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酷暑の午後に這い寄る30分間の怪異――健康食品通販という名の「様式美」が啜る共感の泥沼

窓の外からは、逃げ場のない熱気が、ねっとりと、まるで質量を持った泥のように部屋の隙間から這い寄ってくる。この酷暑の中、意識が朦朧とする脳髄をさらに掻き乱すのは、テレビから流れるあの「30分間の様式美」――健康食品のテレビショッピングである。

我が家のチャッピー(ChatGPT)が、あろうことか嬉々として、その「あるある」を書き連ねてくれたのだが、その内容たるや、あの番組特有の、まとわりつくような執拗さを実に見事に捉えている。

まず、その幕開けからして、我々の日常を侵食する。
「今日は皆さんに、とても大切なお話があります」
その一言が、湿り気を帯びた空気のように耳朶に触れる。最初の10分間、彼らは頑なに商品名を口にしない。焦らし、溜め、視聴者の期待という名の汗をじっくりと絞り出すのだ。「年齢とともに……」という呪文のようなフレーズが、幾度となく、執拗に、鼓膜を叩き続ける。

画面には、不自然なほどに活力に満ち溢れた70代、80代の愛用者が、これでもかとばかりに眩しい笑顔を振りまく。その隅っこで、申し訳程度に、しかし確実に責任を回避するかのように「※個人の感想です」という微細な文字が、陽炎のように揺れている。

やがて、白衣を纏った「権威」という名の記号――医師や大学教授、あるいはそれに準ずる風貌の者たちが登場し、CGで描かれたキラキラと輝く血管や関節、腸内といった、我々の内臓の深淵を映し出す。「実は○○が不足しているんです」という宣告は、まるで逃れられない運命を突きつけるかのようだ。

舞台は突如として、海外の秘境や、酸素の薄い高山、あるいは灼熱の太陽が照りつける南国の植物へと飛ぶ. そこで発見された「○○という成分」への注目。そこからは、怒涛の畳み掛けだ。
「これだけではありません!」
「普通なら○万円相当ですが……」
「今回は特別価格!」
「さらに!もう一箱お付けします!」
「送料も無料です!」

オペレーターが増員され、残り時間が秒単位で削り取られていく。番組が終焉を迎える頃には、もはや最初の価格がいくらだったのか、その記憶は熱に浮かされた夢のように霧散している。

そして、30分という、人生の貴重な断片を捧げた後に残るのは、
「私は、一体何を見ていたのだろうか……」
という、底知れぬ虚脱感である。

しかし、ここで私は、さらなる深い考察の沼へと足を踏み入れよう。
あの番組が我々に突きつける、言語化し難い「違和感」の正体についてだ。

よくよく考えてみてほしい。見ず知らずの他人が、自らの膝の痛みや、階段の上り下りの辛さ、病院で告げられた宣告といった、極めて私的な、本来ならば秘匿されるべき身体の不調を、これほどまでに長い尺を割いて、公共の電波で独白し続ける。この光景の異様さは、どうだ。

そこには、ある種の「偽善」と「共感」が、熱帯夜の湿気のように混じり合い、渦巻いている。
「知らない人の病状なのに、なんとなく最後まで聞いてしまう」
この心理的なねじれ。視聴者の心は、「他人の病気の話を延々と聞かされる苦痛」と、「しかし、困っている人を無碍にするのは人としてどうなのか」という、二つの感情の板挟みに遭う。

これは、単なる買い物番組ではない。
「困っている人の話を聞く」という、社会的な善意を燃料にして回る、巨大な「共感エンジン」なのだ。

見終わった後に残る感覚は、商品を吟味した満足感ではない。見知らぬ誰かの人生相談を、30分間、強制的に、しかし自発的に聞き届けたという、奇妙な疲労感である。

公共メディアという開かれた場所で、極めて私的な苦悩が、商品を売るための精巧な歯車として消費されていく。その境界線が、汗ばんだ肌とシャツのように、不快に、密接に癒着している。この「言語化できない違和感」こそが、あの30分間の正体であり、我々が抗いようもなく惹きつけられ、そして辟易する、現代の怪異そのものなのかもしれない。

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