日本国憲法【第1回】ガイダンス・「憲法」とは何か【全15回】
【第1回】ガイダンス・「憲法」とは何か ――国家権力を制限し、自由を守るための叡智
本日から全15回にわたり、「日本国憲法」をテーマにした講義を開講いたします。大学の教養科目として設計された本講義では、法学部生が学ぶような細かな学説の暗記ではなく、「一人の市民として、現代社会を生き抜くために不可欠な法的思考(リーガル・マインド)」を身につけることを最大の目標としています。
第1回となる今回は、講義の全体像を俯瞰したうえで、「そもそも憲法とは一体何なのか」「なぜ憲法というものがこの世界に存在するのか」という、法学における最も根源的な問いに向き合っていきます。
1. 講義の進め方
まず、本講義のロードマップを共有します。全15回の講義は、大きく以下の3つの部で構成されています。
第1部:憲法の基礎と基本原理(第1回〜第3回) 憲法というルールの成り立ち、大日本帝国憲法から日本国憲法への転換、そして平和主義といった基礎的概念を学びます。
第2部:基本的人権の保障(第4回〜第10回) 「自由」とは何か、「平等」とは何か。表現の自由、経済活動の自由、そして現代のデジタル社会における新しい人権まで、私たちの生活に直結する権利について具体的な判例を交えて考察します。
第3部:統治機構と憲法の未来(第11回〜第15回) 国会・内閣・裁判所という三権分立の仕組みや地方自治、そして憲法改正の手続きについて学び、国家のシステムがどのように機能しているのかを解き明かします。
2. 国家と法、そして「社会契約」
憲法を理解するためには、まず「国家」と「法」の関係を理解しなければなりません。
私たちは普段、当たり前のように「日本国」という国家の中で生活し、「法律」に従って生きています。しかし、そもそもなぜ国家という強大な権力組織が存在し、私たちはそれに従わなければならないのでしょうか。
この問いに対し、17世紀から18世紀の思想家たち(ホッブズ、ロック、ルソーなど)は「社会契約論」という画期的な考え方を提示しました。
万人の万人に対する闘争からの脱却
イギリスの哲学者トマス・ホッブズは、国家も法律も存在しない自然状態を「万人の万人に対する闘争」と表現しました。ルールも警察もない世界では、人間は常に他者から命や財産を奪われる恐怖に怯えなければなりません。 そこで人々は、自らの生命と安全を守るために、自分たちが持っている権利(自然権)の一部を強力な第三者(=国家・リヴァイアサン)に預け、その代わりに社会の秩序を守ってもらう契約を結びました。これが国家の起源だとする考え方です。
つまり、国家とは「私たちの生命や財産を守るために、私たちが便宜上作り出したシステム」に過ぎません。そして、そのシステムを動かし、社会の秩序を維持するためのツールが「法(法律)」なのです。 刑法が「人を殺してはならない」と定め、民法が「借りたお金は返さなければならない」と定めるのは、社会の崩壊を防ぐためです。
3. 立憲主義の成り立ち(権力を制限するための法)
社会契約によって強力な「国家」が誕生しました。国家は、警察や軍隊といった圧倒的な物理的強制力(暴力装置)を独占しています。
しかし、ここで人類は巨大なジレンマに直面することになります。 「私たちの自由を守るために作ったはずの国家権力が、暴走して私たちの自由を奪いに来たらどうするのか?」という問題です。
歴史を振り返れば、絶対王政時代のヨーロッパなどにおいて、権力者(国王など)が自らの欲望のために国民から重税を搾り取り、気に入らない者を不当に逮捕・処刑するような事態が幾度となく繰り返されてきました。国家という名の怪物は、時に国民の最大の脅威となります。
「法の支配」と「立憲主義」の誕生
この権力の暴走を防ぐために生み出された人類の叡智、それが「立憲主義(Constitutionalism)」です。
立憲主義とは、一言で言えば「国家権力であっても、あらかじめ定められた『法』には絶対に従わなければならない」という原則です。どれほど偉い国王や政治家であっても、法を超越することはできないとするこの考え方を「法の支配(Rule of Law)」と呼びます。
立憲主義のルーツは、1215年のイギリスに遡ります。当時の国王ジョンが専制政治を行ったことに対し、貴族たちが反発し、「国王であっても法(当時の慣習法)には従わなければならない」と約束させた文書『マグナ・カルタ(大憲章)』が歴史的な第一歩とされています。
