眉間の守り神|エッセイ
「あれ?なんかついてる?」
ある日、鏡の中の自分の顔に違和感があった。
眉間のちょっと下。鏡にぐぐっと顔を近づけてよくよく見てみたら、
ぴょーんと、白い毛が生えていた。
なんだこれは。白毫か?
わたしは仏にでもならなければいけないのだろうか。
(※白毫とは、仏さまの眉間にある白く長い毛が右巻きに丸まったもの)
これが何者なのか、すぐに調べた。
当時はAIなんて便利なものはまだ普及していなかったから、Yahoo検索で。
どうやら「宝毛(たからげ)」、「福毛(ふくげ)」と言われるものらしい。縁起物だから抜かない方がいいと書いてあった。
当時、人と話すことが多い仕事に就いていたわたしは大いに困った。
この長さならもう、気づく人は気づく。
目の前で話をしている人の眉間から白い毛が生えていたら、あなただったらどうするだろう。
わたしなら、それはそれはガン見である。もはやその人のお話など耳に入らない。
頭の中では「その白い毛はなんですか?」と聞いてもいいかどうか。聞くならどんな聞き方が角が立たないか。そんなことをあれこれ考えて、うずうずするはずだ。(結局、聞くことはできないのだけれど。)
兎にも角にも、このままでは仕事に支障をきたすことは目に見えていた。
それに40と言えども一応は麗しき女性である。眉間に毛が生えているなんて、一撃で会社中に轟くような衝撃ニュースは避けたかった。
それなら抜くべきだ。
しかし、わたしは抜く気にもなれなかった。
「縁起物」という言葉は、当時のわたしにとって見て見ぬふりはできないパワーワードだったのだ。
わたしは不妊治療をしていた。
何度目かの胚移植もうまくいかず、病院で研究中の先進医療を受けることに合意した。毛が生えてきたのは、その治療が始まってしばらくした頃だった。
2ヶ月に1回、2時間の点滴を打つこと。費用は1回8万円。
保険は効かない。成功する保証もない。
日々の検診、お腹への自己注射、ホルモン調整のための投薬。使ったお金はおそらくその時で400万を超えていた。
そしていつまで続くかわからない治療は、わたしの精神を少しずつ蝕んでいた。
度重なるシフト調整に痺れを切らした上司から、「もっと近い病院に変えたらどうか」とアドバイスされ、上司のことが嫌いになった。
毎日お腹をつまんで注射を刺すのも、黄体ホルモンの投薬も大嫌いだった。
さらには夫の単身赴任。たぶんあの時、わたしは限界に近かった。
白い毛でも黒い毛でも、縁起物なのであれば藁にでもすがりたい気持ちだった。
どうするか悩んだ末、眉用のハサミで目立たない長さにちょきんと切ってみた(我ながらよく思い付いたと思う)。
これで大丈夫。
切り取った毛をまじまじと見つめる。
やはり白い。髪よりもちょっと硬めで、少し透明で、歯ブラシの毛を連想させた。取っておこうか少し迷ったが、捨てることにした。
それからというもの。
気がつけばまたぴょーんと伸びていて、ちょきんと切る。
それを繰り返した。伸びる速度は眉毛よりも速いように思えた。
「抜いてみたい」という好奇心に駆られることもあったが、ぐっと堪え、自分の顔から生えてくる縁起物を大切にした。
そしてそれから3ヶ月余りが過ぎた時、わたしは妊娠することができた。
妊娠がわかった時は、なんだか不思議な気分だった。いつしか宝毛に対して、少なからず感謝の気持ちを持つようになっていた。
だがその後、切迫早産と妊娠悪阻で自宅安静を言い渡され、外に出なくなった。自分の顔を見つめることがなくなったせいか、いつの間にかすっかりと毛のことを忘れてしまっていた。
思い出したのは、息子が生まれて数ヶ月が過ぎた頃だった。
そういえば宝毛はいったいどうなっているのだろう。もしかして伸びに伸びて、ぴょーんと顔から飛び出しているのではないだろうか。
いてもたってもいられず、わたしは洗面所に駆け込んで鏡を覗き込んだ。
そして驚いた。
「宝毛」がなくなってる!!
…と一瞬思ったからだ。
よく見たら長くなりすぎたせいなのか、くるんと丸まっているではないか。
これ、本当に白毫なんじゃないか?
どれだけ伸びたのか見てみたくなったわたしは、毛抜きを取り出して、そっと引っ張って伸ばしてみた。
思ったよりも短くて、1センチくらいだった。半年以上放置した割には短い。さらにはなんとなく元気がないというか、ハリがないようにも見えた。
長くなると弱るのだろうか。
もっとよく見ようと体を乗り出したその時。肘が洗面台に引っかかり、手に力が入ってしまった。
ピン!と毛抜きが洗面台に落ちる。
と同時に、”ぷちっ”という嫌な感触が顔に走った。
まさか。まさか。
必死に探したが見つからない。
なんということだ。
わたしは、宝毛を抜いてしまったのだ。
突然訪れた別れ。心の準備もできていなかった。最後に一目見ようと抜けてしまった毛を探したが、見つかることはなかった。
あれから、わたしの眉間に毛は生えてこなくなった。
人生で辛かった時期と、喜びを噛みしめた日々を一緒に過ごした1年半。わたしの不妊治療は宝毛なしでは語れないものになった。
実はひとつだけ、心に引っかかっていることがある。
もしかしたらあの毛は、不妊治療中のあの点滴と何か関係があったのではないだろうか。
もちろん医学的なことはわからない。ただ、点滴をしていた時期と重なるから。
「だったらどうなのだ」と思われるだろう。
わたしが気になっているのは、
「薬の影響が考えられるのであれば、病院に報告しなければいけなかったのでは」ということだ。
言うべきだったのか言わなくても良いことなのか…正解などわからない。
そして何より、「眉間の下に白い毛が生えてきました。これは薬の副作用なのでしょうか」なんて一歩間違えればトンチンカンな話など、できるはずもない。
ただ、これがもし、何か重大な発見につながるのであれば、病院に申し訳ないことをしたなと思ってしまうのだ。
わたしと同じ治療を受けて、もし白い毛が生えてきた人がいたら。その時はぜひ、勇気を出して報告してほしい。
今のわたしは毎朝、鏡に向かう。
ときどき、宝毛のことを思い出す。
もう一度、生えてきたりしないかな。
眉間をそっと撫でてみる。
なんの手応えもないのが、少し寂しい。
最後まで読んでくださり、
ありがとうございました🌱
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