民意という入力は、むしろより深く国家の駆動系へと接続されていくことになる。
伊藤自身も、晩年には自ら立憲政友会という政党を結成し、自分が設計した限定的な接続を、より強い接続へと再設計しようと試みていた。
つまり伊藤は、「民意を完全に遮断した設計者」として読むべきではない。
民意を制度化しながら、国家の駆動系へ接続する範囲を、慎重に調整し続けた設計者として理解する方が、実情に近いのだ。
伊藤が決めたのは、民意の「接続範囲」だった
第1回で見た大久保のモデルは、こうだった。
大久保が決めたのは、民意の有無ではない。民意の帯域幅だった。
第2回の伊藤のモデルは、その続きとして、こう圧縮できる。
伊藤が決めたのは、民意という帯域を、
どの回路まで通すのかという「接続範囲」だった。
民意という信号は、法律と予算を中心に、確かに国家へと実際に届いていた。
しかし、首相の選定、内閣の形成、そして軍令(作戦指揮)へと、制度として直結するシャフトは、存在しなかった。
ここに、伊藤モデルの核心がある。
次回予告:
山県有朋――なぜ「軍令回路」は内閣から切り離されたのか
次回は、1878年の参謀本部設置、明治憲法11条の統帥大権、そして後にさらに強固になっていく「統帥権独立」という解釈と慣行までを追っていきたい。
軍令を内閣から切り離したこの配線は、いったい、いつ、誰によって、どのように絶縁性を高められていったのか。
そして、その結果として、国家という機械全体の統合回路に、なぜ深刻な問題が生まれることになったのか。
次回は、それを配線図として解体していく。