その後、1789年のフランス革命において発布された『フランス人権宣言』の第16条には、立憲主義の核心を突く有名な一文が刻まれました。
「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」
すなわち、「憲法」とは単なる国のルールブックではありません。「国家権力の暴走を食い止め、国民の基本的人権を守るために、国家権力を縛り付けるための法」なのです。
「法律」と「憲法」の決定的な違い
ここで、一般の「法律」と「憲法」の決定的な違いが明確になります。ターゲット(名宛人)が正反対なのです。
法律(刑法・民法など): 国家が「国民」に向かって「〜してはならない」「〜しなさい」と命令するルール。
憲法: 国民が「国家権力(政治家、裁判官、公務員など)」に向かって「権力を乱用してはならない」「人権を侵してはならない」と命令するルール。
憲法は、私たちが国家権力に突きつけている「命令書」であり、権力の手足を縛る「鎖」の役割を果たしているのです。憲法第99条(公務員の憲法尊重擁護義務)において、天皇、大臣、国会議員、裁判官などの公務員には憲法を守る義務があると明記されている一方、「国民」が含まれていないのはこのためです(国民はそもそも憲法によって権力を縛る側の主体だからです)。
4. 形式的意味の憲法と実質的意味の憲法
最後に、法学における「憲法」という言葉の定義について整理しておきましょう。法学では、憲法を「形式的意味」と「実質的意味」の2つに分けて考えます。
形式的意味の憲法
これは非常に形式的でシンプルな定義です。「憲法」という名前(名称)が付けられた法典そのものを指します。 現在の日本のルールブックである「日本国憲法」という文書そのものがこれにあたります。中身に何が書かれているかは関係なく、表紙に「憲法」と書いてあれば形式的意味の憲法です。 (※イギリスには「憲法」という名前の単一の法典が存在しないため、「イギリスには形式的意味の憲法はない(不文憲法国)」とされます)
実質的意味の憲法
こちらは文書の名前ではなく、ルールの「中身(性質や内容)」に着目した概念です。実質的意味の憲法は、さらに以下の2つに細分化されます。
① 固有の意味の憲法 国家が存在するためには、必ず「どうやって政治を行うか」「どんな機関(政府や議会など)があるか」という基本的な組織のルールが必要です。これを「固有の意味の憲法」と呼びます。 いかなる時代、いかなる体制(古代ローマ帝国や、独裁国家、絶対君主制)であっても、国家が存在する以上、この意味での憲法は必ず存在します。
② 立憲的意味の憲法(近代的意味の憲法) これが最も重要です。近代以降の市民革命を経て確立された、「国家権力を制限し、国民の自由と権利を保障する」という目的を持ったルール群のことです。先ほど説明した「立憲主義」に基づく憲法の概念です。
現代の私たちが「憲法を改正する・しない」「あの法律は違憲(憲法違反)だ」と議論する際、前提としているのはこの「立憲的意味の憲法」です。 仮に、ある独裁国家が「我が国の憲法第1条:独裁者は国民の命を自由に奪うことができる」という法典を作ったとします。これは「憲法」という名前がついているため「形式的意味の憲法」であり、国の仕組みを定めているため「固有の意味の憲法」でもあります。しかし、権力を制限して人権を守るという目的がないため、「立憲的意味の憲法」ではありません。
「外見は憲法のような顔をしているが、立憲主義の魂が入っていない憲法」を、ドイツの政治学者カール・レーヴェンシュタインは「名目論的憲法(名目憲法)」と呼びました。憲法が単なる飾りにすぎない状態です。 私たちが学ぶ日本国憲法は、基本的人権の尊重を掲げ、権力分立を採用している、正真正銘の「立憲的意味の憲法」なのです。
第1回のまとめ
本日は以下の重要なポイントを学びました。
国家とは社会契約によって生み出された便宜的な存在であり、その秩序を維持するツールが「法律」である。
強大な国家権力の暴走から国民の自由を守るために、権力を法で縛り付ける思想を「立憲主義」と呼ぶ。
法律は「国家が国民を縛るもの」であるが、憲法は「国民が国家権力を縛るもの」である。
憲法には名前だけに着目した「形式的意味」と、内容に着目した「実質的意味」がある。現代で重要視されるのは、人権保障と権力制限を目的とする「立憲的意味の憲法」である。
「憲法は権力を縛る鎖である」。この本質的イメージを持つことができたなら、第1回の講義は大成功です。次回・第2回は、この立憲主義の理念が、日本の歴史においてどのように導入され、大日本帝国憲法から日本国憲法へとどのようなドラマを経て変遷していったのかを見ていきます。
