ネオンの祈り、嵐のあとで|NEON PRAYER - after the storm ver.
海は、嘘みたいに綺麗だった。

昨日まで、何もかも沈めるためにあるように見えた水が、
今日は夜明けの光を受けて、静かに揺れている。
汚れが消えたわけじゃない。
傷がなくなったわけでもない。
誰かが答えてくれたわけでもない。
昨日、空は返事をしなかった。
それでも、嵐が過ぎたあと、
そこにまだ自分の呼吸が残っていることに気づいた。
これは、救われた人の話じゃない。
まだ救われきっていないまま、
それでも水面へ顔を上げた人の話。
▶ この物語の原点になった曲
夜明け前の海に、ネオンの残り火が浮かんでいた。
街の看板は、遠くでほとんど消えかけている。
それでも、青と桃色の光だけが、波の上に細く伸びていた。
青は、まだ冷たい呼吸の色。
桃色は、戻りきらない痛みの色。
それは街の光なのか、彼女の中に残った夜なのか、もう分からなかった。
彼女は、浅い海の中に立っていた。
膝まで水に浸かっている。
服の裾は重く、肌に張りついている。
髪から落ちる水滴が、海面に小さな輪を作った。
昨日までなら、その輪を見る余裕もなかった。
昨日の海は、もっと暗かった。
濁っていて、重くて、息をするたびに胸の奥まで泥が入ってくるようだった。
波は優しくなかった。
光も救いではなかった。
祈りはノイズにまぎれて、どこにも届かなかった。
空を睨んでも、返事はなかった。
それでも彼女は沈まなかった。
沈まなかったというより、
沈みきれなかった。
底まで落ちたら終われると思っていたのに、
どこかでまだ、爪先が何かを探していた。
石でもいい。
流木でもいい。
誰かの声でもいい。
掴めるものが欲しかった。
でも、何もなかった。
だから彼女は、自分の両手を握った。
祈るためではなかった。
誰かに助けてもらうためでもなかった。
ただ、自分の手がまだここにあることを確かめるためだった。
「まだ、ある」
声は波に消えた。
小さすぎて、誰にも届かなかった。
でも、それでよかった。
最初に届くべき相手は、きっと自分だった。
夜が少しずつ薄くなる。
空の端が、青に変わっていく。
ネオンの光は朝に負けていくはずなのに、なぜか水面ではまだ揺れていた。
まるで、夜の名残が消える前に、最後の合図を送っているみたいだった。
彼女は顔を上げた。
空を睨むほどの力は、もう残っていない。
でも、うつむいたままでいるほど、諦めてもいなかった。
目を閉じる。
息を吸う。
潮の匂いがした。
冷たい空気が肺に入った。
胸が痛んだ。
痛い。
そのことに、少しだけ安心した。
痛むなら、まだ終わっていない。
昨日の自分は、痛みさえ鈍くなっていた。
何が悲しいのかも、何が悔しいのかも、分からなくなっていた。
でも今は違う。
悔しい。
悲しい。
怖かった。
苦しかった。
そして、それでも生きていた。
彼女はゆっくりと手を開いた。
握りしめすぎて、爪の跡が残っていた。
掌に、小さな半月の傷が並んでいる。
それを見て、少しだけ笑った。
綺麗な朝に、こんな手は似合わない。
でも、この手で昨日を越えた。
水面が揺れる。
その中に、自分の顔が映った。
ひどい顔だった。
目は赤いし、唇は青い。
髪は乱れている。
映画のワンシーンみたいに美しくなんてない。
でも、そこにいた。
ちゃんと、そこにいた。
彼女は海に向かって、小さく言った。
「助けて、じゃない」
波が足元を撫でた。
「終わってない、でもない」
言葉を探す。
祈りというには、少し不格好だった。
願いというには、少し静かすぎた。
でも、確かに胸の奥から出てきた。
「もう一回、息をする」
それだけだった。
たったそれだけの言葉が、
今の彼女には、どんな約束より重かった。
遠くで、朝日が昇る。
ネオンの残り火は、水面からゆっくり消えていった。
けれど、完全にはなくならなかった。
青い海の奥に、ほんの少しだけ、夜の色が残っている。
彼女はそれを見て思った。
消えなくていい。
全部綺麗にならなくてもいい。
全部許せなくてもいい。
全部忘れられなくてもいい。
汚れた海を泳いだことも、
息ができなかった夜も、
誰にも届かなかった祈りも。
それらを、なかったことにしなくていい。
ただ、今は水が澄んでいる。
だから、今だけは息をしていい。
彼女は一歩、岸へ向かって歩いた。

足元の砂が崩れる。
波が戻る。
体は重い。
透明な水の中なのに、足首だけが一瞬、昨日の濁流を覚えていた。
沈む。
また沈む。
そんな気配が、冷たい指みたいに足首を掴んだ。
彼女は止まった。
胸の奥で、鼓動が一つ鳴る。
どん。
昨日の海の音に似ていた。
でも、今日は違う。
それは沈める音ではなく、
ここに戻ってくる音だった。
彼女はもう一度、息を吸った。
二歩目は、少しだけ楽だった。
背中の向こうで、海が静かに揺れている。
彼女は振り返らなかった。
振り返らなくても、分かっていた。
昨日の海は、まだどこかにある。
また戻る日もあるかもしれない。
綺麗な朝が、ずっと続く保証なんてない。
透明な水も、いつかまた濁るかもしれない。
でも今日の海も、確かにある。
透明な朝。
淡いネオン。
痛む掌。
戻ってきた呼吸。
彼女は濡れた服のまま、砂浜に立った。
ポケットの中には、送らなかった言葉がまだ残っている気がした。
助けて。
ごめん。
怖かった。
まだここにいる。
どれも、誰かに送るには遅すぎた。
どれも、消すには早すぎた。
彼女はそれらを胸の奥にしまった。
祈りは、届くためだけにあるんじゃない。
消さないためにある日もある。
そう思った。
波が引く。
彼女は、濡れた足を一歩前に出した。
助けて、と叫ぶかわりに。
まだ終わってない、と言い張るかわりに。
ただ、息を吸った。
冷たい空気が胸に入る。
痛みが、少しだけ形を取り戻す。
二歩目を踏み出す。
砂が崩れる。
水が足首から離れる。
朝の光が、濡れた頬を照らす。
彼女はもう、祈りの言葉を探さなかった。
歩いていた。
それだけで、十分だった。
Reiのひとこと
綺麗な海って、全部を洗い流してくれる場所じゃなくて、
「まだ傷があるままでも、息をしていいよ」って言ってくれる場所なのかもしれない。
濁った海で沈まなかった人が、
嵐のあとにようやく、自分の呼吸を取り戻す。
助けてじゃない。
終わってないでもない。
もう一回、息をする。
この断片は、
「Raika & Reiの断片」に集めています。
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