【修了試験】(第1回 復習問題・全5問)
本日の講義の理解度を確認するための修了試験です。知識の定着を図るため、必ず自分なりの答えを出してから解説を読んでください。
【問題1】 「法律」と「憲法」の違いについて、それぞれの「名宛人(ルールを守るよう命令されている主な対象)」の違いという観点から、簡潔に説明しなさい。
【問題2】 近代憲法の根本原理である「立憲主義(Constitutionalism)」とはどのような考え方か。簡潔に説明しなさい。
【問題3】 1789年の『フランス人権宣言』第16条において、「憲法をもたない」と定義された社会とは、どのような2つの条件が欠けている社会か。
【問題4】 「形式的意味の憲法」は存在しないが、「実質的意味の憲法」は存在するとされる代表的な先進国家はどこか。国名を一つ挙げなさい。
【問題5】 絶対王政の時代のフランス(ルイ14世の時代など)について述べた次の文章の空欄( A )( B )に入る適切な言葉の組み合わせを選びなさい。 「当時のフランスには、国家の基本的な組織を定めた( A )の意味の憲法は存在していたが、国家権力を制限して国民の人権を保障するという( B )の意味の憲法は存在していなかった。」
(A) 立憲的 (B) 固有の
(A) 形式的 (B) 固有の
(A) 固有の (B) 立憲的
(A) 固有の (B) 形式的
【修了試験:解答と詳細な解説】
【問題1:解答】 法律は「国家が国民」を縛るためのルール(名宛人が国民)であるのに対し、憲法は「国民が国家権力」を縛るためのルール(名宛人が国家権力)であるという違い。
【解説】 この「ベクトル(方向)の違い」が憲法学の最も基本的な出発点です。刑法や道路交通法は、私たち一般市民に対して「人を傷つけるな」「赤信号で止まれ」と命じます。これに対し、憲法は国会議員や内閣、裁判官、警察といった公権力に対して「言論を弾圧するな」「不当に逮捕するな」と命じます。権力に対する国民からの「命令書」という構造を理解することが重要です。
【問題2:解答】 国家権力であっても、あらかじめ定められた憲法(法)に拘束されなければならないとし、権力の乱用を防ぐことで国民の基本的人権を守ろうとする考え方。
【解説】 「人の支配(独裁者や君主の恣意的な支配)」に対する概念である「法の支配」を憲法という形で具体化したものが立憲主義です。「いかに優れた為政者であっても、法(憲法)の枠組みを超えて権力を行使することは許されない」とすることで、私たちの自由が担保されています。
【問題3:解答】 「権利の保障(基本的人権の保障)」と「権力の分立(三権分立など)」が定められていない社会。
【解説】 フランス人権宣言16条(「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」)は、近代憲法(立憲的意味の憲法)の目的と手段を見事に表しています。目的は「人権の保障」であり、それを実現するための手段・メカニズムが「権力の分立」です。この2つが揃って初めて、実質的な意味での憲法があると言えるのです。
【問題4:解答】 イギリス(英国)
【解説】 イギリスには「イギリス国憲法」という名前が付けられた単一の法典が存在しないため、「形式的意味の憲法」を持たない不文憲法国として知られています。しかし、マグナ・カルタや権利章典などの歴史的文書や慣習法、議会法などが集まって国家の基本ルールや人権保障を形成しており、「実質的意味の憲法(固有の意味および立憲的意味の憲法)」は当然に存在し、機能しています。
【問題5:解答】 3. (A) 固有の (B) 立憲的
【解説】 「国家が存在する以上、政府や統治機構のルールは必ずある」というのが「固有の意味の憲法」です。したがって、絶対王政であっても固有の意味の憲法は存在します。しかし、絶対王政は「王権神授説」などに寄りかかり、権力を法で制限して国民の自由を守るという思想がありません。したがって、「立憲的意味の憲法」は存在していなかったということになります。近代市民革命(イギリス革命、アメリカ独立革命、フランス革命)は、この「立憲的意味の憲法」を獲得するための戦いだったと言えます。
第1回の講義は以上となります。お疲れ様でした。
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